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古典和歌をメインにブログを書いてます。歌題ごとに和歌を四季に分類。

古典の季節表現 冬 十一月中申日 吉田祭

2021年11月11日 | 日本古典文学-冬

  後福光園摂政家の歌合に、吉田祭 正三位兼煕
百とせをはや四かへりの霜をへてたえぬ吉田の神まつりかな
(新続古今和歌集~「和歌文学大系12」明治書院)

十七日、雪なほいとふかうつもりしに、吉田の使にたちて、かへさに、しゆき〔主基〕かたの女く所の事がらゆかしくて、「そなたざまやれ。」と申し侍りしかば、くやく〔ためもち・かねとも〕、六位のくるまのとものものなども、「夜ふけてはるかにめぐらむ事、かなふまじき」よし申し侍りしかども、せめてたづねまほしさに、「吉田のつかひのかへりには、かならず女く所へたちいるしぎにてあるぞ。」と申し侍りしかば、「まことにさる先例ならば。」とて、はるばるとたづねゆきたりしに、ゑじがもんおそくあけ侍りしに、「今にはじめたる事か。吉田使のかへさに、内侍のいらせ給ふに、ことあたらしくあけもまうけぬか。」と、あらゝかにいさめ申し侍りしも、「かやうの事や。先例にもなり侍らむ。」とをかしくて、辨内侍、
とはましや積れる雪の深きよに是もむかしの跡といはずは
(弁内侍日記~群書類從18)

(寛弘元年十一月)二十二日、壬申。
内裏から退出した。一日中、天が陰(くも)った。吉田祭に奉幣使を出立させた。時々、雪が降った。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(寛仁元年十一月)十四日、戊申。
吉田祭に奉幣を行なった。私自らは鴨川の川原に出ることはなく、使者を遣わした。陰陽師たちに奉幣を行なわせた。日が宜しくなかったことによるものである。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(嘉禄二年十一月)廿日。霜凝り、霧深し。天晴れ、雲尽く。宰相来たる。明日、吉田祭に参ず。此の祭の如し。更に然るべき口伝を受けず。粗々江次第を見る。又当時の形勢に随ふ。召使引導、弁行事、渋く思はず。又帯を忘れ了んぬ。抑々明日欠日なり。初度の事、然るべからず。只初めて氏社の祭に逢ふ。又大原野遠きに依り、是非なく之に行くか。頗る普通ならざる事なり。日次を沙汰せずと云々。(略)
廿一日。遅明に時雨。朝陽即ち明し。吉田祭に宰相着行。冷泉の女房・母堂・祖母来会。冷泉に此の家の人々又行き向ひて対面と云々。(略)夜に入り女房帰る。吉田祭に参じ勤め了んぬと云々。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)


古典の季節表現 冬 野行幸

2020年11月19日 | 日本古典文学-冬

大原や野辺のみゆきに所得て空取る今日の真白斑の鷹
嵯峨の原はしるきゞすのかた跡は今日のみゆきに隠れなきかな
はし鷹の古きためしに引き据ゑて跡ある野辺のみゆきなりけり
狩衣のおどろの道も立ち帰りうち散るみゆき野風寒けし
もろ人の狩場の小野に降る霰今日のみゆきに玉ぞ散りける
芹川の波も昔にたちかへりみゆき絶えせぬ嵯峨の山風
(六百番歌合~岩波文庫「六百番歌合 六百番陳情」)

ふゆふかき-のへのみゆきの-けふしもあれ-しらふのたかを-すゑてけるかな
あかねさす-みかりのをのに-たつききす-そらとるたかに-あはせつるかな
むらさきの-みかりはゆゆし-ましろなる-くちのはかひに-ゆきちろほひて
はしたかも-けふのみゆきに-こころありて-ふるまふすすの-おとそことなる
(永久百首~日文研HPより)

 野行幸
から衣御こしとどめてぬぎかふる狩のよそひも花を折りけり
(雪玉集~新編国歌大観8)

延暦十二年十一月 庚辰(五日)
天皇が葛野で狩猟した。
乙酉(十日)
天皇が交野で狩猟した。右大臣従二位藤原朝臣継縄が摺衣を献上して、五位以上の者と命婦・采女らに下賜した。
辛丑(二十六日)
天皇が栗倉野で狩猟した。
十二月 甲寅(十日)
天皇が瑞野で狩猟した。
癸亥(十九日)
天皇が岡屋野で狩猟した。(略)
(日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

