雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ラスト・テンイヤーズ   第九回

2010-01-04 15:49:52 | ラスト・テンイヤーズ

   第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 3 )


( 二 )


わが国の歴史において、彗星のごとく出現したり人並み外れた強運を背負っていたと思われる人物は少なくありません。
それぞれの時代には、一つの時代を築き上げたり一つのドラマを演じたりした人物たちがちりばめられています。


そもそも、数百年を超えるような時を経て、今なお私たちに伝えられているような人物は、多かれ少なかれ奇跡的な体験をしているようです。
その人物がたとえ悲劇の主人公だとしても、そこに至るまでには人智を超えるような幸運に遭遇しているように思われます。


それらの人物たちの中で、最も華やかでスケールの大きい活躍を見せた人物となれば、やはり豊臣秀吉ではないでしょうか。


***     ***     ***


豊臣秀吉は、天文六年 (1537) に誕生したとされています。
信長の三歳下、盟友となる前田利家の一歳上 (同年という説もある) です。
その生い立ちや少年期のことについて様々な逸話が伝えられていますが、殆んどが信用できる資料に基づいたものではないようです。


例えば、少年日吉丸 (秀吉) が矢作川の橋の上で菰を被って寝ているところに、夜盗の頭である蜂須賀小六が通りかかり劇的な出会いとなる、という有名な話がありますが、これなども後世の創作なのです。なぜなら、当時の矢作川に橋は架かっていなかったそうなのです。


生い立ちについても、貧しい農民の子として生まれ、幼い頃に寺の小僧に出されるも、そこを逃げ出して行商などをしながら旅をし、やがて今川家家臣の松下家に奉公したというのが定説のようになっていますが、これも、そのようなこともあったのかもしれないし、いつの間にか事実らしく伝えられてきたものなのか、資料的にははっきりしないことのようです。


生家についても、貧しい農民だったとされていますが、実は豪農だったとか、特殊な勢力を持つ集団の出身者だったという研究者もいるようです。
ただ、天子様の落胤だった、というのはあまりにも無理のある説のようです。


いずれにしても、由緒正しいというほどの家柄でないことだけは確かなようですが、後に、生母や兄弟や甥姪などが秀吉の周囲に登場してきていますので、尾張中村に土着した農民で、周囲には親族もおり、時には戦に駆り出されたり、むしろ積極的に加わっていたのかもしれません。
この頃は、下級武士と農民との間には厳密な区別などなかったと考えられます。


秀吉が信長に仕えたのは、天文二十三年、十八歳の頃です。
この少し前から生駒家に出入りしていて、出仕の機会を掴んだようです。生駒家は油などを扱う商人ですが、浪人や行商人などを食客として抱えていました。様々な情報を得たり、時には用心棒の役目をさせたり、戦闘要員として働かせたりする有力者でした。
秀吉もここに流れ着いて居候していたのでしょう。


信長は生駒家の吉乃という女性のもとに通っていました。
秀吉はこの女性の口利きで信長に奉公できたらしいのですが、生駒家の娘と居候の秀吉がどう結びついたのか正確なことは分かりませんが、持ち前の機知を働かせて自分を売り込んだのでしょう。


他にも、前野将右衛門や蜂須賀小六とも親しくなったようですが、駆け出し時代の秀吉にとって掛け替えのない味方を手に入れているのです。
前野家は輸送業務を家業とし、蜂須賀家は人足の手配などをするのが家業で、生駒家の商売にかかわっていたのです。この二人も、家業の傍ら合戦があれば出入りの人足や木曽川の船頭たちをまとめて、有利な方に加わったりする野武士軍団の大将でした。


こうして信長に仕えるようになりましたが、最初は小者としてで、武士というより使い走りの奉公人といった身分だったようです。
しかし秀吉は、持ち前の才覚と努力を積み重ねて順調に出世していきました。足軽になり、足軽組頭、足軽大将とスピード出世を果たしていきますが、実は、秀吉が、正しくは木下藤吉郎が確実な資料に登場するのは、二十九歳の頃なのです。


信長発行の安堵状の中に署名があるのが最初で、この頃には武士としてそこそこの地位まで昇っていたことが分かるのですが、奉公してからの十年程は下積みの苦労をしたようで、このあたりまでは我々凡人と大差ない宮仕えだったようです。


永禄四年 (1561) 浅野長勝の養女ねねと結婚。秀吉二十五歳、ねねは十四歳でした。出来すぎた話のようにも思うのですが、仲人は前田利家夫妻だったとも伝えられています。


利家は信長の勘気を受け浪人していましたが、この年に帰参が叶い妻子ともども清州の侍屋敷に移り住んでいました。
秀吉と利家は、この頃隣り合わせに住むようになり家族ぐるみの交際が始まったらしいのです。ただ、足軽長屋で隣り合って貧しい生活を助けあったというのは事実でないように思われます。


結婚当時、秀吉がどの程度の地位にいたのか確認できないのですが、利家は帰参とともに四百五十貫文を受け近習に取り立てられていますので、住居が足軽長屋ということはあり得ません。
四百五十貫文という知行は、石高に直せば千石以上になると考えられ、中堅以上の武士という身分なのです。もしかすると、すでに秀吉も利家に近い知行を受けていて、侍屋敷で隣接していたのかもしれません。


信長が斎藤竜興が領有する稲葉山城を攻略し、この地を岐阜と改め天下布武に踏み出したのが永禄十年、秀吉三十一歳の時です。
すでに一部隊を任される地位に立っていました。

ここに至るまでの活躍振りも数多く伝えられています。
例えば、秀吉の初陣は信長が外戚と戦うものでしたが、敵対する二つの城を説得で開城させたという話が残っています。
清州城の塀の修理を請負制で競わせ短期間に完成させたとか、薪奉行の時に費用を大幅に削減させたとか…。
その中でも最も有名なのは、墨俣一夜城建設の活躍でしょう。


これら数多く残されている逸話には共通点があります。
それは、いわゆる武者働きというものがないことです。機知や計略や説得力が存分に発揮されたというものばかりで、利家とは全く対照的な働きぶりといえます。


しかし、秀吉の働きを口先ばかりと評するのはとんでもないことで、どの場面でも身体を張り武者働き以上に命を懸けているのです。
さらに、秀吉の活躍を可能にしたのには前野・蜂須賀など木曽川の川並衆の協力が大きかったのですが、日頃からの物心両面での信頼があったからこそだと思うのです。
秀吉の活躍は、単なる幸運などとは全く異質のものなのです。


信長が天下布武に大きく踏み出すとともに、敵対する勢力との戦いは激しさを増していきました。戦いの規模も、尾張国内での勢力争いなどとは桁違いの大きさに広がっていきました。
一人の豪傑や勇猛な武者だけでは勝敗の決まらない戦いに変わっていきました。秀吉の活躍の舞台がますます広がってきたのです。


元亀元年 (1570) 四月末、朝倉氏攻略に向かっていた織田軍は、浅井長政の謀反にあい窮地に陥りました。「金ヶ崎の退き口陣」と呼ばれる信長の生涯で最も苦しい戦陣の一つとされているものです。
信長は数人を従えただけで京都に逃れ、残された大軍を退却させるにあたり最も危険で難しい役割である殿軍を、自ら名乗り出て成功させたのが秀吉の部隊でした。
常に命を懸けて事にあたる秀吉の面目躍如たる場面ですが、この頃には一軍の将になっていたことが分かります。
秀吉三十四歳の頃のことでした。


この二か月後、姉川の合戦で織田・徳川の連合軍は浅井・朝倉軍を撃破し、三年後の天正元年八月には朝倉氏、続いて浅井氏を滅ぼしています。
秀吉は、この戦いの功により浅井氏の旧領を与えられ、翌年長浜城に入り十二万三千石の大名となったのです。三十八歳の時でした。


長浜城主となった秀吉は、直ちに城下を整備し、商人を集め、農民には荒れた田地の整備や開墾を督励するなど、領地の支配体制を固めていきました。
秀吉の才能がますます輝きを見せてきましたが、領地経営に専心する余裕などありません。信長を取り巻く状況は厳しさを増す一方だったからです。


信長の合戦の中で最も評判の悪いのは比叡山延暦寺の焼き討ちというのが定評のようですが、仏教勢力との戦いとしては、伊勢長島の一向一揆に対して「根切り」といわれる残虐な攻撃で二万人余りを焼き殺していますし、越前の一向一揆に対しても長島を上回る残虐な戦いをしています。

私たちは信長の宗教勢力虐殺という事象を、無抵抗な宗教者を虐殺したといった感覚で捉えがちですが、この考え方は正しくないように思われます。戦いの場では、武士勢力にせよ宗教勢力にせよ、残虐さにおいて大差などありません。
多くの場合、勝者の方が敗者より大勢の人を殺したというだけなのです。

信長の意を汲むことでは最も勝っていた秀吉は、宗教勢力や反対勢力に対する残虐行為にも率先して行動しています。
応仁の乱からすでに百年、日本全土に広がった戦乱を切り開いていく過程には、非道も残虐も避けられない手段なのかもしれないとさえ思われるのです。それは、何も信長や秀吉が特別なのではなく、時代を問わず、規模の大小を問わず、戦争にはそのような側面が存在しているのではないでしょうか。


天正十年六月二日未明、信長が本能寺にて自刃という大事件が発生します。
この本能寺の変が備中高松の秀吉のもとに伝えられたのは、翌三日の夜中でした。光秀から毛利へ事変を伝える間者を捕えたとも、京都の豪商により伝えられたともいわれていますが、丸二日経たないうちに事変を知った秀吉は、前者であれば幸運だったといえますし、後者であればその情報収集力の凄さが窺えます。


秀吉は対戦中の毛利勢と急ぎ講和を結び、京都に向かって疾風の如く駆け上ります。後に「中国大返し」と呼ばれる神業ともみえる怒涛のような行軍でした。
毛利との講和を実現させ、敵軍の動きを見極めたうえで六月六日に行軍を開始し、六月十三日には山崎の合戦で明智軍を打ち破ったのです。


六月二十七日には、清州城において織田家の家督相続と遺領の配分についての評議が行われました。
清州会議と呼ばれるこの会議に出席した宿老は、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興と秀吉の四人でした。この四人がどういう基準で選ばれたのか分かりませんが、実質的には、筆頭家老といえる勝家と明智を討った功労者である秀吉との対決の会議でした。


しかし会議は、信長の嫡孫である幼い三法師を家督相続者として立てた秀吉の思いのままのものになりました。
丹羽長秀と池田恒興は秀吉と伴に光秀と戦っており、おそらく事前の相談がなされていたと考えられますので、参戦しなかったという弱みのある勝家には、三人を相手に対等の交渉など無理なことでした。


秀吉と勝家は並び立つことなどできず、翌年四月に戦いとなります。世にいう賤ケ岳の戦いです。
この戦いに勝利した秀吉は、天下人へとまっしぐらに進んでいきました。
四十九歳で関白叙任。五十歳で太政大臣に任じられ豊臣の姓を賜ります。ついに、日吉丸と呼ばれて以来幾つもの名乗りを経て、ここに豊臣秀吉が完成したのです。


***     ***     ***


 

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ラスト・テンイヤーズ   第十回

2010-01-04 15:49:13 | ラスト・テンイヤーズ

   第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 4 )


五十歳で太政大臣と豊臣の姓を手中にした秀吉は、天下人としての行動に移ります。
大坂城の普請を進め、家康との戦いや講和交渉などに苦労しながらも、幕下 (バッカ) に取り込むことに成功します。


天正十一年九月、五十一歳になった秀吉は大坂城から聚楽第に移りました。
五月に九州を平定し、残るは関東の北条氏と奥羽仕置だけとなったことから、朝廷との関係強化のために移ったのでしょう。武力面の自信のほどがうかがえる行動でした。
実は、秀吉の生涯を俯瞰した時、このあたりの数年が名実ともに最高点であったのではないかと思われるのです。


