新たな発掘ネタです。表題の時刻表写真が見つかりました。
この改正は、昭和49年(1974年)7月23日、近鉄八王子線の西日野から先の区間(西日野~伊勢八王子間)の終焉をもたらした豪雨で、代行バスが伊勢八王子~内部線南日永間に走り始めてからおおよそ1年半経った後の改正であり、運転時隔はほぼ25分ヘッドで、恐らく、「近鉄八王子線の代行運輸終了に伴う改正」と思われます。
実際、この時刻表を見ると、印刷物ではなく手書きで、猫も杓子も電算出力のできる現在とは異なる趣があります。
時刻表を見る限り、四日市方面の7時台と内部方面の9時台は時間あたり4本となっており、朝のラッシュ時間帯の運行頻度を上げていたようです。
ただ、日永で分岐する、八王子線とのダイヤ調整の必要や交換場所の位置の問題から、完全な等時隔ダイヤ化されていない点が、利用する上ではネックでした。
昭和51年(1976年)3月26日改正の近鉄内部線追分駅時刻表
この改正は、昭和49年(1974年)7月23日、近鉄八王子線の西日野から先の区間(西日野~伊勢八王子間)の終焉をもたらした豪雨で、代行バスが伊勢八王子~内部線南日永間に走り始めてからおおよそ1年半経った後の改正であり、運転時隔はほぼ25分ヘッドで、恐らく、「近鉄八王子線の代行運輸終了に伴う改正」と思われます。
実際、この時刻表を見ると、印刷物ではなく手書きで、猫も杓子も電算出力のできる現在とは異なる趣があります。
時刻表を見る限り、四日市方面の7時台と内部方面の9時台は時間あたり4本となっており、朝のラッシュ時間帯の運行頻度を上げていたようです。
ただ、日永で分岐する、八王子線とのダイヤ調整の必要や交換場所の位置の問題から、完全な等時隔ダイヤ化されていない点が、利用する上ではネックでした。
昭和51年(1976年)3月26日改正の近鉄内部線追分駅時刻表