延暦二十三年十月 丙午(五日)
天皇は和泉国へ到達し、大鳥郡の恵美原で狩猟した。散位従五位下坂本朝臣佐太気麻呂が献物を行い、綿百斤の下賜が行われた。
丁未(六日)
天皇が城野で狩猟した。日暮に日根の行宮に入った。
戊申(七日)
天皇が垣田野で狩猟した。(略)
己酉(八日)
天皇が藺生野で狩猟した。(略)
庚戌(九日)
天皇が日根野で狩猟した。(略)
(日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(延長六年)十二月五日。天皇幸大原野。有狩猟之御遊。
(日本紀略~「新訂増補 国史大系11」)

〔新儀式 四臨時上〕
野行幸事 當日未明、天皇御南殿、左右大將、幷親王公卿列立如常、但王卿著麴塵袍、帶劒者著後鞘、又可供奉鷂鷹王卿、著狩衣深履而把笏也、 
(国文学研究資料館HPの古事類苑DBより)

〔錦所談 二〕
狐尾袍 西宮記ニ、狐尾摺衣、野行幸時、小野篁、橘廣相等著之トアリ、按ズルニ、○中略 狐尾袍ハ闕腋ナルコト知ベシ、又文官闕腋ヲ著スルコト、旣ニ内宴ニハ、文武ヲ論ゼズ闕腋ナリ、如行幸群臣悉ク腹卷行縢ヲ著セシニ、廣相朝臣ハ儒官タルヲ以テ、闕腋ノミニテ腹卷行縢ヲ略セシヲ、其時狐尾袍ト稱セシニテ、全ク別制アルベカラズ、只一時ノ稱ナルベシ、
(国文学研究資料館HPの古事類苑DBより)

〔柱史抄  下〕
〔續世繼 二紅葉の御狩〕
承保三年十月二十四日、大井川にみゆきせさせ給て、嵯峨野にあそばせ給、みかりなどせさせ給、そのたびの御歌、 大井川ふるきながれを尋きてあらしの山の紅葉をぞみる、などよませ給へる、むかしの心ちして、いとやさしくおはしましき、
〔十訓抄 十〕
白河院御位の時、野行幸といふ事有て、嵯峨野におはし付て、放鷹樂をすべきを、笛かならず二人有べきに、大神惟季が外に此樂を習ひ傳ふるものなかりけり、これに依て、井戸の次官あきむねと云管絃者を召て、惟季と共に仕るべきよし仰有ければ、かさねの裝束して、樂人にくははりければ、ともにいみじき面目なりけり、今日の宴いみじきことなりければ、舞人も物の上手をえらばれけるに、五人、光季、高季、則季、成兼、經遠、今一人たらざりければ高季が子の末童にて、年十四なるを召して、藏人所にて、俄に男になしてくはへられけり、時の人面目なりとぞ申ける、
かくめでたき事に、あきむねさせる道のものにもあらぬを、笛によりて召出されたるいみじき事といひけるほどに、大井川に舟樂の時、笛を川の淵におとし入て、えとらざりければ、龍頭に惟季笛をふく、鷁首には笛吹なくてえ樂をせず、人これを笑ひけり、いみじき失禮にてぞありける、始の面目後の不覺たとへなかりけり、今度の御會には、土御門右大臣◯源師房 序題を奉られけり、其詞云、 境近都城、故無車馬之煩、路經山野、故有雉兎之遊、とぞかかれたる、歌もおほくきこえける中に、御製ぞ勝れたりける、 大井川古き流を尋來てあらしの山の紅葉をぞ見る、通俊中納言、後拾遺をえらばれける時入奉りけり、
◯按ズルニ、柱史抄野行幸ノ條ニ、承保以後無此儀歟トアルニ據レバ、白河天皇以降永ク廢絶セシモノナルベシ、 
(国文学研究資料館HPの古事類苑DBより)


古典の季節表現 冬 初雪

2020年11月18日 | 日本古典文学-冬

(ゆきのうたのなかに) 津守国貴 
けさは猶また霜かれとみゆるまて初雪うすき浅ちふの庭 
(新後拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

庭のおもの真砂の上はみえわかで草ばにしろき今朝の初雪
(俊光集)

ふりかくすほとはつもらて松の葉のうす緑なる今朝の初雪
(後花園院御百首~続群書類従14下)