***     ***     ***


結果からみた秀吉の最後の十年は、五十三歳の時に始まります。細かく言えば、天正十六年 (1588) の八月ということになります。


天正十七年十一月に小田原征伐を発令、翌年七月に北条氏を滅ぼし、奥羽の仕置も短期間で済ませ、ここに日本全土は秀吉によって統一されたのです。
さらに、徳川家康を関東に移すなど、豊臣体制は固まったかに見えました。


少し戻った、天正十七年五月には、側室の淀殿に待望の男子が誕生しています。実子のいなかった秀吉は五十三歳で得た跡取りに狂喜し、小田原征伐など天下統一の仕上げに向かって拍車がかかったことが察せられます。
しかし、この跡取りである鶴松の誕生こそが、秀吉の生涯の絶頂期であり、同時に、この大英雄の晩年を狂わせることになったように思えてならないのです。


天正十九年正月、羽柴秀長が亡くなりました。
秀長は、秀吉の三歳年下の異父弟というのが定説のようですが、父親も同じだった可能性も高く、若い頃から常に秀吉に寄り添うようにして支えてきた人物であります。
秀吉のあらゆる合戦において重要な役割を担い、多くの手柄を立てています。それでいて決して目立たないように振る舞い、出世街道をひた走る秀吉を支え続けていました。
武略に優れ、人望高く、秀吉に叱られた武将たちが救いを求める存在だったのです。


秀吉政権の重要なブレーンの一人であった千利休が切腹を命じられるのは、秀長死去の翌月のことでした。秀長存命であれば、この悲劇も避けることができたかもしれないのです。
秀吉政権にとって、秀長の五十二歳での死去は誠に惜しまれることでした。

さらに八月、鶴松が病死します。
後継者を得て、天下も手中にし、富も地位も思うがままの立場にあった秀吉にとって、鶴松の死は青天の霹靂とでも表現すべき出来事だったことでしょう。秀吉の悲しみは察するに余りあるものがありますが、この頃からの秀吉には、かつての鋭敏ぶりとは明らかな変化が見られるようになります。


十二月には、羽柴秀次が関白左大臣に任じられました。
秀吉は太閤と称しましたが、絶望の中で、養子の秀次を後継者とすることを決断したのでしょう。おそらくは、苦い思いの決断だったのでしょうが、この時には豊臣政権の将来を冷静に思い計るだけの意識が働いていたのではないでしょうか。


文禄元年 (1592) 正月、秀吉は諸大名に朝鮮出兵を号令しました。
まるで鬱屈した気持ちの捌け口として朝鮮出兵を企てたように見えるのですが、必ずしもそうではなく、数年前から朝鮮ばかりか唐 (カラ・・中国、当時は明国) 天竺 (テンジク・・インド) まで征服すると高言しているのです。
何が秀吉をこれほどまで壮大な、あるいは無謀な野望を抱かせたのでしょうか。鶴松誕生という後継者を得た喜びが、日本全土を掌握したという自信とも相まって、有頂天になっていたようにも思えてくるのです。


この戦いは、当初は優勢でしたが朝鮮側の反撃や明国からの援軍などで苦戦に陥り、明国と講和を結び 一部の部隊を残して撤兵する結果に至るのです。


文禄二年八月、再び淀殿に男子が誕生しました。後の秀頼であります。
一度は諦めた実子への権力移譲が再び実現できることになり、秀吉の喜びは大変だったことでしょう。
精神的にも肉体的にも明らかに衰えが忍び寄っている身であることを知ってか知らずか、文字通り狂喜し乱舞しているかと思われる行動が目立ってくるのです。


文禄三年十一月に養子の秀俊 (正妻ねねの甥) を小早川家の跡継ぎに送り込みます。西国の雄、毛利家に楔を打ち込むことに成功した形ですが、この一件は、毛利本家に嫡男がいなかったことから、秀吉から養子を送り込まれることを警戒した小早川隆景が、自分を犠牲にして迎え入れたものだと伝えられています。
そして、この秀俊こそ、後に関ヶ原の戦いにおいて西軍の息の根を止めることになる、小早川秀秋なのです。


さらに文禄四年七月には、一時は後継者と考えていた関白秀次を切腹に追い込んでいます。
秀次は「殺生関白」と噂されるほど粗暴な振る舞いがあったようですが、謀反の疑いで捕えられ、僅か十日余りの間に自刃に追い込まれたうえ、その妻妾子女三十余人ことごとくが京都三条河原で処刑されています。
残酷というのを通り過ぎて、狂気と表現したくなるほどの処断だといえます。秀次に粗暴な振る舞いがあったことは事実なのでしょうが、謀反など考えられず、秀頼の誕生がなければ発生しなかった事件だと考えられます。


秀吉は強引に秀頼を後継者とする体制を固めていきました。
ところが、秀次を処断した翌年にあたる慶長元年九月、明国使節との会見に不満を持ち再び朝鮮出兵を決断しているのです。
この時、秀吉は六十歳になっていました。幼い秀頼の将来を考えれば、国内の体制をより強固にすることが大切だと考えるのが常識だと思うのですが、秀吉は本気で明国を責め取れるとでも考えていたのでしょうか。


慶長三年 (1598) 三月、秀吉は世に名高い醍醐の花見を主宰しました。絶大な権力を誇示し、豊臣政権の永続を世に知らしめようと意図したものだったのでしょう。
しかし、この贅を尽くした催しは、秀吉という巨星の最後の輝きでもありました。


秀吉はこの直後に病に倒れ、六月の終わりには赤痢のような症状に陥りました。
七月には、さすがに死期を悟ったのか、五大老・五奉行の制度を定め、任命者から起請文を提出させるなど、必死の体制固めを行っています。


八月に入ると病状はますます悪化「かえすがえす秀頼の事たのみ申し候。五人の衆たのみ申しべく候・・・」と、秀頼の後事を手を合わせるようにして五大老らに頼み続けています。


もともと小柄だった身体は、さらに痩せ衰え、最後は狂乱状態であったと伝えられています。
そして、八月十八日、秀吉は奇跡的ともいえる生涯に終止符を打ったのです。六十二歳でありました。


***     ***     ***


波乱万丈に見え、実はまっしぐらに上昇をつづけた秀吉の生涯。
彼をめぐる逸話や業績について多くの研究がなされ、創作も現在容易に見ることができるものだけでも少ない数ではありません。
それらの情報をもとに私たちはそれぞれの秀吉像を作り上げていると思うのですが、なかなか理解し難いことは、壮年期までの秀吉と晩年の秀吉とのあまりに大き過ぎる落差であります。


その生涯の最後の十年にあたる部分を見てみるだけでも、大きな落差を感じさせるものといえます。
家康を臣従させ、北条氏を滅亡させ、日本全土を手中に収めたのは、最後の十年に入ってからのことです。そして、そこが秀吉の生涯の絶頂期であったと考えられます。


表面的な状況だけをみれば、その後も、その最期を迎えるまでの期間も最高権力を掴んでいたことは確かなことです。その権力は最後の十年間の間も強化され続けていたという見方もできます。
しかし、最後の十年が秀吉という大英雄の本分が示されている期間だとはとても言えないということも確かだと思うのです。
特に、第一の支えであった弟の羽柴秀長を喪ってからは、同一人物かと思われるほどの変化が感じられるのです。


それまでの秀吉の半生は、出世街道を駆け上ってきた裏には、また戦国の世のならいとして残虐な行動も数多く伝えられています。しかし、それでいて秀吉の人柄には明るさや温かさのようなものを後世の私たちに感じさせるものを持っていたと思うのです。
それが、晩年になると、それも秀長の死去を境にしたように、冷たく、陰険で、頑迷固陋な面が目立つのです。


『ラスト・テンイヤーズ』を、自らが最後の十年と覚悟して行動した期間だと考えるならば、秀吉のその起点はいつだったと考えられるのでしょうか。
まず一つは、鶴松誕生の時であり、二つ目は秀次に関白職を譲った時であり、最も有力なのは秀頼誕生の時のように感じられます。
しかし、秀頼の誕生は秀吉が死を迎える五年前のことなのです。


秀吉の最後の十年の不幸の原因は、秀長の死という不可抗力なことも含めて、ブレーンや養子を失っていったこと。そして、淀殿がもうけた二人の男子が秀吉の判断力を曇らせたと思われること。
さらに、何よりも不可解なのは、二度にわたる朝鮮出兵だと思われます。


秀頼誕生で、もし秀吉が『ラスト・テンイヤーズ』を意識していたならば、少なくとも二度目の朝鮮出兵はなかったはずなのです。
これによる諸大名の戦費負担は大きく、武将間の軋轢をより大きくしてしまったのです。
秀吉の死後、僅か二年で関ヶ原の戦いが起きていますが、東軍側の過半が秀吉恩顧とされる大名たちなのです。それは、彼らが秀吉や秀頼を裏切ったのではなく、朝鮮出兵から生まれた軋轢が大きな原因になっていたのです。


財も位も権力も昇りきれるところまで昇りつめた秀吉は、豪壮華麗な伏見城で臨終の時を迎えました。
数限りない合戦を生き抜いてきた武将にとって、誠に平和で安らかな臨終を迎えられる環境に恵まれながら、秀吉は秀頼の行く末を五大老たちに拝むようにして頼み続け、最後は狂乱状態であったともいわれています。
人間の、死んでゆくことの難しさを感じさせる最後でありました。


 




 

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ラスト・テンイヤーズ   第十一回

2010-01-04 15:48:17 | ラスト・テンイヤーズ

   第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 (5)


( 三 )


戦国時代の終わりを、江戸幕府の始まりとされる慶長八年、あるいは豊臣氏が滅亡した元和元年までと考えるならば、戦国時代という歴史ロマンの主人公は徳川家康ということになるでしょう。


「信長が切り開き、秀吉が仕上げた天下を、ひたすら待ち続けた家康が頂戴した」などという話を、子供の頃に聞いた記憶がありますが、覇権の移動がそれほど簡単なものでないことは、もちろんのことです。

これは、関西地方に特に強い傾向かもしれませんが、昭和の中頃までは秀吉に比べ家康の人気は極めて低かったように思われます。
その理由として考えられるのは、まず、滅びた者に対する同情があります。いわゆる判官贔屓といわれる現象です。
次には、おそらく明治維新以降の教育や情報が、徳川幕府を否定する方向に傾いていて、家康を悪役扱いにする傾向があったのではないでしょうか。


特に関西は、秀吉に対する親近感が強いこともあって、家康イコール狸親父というイメージを持っている人が多かったようで、この不世出の英雄は、長い間正当評価されていなかったように思われます。


***     ***     ***


徳川家康は、天文十一年 (1542) 十二月、三河国岡崎城主松平広忠の長男として誕生しました。幼名は竹千代、母は刈谷城主水野忠政の娘の於大の方であります。

応仁の乱から七十五年が過ぎ、各地の大名や豪族たちの抗争はいよいよ激しさを増していました。
この時、信長は九歳、秀吉は六歳、ともに青雲の志を抱くというにはまだ幼すぎる年齢でありました。


竹千代、後の家康は、波乱に満ちた七十五年を生きてゆくわけですが、その最初の試練は六歳の時のことでした。
人質として駿府に送られることになったからです。


この頃松平氏は、今川氏と織田氏の両方から圧力を受けていました。
そのような状況は松平氏に限らず、三河の豪族たちは一家の存続のために互いに連携したり敵対したりを繰り返し、時には今川氏を頼り、時には織田氏に服属したりと揺れ動いていました。
松平氏は今川側に属していましたが、竹千代の母の実家である水野氏が、忠政の子の信元の代になって織田方に通じたため、於大の方は離縁されています。竹千代がまだ三歳の時のことでした。


