雅工房 作品集

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運命紀行  母よ兄よ

2013-02-19 08:00:50 | 運命紀行
         運命紀行

            母よ兄よ

徳川家康という程の人物でも、生涯において、絶体絶命と思われるほどの危機に何度か遭遇している。また、悔やんでも悔やんでも消し去ることのできない忸怩たる思いも、やはり何度かは経験しているはずである。
絶体絶命の危機を脱したことは家康の生涯における勲章となるが、忸怩たるものは時とともに薄まることはあるとしても、完全に消し去ることなど出来るまい。

おそらく、家康が自らの生涯を思い返した時、もっとも悔いの残る出来事とは、長男の信康を自刃に追い込んだことであろう。
信康を死なせてしまった理由については、虚実さまざまな説があり、小説などでも描かれている。
武田氏との内通の疑いや、信康の妻徳姫が父の織田信長に讒言したため信長から家康に対して信長切腹の命令があったとか、あるいは、信康を幽閉している間に家臣が逃亡を助けることを期待していたが自刃に至ってしまったという話もある。
反対に、このような事実があったかもしれないが、信康は家康に反抗的で、これ幸いと積極的に自刃に追い込んだという説も有力である。
ただ、これらのどれが真実であったとしても、この事件が、家康の生涯において常に重い澱みとなって彼の心の奥にあり続けたことであろう。

家康が瀬名姫と結ばれたのは、弘治三年(1557)のことである。家康が十六歳、瀬名姫も同じ年ぐらいであった。家康がまだ今川氏の人質として駿府にあった頃のことである。
瀬名姫の父関口親永は、今川氏一門である今川刑部少輔家の当主であり今川家屈指の重臣であった。母は、今川義元の妹であることを考えれば、人質とはいえ義元が家康の将来を買っていたと考えられる。
永禄二年(1559)には長男である信康が生まれ、その翌年には長女の亀姫が誕生した。
このまま推移すれば、家康並びに岡崎にある松平家中(当時は松平元康)を有力家臣団にすることが出来ると、少なくとも義元は考えていたことであろう。

ところが、永禄三年(1660)五月十九日、三河と尾張の国境あたりを平定するため大軍を率いて出陣していた今川氏当主義元は、戦力で遥かに劣るはずの織田信長の奇襲にあい討死してしまったのである。桶狭間の合戦と呼ばれることになる信長の名前を全国の大名に周知させた戦いである。
なお、亀姫の誕生は、この年の六月四日なので、今川当主が討死した後の大混乱の駿府で誕生したことになる。
この出陣には、家康も先方として出陣していたが、今川本営とは行動を別にしていたため奇襲から免れたのである。
大将を失い、統率を失った今川の大軍は、さらに多くの犠牲者を出しながら我先にとばかりに駿府へ逃げ帰って行った。しかし、家康はその動きには同調せず、やがて松平家の居城岡崎城を制圧していた今川勢が駿府に逃げ帰ったのを見定めて、岡崎城に入ったのである。
桶狭間の合戦は、織田信長の名を全国に知らしめた戦いであるが、同時に、家康を今川の呪縛から解き放った戦いでもあったのである。

駿府からは家康に対して帰還命令が再三出されたがこれを無視して、今川勢力によって荒らされた領地の整備にあたり、信長との同盟を結んで今川氏との対立関係を鮮明にしていった。
駿府に残っていた家康の家族は当然人質として押さえられ、娘婿の不忠を義元の跡を継いだ氏真から責められた関口親永は自刃に追い込まれている。

家康の妻子は、その後の人質交換によってようやく駿府を出ることができて岡崎に移っている。ただ、この人質交換で駿府に送られた人物の中に、家康の生母於大の方の次男が入っていたことから、瀬名姫は於大の方や一部の重臣から快く思われなかったらしい。
そのことが原因とも思えないが、岡崎に移った瀬名姫と二人の子供は城内に迎えられず、城外の惣持尼寺で幽閉同然の生活を強いられたのである。瀬名姫は築山御前と呼ばれることになるが、それは築山の生茂った様子から名付けられたという。

永禄十年(1567)、長男の信康は信長の長女徳姫と結婚する。
京都への野望を抱く信長にとって、後背の地である三河の家康と同盟を結ぶことは重要であり、まだ弱小の家康にとっても信長の力を頼りにして東に領土を広げることが出来る願ってもない同盟の証であった。
権謀術数が渦巻く時代の中にあって、この両者の同盟は信長が本能寺で倒れるまで崩れることはなかったのである。
この信康の結婚の後も築山御前(瀬名姫)は城中に迎えられることはなく、晴れて城内に移ることが出来たのは、元亀元年(1570)になってからのことである。