紅葉に雪のふりかゝりたるか桜ににたるをみて 弁乳母 
神無月紅葉にふれる初雪はおりたかへたる花かとそみる 
(玉葉和歌集~国文学研究資料館HPより)

遠山初雪
久かたの空よりちりて又さくや雲まの嶺の雪の初花
(草根集~日文研HPより)

はなさきしあきにおとらすみゆるかなかれのかうへにふれるはつゆき
(右大臣家歌合_安元元年十月十日~日文研HPより)

めもはるにはなかとそみるしもかれのくさきもわかすふれるはつゆき
(永久百首~日文研HPより)

紅葉のちれりけるうへに初雪のふりかゝりて侍けるをみて、上東門院に侍ける女房につかはしける 藤原家経朝臣 
山里は道もやみえす成ぬらん紅葉とゝもに雪のふりぬる 
(新古今和歌集~国文学研究資料館HPより)

佐保姫の手たゆく染むる山の端に今朝しらくもの見ゆる初雪
(〔永承五年九月―天喜二年十一月〕冬_太宰大弐資通歌合~「平安朝歌合大成」2巻)

初雪の峰のまにまにふりぬればときはの山ぞ青末濃(あをすそご)なる
(元永元年十月十三日_内大臣忠通歌合~「平安朝歌合大成」3巻)

百首うたよませ給うけるに 順徳院御製 
山川の氷もうすき水の面にむらむらつもる今朝の初雪 
(続拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我れは見つつ偲はむ
(万葉集~バージニア大学HPより)

建保四年百首歌に 前大僧正慈鎮 
初雪のふらはといひし人はこてむなしくはるゝ夕暮のそら 
新拾遺和歌集~国文学研究資料館HPより)

策々窓戸前又聞新雪下といふ事を 前中納言定家 
初雪の窓のくれ竹ふしなからをもるうはゝの程そきこゆる 
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)

大和守にて侍けるとき、入道前太政大臣の許にて、初雪をみてよめる 藤原義忠朝臣 
としをへて吉野の山にみなれたるめにめつらしきけさのしら雪 
(詞花和歌集~国文学研究資料館HPより)

おもふ事侍けるころ、初雪ふり侍ける日 紫式部 
ふれはかくうさのみまさる世をしらてあれたる庭につもる初雪 
(新古今和歌集~国文学研究資料館HPより)

ひさしうまかりかよはすなりにけれは、十月はかりに雪のすこしふりたるあしたにいひ侍ける 右近 
身をつめは哀とそおもふ初雪のふりぬることもたれにいはまし 
(後撰和歌集~国文学研究資料館HPより)

かやうにてすぎもてゆきて。かみなづきにもなりぬ。いつしかとはつゆきふりわたり。れいにもにず。いとときことを人++けうじおぼすに。二ゐ中なごんどのより一でうのみやに 
  ふりがたくふりつるけさのはつゆきをみけたぬ人もあらせてしがな。とあれば 
かへし命婦のめのと 
  きえかへりめづらしとみるゆきなればふりてもふりぬこゝちこそすれ。
(栄花物語~国文学研究資料館HPより)

   ○初雪見参事
(略)西京雑記云、太平之代、雪不封條、淩弭毒害而已、詩伝云、日上而下而雨雪、(雨音于具反)左伝、凡平地尺雪為大雪、文選謝恵連雪賦曰、盈尺則呈瑞於豊年、(略)
今之行事、初雪之日、遣蔵人於諸陣、取見参賜禄物、凡厥預見参所、大略如式、但諸陣官人以下、舎人以上、其禄有差、(官人絹参、長以下賜布、各有等差、)
(政事要略・第廿五~「史籍集覧 編外2」近藤出版部、1907年)

〔西宮記 十一月〕
初雪 初雪降者、依宣旨取諸陣見參給祿、延長三年正月十四日、今朝雪七寸、令内藏助仲連、以綿一千屯施給大内山御室道俗、以昨日寒今朝大雪也、應和元年十一月七日、今朝初雪、分遣殿上侍臣於諸陣、帶刀取見參、又男女房主殿掃部者同預例也、十日令給民部卿藤原朝臣去七日諸陣所々見參、仰以大藏綿令給祿、
(国文学研究資料館HPの古事類苑DBより)