松平広忠は今川氏に忠誠の証として嫡男竹千代を人質に出すことになりましたが、送り届ける途中で奪われ、織田信秀のもとに送られてしまったのです。
信秀とは信長の父ですが、奪った竹千代を人質に織田に味方するように迫りましたが、広忠はきっぱりと拒絶し「人質を殺すも生かすも心のままになされよ」と、竹千代を見限ったのです。


しかし、なぜか信秀は竹千代に危害を加えず、生母との書信の便利を図ったりしているのです。当時の常識としては、このような状態になれば人質は殺されるのが当然なのですが、竹千代によほど利用価値があったのか、家康という人物の運の強さなるがゆえなのか、歴史の不思議としか思えないのです。


竹千代は、一年余りを織田の人質として過ごしますが、この間に少年信長と会っているともいわれ、また、阿古居城主久松家に再縁していた母於大の方の庇護を受けているのです。
後年、信長や久松との関係を考える時、家康にとってこの一年余りが貴重な期間のようにさえ見えてくるのです。


やがて人質交換が成立して、竹千代は岡崎に帰ることができますが、すぐに今川義元のもとに送られ、八歳から十九歳までの間を駿府の人質屋敷で過ごすことになるのです。
多感な年代を屈辱と忍耐を強いられる生活の中で、家康という大英傑は何を思い、どのように耐え忍んだのでしょうか。


家康はこの人質生活の中で、多くの節目を迎えています。
十五歳で元服し、義元の一字を賜って元信 (後に元康) と名乗ります。
十六歳で義元の娘婿にあたる関口親永の息女と結婚しました。この妻が後の築山殿であります。二人の間に一男一女が誕生しますが、長男が後の悲劇の武将信康なのです。


また、父広忠は竹千代が織田の人質とされているうちに家臣に殺されており、人質の身でありながら岡崎松平家の当主であり嫡男をもうけたという立場でもあったのです。


十七歳の時に初陣を果たします。
二年後の、永禄三年 (1560) 五月、義元に従って尾張に出陣しました。そして、この出陣で権勢を誇ってきた義元は信長の奇襲にあい討死という大事が起こりました。
この桶狭間の合戦は、信長の名前を天下に轟かせた合戦ですが、同時に、家康を歴史の表舞台に立たせることになる合戦でもあったのです。


家康は、御大将が討ち取られるという混乱の中で岡崎城に入りました。岡崎城は今川の管理下となっていましたが、義元討死の報が伝わると、今川から進駐していた武士たちは逸早く駿府に逃げ帰っていました。
家康は今川からの帰国命令を無視して岡崎城の防備を強化していき、やがて信長と同盟を結ぶことになります。


この時点での家康と信長との間には大きな力の差がありましたが、信長は家康攻略よりも同盟を選んだのです。
二人の同盟は、幾つかの難問が起きながらも信長が倒れるまで強固な関係が続くのです。


永禄六年七月、二十二歳の元信は名を家康と改めます。
松平から徳川に改姓するのは三年ほど後のことですが、この時の改名は今川の呪縛から離れる決意表明でもありました。


家康は三河の制圧に力を注ぎ、信長は西に向かい、京都を目指しました。
家康が三河を固め隣接する今川領の遠江に進出することは、信長が京都を目指す上でも役立つことでした。二人の英雄は、互いに後背を守り合いながらそれぞれの領地を広げていったのです。


姉川の合戦に代表されるように、浅井・朝倉との戦いでは徳川軍が援軍として駆け付け、家康の生涯で最も惨めな敗戦であったといわれる武田信玄との三方ヶ原の戦いでは、四方の敵と戦っていたこともあって十分といえないまでも信長も援軍を送っているのです。
そして後年、信玄亡きあとを受け継いだ武田勝頼率いる甲州騎馬軍団を打ち破ったのは、むしろ織田軍を主体とした連合軍でした。


上洛を果たし、東海、北陸、近畿一円をほぼ制圧した信長は、西国の雄毛利氏との対決に重点が移っておりました。家康も、三河、遠江、駿河を支配下に置き、武田の遺領の一部も手中に収めつつありました。


この頃の家康と信長の力の差はさらに広がっていましたが、互いに重要な同盟者として認めあっていたことに微塵の変化もありませんでした。
家康の嫡男信康と信長の息女徳姫との結婚は、両家の結びつきの固さを天下に示すものでしたが、意に反して信康を切腹させるという悲劇へと展開してしまいましたが、家康は、ひたすら信長に忠節を尽くし続けたのです。


信長の武威が及んでいない地域もまだまだ広大でしたが、その力はすでに抜きん出ていました。家康も信長勢力圏の一翼を担っていましたが、その関係は、家臣ではなく弟分のような立場でした。
歴史に「もし」はないとよく言われますが、この状態があと十年続いていたら、二人の関係はどのようになっていたのか見てみたい気もします。


しかし歴史は、急展開しました。
天正十年六月二日の未明、信長は光秀の軍勢に急襲され自刃したのです。
本能寺の変勃発のこの時、家康は四十一歳になっていました。


事変発生の時、家康は信長の招きで安土城を訪れ、盛大な饗応を受けたのち京都、奈良を見物してまわったあと堺に滞在していました。
堺でも有力商人たちの接待を受け、旅の終わりに京都に滞在している信長に挨拶するため堺を出立しました。その途中で事変が伝えられたのです。


家康は窮地に陥りました。従う者は、酒井忠次、本多忠勝以下ごく少数でしかなかったのです。もともと信長に勧められた遊山の旅で、近畿一円は完全に信長の勢力下にあり、危険など想定していませんし、信長の勢力圏を大層な軍勢を連れて行動することなどできないことでした。


かくなるうえは京都に上り、かなわぬまでも光秀と一戦を交え信長に殉ずべしと覚悟しますが、ここは辛抱して領国に帰り、改めて弔い合戦を図るべきだという本多忠勝の意見に従い、領国に向かったのです。
伊賀越えと呼ばれることになる苦しい逃避行でした。


家康の生涯で最も苦しい行軍を、京都の豪商茶屋四郎次郎や伊賀衆の支援を得て、岡崎までを二日で駆け抜けたのです。


***     ***     ***


 



 

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ラスト・テンイヤーズ ・ 第十二回

2010-01-04 15:47:21 | ラスト・テンイヤーズ

  第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 6 )


逃げ惑うような苦しい行軍の末岡崎に辿りついた家康ですが、休む間もなく次の手を打っています。
信長の領国となっていた甲斐・信濃が混乱に陥っており、これを安定させるべく手配しました。


信長の訃報にあい一時は動転したと伝えられている家康ですが、領国に辿りついた時には冷静さを取り戻していて、信長亡き後の勢力拡大を計っているのです。
そして、一応の手配を終えた六月十四日、信長の弔い合戦のため西上を開始しましたが、その軍勢は僅かに二千人ほどで、明智軍と雌雄を決するには如何にも小部隊でした。


その進軍の途中に秀吉からの急使が到着しました。光秀はすでに討ち取り上方は平定したので帰陣されるように、という伝達だったのです。
信長自刃から僅か十日余りのことで、家康の行動も素早いものでしたが、秀吉はこの間に対峙していた毛利軍と講和し、疾風の如く京都に向かい明智軍を打ち破っていたのです。


家康は信長陣営の有力武将ではありますが、信長の家臣ではありません。秀吉が使者を送ってきた真意は、織田家のことには口出しするな、ということだったのでしょう。


家康は秀吉の意向を受け入れ、行軍を反転させ浜松に帰りました。
この直後に行われた、織田家の相続を討議した清州会議にも出席することなく、甲斐、信濃の経略に専心しています。
信長の領土に組み入れられていた、これら武田の遺領は喉から手が出るほど欲しい土地でした。小田原の北条氏もこの地を狙っており、家康にとっては織田家中の権力争いより、この地を手中に収めることの方が遥かに重要だったのです。


家康はこの期間に、多くの武田の旧臣を帰服させています。
家臣団をそのまま徳川軍の戦力に組み込んだり、統治制度を取り入れたりしています。その後の家康にとって実に重要な成果を掴んだといえるのですが、秀吉は同じ期間に遥かに上回るものを掴んでいました。天下そのものを手中にしていたのです。


秀吉は、光秀を討った勢いで信長後継の地位を固めていきました。
柴田勝家を降すなど信長の重臣たちをことごとく討ち果たしたり臣従させたりしていきました。その過程で、表面的には織田一族後継争いに加担するという形で、家康と秀吉が戦うことになります。
小牧・長久手の合戦と呼ばれるこの戦いは、天正十二年の春、家康四十三歳、秀吉四十八歳の頃のことでありました。


両雄が唯一度干戈を交えたとされるこの戦いは、半年余りで引き分けに終わっています。部分的には徳川軍が勝利を上げたとされていますが、大きな戦いはなく、対峙したままの状態が続き、やがて徳川軍は浜松に引き上げてしまいました。
その理由は、家康が軍を動かしたのは、信長の次男である信雄から支援の要請があったからなのですが、肝心の信雄が秀吉と講和してしまったのです。


この戦いは、両雄が直接対決するという歴史的な合戦ですが、秀吉にすれば亡き主君の次男を討つことなどできませんし、家康にしても、信長への義理立てから挙兵したとはいえ日の出の勢いの秀吉との全面戦争は望んでいなかったのです。
つまり、双方ともが全力を投入するわけにはいかない戦いだったのです。


しかしこの戦いは、家康に少なからぬ影響を与えました。
軍事的には明らかに家康側が有利な状況に展開していました。秀吉軍の大将格の武将、池田勝入斎、森長可を戦死させるなど局地戦で勝利していたからです。
ところが、それにもかかわらず戦い全体としては秀吉側有利といえる状態で矛を収めています。


圧倒的な戦力を有する秀吉にすれば、局地的な劣勢や、大将格の武将の二人や三人を失っても然したることはなく、その間に、親家康勢力である越中の佐々氏や、四国の長曽我部氏、紀伊の根来寺などを個別に撃破したり降伏させたりしているのです。
さらに、そもそも合戦発端の当事者ともいえる信雄まで懐柔してしまうなど、政治力、外交力では遥かに家康側を上回っていたのです。
家康は、この合戦を通じて政治力の重要性を痛感し、その後の行動に大きく影響したと思われます。


家康と秀吉の間に正式な講和が結ばれたわけではないのですが、秀吉の求めに応じて、次男於義丸を養子に出すことになりました。実質的な人質です。
やがて秀吉は関白となり、家康の上洛を強く求めてくるようになりました。上洛して秀吉に対面するということは、すなわち臣従するということなのです。


家康は信長の幕下にありましたが、臣従ではなく弟分のような立場でした。秀吉は信長の一部将に過ぎず、能力はともかく織田家臣団の順位からすれば最右翼という存在でもありませんでした。
すでに五か国を固めていた家康本人にも、先の合戦で優勢であったと考えている家臣団にも、秀吉に臣従する気持ちなど全くありませんでした。


それでも秀吉は執拗に家康の上洛を促し続けます。
秀吉にすれば、家康を幕下に取り込まないことには九州に軍を向けることも、関東以東に手を着けることもできません。
もちろん、徳川家を攻め滅ぼすことができれば、それが最善でしょうから武力行使も検討したことでしょうが、その手段を選ばず幕下に取り込むために全力を尽くしています。日の出の勢いの秀吉ですが、家康と戦うことのダメージを避けるあたりが、勢いだけの武将ではない証左ともいえます。


考えてみますと、信長も今川から離れたばかりの家康を攻め滅ぼすより同盟を選んでいます。家康という人物には、敵に回したくないという雰囲気か、味方に取り込みたいと思わせる天稟の資質のようなものを持っていたようにも思えるのです。