信康と徳姫の間には二人の姫が誕生したが、男子が誕生しておらず、築山御前が側室を強く勧めたことも原因らしいが、徳姫と信康・築山御前の仲は冷えてゆき、ついに悲劇の発生となった。
築山御前の密通とか武田氏との内通などは、どの程度信憑性があるものかは触れないが、家康の正室築山御前に対する扱いもいかにも冷たい感じがする。
徳姫の訴えに端を発した事件は、信長の圧力に抗しきれずか、家康の思惑も働いていたのか、天正七年(1579)八月二十九日、築山御前は幽閉地に送られる途中で殺害され、九月十五日には信康自刃という結末を迎えたのである。

そしてここに、一人取り残された女性が登場してくるのである。
信康の妹亀姫である。この事件により母と兄を失ってしまった亀姫は、信康より一歳年下の二十歳になっていた。すでに人妻となり、子も生していたが、その悲しみはいかばかりであったか。
今川氏の血を色濃く引く亀姫は、それゆえに風当たりの強い幼少期を送り、ようやく一家の妻の座を得ていた中での悲報であった。
日の出の勢いの父家康は亀姫たちに対してあまりにも冷たく、名門の誇りを捨てきれなかった母築山御前の悲劇を背負って、この戦国の世を何をよすがに生き抜いて行くのか、独り思い悩んだのではないだろうか。そしておそらく、非業の最期を遂げた母と兄の誇りのために、凛然として生き抜く決意を固めたのではないだろうか


     * * *

亀姫が三河国の新庄城主奥平信昌(この頃は貞昌)のもとに嫁いだのは、天正四年(1576)のことで十七歳の頃であった。夫は五歳年上の二十二歳である。
奥平氏は、村上源氏の血を引くとされる名門であるが、武田氏が今川氏や織田氏や松平氏と激突を繰り返す要衝の地に本拠地を構えていた。家康や信長もこの地を押さえることを重視していた。

天正四年の長篠の戦いは壮絶な戦いとして知られているが、織田・松平方として籠城戦を戦った奥平勢の奮戦ぶりは高く評価され、その褒賞として亀姫は与えられたのである。なお、この婚姻は信長の意見によるともいわれ、奥平貞昌の活躍を高く評価した信長は、その一字を与えて信昌と改名させている。
奥平氏にとっては、家康の第一の姫であり、今川の血脈を引く姫は、願ってもない嫁であった。もちろん人質としての価値が高いという意味でであるが。

この典型的な政略結婚により結ばれた二人ではあるが、その仲は睦まじいものであったらしい。
二人の間には、男子四人と女子一人が生まれており、決して不幸な結婚生活ではなかった。しかし、結婚して三年ほど経った頃、亀姫は母とたった一人の兄を失うことになったのである。それも、父親の命令によってなのである。いくら戦国の世とはいえ、残酷な仕打ちといえる。
亀姫がその悲劇を知ったのは、次男を誕生する前後のことで、その心境は察するに余りある。

しかし、亀姫は凛然として過酷な試練に立ち向かっていった。夫信昌の支えや次々と誕生した子供たちが亀姫を戦国武将の正室として成長させていったのであろうが、その根本には、今川の血脈を何よりも誇りとしていた母築山御前の心意気を、ただ一人残された自分が担わねばならないと思っていたのかもしれない。

正室や嫡男の犠牲を噛みしめながら、家康は大きく羽ばたいていった。
家康の娘婿にあたる奥平信昌も、その期待に応える活躍を続けていた。家康が関東へ国替えとなった天正十八年(1590)には、信昌も家康に従って関東に移り、上野国甘楽郡に三万石が与えられた。
そしてついに、慶長五年(1600)九月、関ヶ原の戦いを経て家康は天下人へと上って行く。
関ヶ原の戦いに、信昌は直接参戦していたとも秀忠軍に加わっていたともいわれるが、戦後には京都の治安維持のために京都所司代を務めている。
翌年三月には、これらの功績により美濃国加納十万石を新たに与えられ、三男の忠政とともに入府した。妻の亀姫も行動を共にしていて、この後は加納御前とも加納の方とも呼ばれるようになる。
亀姫四十二歳の頃である。

長男の家昌は、この時十五歳であったが、そのまま上野国の領地に残り、十月には北関東の要地である下野国宇都宮十万石が与えられた。親子ともどもに十万石の大名となり、家康の信頼の厚さが窺える。

