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古典和歌をメインにブログを書いてます。歌題ごとに和歌を四季に分類。

「ほのめく」用例

2015年08月31日 | 日本国語大辞典-は行

 「仄(ほの)めく」という単語には「ほのかに形や光が見える。見え隠れに姿をあらわす。」という語釈があり、日本国語大辞典・第二版では、『宇津保物語』(970-999年頃)からの例が早いのですが、もう少しさかのぼる用例があります。

秋霧にゆくへや惑ふ女郎花はなかく野べにひとりほのめく
(9・昌泰元年秋亭子院女郎花合、十巻本、32)
萩谷朴『平安朝歌合大成 増補新訂 第一巻』同朋舎出版、1995年、101ページ

かげろふのほのめきつれば夕暮の夢かとのみぞ身をたどりつる<よみ人しらず>
(巻第十二・恋四、857)
『後撰和歌集』松田武夫校訂、岩波文庫、1945年、146ページ

かけろふの-ほのめくかけに-みてしより-たれともしらぬ-こひもするかな
おほつかな-ゆめかうつつか-かけろふの-ほのめくよりも-はかなかりしか
(古今和歌六帖)日文研HPの和歌データベースより

 ※下三首は、「かげろふの→ほのめく」という枕詞用例ということでもよさそうです。


「玉巻く」用例

2015年08月29日 | 日本国語大辞典-た行

 「玉巻く」という用語の語釈には「葛(くず)などの若葉の葉先が玉のような形に美しく巻く。」という語釈があり、日本国語大辞典・第二版では、『千載和歌集』(1187)からの例が早いのですが、さらに、260年さかのぼる用例があります。

鹿鳴草 左
生(お)ひかか(ゝ)り葛(くず)の玉(たま)巻(ゝ)く夏萩(なつはぎ)を植ゑ(へ)ては秋(あき)の鹿(しか)や待(ま)たれむ
(33・〔延長五年〕秋 小一条左大臣忠平前栽合、十巻本、鹿鳴草、9)
萩谷朴『平安朝歌合大成 増補新訂 第一巻』同朋舎出版、1995年、266ページ


「鹿鳴草」用例

2015年08月29日 | 日本国語大辞典-さ行

 「鹿鳴草」という単語は訓みは「しかなくくさ」又は「しかなくさ」で、萩の別名です。
 下記用例は訓みは不明ですが、どちらの訓みであっても日本国語大辞典・第二版用例よりもさかのぼります。

鹿鳴草 左
生(お)ひかか(ゝ)り葛(くず)の玉(たま)巻(ゝ)く夏萩(なつはぎ)を植ゑ(へ)ては秋(あき)の鹿(しか)や待(ま)たれむ
(33・〔延長五年〕秋 小一条左大臣忠平前栽合、十巻本、鹿鳴草、9)
萩谷朴『平安朝歌合大成 増補新訂 第一巻』同朋舎出版、1995年、266ページ
(※廿巻本では、歌題が「萩」となっています。)


古典の季節表現 秋 八月下旬

2015年08月21日 | 日本古典文学-秋

八月二十日あまりの暁なれば、風の音なひ、冷ややかにしみわたりつつ、鳥の声々もよほし顔なる。月もやうやう山の端(は)近くなれば、さらばと、ゆるし給ふほどのなごりも、いとなかなかなり。
 草の葉に露置き帰る暁は暮待つ虫の音(ね)になかれけり
げにぞ、いみじう鳴き枯らしたる声も、取り集め、すごうものあはれなり。女、
 身は露の秋の末葉に消え果てて君待つ虫の音(ね)にや絶えなん
と言へる気色もらうたきものから、車の音(おと)の遠うなるまで、聞き臥し給へるに、夜もやうやう明けなんとすれば、今日は白河院へ参りて、しばしも候ひて、秋の気色も心のどかにながめんかしと思しつつ、この院へ御言付けもやと、殿にいとま聞こえさせばやと思すは、まだ夜も明けはなれぬに、心ならずこそと休らはれて(略)、やをら下(しも)におり給ひて、荻の茂りたる中に這ひ入りて、中門の扉に、いささかなる隙(ひま)のあるより見給へば、さながら秋の野辺に埋(うづ)もれたる御前の花、色々露の光もことに置きわたしつつ、虫の声々乱れ合ひたるに、をかしき童(わらは)べの宿直姿なまめかしく、百草(ももくさ)の花よりもけに見えて、小さき虫屋どもをささげて、露かくる気色、しほたれたる花引き直しなどしたるほど、をかしう、絵に書かまほしきに、こなた近き御簾押し張りて、殿をはする。
 白き生絹(すずし)どもに、丁子染の御単衣、いといたうしみ返りたるを奉りて、なまめいたる御かたち、言へばえに、若うきよらに、薫れる御にほひなつかしく、光ことにて、小さき呉竹の間近きにかかれる朝顔を、一枝折らせ給ひて、「おのづから栄をなす」とうち誦(ずん)じ給へる御声など、いと、もの異なれど、限りなうめでたきに、奥ざまに向き給ひて、「まれまれめづらしき晴間に、野辺の朝露も曇りなく御覧ぜよかし。ただ一人、心をやりたるもをこがましきに」とて、几帳を押しやり給へれば、やをらすべり出で給へり。
 女郎花の御衣(ぞ)のなよらかなるに、映えばかりなる紅(くれなゐ)の単衣、紫苑の織物の小袿、えも言はずうつくしう着なし給ひて、(略)。
(いはでしのぶ~「中世王朝物語全集4」笠間書院)