家康を上洛させるために、秀吉は形振り構わぬ程の手段を講じました。
まず、異父妹の朝日姫を家康の妻に勧めました。朝日姫は結婚していましたが離縁させたうえで嫁がせたのです。これで二人は義兄弟になったのだから安心して上洛して来い、というメッセージです。
それでも応じない家康に、次には母大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎へ行かせることを決定しました。朝日姫も大政所も、理由はともかくとして実質的には人質を差し出したようなものなのです。


ここに至って、ついに家康は上洛を決意しました。
家康の重臣たちの多くは主君の身の安全を心配し反対しましたが、これ以上秀吉の意向を無視することは危険だと家康は感じ取ったのでしょう。


すでに秀吉は、近畿一円、北陸、四国、中国を制圧しており、臣従していないと思われる大大名は、徳川の他には、島津、北条、伊達くらいになっていました。
すでに、秀吉と正面切って戦うことが無理なほど力の差が明白になっていたのです。


天正十四年十月、家康は大坂城で秀吉に謁しました。
諸大名が居並ぶ中で平伏の礼をとり、臣従することを示しました。
このあたりのことについては、秀吉から頼まれその筋書きに従ったともいわれドラマなどの見せ場ですが、この瞬間より家康は秀吉政権下の一人として組み込まれたのです。
重臣筆頭として遇され、官位も正二位内大臣まで昇進していきますが、家康にとって秀吉が没するまでの十二年間は鬱々たる忍従の日々だったことでしょう。


一方の秀吉は、止まることを知らないかのように昇りつめていきました。
北条を滅ぼし全国制覇を成し遂げると、休む間もなく朝鮮半島への出兵を下知しました。狙いは朝鮮半島に止まらず唐天竺まで攻め上ると豪語する勢いでした。


この間の家康は、秀吉の最も忠実で有力な臣下として行動しています。小田原征伐には主力軍として出陣、朝鮮の役では九州にまで軍を進めています。
そしてこの間に、家康に大きな試練が訪れています。関東移封であります。


秀吉は、北条氏を降すと家康に関東への移封を命じました。これまでの領地を召し上げて北条氏が支配していた領地を与えるというものでした。
家康のこれまでの領地、三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の五か国から、相模・伊豆・武蔵・上総・下総・上野の六か国への転封でした。


国の数は一つ増えるとはいえ、慣れ親しんだ土地から北条氏の影響が色濃く残る未知の土地への移転命令でした。特に三河は、代々松平氏が本領としてきた土地でした。
徳川の力を削ごうとする秀吉の本心が垣間見えるような命令でした。
家康の家臣たちの多くが動揺し、小田原征伐で先陣を務めた徳川に対する冷たい仕打ちに、一戦も辞せずとばかりにいきり立ちました。


しかし、家康は家臣たちの不満を抑え、命令を受け入れました。
この時点では軍事的にも経済的にも秀吉に遠く及ばず、反抗することの無益なことを承知していたからでしょう。
しかし、同時に、関東が北条氏の強大な力を育んだ豊穣の地であることも承知していたのかもしれません。


また、秀吉は強大な徳川勢力を上方から遠ざけようと考えたのかもしれませんが、反対に家康は秀吉の本拠地から離れる方が有利だと考えたのかもしれません。
さらに、まだ秀吉との関係が薄く、群雄が割拠している状態の奥羽の地への経略も描いていたのかもしれません。


天正十八年八月一日、家康は関東に入りました。
先祖伝来の地を離れて関東に新天地を求めた家康が、本拠地として選んだ場所は江戸でした。

新領地の中心地としてまず考えられるのは、北条氏が本拠としていた小田原ですが、京都・大坂からさらに遠くなる江戸をあえて選んだのには、秀吉の意見があったともいわれていますが、新たな領土全体の地理的な中心地であることが一番の理由のように思われます。
すなわち、上方への利便より領地全体の経営を重視した選択のように思われるのです。

家康は有頂天ともみえる秀吉の行動を睨みながら、ひたすら新領地の経略に励みました。
武田や北条の旧臣たちや土着の豪族たちを多数受け入れ、優れた制度はそのまま活かしながら、重臣や旗本たちを領地の各要所に配置していきました。


豊臣政権下とあって江戸城の大規模な構築工事は進められなかったのですが 、用水路や道路網や港湾などの整備を進めました。山を切り崩し、湿地や湾岸を埋め立て、江戸を大都市に変貌させていきました。


北条時代の影響がまだ色濃く残っている中での大工事ですが、その分束縛されるものも少なく、思い切った町造りを進めることができたのかもしれません。


***     ***     ***

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ラスト・テンイヤーズ   第十三回

2010-01-04 15:46:40 | ラスト・テンイヤーズ

   第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 7 )


慶長三年 (1598) 八月十八日、ついに秀吉が没しました。
類い稀な才能と人智が及ばないほどの幸運に恵まれた英雄も、後顧に後髪を引かれながらの旅立ちでした。秀頼という跡継ぎは居ましたが、豊臣政権の体制は盤石には程遠いものでした。


大老や奉行職を置き、政権の永続を図るべく手を打ってはいましたが、大老たちはいずれも乱世を生き抜いてきた戦国大名であり、実務の中心である奉行たちは大老たちとは実力差が大き過ぎました。


秀吉が最も頼りにし、秀頼の後見人でもある前田利家が翌年閏三月に亡くなると、豊臣政権は大きく揺らぎ始めました。
朝鮮出兵に関する不満から反目しあっていた、加藤清正や福島正則など槍一筋の武将たちと石田光成を中心とした能吏派との亀裂が、一気に表面化してきたのです。


家康は豊臣政権下の筆頭大老として諸大名を睨みながら、次々と手を打っていきました。
このあたりの行動は、豊臣方からみれば裏切りであり、徳川方からみれば長年の忍従から解き放たれる好機がきたということなのです。

それは家康に限らず、戦国武将たちにとって最も大切なことは一家の安泰であり、勢力の拡大なのです。
例えば、豊臣政権に最も忠実な実力者として前田利家が挙げられることが多いのですが、彼の遺言などから推察しますと、それほど秀吉に忠節心を持っていたのかどうか疑問に感じられます。利家が敬愛していたのは織田信長であって、その血筋である秀頼を守ることに真剣であったことは確かだと思うのですが、そのためにも前田家の力を充実させることが第一だと考えていたと思われるのです。


慶長五年 (1600) 八月、石田光成が家康打倒に立ち上がりました。天下分け目の大決戦といわれる関ヶ原の戦いに向かって、日本全土が戦乱の世に戻っていきました。
全国の大名小名たちは、それぞれの利害や思惑に揺れ、義理や怨念も複雑に絡み合いながら東西に色分けされていきました。


関ヶ原の戦いと呼ばれる合戦は、九月十五日に両軍合わせて二十万人に及ぶ兵力が狭い関ヶ原の地で激突したものを指しますが、東西勢力の衝突は全国のいたるところで繰り広げられたのです。


関ヶ原の戦いは、僅か半日ほどで東軍の大勝利に終わりました。
戦力、陣形ともに有利とみえる西軍の惨敗は小早川軍の裏切りに起因するといわれており、事実、競り合っていた戦況がこの寝返りにより西軍は総崩れになっています。


このことから、小早川軍の裏切りさえなければ西軍が勝利していたという考え方もありますが、家康にすれば、小早川の寝返りは予定の作戦であり偶発的なものなのではなかったのです。
両軍が対峙した時点では、戦力は均衡しているかむしろ西軍有利というのが定説のようですが、それは小早川軍を西軍として計算してのことなので、意味のない分析ともいえます。


それに、二代将軍となる徳川秀忠率いる徳川主力軍は関ヶ原に到着していなかったのです。信州を通過するのに手間取り到着が遅れたもので、秀忠は家康から厳しい叱責を受け面会も許されず、後継者争いから外れそうになったとも伝えられています。


しかし、事実はどうだったのでしょうか。案外、万が一に備えて秀忠軍を無傷で残したのではないかとも思われるのです。
信長に弟分のように遇されながら、秀吉政権下で長年耐え忍んできた家康が、光成相手に一か八かの戦いなどするはずがないと思うのです。


***     ***     ***


関ヶ原の戦いを天下分け目の合戦ということがよくありますが、まことに言い得て妙と思います。
この戦いを境に、雪崩をうつように家康の時代に移っていきました。
戦国の世を彩った多くの武将たちが去っていきました。ある者は関ヶ原で敗れて滅亡し、ある者は大幅に領地を失い、また勝ち残った者も、やがて取り潰されたり年老いて消えていきました。


関ヶ原の戦いを半日余りで勝敗が決したかのように受け取りがちですが、それほど単純な戦いではありません。
その前哨戦があり、関ヶ原で大軍が激突したあとも各地で戦闘は続いていました。九州に隠遁しているかに思われていた黒田官兵衛などは、混乱に乗じて本気で天下を狙っていたとも伝えられています。
そこまでいかなくとも、領土拡大の好機とばかりに兵を動かせた豪族も少なくなかったことでしょう。


しかし、関ヶ原の戦況が伝えられるとともに西軍方は一気に崩れ、あとは残党狩りのような状態になり、十二月には各地の戦闘も全て鎮静しました。


勝利した家康は厳しい戦後処理を行ない、徳川政権の土台を築き上げていきました。
西軍方に味方した諸大名を改易し、あるいは大幅な減封にしています。毛利、上杉などが大幅に領土を減らされ、豊臣秀頼も二百二十万石余の蔵入地を没収され、六十五万石余の一大名に位置付けされました。
このように強引ともいえるほどの戦後処理に対して抵抗する勢力はすでに無く、没収された領地は六百三十二万石余で、全国総石高の三分の一ほどにも及ぶものでした。


家康は、この没収地を徳川政権の強化に使っています。
東軍に味方した各大名や武将たちには十分な恩賞として与え、同時に徳川家の圧倒的な力の源泉として配置しています。

例えば、有力外様大名に対しては大盤振る舞いといえるほどの加増を行っていますが、家康自身の直轄地も二百五十万石から四百万石に増やしていますし、京都、奈良、堺、長崎などの主要都市や、佐渡金山や生野銀山などの重要鉱山なども直轄地としたのです。
徳川一門や譜代の大名家は六十八家にのぼり、関東から近畿に至る重要地に配置されました。また、一万石以下の旗本などに与えられた知行所も二百六十万石に及ぶ広大なものでした。


慶長八年二月、家康は右大臣に任じられ征夷大将軍となります。
徳川幕府の誕生であり、江戸時代の始まりであります。
この年の七月には秀忠の息女千姫が豊臣秀頼に嫁ぎ、二年後には将軍職を秀忠に譲りました。実権はこの後も家康が握っていますが、将軍職は徳川家が受け継いでいくという意思表示だったとみられています。


慶長十二年七月、家康は駿府城へ移りました。
秀忠を独り立ちさせるための布石と思われますが、六十六歳にして若き日の本拠地に戻ったことになります。この後も江戸と駿府による二頭政治がおこなわれ重要な決定はなお家康が行っています。


慶長十六年三月、二条城で家康と秀頼の対面が実現、家康七十歳、秀頼十九歳の時でした。
この対面は淀殿の反対でなかなか実現しなかったのです。ちょうど秀吉の上洛要請に対して家康が容易に応じなかったように、この対面が豊臣が徳川に臣従したことを天下に示すことになることを淀殿は承知していたのです。


加藤清正はじめ秀吉恩顧の大名たちは、必死になって淀殿を説得しようやく対面にこぎつけました。それは、徳川の天下はすでに動かしがたく、豊臣家が存続するためには徳川体制に組み込まれる以外に道はないと考えたからです。

