雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  われこそは新島守よ

2011-09-04 08:00:11 | 運命紀行
       運命紀行       

           われこそは新島守よ


隠岐は絶海の孤島である。
都を追われ、伯耆の国でさえ地の果てまで行くのかと思われたが、さらに海上を行くこと十余里だとか・・・。

七月の日本海は、嵐さえなければ最も穏やかな季節といえる。
しかし、都の、それも禁裏の奥深くにあった上皇にとっては、白波の立つ日本海は、怒涛逆巻く荒海としか見えなかった。
洋上遥か、目指す島影は、緑の塊にしか見えず、人間の生きる場所とは想像すら出来なかった。

ようやく辿り着いた島には、船をつける湊があり、村人たちが集まり、島役人らしい姿も見える。
しかし、降り立った孤島は、荒々しい岩肌と、それらを隠そうとするかのような緑と、まばらな松林と、僅かな荒屋しか見えず、聞こえてくるものは、海鳴りにも似た波濤の叫ぶ声と、むせび泣くような松籟の音ばかりであった・・・

『われこそは新島守よ沖の海の 荒き波風こころして吹け』
     


     * * *

後鳥羽上皇は、高倉天皇の第四皇子で、安徳天皇の異母弟にあたる。
源氏に追われ、平氏一族とともに壇ノ浦に身を投じた安徳天皇の後継として、四歳で即位した。後鳥羽天皇の誕生である。
時の天皇勢力の中心人物は後白河法皇。全盛を誇った平氏を滅亡させたものの、取って代わろうとする源氏との争いに明け暮れた人物である。

後鳥羽天皇が天皇としての実権を得るのは、建久三年に後白河法皇が死去したのちのことと考えられるが、この時で十三歳であり実質的な政権運営は九条兼実ら貴族が中心であったと考えられる。
建久九年(1198)、第一皇子の土御門天皇に譲位、上皇となり、院政を始めた。十九歳の頃のことである。
後白河法皇が平氏打倒を目指し、後鳥羽上皇が源氏政権打倒を目指したことは、天皇に政治権力を集中させようとする必死の戦いであったとはいえる。しかし、さらに大きく時代の流れを見た時、天皇を中心とする公家政治は、すでに全国土を掌握することなど出来なくなっていて、武家政治へと変わる流れは鮮明になっていた。

承久の乱と呼ばれる事変は承久三年(1221)五月に勃発した。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府討伐の兵を挙げ、執権北条義時追討の院宣を発した。上皇には、鎌倉幕府三代将軍源実朝が暗殺され、後継者問題の難航など弱体化しているとの判断もあり、畿内や近国の武士を結集し自らの院宣を発すれば、幕府打倒も可能との判断があったのであろう。
しかし戦いは、あっという間に決着した。上皇方の完敗である。
事変終息とともに幕府方は厳しい処断を実施した。
後鳥羽上皇の隠岐配流ばかりでなく、順徳上皇は佐渡へ配流、土御門上皇も自ら土佐へと移った。

『われこそは新島守(ニイジマモリ)よ』とうそぶいた上皇は、この島で悶々とした日を送った。都の便りは届けられたものかどうか、自ら檄を飛ばす機会はあったのかどうか・・・。
事態の好転を持ちわびる日々は十八年にも及んだが、ついに生きて都の土を踏むことはなかった。
そして、後鳥羽上皇自らが起こしたこの事変こそが、公家政治から武家政治への移行を鮮明に示したものであったのは、歴史の必然であったのか、運命のいたずらであったのか・・・。

『身の憂さを嘆くあまりの夕暮に 問ふも悲しき磯の松風』

                                  ( 完 )

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