母と兄が非業の死を遂げた時誕生した次男家治は、十一歳で家康の養子となり松平の姓が与えられている。自らが死に追いやった妻と長男への償いのように見える行動ではある。
関東移封に際しては、早くも上州長根に七千石の領地を与えられているが、僅か十四歳で死去、この家系は断絶している。

三男忠政は父母と共に行動し、慶長七年(1602)に早々と隠居した父から加納藩主の地位を引き継いでいる。忠政はこの時二十三歳、信昌が四十八歳の時である。

四男忠明は、天正十六年(1588)、六歳の頃家康の養子になっている。次男の家治より早くに養子となっており、家康は幼年期から徳川の子として育てる意向だったのかもしれない。
早くから松平の姓を許されていたが、兄の家治が早世したためその家督を継いでおり、僅か十歳で七千石の領主となっている。この七年後には、秀忠から一字が与えられ、忠明と名乗る。この後も秀忠の信頼を得て、徳川政権の重要な人物になって行くのである。
慶長十五年(1610)には伊勢亀山五万石に加増移封となり、大阪の陣の後には摂津大坂十万石の藩主となり、戦後復興にあたっている。その際、有志による運河開削を称賛した忠明は、そこに「道頓堀」の名前を付けたと伝えられている。
その後も、大和郡山十二万石、播磨姫路十八万石と出世を続け、秀忠の死に際しては、彦根藩主井伊直孝とともに次期将軍家光の後見役(大政参与)に指名されているのである。

一人娘も大久保忠常に嫁いでおり、今川の誇りを引き継いだ亀姫の努力は、徳川体制下で着実に花開いて行った。
しかし、何もかもが順風満帆というわけではなかった。
慶長十九年(1614)に、宇都宮藩主である長男家政、加納藩を継いでいた三男忠政を相次いで亡くし、翌年には夫信昌も世を去った。信昌の享年は六十一歳、子供たちは三十代半ばであった。
五十六歳となっていた亀姫は、髪を下して盛徳院を号したが、とても仏門一筋という状態ではなかった。加納藩、宇都宮藩共に孫が相続したがいずれもまだ幼く、亀姫はその後見にあたった。凛然として母や兄が大切にした名門の誇りを失うことなく、さらには徳川の血を受けている誇りもさらに加わっていたのである。

少し出来過ぎた話ではあるが、有名な逸話が残されている。
「宇都宮城釣天井事件」という幕府内の大事件がある。これは、将軍が日光参詣の時には必ず宇都宮城を宿舎としていたが、湯殿に釣天井を仕掛けて将軍秀忠を暗殺しようとしているという密告があったのである。その時の城主は本多正純であった。本多正信・正純父子は長年政権を牛耳ってきた人物であるが、秀忠の将軍継承には賛成でなかったことはよく知られていたらしい。結局この事件により正純は失脚するのである。
そして、この舞台の黒子役を演じたのが亀姫だというのである。

それにはある程度納得性のある背景がある。
宇都宮藩は亀姫の嫡男が藩主を務めており、三十八歳で死去したため僅か七歳の遺児忠昌が継いでいたが、十二歳の時に下総古河藩に転封となった。その理由は宇都宮は要衝の地であり藩主若年のためとなっており、七歳の時ならともかく、十二歳まで成長した後での転封は、陰に陽に後見していた亀姫の怒りにふれたのである。そして。その後に入府したのが本多正純で、彼の画策によるものと考えたのである。
さらには、一人娘の嫁いでいた大久保忠常は早世していたがそのあとを後見してくれていた父の大久保忠隣は幕閣の有力者であったが、不可解な改易により失脚しておりその黒幕が正純であるのは公然の秘密であった。

亀姫はついに堪忍袋の緒が切れてしまい、異母弟である将軍秀忠に日光参詣にあたって、暗殺計画があることを告げたというのである。
おそらくは、秀忠に近い重臣たちの画策かと思われるが、正純が配流となった跡には、再び亀姫の孫の忠昌が宇都宮藩主となっているので、亀姫にも隠然たる力があったことがうかがえる。

亀姫は、寛永二年(1625)加納において六十六歳で世を去った。
家康の苦悩と栄光の生涯のある部分を映し出しているような生涯であった。
孫たちを後見し、特に末息子の忠明は、奥平松平家を屈指の名家に育て上げていった。
亀姫の凛然とした生き方は確かな形で徳川全盛の世の中に花開いたのである。そしてそれは、悲しく散っていった母築山御前と兄松平信康が確かに存在していたことを、徳川の御代に末永く伝え残していく役目を果たしているようにも思うのである。

                                        ( 完 )

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