しかし、この対面でも全てを解決することなどできませんでした。
一説には、久方ぶりに見る秀頼の見事な若武者振りに驚き、家康は豊臣打倒を決意したともいわれています。大変ドラマチックな見方ですが、豊臣氏が滅亡にいたるのはそれほど簡単な理由ではないはずです。


慶長十九年七月、方広寺の鐘銘事件が起こり十月にはついに合戦となります。大阪冬の陣であります。
この鐘銘事件とは、秀吉が建立した方広寺を秀頼が再建を進めていましたが、その梵鐘の銘文にある「・・・国家安康・・・君臣豊楽・・・」という部分に、家康が難癖をつけ豊臣方を追い込んだとするものです。

家康は秀吉の莫大な遺産を費消させるため、寺院などの再建や奉納を秀頼に勧めており、この寺院の再建もその流れに添ったものでした。
徳川方はかねてより開戦の口実となるものを狙っていて、無理やり事件に仕上げたのだというのは多分真実なのでしょう。


大阪冬の陣は十二月に一端和睦します。両陣営の戦力差は歴然としていましたが、浪人を掻き集めたような戦力が中心であっても秀吉が築いた名城を陥落させるのは容易ではなかったのでしょう。
家康は和睦の条件に外堀を埋めることを承諾させたうえ、その作業のどさくさに中堀までも埋めていったのです。


このあたりの巧みさというか、ずるさというか、家康を狸親父と呼ばせる一端が見えるような出来事といえます。
しかし、それよりも、大坂方がなぜ外堀を埋めるなどという和睦条件を受け入れたのか、とても納得できる理由が見当たらないのです。おそらく、すでに豊臣首脳陣には徳川方と対等に交渉できるような人材がいなくなっていたのでしょう。


翌元和元年 (1616) 四月、大坂夏の陣が勃発。この戦いは、冬の陣からの続きのようなもので、休戦期間は徳川方がいかに損害を少なくするかを検討するための時間でしかありませんでした。


両軍の戦力差は比べるまでもなく、局地戦では豊臣方が優勢な部分もあったとか、真田幸村が家康に肉薄したとか伝えられていますが、全体の戦況に如何ほどの影響さえ与えないものでした。
もし仮に家康が討ち取られたとしても、徳川方の一方的な勝利に変わりはなかったことでしょう。
そして五月、秀頼と淀殿は大坂城内で自害、豊臣家は滅亡したのです。


元和二年四月十七日、大坂夏の陣からほぼ一年後、家康は駿府城で七十五年の波乱に満ちた生涯を閉じました。


***     ***     ***


家康の『ラスト・テンイヤーズ』を、信長、秀吉の晩年と対比してみますと、それぞれの特徴が色濃く表れているように思われます。


信長は、自らの『ラスト・テンイヤーズ』を承知しきっていたように活動し、秀吉は、自らの寿命さえ自由にできると考えていたのではないかと思わせる生き様でした。


家康の場合は、自らに残された最後の時間を推し量りながら、しかも健康に人一倍配慮しながら、人生の最後の仕上げを練り上げていたように感じるのです。


家康が『ラスト・テンイヤーズ』という考え方を持っていたと仮定しますと、その出発点らしく感じられる時が幾つも上がってきます。

まず第一は、信長が本能寺の変で倒れ、家康自身も命からがら岡崎に逃げ帰った時ではないでしょうか。
この時家康は四十一歳。働き盛りの年齢ではありましたが、信長とは八歳の年齢差ですから、自らが抱く理想と自らに残されている時間を推し量ったのではないでしょうか。


第二の時は、大坂城で秀吉に臣従を示した時ではないでしょうか。おそらくこの対面は、家康にすれば屈辱の思いを必死に抑え込んでいたのでしょう。
そして、秀吉の残り時間と、自らの持ち時間を睨みながら、来るべきチャンスを描いていたのではないでしょうか。


そして第三の時は、秀吉が没した時です。待ちに待っていた時がついに訪れたのです。天下を手中に収める手段を具体的に描いたはずです。

第四の時は、関ヶ原に勝利したあとで盤石の徳川体制を敷こうとした時であり、第五の時として考えるならば、徳川幕府を誕生させた時も候補となるでしょう。
この第四、第五は、家康のことですから、第三の時にすでに構想していたことなのかもしれません。


さらに第六の時としては、将軍職を秀忠に譲った時です。そして、この時期は結果からみた家康の『ラスト・テンイヤーズ』とも、ほぼ一致するのです。

この時には、関ヶ原の戦いからすでに十年余りが過ぎ、徳川の天下取りはすでに完成していました。残る課題は、手に入れた徳川の天下をどのように永続させるの一点でした。
そして、その手段の一つが征夷大将軍の地位を徳川家で世襲することを天下に示すことでした。秀忠への将軍職譲位は、まさにそれだったのです。
そしてもう一つの課題が、豊臣家の処遇でした。


家康が豊臣家をどのように取り扱おうと考えていたかについては、諸説があるようです。
豊臣家は、関ヶ原の戦いの結果大幅に領地を失い一大名の立場になっていましたが、大坂城は難攻不落といわれる天下の名城であり、秀吉遺産の金銀は軍資金としては十分すぎるほど保有していました。さらに、徳川体制に組み込まれているとはいえ有力外様大名や公家衆には、秀頼に同情を寄せる者も少なくありませんでした。
もし、彼らが結集するようなことになれば、侮れない勢力になることは間違いなかったでしょう。


武門の常識として、並び立とうとする勢力を徹底的に潰すのは当然のことでしょう。
このことから、家康は早い段階から豊臣家を滅亡させる方針を立てていたのだという、有力な説があります。


一方で、家康の考えが当初から豊臣家を滅ぼすことにあったとすれば、関ヶ原勝利の三年後に千姫を秀頼に嫁がせているのが謎といえます。
この縁組が豊臣家を滅ぼすための手段だったとはどうしても考えられませんし、関ヶ原の勝利から大阪冬の陣が勃発するまでに十四年という時間を要しているのです。
家康の苦悩が、これだけ長い年月を要したように思われるのです。


しかし、真実はどうであったとしても、歴史の結果からみる限り家康の『ラスト・テンイヤーズ』は、豊臣打倒のために専心していたように見えてしまうのです。

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ラスト・テンイヤーズ   第十四回

2010-01-04 15:45:41 | ラスト・テンイヤーズ

   第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 8 )


( 四 )


毛利元就は、明応六年 (1497) 三月に誕生。応仁の乱から三十年が経ち、下剋上の嵐が全国津々浦々まで広がろうとしている頃でありました。
戦国幕開けの英雄の一人である北条早雲が小田原城を奪い取ったのが、元就誕生の二年前のことです。
元就は戦国時代初期に登場してきた人物なのです。


毛利氏の祖は、鎌倉幕府の重臣大江広元と伝えられています。
広元の子の季光が相模国の愛甲郡毛利荘の地頭となり土着したことから毛利氏を称するようになり、その孫の時親が安芸吉田荘の地頭になりました。この人物が安芸毛利氏の始祖となります。


元就は、時親から数えて九代目の弘元の次男として誕生しました。
幼名は松寿丸、後に少輔次郎と称し、十四歳で元服し元就を名乗りました。


松寿丸 (元就) が四歳の時、兄が家督を継ぐことになり父母と共に支城である猿掛城に移りましたが、翌年には母が亡くなってます。
その後は、父の側室である大方殿に育てられました。
そして、父も十歳の時に亡くなり、少年期は肉親に恵まれない環境で育ったようです。


二十歳の頃、吉川氏の娘と結婚。もちろん当時の常として政略が絡んだ婚姻ですが、この夫人とは実に仲睦まじく、また大変頼りにしていたようです。
夫人もよく夫を助け、奥向きのことばかりでなく優柔不断さが目立つ元就の精神的な支えになっていたようです。


これと同じ頃、兄の興元が病死、まだ二歳の遺児幸松丸が家督を継ぎました。
翌年には、元安芸の守護武田元繁との合戦が起こり、元就は総大将として出陣し元繁を討ち果しています。
これが元就の初陣で、二十一歳という上級の武士としては遅いものでした。


大永三年 (1523) 元就に大きな転機が訪れました。
四月に長男隆元が誕生しましたが、七月には入れ替わるかのように本家の幸松丸が僅か九歳で病死してしまったのです。
このため八月には元就が家督を継ぐことになったのですが、異母弟元綱を担ぐ勢力もあり、家中は激しい争いとなります。その対立は元就が正式に家督を受け継いだ後も続き、翌年、元綱を討つことでようやく決着をみたのです。


家督相続による混乱を乗り越えた元就は、一族の長として吉田郡山三千貫の城主となりました。
この三千貫というのは、領地から収納できる公租の額を表しており、石高でいえば七、八千石程度にあたると推定され、動員できる兵力は千人から千五百人程度と思われます。


当時の安芸は、出雲の富田月山城を本拠とする尼子氏と周防の山口を中心に大勢力を張る大内氏に挟まれ、三十余の豪族たちが合従連衡を繰り返していました。
時には尼子方に、時には大内方にと状況を窺いながら、一族の生き残りと拡張を模索していました。


毛利氏もその中の一つで、元就が家督を継いだ時には尼子陣営に属していて、家督を継いだ翌年には大内軍と戦っています。
しかし、家督相続の混乱時に、尼子の重臣が反対勢力のために暗躍したことから元就は不信を抱いていました。そこに、元就の器量を評価していた大内義隆が好意を示したことから、両家は急速に接近していったのです。


天文二年 (1533) 九月、元就は従五位下・右馬頭に任ぜられました。
これは中央に影響力を持っていた義隆の推挙によるもので、元就が大内に忠節を誓う関係になっていたことが分かります。
しかし一方で、尼子と手を切ったわけではなく、両家のどちらともうまくやろうと腐心していたようでした。微妙なバランスを保つという苦心の中で、家督を継いでから十年余りの間に周辺の城五つばかりを服属させるなど、非凡な面も示しているのです。


天文六年十二月、四十一歳の元就は、長男少輔太郎を人質として山口に送りました。大内陣営に属することを鮮明にしたのです。
義隆は大変喜び、早速に少輔太郎の元服の式を行ない名前に一字を与えて隆元と名乗らせました。


これにより大内との関係は強化されましたが、何んとも複雑なのは、この時尼子の富田月山城にも重臣二人を人質として送り込んでいたのです。安芸の小豪族の苦しい立場が窺える証左ともいえますが、密かに連絡を受けた二人の重臣は脱出しましたが、一人は傷つきながらも帰還できましたが、一人は途中で討たれているのです。


天文九年八月、尼子晴久は毛利討伐のために三万の軍勢を率いて富田月山城を発ちました。
元就は、武士だけでなく城下の町民、農民の全てを城内に入れ、徹底抗戦を決意しました。この時の毛利の軍勢は三千にも満たない数でしたが、大内に援軍を頼み、大軍相手に必死の戦いを続けました。


やがて、陶隆房率いる一万の大内軍が到着しました。
翌天文十年一月十三日、元就は全軍で敵陣に突入、大内軍も呼応して尼子本営に攻め込み激戦となりました。
両軍に多くの被害を出しましたが、ついにこの夜、尼子軍は総退却を始めました。


尼子陣営は、陣地全体にかがり火を焚き、それを残したまま密かに退却を図ったのですが、逸早く気付いた毛利勢に激しい追撃をかけられ、総崩れとなりました。
この戦いは、毛利元就の名を大いに高めることになったのです。


この戦いで勢いを得た毛利軍は、五月に尼子方の銀山城を攻撃しました。城主の武田信実はすでに出雲に逃亡していて、安芸守護職の名家は滅亡したことになります。
武田の領地の一部を大内義隆から与えられ、山間の城主だった元就は、瀬戸内海を望む地を手に入れたのです。