八月つこもりにてんじやうの人びと。さがのにはな見にいきたるに。中ぐうの大はんどころに。をみなへしのちいさきえだをあふぎのつまをひきやりて。さしたるにかきつけはべる。東宮権大夫
  ひとえたのはなのにほひもあるものをのべのにしきをおもひやらなん。かへしこせむのなでしこをおりて源少将
  もゝしきのはなやをとれるきりわけてたちまじるらんのべのにしきに。
(栄花物語~国文学研究資料館HPより)

八月卅日に中ぐう行啓あり。蘓芳のこくうすきにほひなとにくさのかうの御そなどたてまつる。いとおかしうなまめかしくめでたき御ありさまなり。月ころのほどにこよなくをとなひさせ給にけるを。あはれにみたてまつらせ給。ふつかばかりおはしましてかへらせ給を。いとあかすくちおしうおぼしめさる。うちの御つかひのきりをわけてまいるもいとおかしうおぼしめさる。
(栄花物語~国文学研究資料館HPより)

八月晦、人のもとに、萩につけて
限りあらむ中ははかなくなりぬとも露けき萩の上をだに問へ
(和泉式部集~岩波文庫)

つごもりがたに風いたう吹て、野わきだちて雨などふるに、つねよりも物心ぼそ うながむるに、れいの御ふみあり。おりしりがほにのたまはせたるに、日比のつみも ゆるしきこへつべし。
なげきつゝ秋のみ空を詠ば雲うちさはぎ風ははげきし
御かへし、
秋風は氣色吹だにかなしきにかきくもる日はいふかたぞなき
(和泉式部日記・図書寮本~バージニア大学HPより)

 夜もすがらいみじうののしりつる儀式なれど、いともはかなき御屍ばかりを御名残にて、暁深く帰りたまふ。
  常のことなれど、人一人か、あまたしも見たまはぬことなればにや、類ひなく思し焦がれたり。八月二十余日の有明なれば、空もけしきもあはれ少なからぬに、大臣の闇に暮れ惑ひたまへるさまを見たまふも、ことわりにいみじければ、空のみ眺められたまひて、
  「のぼりぬる煙はそれとわかねどもなべて雲居のあはれなるかな」
(略)
 「深き秋のあはれまさりゆく風の音、身にしみけるかな」と、ならはぬ御独寝に明かしかねたまへる朝ぼらけの霧りわたれるに、菊のけしきばめる枝に、濃き青鈍の紙なる文つけて、さし置きて往にけり。「今めかしうも」とて、見たまへば、御息所の御手なり。
  「聞こえぬほどは、思し知るらむや。
   人の世をあはれと聞くも露けきに後るる袖を思ひこそやれ
 ただ今の空に思ひたまへあまりてなむ」
  とあり。「常よりも優にも書いたまへるかな」と、さすがに置きがたう見たまふものから、「つれなの御弔ひや」と心憂し。さりとて、かき絶え音なう聞こえざらむもいとほしく、人の御名の朽ちぬべきことを思し乱る。
  「過ぎにし人は、とてもかくても、さるべきにこそはものしたまひけめ、何にさることを、さださだとけざやかに見聞きけむ」と悔しきは、わが御心ながら、なほえ思し直すまじきなめりかし。
  「斎宮の御きよまはりもわづらはしくや」など、久しう思ひわづらひたまへど、「わざとある御返りなくは、情けなくや」とて、紫のにばめる紙に、
  「こよなうほど経はべりにけるを、思ひたまへおこたらずながら、つつましきほどは、さらば、思し知るらむやとてなむ。
   とまる身も消えしもおなじ露の世に心置くらむほどぞはかなき
 かつは思し消ちてよかし。御覧ぜずもやとて、誰にも」
  と聞こえたまへり。
(源氏物語・葵~バージニア大学HPより)

