先月、 ジャズピアニスト本田竹広氏(1月に死去)のサイトを運営している方から以前僕が撮った本田さんの写真を追悼コンサートで飾らせてくれと連絡がきたので、勿論okと返事をしておいた。
その写真は本田さんのサイトにずーっと掲載されていたもの。
その連絡があった数日後、ジャズライターの長門が、本田さんの記事を書く為サイトを見たら、僕の撮った写真があったので、びっくりしたと電話してきた。
そして昨日(5日)、その追悼コンサートが 東京オペラシティであった。
僕は行かなかったが、長門から行ってきましたとメールがきた。
僕の写真、大きく伸ばしてステージ後ろに飾ってあり、パンフレットの一番最初にも載っているとの事。
今度パンフレット見せてね、長門ちゃん。
本田さんは、むかーし新宿のピットインが、まだ紀ノ国屋の並びにあった時、レコードジャケット用にライブ撮影をした事がある。
この時、ステージがあんまり暗いので、前もってピットインのスタッフに(オイラは、大学生の時に、ここでアルバイトをしていた)「すこーし照明明るくしてちょうだい」って御願いしてあったんだけど、ライブ中にメンバーの1人が「明るくない?、暑いよ」って突然言いだし、照明を元の明るさに戻されちゃった。
ほんと暗いのでマイッタっす。
僕がピットインでバイトしている時代の本田さんは、なんか近寄りにくく恐い感じの人だった。
今回コンサートで使われた写真は、病気から復帰した後、撮った写真だけど、この時の本田さんの印象は、昔より若くなったんじゃないのーだった。
勿論僕の事など憶えてないと思うので、なーんも言わなかったけど。
僕がピットインにいた頃、日本人ピアニストは、アメリカから帰ってくるとエレピ(フェンダーローズ)を弾きだした。
行く前は、「エレピなんか、ロックが使うもん、ケッ」って言ってた人も、みーんなエレピ。
マハビシュヌオーケストラがデビューした頃かな?。
兄貴が当時マハビシュヌの担当ディレクターだったので「レコード、ピットインで、かけてちょうだい」ってテスト盤を貰った記憶がある。
当時は、深夜放送まっさかり。
レコード会社のプロモーターやディレクターは、自分の担当しているレコードをラジオで、かけてもらうのに必至。毎日ラジオ局に深夜まで通っていたのであります。
そんなある日、深夜放送を聴いていたボクちゃんは、ビックリしたのであります。
ラジオで突然名前を呼ばれたからであります。リクエストなんてしてないのに。
曲は、兄貴が担当しているアメリカのロックバンド。
やられたって思いましたねー。そうです、兄貴が僕の名前で、リクエストはがきを出したのであります。
僕がプロモーターやっていた時は、ここまでやるなんてこたー無かった(と思う)
とにかく(何が、とにかくなんかわからんけどさ)、こーゆー時代だったのであります。
僕がピットインにいた頃は、色々ジャズの変革時代だったみたいで、昔、ロック雑誌の編集者に「あの頃ピットインにいたなんて、なんて幸せものなんですか!」って羨ましがられた事がある。
だって渡辺香津美さんが、ツインギターのバンドで昼の部に出ていたのを観ているし(バカテクなんで、ビックリした)大友義雄さんを初めて聴いた時、こんな凄いアルトサックスプレーヤーが日本にいたのかって驚いたし、佐藤允彦さんの機材が壊れてライブがなかなか始まらず、お客さんは、じーっとおとなしく佐藤さんが楽器を直すのを観ていたって事もあった。
因に、その編集者はキース・ジャレットの家に泊まり込んでインタビューをして、キースの本を書いたと言う恐ろしい男。
本田さんから、色々思い出した事をだらだら書いてしまいました。
またまた、脈絡のない文章でゴメンゴメン。
(写真は紙焼きが手元に無いので、ファンクラブのサイトから拝借。勿論トリミングされている。オリジナルは縦位置写真なので下がカットされている。)
その写真は本田さんのサイトにずーっと掲載されていたもの。
その連絡があった数日後、ジャズライターの長門が、本田さんの記事を書く為サイトを見たら、僕の撮った写真があったので、びっくりしたと電話してきた。
そして昨日(5日)、その追悼コンサートが 東京オペラシティであった。
僕は行かなかったが、長門から行ってきましたとメールがきた。
僕の写真、大きく伸ばしてステージ後ろに飾ってあり、パンフレットの一番最初にも載っているとの事。
今度パンフレット見せてね、長門ちゃん。
本田さんは、むかーし新宿のピットインが、まだ紀ノ国屋の並びにあった時、レコードジャケット用にライブ撮影をした事がある。
この時、ステージがあんまり暗いので、前もってピットインのスタッフに(オイラは、大学生の時に、ここでアルバイトをしていた)「すこーし照明明るくしてちょうだい」って御願いしてあったんだけど、ライブ中にメンバーの1人が「明るくない?、暑いよ」って突然言いだし、照明を元の明るさに戻されちゃった。
ほんと暗いのでマイッタっす。
僕がピットインでバイトしている時代の本田さんは、なんか近寄りにくく恐い感じの人だった。
今回コンサートで使われた写真は、病気から復帰した後、撮った写真だけど、この時の本田さんの印象は、昔より若くなったんじゃないのーだった。
勿論僕の事など憶えてないと思うので、なーんも言わなかったけど。
僕がピットインにいた頃、日本人ピアニストは、アメリカから帰ってくるとエレピ(フェンダーローズ)を弾きだした。
行く前は、「エレピなんか、ロックが使うもん、ケッ」って言ってた人も、みーんなエレピ。
マハビシュヌオーケストラがデビューした頃かな?。
兄貴が当時マハビシュヌの担当ディレクターだったので「レコード、ピットインで、かけてちょうだい」ってテスト盤を貰った記憶がある。
当時は、深夜放送まっさかり。
レコード会社のプロモーターやディレクターは、自分の担当しているレコードをラジオで、かけてもらうのに必至。毎日ラジオ局に深夜まで通っていたのであります。
そんなある日、深夜放送を聴いていたボクちゃんは、ビックリしたのであります。
ラジオで突然名前を呼ばれたからであります。リクエストなんてしてないのに。
曲は、兄貴が担当しているアメリカのロックバンド。
やられたって思いましたねー。そうです、兄貴が僕の名前で、リクエストはがきを出したのであります。
僕がプロモーターやっていた時は、ここまでやるなんてこたー無かった(と思う)
とにかく(何が、とにかくなんかわからんけどさ)、こーゆー時代だったのであります。
僕がピットインにいた頃は、色々ジャズの変革時代だったみたいで、昔、ロック雑誌の編集者に「あの頃ピットインにいたなんて、なんて幸せものなんですか!」って羨ましがられた事がある。
だって渡辺香津美さんが、ツインギターのバンドで昼の部に出ていたのを観ているし(バカテクなんで、ビックリした)大友義雄さんを初めて聴いた時、こんな凄いアルトサックスプレーヤーが日本にいたのかって驚いたし、佐藤允彦さんの機材が壊れてライブがなかなか始まらず、お客さんは、じーっとおとなしく佐藤さんが楽器を直すのを観ていたって事もあった。
因に、その編集者はキース・ジャレットの家に泊まり込んでインタビューをして、キースの本を書いたと言う恐ろしい男。
本田さんから、色々思い出した事をだらだら書いてしまいました。
またまた、脈絡のない文章でゴメンゴメン。
(写真は紙焼きが手元に無いので、ファンクラブのサイトから拝借。勿論トリミングされている。オリジナルは縦位置写真なので下がカットされている。)