しかし、大内、尼子の両勢力はなお均衡を保っていました。
天文十一年、義隆は大軍をもって出雲に遠征、元就も従軍しましたが、尼子方は堅城として名高い富田月山城に立てこもり、大内軍は苦戦となりました。


そして、天文十二年五月には撤退せざるを得ない状態となり、尼子方の激しい追撃を受けることになりました。
吉田郡山城から尼子が撤退した時を逆さにしたような、大内方の惨敗となりました。元就も危機に陥り大きな損害を被りましたが、義隆の受けた衝撃はさらに深刻なものでした。


義隆の落胆は激しく、大内氏の威光に陰りが感じられるようになっていきました。一方の尼子とて戦乱の傷は軽くなく、大軍を動かす勢いはありませんでした。
この間隙を縫うように、元就は着々と勢力の強化を図っているのです。その大きな一つは、まだ九歳の三男徳寿丸 (隆景) を小早川家の養子に送り込んだことでした。


小早川家は土肥氏を祖とする由緒ある家柄で、現在の三原市を中心に瀬戸内海の島々に勢力を張っていて、小早川海賊とも呼ばれていました。
この海賊というのは、盗賊という意味ではなく海の豪族といった意味で使われていました。


一族は竹原と沼田に分かれていましたが、竹原小早川の当主である興景が亡くなり子供がいなかったことから養子を送り込むことになったのです。
興景の夫人が元就の亡兄の娘という関係や、義隆の勧めによるものともいわれていますが、元就に小早川家を取り込む狙いがあったことも確かなことでしょう。


隆景が実際に竹原に入城したのは十二歳の時なので、この養子縁組が小早川家全体が歓迎していたものではないことが推察されます。
そして、六年余りを懸けて沼田小早川の実権も掴んでいきました。その過程では、隆景に反対する家臣を成敗するなど強引な手段も絡めながら、小早川家全体をまとめ上げていったのです。
隆景がまだ少年から成年に至る間のことで、小早川家内の権力闘争などに元就が深く関わっていたことは間違いないことでしょう。


次男の元春が吉川家を相続するのは、天文十六年のことです。隆景が小早川家に入った三年後のことです。
吉川家も名家で、一族は安芸から出雲、石見にかけての山間部に勢力を張っていて、地理的なこともあって尼子との結びつきが強い豪族でした。


元就の夫人はこの家の出身で両家は親戚関係にありましたが、尼子の吉田郡山城攻めの時にはその陣営に加わっていました。
何んとも複雑な関係のように見えますが、戦国の世においては特別珍しいことでもありません。


元就は、吉川家内に紛争のあることを掴むと元春を養子に送り込みました。そして、当主父子を隠居させたうえ、翌年には殺害したのです。強引さが目立つ行動ですが、吉川家内に元就に味方する勢力もあり、これも戦いの一形式かもしれません。
元就の夫人は二年前に死去していて、それゆえ思い切った手段が取れたともいえますし、亡き夫人のために元春に吉川家を継がせたいと思った部分もあったのかもしれません。


いずれにしても、次男、三男の養子縁組により、毛利の勢力は飛躍的に強化されました。
内陸部に強い吉川と、沿岸部から瀬戸内海に勢力を持つ小早川は、毛利の両川と呼ばれる存在となり、毛利が中国地方の王者となるのに大きな力になったのです。


二人の息子を有力豪族に養子として送り込み、それぞれの家の実権を掴むべく奔走していた最中に、元就の夫人が亡くなっています。
天文十六年のことで、元就が四十九歳、夫人は二歳年下でした。
吉川家から輿入れしてきたこの夫人は、大変な賢夫人で元就や子供たちが頼りとする存在でした。


特に元就はこの夫人を信頼し頼りきっていて、死去による衝撃は大きなものでした。翌年に家督を長男隆元に譲っていますが、元就が五十歳になったことと嫡男が二十四歳であることを考えると妥当な家督相続ともいえますが、夫人の死去が少なからぬ影響を与えたようでした。


しかし、夫人を亡くした落胆が激しく、また家督を嫡男に譲ったとはいえ、四辺の情勢は元就を感傷に浸ったりのんびり楽隠居させるようなものではありませんでした。
小早川、吉川両家に対する介入をはじめ諸豪族との争いが激しさを増しているうえ、領国内にも大きな火種を抱えていました。


元就が家督を相続するにあたって貢献した井上氏は、家柄もよく戦功も多かったのですが、元就を当主にした功労者だとの思いも強く、傲慢な振る舞いが目立っていました。
かねてから元就は対応を苦慮しておりましたが、家中での実力者であり手を付けかねていましたが、ついに処断を決意し井上一族三十余人を討ち果しました。


若い当主のため、将来に禍根を残さないよう決断したのでしょうが、ここ数年間の元就の行動には、敵対する勢力に対する厳しい対処が目立つのです。
夫人の死去が原因だとは考え過ぎだと思うのですが、家督を譲ったこともあり将来に向けた体制作りを急いでいるように見えのです。


***     ***     ***


 

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ラスト・テンイヤーズ   第十五回

2010-01-04 15:44:51 | ラスト・テンイヤーズ

   第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 9 )


天文二十年 (1551) 八月、大内義隆が、その重臣である陶隆房 (後に晴賢) の謀反により討たれるという大事件が発生しました。


この反逆は少々異例のもので、謀反といってもその計画は公然としていたもので家中の多くがむしろ陶隆房を支持していたのです。
陶氏も大内の一族であり、謀反というより家中の主導権争いのようなものでした。


隆房は勇将として名高く、一方の義隆は出雲における尼子との敗戦から全く精彩を欠き、人望を落としていたのです。
どうやら元就も、隆房から事前に支持の要請を受けていたようなのです。


義隆が討たれたという報せを受けると、元就は大内方の城数か所を攻め落としました。隆房の挙兵に呼応したのです。
しかし隆房は、元就を自分の支配下にある一豪族としてしか評価しなかったようで、元就が働きに応じた領地を要求するのに全く応じなかったのです。そのため元就は、隆房との手切れを決断することになるのです。


尼子との戦いは続いており、両面に敵を持つことに反対する家臣も多かったのですが、義隆に可愛がられてきた当主である隆元の意向が隆房討伐にあったことも、手切れの大きな原因でした。


隆房との手切れを決断すると、元就の行動は素早いものでした。
強大な大内勢力は、尼子の存在を考えれば、敵対するか従属するかの選択肢しかなかったのですが、隆房の反逆により、豊かで広大な大内の領土が、新たな獲物として見えてきたのかもしれません。


毛利軍は西に向かって進軍を開始しました。
隆房は毛利のこのような行動を予期していなかったのです。旗揚げ後の元就の働きに対しても望む恩賞を与えようとしなかったように、元就を過小評価していたようです。


隆房は山口に入り毛利対策を練り、元就も郡山城に戻り決戦に備えました。
この時元就は五十八歳、遅咲きの名将は、後に厳島の合戦として名高い決戦に知謀を凝らしていたのです。


この時点での両軍の戦力には大きな差がありました。
二万余の軍勢を持つ隆房に対して、元就の方はせいぜい四、五千の兵力でした。
この戦力差を埋めるべく、元就は策略を練り上げていきました。


謀略の第一は、江良興房を謀反の噂を流すなどして隆房に討ち取らせたことです。興房は知略にたけた勇将で、元就が最も恐れていた敵将だったのです。
さらに諜報活動は緻密さを加え、隆房率いる二万の大軍を厳島に誘い込むことに成功するのです。厳島を押さえられないように元就が苦心しているという情報に隆房が乗ってしまったのです。


弘治元年 (1555) 九月三十日、夕方から激しい嵐となり、厳島にひしめくように陣取った陶軍のかがり火も消えて、島全体が闇に包まれていました。


毛利軍本隊は嵐の中を島の東北部に上陸し、村上・来島両水軍の支援を受けた小早川隆景率いる千五百人も、陶方の援軍と偽って上陸に成功しました。そして、翌十月一日、夜明けとともに毛利軍は呼応して総攻撃を開始しました。


陶軍は全くの不意を突かれ大混乱に陥り、毛利方の一方的な勝利となり、午後二時頃に戦いは終わりました。
隆房は自害、討ち取られた首四千七百四十余りともいわれ、海に沈んだ者や逃亡した者の数も少なくありませんでした。


厳島の合戦の大勝利は、元就の名を大いに高めることになるのですが、手に入れた実利も極めて大きなものでした。
壊滅した陶軍の鉄砲を多数手に入れたことや、村上・来島という強力な水軍を陣営に加えることになったなど、毛利軍の戦力は飛躍的に増大したのです。


元就は休むことなく西に軍を進め、岩国に本陣を置きました。そして、旧大内領の諸城に投降を促し、反抗する者は武力で降していきました。
弘治三年三月には、隆房の子の長房を攻め滅ぼし、山口に入りました。さらに四月には、隆房により大内家の当主として豊後大友家より迎えられていた義長も自害し、ここに隆盛を誇った大内家は滅亡したのです。


大内滅亡により元就は周防・長門の二か国を手中にしましたが、敵対した豪族の残存勢力や郷村の抵抗は激しく完全掌握にはなお時間を必要としました。
しかし、大内亡き後の毛利の最大の敵は、やはり尼子でした。

元就は陶軍との戦いの間も、尼子に対して諜報活動や謀略活動を続けていました。尼子の戦力は依然強力で、毛利単独では正面切って対抗できない状態に変わりがありませんでした。


尼子家は、知勇兼備の名将経久の孫である晴久の代になっていました。
代は変わっていても、尼子には晴久の叔父である国久が率いる新宮党という強力な軍団が健在でした。
元就は陶隆房に対したのと同じような謀略を続け、ついに晴久の手で新宮党を討たせることに成功します。これにより、経久が築き上げた尼子家は少しずつ揺らぎ始めたのです。


尼子と大内は長年にわたって中国地方の覇を競ってきました。領地拡張をめぐり両軍は幾度も衝突していますが、争点の中心は石見国の内陸部にある大森銀山 (石見銀山) でした。

毛利軍が陶軍を破り岩国に進駐した頃、吉川元春は石見国に入り、大内に属していた豪族たちを従えながら、尼子が抑えていた大森銀山を奪取し、初めて毛利のものとしたのです。
しかし、その後尼子方は大軍でもって奪い返し、毛利軍も再三逆襲しましたが尼子方の守りは固く奪還することができずにいました。


永禄五年 (1562) 七月、元就は一万五千の軍勢を率いて出雲に攻め込みました。隆元、元春、隆景も加わった総攻撃でありました。
晴久の死去により尼子を継いでいた義久は、豊後の大友宗麟に援軍を求めました。宗麟はこれに応えて出陣、挟撃される危険を察知した元就は、隆元に命じて朝廷や足利将軍家に働きかけて、宗麟との和睦を実現させました。


この和睦の証として、隆元の長男幸鶴丸 (輝元) と宗麟の息女との婚姻がまとまりました。隆元は吉田に戻り幸鶴丸に会い、そのあと出雲に向かいました。
その途上、備後の蓮華寺に泊まり、和智城主和智誠春に招かれて饗応を受けました。そして、蓮華寺に戻ったあと急に苦しみだし、翌日未明に亡くなってしまったのです。
行年四十一歳、死因ははっきりしておらず、急病とも毒殺されたともいわれています。


元就は六十七歳になっていました。
これまでの人生も決して順調平易なものではなく、敵対する多くの人を殺めてきていましたが、四十歳そこそこでの嫡男の急死は全く予期していなかったことでしょう。

しかし元就は、己の動揺を押し隠して攻撃を続けました。
富田月山城を陥落させることが隆元への供養だと将兵たちを励ましますが、さすがに要害を誇る名城は、なかなか落とすことができなかったのです。