〔公事根源 十月〕
初雪見參 昔初雪のふる日、群臣參内し侍るを初雪見參と申也、桓武天皇延曆十一年十一月よりはじまる、初雪にかぎらず深雪の時は、必諸陣見參をとるといへり、此事絶て久し、
〔助無智祕抄〕
初雪日 侍中アヲイロ、オリモノノサシヌキヲキテ、諸陣ヘムカヒテ見參ヲトルベシ、就中ニ帶刀ノ陣ニムカフ、藏人ヨウジンスベシ、アヲイロニアラズトモ、タヾビレイノ裝束ヲソクタイニテモキルベシ、
(国文学研究資料館HPの古事類苑DBより)

〔左經記〕
寬仁元年十二月七日辛未、白雪積地不及寸、早旦參攝政殿御宿所被仰云、可令取初雪見參、即差遣殿上五位六位等於左右近、左右衞門、左右兵衞、帶刀等陣、幷内侍所、主殿、掃部等、女官、主殿、内監所、御書所等、令取見參奏聞、{御書所衆等不候、仍不取見參、}
〔春記〕
長曆三年十一月十七日甲辰、有初雪、纔一寸許云々、未旦參御前、{未上御格子}奏初雪之由、即出御、仰云、早可令取見參者、即仰藏人少納言經成、差分侍臣、令取所々見參了、以藏人義綱令内覽之、令成内藏寮請奏、各可分依之由仰了、
(国文学研究資料館HPの古事類苑DBより)

(長和四年十一月)十四日、庚申。
卯から辰剋の頃から、雪が降った。初雪の見参簿を取った。後に退出した頃には、大雪であった。申剋の頃、晴気(せいき)が有った。庭に積もったのは、三寸ほどであった。(略)
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(長和五年十二月)八日、戊寅。
今朝、雪が降った。五寸ほど積もった。所々から見参簿(げんざんぼ)を取った。桂の山荘に行って、雪を見た。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

はつゆきにかきあつめてそきこえあくるおほみやひとのけさのありかす
(夫木抄~日文研HPより)


古典の季節表現 冬 十一月上申日 春日祭

2020年11月03日 | 日本古典文学-冬

(応和三年十一月)十二日庚申。平野春日祭。中納言師氏参春日社。
(日本紀略~「新訂増補 国史大系11」)

(長徳四年十一月)四日、己未。
内府(藤原公季)の許に参った。右藤中将(藤原実成)が春日祭使となった。そこで参り向かうのを訪ね申す為である。(略)歌舞が行なわれていた頃、内裏に還り参った。秉燭の後に、祭使が弓場殿に参った。天皇の御前に召すようにとの仰せ事が有った。この頃、夕膳を供していた。御膳を撤去するのを待って、すぐに御簾を垂れた。蔵人(藤原)泰通が、仰せを承って使を召した。実成朝臣は仙華門(せんかもん)から入って、長橋に伺候した〈円座(わろうだ)を敷いた。〉。舞人と陪従は、仁寿殿の砌(みぎり)の内に立った。歌舞〈求子(もとめご)。〉が奏されていた頃、衝重(ついがさね)を祭使に賜わった〈あらかじめ泰通に命じて準備させたものである。贄殿が肴、酒殿が酒を出した。〉。私が勧盃を行なった。泰通が酌を取った。舞が終わった頃、大蔵卿(藤原正光)が御衣(おんぞ)を祭使に下給した。祭使はこれを賜わり、拝舞して退出した。(略)
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)

(長保五年十一月)八日、甲午。 春日祭使料を送る
(藤原)陳孝を遣わして、春宮大夫殿(藤原道綱)に被物(かずけもの)三重(かさね)を送り奉った。(藤原)兼綱少将の春日祭使料である。
九日、乙未。 春日祭使の出立所を訪ねる/春日奉幣
左府の許に参った。大夫殿(道綱)の許に参った。春日祭使の出立所である。
春日奉幣を、勘解由判官(藤原)如信に託した〈私の分、女房(藤原行成室)の分、薬助(やくじょ)及び犬(藤原実経)の分、また小女たちの分である。〉。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)