後一条入道関白身まかりて後、八月末つかた、袖の露も折しも思ひやらるゝよし申たる人の返事に 従二位隆博
思へかしさらてももろき袖の上に露をきあまる秋の心を
(風雅和歌集~国文学研究資料館HPより)

天長六年八月甲戌(二十七日)
貴布禰社・丹生川上雨師社に奉幣した。雨師神には白毛の馬を幣帛に副えて奉納した。これは長雨の止むのを祈願してのことである。
(日本後紀~講談社学術文庫)

承和元年八月己亥(二十一日)
強風と大雨が重なり、樹木が折れたり、根こそぎになり、民の住居が壊れた。このため畿内の名神に急ぎ奉幣し、風雨の止むように祈願した。
庚子(二十二日)
夜、風雨がなお強く、朝になっても収まらず、平安京内の人家があちらこちらで倒壊した。
(続日本後紀~講談社学術文庫)

(安貞元年八月月)廿一日。天晴る。適々秋気に属するの後、草花已に凋零。萩薄の盛りなり。節分の時節、馳するが如し。七旬の余算何日ぞや。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)

(正暦五年八月)二十八日。
今日、大臣召の儀が行なわれた。(略)関白(藤原道隆)の二条第において饗饌を設けた。納言以下・弁・少納言・外記・史の座は通例のとおりであった。三献の後、禄事を命じた。史生を召さなかった。禄を下給した後、弁と少納言以下は、通例のとおり下り立つ儀があった。次に卿相が穏座(おんのざ)に着した頃、家公(いえぎみ)の関白がお出ましになった。管絃に堪能な者一、二人が、南階(みなみのきざはし)の下に伺候した。この頃前大納言(源重光)は、家公の召しによって、その座にいた。特別に右四位少将〈宣方。〉・左馬頭〈(藤原)相尹。〉・少納言〈(源)道方。〉を召した。南東の簀子敷に伺候した。宣方が拍子を執った。時に秋風が索々としていた。夜漏、ようやく闌(たけなわ)となって、竹と云い桐と云い、これを唱し、これを調じた。その音を聴くと、錚々(そうそう)としていた。千秋の声が有った。ここで衛門尉(秦)身高が出て、庭中に舞った。身高は年齢がすでに七十歳余りであって、身体は曲折しているものの、春柳の嫋々たるようであった。その際、前大納言は衵を脱いで下給した。次に新大納言〈道頼。〉は、盃を執って源納言に勧めた。「盃が巡行している頃、引出物が有った。小馬〈栗毛。〉であった」と云うことだ。大饗が終わって、各々、分散して帰った。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)

長保元年八月二十九日、己卯。
今夜、院が御出される。内裏に参られた後、今日で七日に当たる。世俗の忌みを避ける為に、左大臣の邸に遷御される。宰相中将と右源中将(成信)が御供に供奉した。この夜、掩韻が行なわれた。深夜に及んだ。秋夜の書懐を題とした。亭青蛍零星醒の六字を定めて韻とし、各々、一首を賦した。明け方、院は土御門第に移御された。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)


古典の季節表現 秋 八月二十日頃

2015年08月20日 | 日本古典文学-秋

右大臣橘家宴歌七首
雲の上に鳴くなる雁の遠けども君に逢はむとた廻り来つ
雲の上に鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉はもみちぬるかも
この岡に小鹿踏み起しうかねらひかもかもすらく君故にこそ
秋の野の尾花が末を押しなべて来しくもしるく逢へる君かも
今朝鳴きて行きし雁が音寒みかもこの野の浅茅色づきにける
朝戸開けて物思ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな
さを鹿の来立ち鳴く野の秋萩は露霜負ひて散りにしものを
 天平十年戊寅秋八月廿日
(万葉集~バージニア大学HPより)

かくて、八月中の十日のほどに、帝、花の宴したまふ。上達部、親王たち、残りなく参りたまひて御遊びしたまふ。帝、「年の内、木草の盛り、秋のほどにいつか」と問はせたまふ。蔵人の少将仲頼奏す、「野の盛りは八月中の十日、山の盛りは九月上の十日のほどになむ」。「野山の中には、いづれかおもしろき」。仲頼奏す、「近きほどには、嵯峨野、春日野、山は小倉山、嵐山なむ侍る。草木などは、心生ひに生ひたるはつたなきものなり。人近にて朝夕べ撫でつくろひたるなむ、姿、有様情け侍る。花紅葉などは、しか侍らぬものなり」と奏す。(略)
(宇津保物語・吹上下~新編日本古典文学全集)