戦いは四年を超える長期戦となりましたが、永禄九年十一月尼子方は糧道を断たれ、ついに降伏しました。
義久ら三人の兄弟は助命され、安芸に落ちていきました。ここに尼子一族は全滅状態となり、元就は中国地方全土を手中にしたのです。


この尼子との戦いの途中、永禄七年の春に元就はかなり重い病にかかっています。足利将軍の命で京都から医師が送られていることから、かなり重病だったと考えられます。
しかし、ほどなく健康を取り戻したようで、永禄十年には七十一歳で男子をもうけているのです。


急死した嫡男隆元の跡を継いだ輝元は、相続時点で十一歳、尼子義久らを追放した時で十五歳でした。
毛利はすでに中国地方のほぼ全土、すなわち、備中・備後・安芸・周防・長門・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の十か国を支配する身上になっていました。


当主はまだ幼ささえ残る少年だとはいえ、毛利の両川として名高い吉川元春と小早川隆景は、共に本家に忠節を尽くす名将に育っておりました。
それでも元就には、なお安心できる状態には見えなかったのです。
河野氏を支援して伊予を平定し、九州では豊前、筑前に兵を進めているのです。


その一方で、立原久綱、山中鹿之助らに擁立された新宮党の忘れ形見尼子勝久が、織田信長の支援も受けて挙兵しています。
最初は大した勢力ではなかったのですが、勝久が出雲に入ると、散っていた尼子の旧臣や地侍たちの多くが馳せ参じ、勢力を増していきました。


さらに周防でも、大内輝弘が兵を挙げました。
輝弘は義隆の叔父にあたる人物で、大内宗麟の娘と結婚し機会をうかがっていたのです。輝弘が尼子の動きに呼応して宗麟の支援のもとに周防に入ると、大内の旧臣たちが集まり数千人の勢力に膨れ上がり、山口に攻め込みました。


この時元就は、下関で筑前の立花城攻撃の指揮をとっていましたが、続々と危急の知らせが続き、ついに立花城攻撃の打ち切りを決断し退却を命じました。
大友の大軍と対峙している状態からの退却は容易なことではありませんが、元春に山口を急襲させました。


この迅速な行動に、一度は大内方についた者たちの多くが逃亡してしまい、輝弘は孤立、山口を占拠してから十日ほど後には自害に追い込まれました。


大内勢力を撃ち破った毛利軍は、翌永禄十三年一月、輝元を総大将とした一万数千の大軍で出雲に進軍しました。
しかし、尼子軍は勢力を増大させていて毛利軍は攻めあぐみました。


四月に改元されて元亀元年となった夏頃から、元就は寝込む状態になっていきました。
出雲の戦線から、輝元と隆景が郡山城の元就のもとに戻りました。この頃から元就は、自ら決断できない状態になっていたようなのです。


元亀二年 (1571) 六月十四日、元就は輝元や隆景に看取られながら生涯を閉じました。
行年七十五歳。二百に及ぶ合戦に明け暮れた英雄の静かな最期でした。ただ、元春はなお出雲の戦場にあり、父の臨終に立ち合うことはできませんでした。


***     ***     ***


私たちが戦国武将の伝記を紐解く時、有力武将の多くが天下を掴むことを目指していたように考えてしまう傾向があります。
しかし、実際はどうだったのでしょうか。

信長は早くに「天下布武」を宣言していましたし、都を目指したとされる武将も数多く伝えられています。でも、本当にそうだったのでしょうか。本気で天下を治めようと考えた戦国武将は、それほど多い数ではなかったのではないかと思うのです。

毛利元就は西国の雄として、十か国を超える版図を有するに至りました。
この時点における領土の広さや動員可能な兵力からみれば、元就が最大最強の武将だったといえるでしょう。
しかし、元就には天下を治める野望などなかったと思われます。


最愛の妻を亡くし、家督を嫡男に譲った時、元就は本気で隠居を考えていたのではないかと思われるのです。
元就に『ラスト・テンイヤーズ』という意識はなかったとしても、修羅場のような戦いの日々から退いて、静かな隠遁の生活を考えたのではないでしょうか。


しかし、いくら家督を譲ったからといっても、毛利家の将来を考えればまだ未熟な嫡男に全てを託すこともできなかったことでしょう。
そこに大内の当主が討たれるという大事件が起こり、元就がこれまで描いたこともなかった構図が浮かんできたのです。
元就は自らの気力を鼓舞しながら、新たな『ラスト・テンイヤーズ』を描いたのではないでしょうか。


そして、その十年が終わる頃には、尼子との対立は続いていましたが、大内領を手中に収め、隆元、元春、隆景の三人の息子は逞しい武将に成長していました。
元就は思い描いた人生設計に達成感を感じていたのではないでしょうか。


しかし、元就は再び『ラスト・テンイヤーズ』の構築を迫られるのです。
嫡男隆元の急死という予期せぬ悲劇に遭遇してしまったからです。
この時元就は六十六歳、現在とは比較にならないほどの老齢にあたります。


元就は、新しい当主となった孫の輝元のために、再び老骨に鞭を討ちます。
毛利のために、毛利の安泰のために、知謀の限りを注ぎ込んで戦い続けます。


元就の最後の『ラスト・テンイヤーズ』の起点を六十六歳と考えますと、完成の一年前に亡くなったことになります。さらに、亡くなる一年ほど前からは戦いに出ることはできず、やがて判断力も失っていったと思われます。

しかし、元就の『ラスト・テンイヤーズ』には、満足感が漂っているように思われてなりません。
築き上げた領土は中国地方全土に及び、嫡男を早世させたとはいえ子孫に恵まれ、関ヶ原以降徳川時代は不遇ともいえますが、明治維新への胎動期には、毛利が大きな原動力となっているのです。

元就が生涯かけて求め続けたのものは、ただただ毛利の安泰だけで、功成り名を遂げた『ラスト・テンイヤーズ』を送った武将といえるのではないでしょうか。
 


 




 

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ラスト・テンイヤーズ   第十六回

2010-01-04 15:43:57 | ラスト・テンイヤーズ

   第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 10 )


( 五 )


  馬上少年過       馬上に少年の時は過ぎ
  世平白髪多       世は平らにして白髪多し
  残躯天所赦       残躯は天の赦すところ
  不楽是如何       楽しまざることこれ如何せん


  四十年前少壮時    四十年前少壮の時
  功名聊復自私期    功名いささか自ら期す
  老来不識干戈事    老い来たり識らず干戈の事
  只抱春風桃李巵    只春風に抱かれ桃李の盃をとる


この二つの詩は、伊達政宗の作品です。


五十歳代半ばに作られたという漢詩には、独眼竜と呼ばれ戦場を駆け巡ってきた男の切ない気持が込められているように思えてならないのです。


由緒ある家系を持つ武将の子に生まれ、武勇に優れ知謀は戦国武将の中でも抜きんでたものを有し、また教養人としても高く評価される政宗。
動乱の世の中にあって、数多くの殺戮や権謀術数の泥を飲みながら走り続けてきた日々は、何を求めてのものだったのでしょうか。
そして、激しい人生の過半を過ぎて、戦い続けてきた足跡を想う時、その胸に去来するものは何だったのでしょうか。


***     ***     ***


伊達政宗は、永禄十年 (1567) 八月三日、米沢城主伊達輝宗の第一子として誕生しました。輝宗は二十四歳、母は山形城主最上義守の息女義姫で二十歳でした。


幼名は梵天丸、後の政宗が誕生したこの年は、戦国時代の幕開けとされる応仁の乱から数えて百年目に当たり、群雄たちの争いが大詰めを迎えようとしている頃でありました。


織田信長が足利義昭を奉じて京都に入ったのが政宗誕生の翌年のことです。
因みに、政宗誕生時の有力武将たちの年齢を見てみますと、今川義元四十九歳、武田信玄四十七歳、織田信長三十四歳、豊臣秀吉三十一歳、徳川家康二十六歳と、いずれも働き盛りの年齢であり、毛利元就に至ってはすでに七十一歳になっていました。


そして、政宗が十八歳で家督を相続して一族の棟梁になったのが天正十二年 (1584) 十月のことで、中央ではすでに秀吉の天下が固まりつつありました。
信長が本能寺の変で倒れたのがこの二年前、秀吉が関白になったのが翌年七月のこと。政宗は、まさに遅れてきた英雄だったのです。
すでに権力構造が固まりつつある中で、政宗の半生は、冒頭の詩にあるように戦いに明け暮れる日々だったのです。


中央では信長という巨星の出現により、百年に及ぶ乱世も収束に向かおうとしていました。
その信長は明智光秀の謀反にあい志半ばで倒れましたが、間髪を入れず秀吉が跡を襲い、天下統一への流れに変わることはありませんでした。


しかし、都から遠く離れた奥羽の地では、なお群雄割拠の状態が続いていました。むしろ中央勢力との関係も複雑に絡み、混迷を深めていたのです。


伊達氏は奥羽における有力豪族ではありましたが、周囲に割拠する豪族たちも兵を養い、互いに連携し、あるいは互いに隙を狙っている状態でした。
伊達氏は、政宗の妻の実家である田村氏とは友好関係にありましたが、東に相馬氏、北に最上氏、そして南には畠山氏・足名氏・佐竹氏などが勢力を張っていました。特に相馬氏とは、何度も攻防を繰り返している関係でした。


このように中央から取り残されたような混乱の奥羽の地で、政宗は波乱の人生をスタートしたのです。


五歳の頃に疱瘡を患い、これが原因で右眼を失明しました。後に独眼竜政宗と畏敬される原因になるのですが、幼年期の政宗はこのことも原因してか人見知りが激しかったようです。
そのため重臣たちの中には武将としての器を疑う者もあり、母義姫の愛情も著しく弟に偏っていました。やがてこのことが政宗と母や弟との不幸に繋がって行くことになります。


十一歳で元服、梵天丸から藤次郎政宗となります。
十三歳で結婚。妻となった愛姫は十二歳、三春城主田村清顕の息女です。当時の常識として、この結婚も両家を結びつけるための政略結婚でした。


豪族たちは婚姻を通じて同盟関係を築くことに奔走していましたが、入り組むように複雑に結ばれた婚姻関係が絶対的な安全を保証するものでもありませんでした。血の繋がった兄弟同士が争い、父と子が戦うことさえ珍しいことではなかったのです。
それでも豪族たちは、血縁や婚姻、利害や義理などが複雑に絡みあう中で、婚姻関係を有力な同盟の手段として評価していたのです。


十五歳で初陣。宿敵相馬氏との戦いでした。
相馬氏とは、初陣の後も奪われた領地を取り返すために父と共に三年に渡り戦い続け、旧領を奪回しています。

そして、田村氏らの調停により相馬氏との和睦が成立したのを機に、父輝宗は十八歳の政宗に家督を譲りました。
この時輝宗は四十一歳の働き盛りであることを考えれば、政宗に余程の非凡さを認めていたのでしょうか。


家督を受け継いだ政宗は、田村氏との同盟を軸にして、強力な旗本を率いて対立する豪族たちと激しい戦いを繰り広げました。
芦名、大内、佐竹、二階堂、岩城、石川、白河、畠山、最上、相馬、大崎、黒川・・・、割拠する豪族たちは、伊達・田村連合を中心に渦巻くように、ある時は連合し、ある時は様子を窺い、ある時は激しく干戈を交えました。
都から遠く離れているとはいえ、中央の動向や天下を狙う大大名たちの思惑も微妙な影響を与えていました。


政宗の武勇は戦うごとに非凡さを増し、領地も拡大していきました。
しかしながら、戦いは常に非情なものであります。奥羽に限ったことではありませんが、合戦の度に多くの血が流されました。それは兵士に限らず農民や女子供も巻き込んだ悲惨なものばかりでした。