(寛弘四年十一月)八日、辛未。
春日祭に際しての奉幣は、常と同じであった。申剋に、春日祭使(藤原教通)が出立した。内大臣(藤原公季)が、出立の儀に来られた。これは希有な事である。土御門第の西対から出立した。対の西廂に、内大臣の坐る座を設けた。教通が立って拝舞した後、渡殿の南廂に内大臣のために錦端(にしきべり)の畳一枚と土敷(つちしき)の茵(しとね)を敷いた。他は菅(すげ)の円座(わろうだ)を敷いた。二、三献の宴飲の後、近衛番長雀部是国(ささきべのこれくに)を召して、左大将(藤原公季)の盃を下賜した。後に宰相中将(源経房)を介して、是国を府生(ふしょう)に任じるという奏を賜うことを命じた。是国は再拝し、立って拝舞した。この間、盃酌(はいしゃく)が数巡した。私は悦びが身に余り、泥酔して不覚となった。内大臣への引出物は、馬三疋であった。一疋は栗毛の馬であった。内(一条天皇)から賜った馬である。一品宮(脩子内親王)の御着裳(ちゃくも)の日に賜ったものである。一疋は枯尾(かすお)の馬であった。これは我が家の馬の第一のものである。一疋は(藤原)輔公が貢上(こうじょう)した第一の鹿毛の馬であった。蒔絵の野刀(のだち)を右衛門督(藤原斉信)に取らせて、内大臣に贈った。内大臣が土御門第を出られた際、頭中将(藤原実成)が、内大臣の御沓を持って来た。私は、着していた刀を解いて、頭中将に預けた。私は中門の下まで内大臣の御供をして出た。穏座(おんのざ)があった。手長(てなが)は春宮権大夫(藤原頼通)、高坏を取り次ぐ役は、(藤原)頼親と(藤原)公信といった中将が勤めた。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(長和元年十一月)二日、乙未。
内裏から退出した。春日祭に神馬使を出立させた。丹後守(藤原)惟任であった。昨日、近衛府使(藤原)公信朝臣が、代官を申請してきた。右兵衛佐(藤原)通範に命じた。馬寮使(藤原)相尹も、障りであることを申してきた。これは免じられなかった。祭使発遣の上卿の修理大夫(藤原通任)も、障りを申してきた。祭使の出立所に、舞人の下重を送った。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(寛仁二年十一月)一日、己未。 春日祭奉幣
春日祭使左近少将(源)実基に、舞人の下重(したがさね)、および疋絹(ひっけん)少々を送った。鴨川に出て、奉幣を行なった。例幣(れいへい)、および金銀の幣(ぬさ)であった。私が出立させた奉幣使は、出雲守(藤原)成親であった。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)

(安貞元年十一月)九日。天晴れ、霜無し。巳後、大風、沍寒。春日祭の使少将伊成、除目右に任ず。忽ち左に渡されて勤仕すと云々。是れ又他の将勤めざるか。弁蔵人弁(光俊と云々)。申の時許りに前殿仰す。神事に依り西の亭に有り。来たるかと。即ち参入す。節会の習礼、其の志有り。寒風に依り、思ひ止まり了んぬ。夜に入りて退出す。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)

よにしつみて侍けるころ、かすかの冬のまつりにへいたて侍けるに、*おもひける事を(*おほへけるイ)、みてくらにかきつけ侍ける 左京大夫顕輔 
かれはつる藤の末はのかなしきはたゝ春の日をたのむはかりそ 
(詞花和歌集~国文学研究資料館HPより)


古典の季節表現 冬 まさきのかづら

2020年10月25日 | 日本古典文学-冬

神あそひのうた とりもののうた
み山には霰ふるらしと山なるまさきのかつら色付にけり
(古今和歌集~国文学研究資料館HPより)

外山(とやま)なるまさきのかづら冬くれば深くも色のなりにけるかな
(和泉式部集~岩波文庫)

寛平御時、后宮の歌合に よみ人しらす 
神無月時雨ふるらしさほ山のまさきのかつら色まさりゆく
(新古今和歌集~国文学研究資料館HPより)

たいしらす 後京極院 
吹はらふ外山の嵐音たてゝ正木のかつら今やちるらん 
(新千載和歌集~国文学研究資料館HPより)

しくれこしとやまもいまはあられふりまさきのかつらちりやはてぬる 
(秋篠月清集~日文研HPより)

 おなし人をうちにさそふとて
いてたちて友まつほとの久しさにまさきの葛ちりやしぬらん
 かへし
急かすは散も社すれ紅葉々のまさきの葛おそくくるとて
(実方朝臣集~群書類従14)

神無月の比、岡屋入道前関白もとより、山中何事か侍ると申つかはして侍ける返事に、よみてつかはしける 慶政上人
なかめやるまさきのかつら散はてゝ目にかゝるへき物たにもなし
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)