 八月中の十日ばかりなれば、野辺のけしきもをかしきころなるに、山里のありさまのいとゆかしければ、
 「なにがし律師のめづらしう下りたなるに、せちに語らふべきことあり。御息所の患ひたまふなるもとぶらひがてら、参うでむ」
 と、おほかたにぞ聞こえて出でたまふ。御前、ことことしからで、親しき限り五、六人ばかり、狩衣にてさぶらふ。ことに深き道ならねど、松が崎の小山の色なども、さる巌ならねど、秋のけしきつきて、都に二なくと尽くしたる家居には、なほ、あはれも興もまさりてぞ見ゆるや。
(略)
 日入り方になり行くに、空のけしきもあはれに霧りわたりて、 山の蔭は小暗き心地するに、ひぐらし鳴きしきりて、 垣ほに生ふる撫子の、うちなびける色もをかしう見ゆ。
 前の前栽の花どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音いと涼しげにて、山おろし心すごく、松の響き木深く聞こえわたされなどして、不断の経読む、時変はりて、鐘うち鳴らすに、立つ声もゐ変はるも、一つにあひて、いと尊く聞こゆ。
 所から、よろづのこと心細う見なさるるも、あはれにもの思ひ続けらる。出でたまはむ心地もなし。(略)
(源氏物語・夕霧~バージニア大学HPより)

はつきの廿日比、月くまなかりける夜、むしのこゑいと哀なりけれは 赤染衛門
有明の月はたもとになかれつゝかなしき比のむしのこゑ哉
(続古今和歌集~国文学研究資料館HPより)

山里にて八月廿日比、暁かたの月いみしくあはれにて所のさまも心すこくおほえ侍けれは 菅原孝標朝臣女
あはれしる人にみせはや山里の秋の夜ふかき有明の月
(玉葉和歌集~国文学研究資料館HPより)

前中納言定家はやうすみ侍けるさかの家の跡を、右大臣作りあらためてかよひ住侍けるに、八月廿日定家卿遠忌に仏事なとして人々歌よませ侍けるに、秋懐旧といふことを 前参議為相
めくりあふ秋のはつきのはつかにもみぬ世をとへは袖そ露けき
(玉葉和歌集~国文学研究資料館HPより)

延慶三年八月廿日、前中納言定家遠忌に廿五三昧おこなひ侍けるついてによめる 法印定為
古郷の草の陰にもてらしみはなを色そへよことのはの露
(新千載和歌集~国文学研究資料館HPより)

(建仁二年八月)廿日。天晴る。深夜に雨降る。西郊より還る。人々云ふ、仁和寺の宮、此の両三日已に以て前後不覚。而れども、御意気絶えずと云々。秉燭以前、院に参ず。影供の歌合せなり(歌昨日之を献ず。江月に雁を聞く。松風雨に似たり。忍ぶに依りて増す恋)。昼より、左大臣殿・前座主参じ給ふと云々。此の間、所労総じて不快の間、御共に参ぜず。秉燭以後、出でおはします。各々着座す。左大臣殿・内大臣・前座主・前中納言(隆房)・大弐・三位中将・予・具親。仰せに依り、杯を持参し、影前に置く。具親瓶子。次で、仰せに依り講師の座に着く。内府読師。歌合せ三題。読み上げ了りて、評定良々久し。次で作者を付け、又之を読む。次で当座の題二首。関路暁の霧・山家擣衣。各々置き了り、又仰せに依りて参ず。読み上げ了りて退く。即ち入りおはします。人々退出す。此の間、雨降る。今夜芸閣(うんかく)作文。有家朝臣参ずと云々。置き改めて、早く参ずべきの由、和歌所より仰せらる。近日の面目、只一身にあるか。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)

長保二年八月十六日、庚申。
今日と明日は物忌である。戸を閉じて籠居した。早朝、挙直朝臣が告げ送って云ったことには、「夜来、大雨です。鴨河の堤は決壊し、河の水は洛中に入りました。京極以西の人の宅は、多く流損しました。中でも左相府(道長)の邸は庭と池の区別がなく、汎溢することは海のようです。人々が参入する際、束帯の輩は靴や襪(したうづ)を解き脱ぎ、布衣や布袴の者は上を括って往還しています」と云うことだ。「卿相は、或る者は馬に騎(の)り、或る者は人に背負われています」と云うことだ。
長保二年八月二十日、甲子。
藤中納言に祈晴使を遣わし奉る日時を勘申させるよう命じた。使については蔵人を遣わすべきである。そこで(菅原)孝標と(源)忠隆に命じて、用意させた〈孝標は丹生社、忠隆は貴布禰社。〉。(藤原)実房に、内蔵寮を介して幣料を申請する奏を進上させるよう命じた。権左中弁(藤原説孝)が日時勘文を奏上した〈来たる二十三日である。〉。
長保二年八月二十三日、丁卯。
幣帛と赤馬を丹生・貴布禰両社に奉献して、止雨を請い祈らせた。使者は蔵人孝標と忠隆である。
(権記~講談社学術文庫)