政宗とて楽な戦いなどなく、幾度かの敗戦を経験し多くの旗本を失ってもいます。とりわけ悲惨だったのは畠山義継との戦いで、敵に捕らえられた父輝宗を敵将共々戦死させる事態になったことでした。
さらに、保春院 (実母義姫) によって毒殺されそうになり、これが原因で弟小次郎を斬殺することなり、母も実家を頼って山形に逃れるという事件も発生しているのです。


この事件は、幼い頃から政宗を疎み小次郎を溺愛していた保春院によって起こされたものですが、その背景には、保春院の兄である最上義光が小次郎を立てて伊達家を牛耳ろうと画策したものでした。

当時の豪族の婚姻は政略主体なのが常識ですが、女性が一方的に犠牲になっていたと考えるのは正しくないようです。
戦国期の武将の妻は意外に逞しく、教養もあり実権も相当のものを握っていました。そして、実家に対して情報を送るのもごく当り前のことだったのです。


この事件で政宗は、実の弟を殺害するという辛い決断をしていますが、これもまた特別なことではなく、信長も、信玄も、謙信も、そして家康も、一家の勢力を守り拡張していく過程で骨肉の血を流すという決断をしているのです。
これは、討たなければ逆に討たれるという戦国武将たちにとって、避けて通ることのできない宿命なのかもしれません。


戦乱の世に遅れて生まれてきた武将伊達政宗は、家督を受け継いでから僅か五年、二十四歳の頃には奥羽の覇者としての地位を掴もうとしていました。
その領地は、広大な陸奥・出羽両国六十六郡のうちの三十余郡に広がっていました。これは、平安後期に栄えた平泉藤原氏に匹敵するほどだったのです。


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ラスト・テンイヤーズ   第十七回

2010-01-04 15:43:05 | ラスト・テンイヤーズ

   第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 11 )


天正十八年 (1590) 二十四歳の政宗に大きな試練が襲いかかりました。

天下人としての地位を固めてきた秀吉は、ついに関東の雄北条氏の拠点である小田原攻めを決定したのです。この年の正月、政宗に対しても小田原参陣を命ずる書状が届きました。
この命令書は、奥羽の統一を夢見ていた政宗に大きな決断を迫るものでした。


政宗に限らず、奥羽の有力豪族は中央の情勢把握や、権力者との誼を求めて積極的に行動していました。台頭著しい秀吉に対して、政宗は馬を贈るなどして接触を図っていましたし、すでに秀吉に属していた芦名氏を討伐したことについて弁明を行ったりしていました。
他にも、前田利家、豊臣秀次など秀吉側近の有力者にも働きかけをしていました。


これらの一連の行動は、秀吉を敵に回さないための予防であって、政宗には秀吉幕下に入る意志など無く、対等に向き合える手段を模索するための接触だったのです。


しかし秀吉からは、幕下の大名と全く同じように参陣を指令してきたのです。この指令に従って小田原に参陣するということは、秀吉の軍門に降るということを意味しているのでした。

受け入れたくない命令ですが、安易に拒絶するわけにもいきません。もし北条氏が敗れた場合、あるいは和議が成立した場合でも、秀吉の次の獲物が奥羽であることが明白だからです。
しかも、政宗の侵略を受けている豪族たちの中には秀吉に助けを求めている者もあり、北条を片付けたあとは伊達だと秀吉が考えていることは想像に難くないことでした。

同年三月一日には秀吉本隊が京都を出発しました。
政宗に出陣を催促する使いが次々とやってきました。当然北条方からも強硬でしかも好条件の誘いがあったことでしょう。
秀吉の北条征伐は、服従しようとしない北条を討つのが目的ではありましたが、同時に北関東や奥羽に散らばる大名や豪族たちの旗幟を鮮明にさせる狙いもあったと考えられます。


政宗は一族や重臣たちと軍議を重ね、ついに小田原参陣を決定しました。政宗の生涯において、実に大きな意味を持つ苦渋の決断だったことでしょう。


この頃、政宗の心の中に天下人という目標があったのかどうかは分かりません。
奥羽は都から遠く離れており、すでに信長や秀吉によって京都を中心としたあたりの勢力争いは終息されつつありました。それに、家督を継いでからの五年余りは対立する近隣の豪族たちとの戦いに明け暮れる日々でした。
遠い都や西国については、状況を把握する以上の興味はなかったのではないかと推察されます。


従って、いくら青雲の志が高いといっても、天下を望むという発想まではなかったと思うのですが、奥羽の地、すなわち陸奥と出羽両国を支配下に置くことは、すでに構想していたのではないでしょうか。


小田原参陣という政宗の苦渋の決断をめぐっては、重臣たちの意見も分かれ家中は動揺しました。その動揺を突くかのように先に述べました毒殺未遂事件が発生し、藩内はさらに混乱しました。

このため政宗の出陣は大幅に遅れ、小田原に着いたのは落城がひと月後に迫った頃になってしまいました。
秀吉の怒りは激しく、政宗に謁見を許さず、山中に押し込められるという危機を迎えています。
必死の弁明の結果ようやく謁見を許された時には、諸大名が居並ぶ中を政宗は死装束で望んだと伝えられています。


***     ***     ***


北条氏を滅亡させると、秀吉は短期間のうちに奥羽の仕置を完了させました。
政宗の所領は旧芦名領を除き概ね安堵されましたが、蒲生氏郷、木村吉清という秀吉腹心の大名に監視されるような配置がなされました。


政宗の神経に触るような勢力配置でしたが、特に氏郷とは一揆討伐とも絡んで険悪な関係が続き、真否はともかく政宗が氏郷に毒を盛ったという記録さえ残っています。


政宗と秀吉の関係も当然緊張した関係が続いていました。臣下に加わったからとはいえ秀吉は政宗を油断できない若造と警戒していたようです。しかし、それでいて、ずいぶん可愛がっているようなふしもあるのです。
おそらく秀吉は政宗の器量を認めていて、奥羽の安定には欠かせない人物だと考えていたのではないでしょうか。


文禄元年 (1592) の朝鮮出兵の時には、前田軍、徳川軍に続いて京都を発っています。僅か二年足らずで秀吉幕下の主力大名として処遇されていることが、この出立順序から窺えます。
政宗は秀吉から割り当てられた員数の二倍にあたる三千人を率いていました。軍勢の装いは一際きらびやかで人目を引くものでした。
「伊達者」という言葉が生まれたといわれるように際立ってはでやかなもので、何かにつけて派手好きな秀吉を大いに喜ばせました。


朝鮮でも苦しい戦いの中で奮戦し、有力大名としての地位を固めていきました。
しかし、その矢先に関白秀次が謀反の疑いで処罰されるという大事件が発生し、政宗も加担していると疑われる危機に直面しています。


そして、この時もそうですが、小田原参陣遅延の時以来、危機に直面する度に支援してくれる徳川家康の存在が政宗の心の中で大きくなっておりました。


慶長三年八月、秀吉はその波乱の生涯を閉じました。政宗は三十二歳になっていました。
豊臣政権は秀吉という強烈な個性により作られ維持されていました。一見強固と見えた基盤は、秀吉という存在が除かれるとあまりにも脆弱で、時代は激しいうねりを伴いながらも確実に家康の時代へと動いていきました。


豊臣政権下で国内の戦は消えていましたが、秀吉の死と共に大名たちの思惑が表面化してきました。その激しいうねりの中心には家康が居り、その実力は抜きんでていました。
家康への流れに歯止めをかけることができる人物としては、僅かに前田利家が挙げられるばかりです。


利家は北陸の雄藩としての実力があり、秀吉恩顧の大名たちに人望があり、ひびが入りかけている豊臣政権をまとめるだけの器量を持っていました。
単独では前田家を遥かに超える実力を備えている家康ですが、安易に利家を敵に回すことはできませんでした。
しかし、翌年春、利家が秀吉の後を追うように没しますと、家康の動きは目に見えて激しくなり、時代は関ヶ原の合戦へと動いていったのです。


政宗は、長女五郎八姫と家康の子息忠輝との婚約を結ぶなど、逸早く旗幟を鮮明にしました。
中央を窺う家康には後背にあたる奥羽の地に有力な味方が必要でしたし、政宗も蒲生氏の後に移ってきた上杉氏と対抗するためには、徳川を敵にすることなどできません。
両者にそれぞれの思惑があったことは確かですが、早い時期から家康は政宗に好意的だったようです。


伊達軍は関ヶ原の合戦の前哨戦ともいえる上杉景勝討伐軍に加わり、石田光成が挙兵した後もその任務を任されました。
天下分け目の戦いは、単に関ヶ原における東西両軍の激突だけでないことはすでに述べておりますように、全国各地でそれぞれ敵対する相手と戦いを繰り広げていたのですが、その中でも家康が最も気がかりだったのは上杉の動向でした。


上杉軍に自在に行動されるようなことになれば、後背を突かれる恐れがあり、悪くすれば江戸に乱入されることさえ懸念されたからです。
政宗に与えられた任務は決して軽いものではなかったのです。


そのことは家康も十分認識していて、政宗に五十万石程の加増を約束していたと伝えられています。
これまでの五十八万石と合わせて「百万石のお墨付き」と呼ばれるものですが、これは実現されませんでした。


政宗が南部領内の一揆を画策したため家康が約束を反故にしたといわれていますが、家康らしい老獪さが感じられるとともに、政宗も混乱に乗じて領地拡大をはかる図太さを持っていたともいえる、面白いエピソードだと思います。

政宗が家康を頼りにしていたことは確かだと思われますし、家康も政宗の器量を評価し可愛がっていたと考えられますが、この当時の二人の関係は、単純な親分・子分の関係ではなかったことが窺えます。


***     ***     ***



 

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ラスト・テンイヤーズ   第十八回

2010-01-04 15:42:05 | ラスト・テンイヤーズ

   第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 12 )


伊達政宗は、国分氏の旧城である千代城に新たな縄張りを始めました。関ヶ原合戦が行われた年のことです。
千代 (センダイ) の文字を「仙台」と改め、本拠地としたのです。


本丸の構築が完成するのに十年を要し、五基の隅櫓を有する堂々とした構えでしたが天守閣は築かれませんでした。
徳川に対する遠慮からだと考えられていますが、その反面、軍事を重視した時代遅れともいえる山城でした。
政治を行う不便さを補うために低地に二の丸が加えられましたが、それは政宗没後のことです。


慶長八年二月、家康は征夷大将軍となり徳川幕府が始まりました。
豊臣秀頼いまだ大坂にあるとはいえ、時代の趨勢はすでに決していました。大坂城が落ちるのは十二年後のことですが、それは豊臣の時代が終わったということではなく、豊臣家が徳川の世に順応することができなかったというだけのことなのです。


政宗も仙台城に移り、新たな町造りを進めました。
すでに徳川の体制が盤石であることを感じ取っていたと思われ、仙台を中心とした領地六十万石、後に給与された近江・常陸での二万石を加え、六十二万石を有する雄藩としての国造りに邁進していきました。


政宗は三十代後半から四十代という人生の充実期を、徳川家との対応と仙台城を中心とした国造りとで過ごしています。
諸大名の中で最も多くの家臣を擁した伊達藩は、六十万石の全てを家臣の知行に当てています。表高を相当上回る実高を有していたからできたのでしょうが、家臣を重視する政策を行っていたことは確かだと思われます。


また、城下の町人屋敷の中核をなしたのは、政宗が生まれた米沢城下から次の本拠地岩出山へ移り、さらに仙台城下へと移ってきた人々でした。
これは、政宗が単に勇猛なだけの武将ではなく、治世にも優れていた証左ではないでしょうか。


仙台は大都市として整備され、江戸・大坂・京都は別格としましても、金沢・名古屋に次ぐ都市に発展し、奥羽の都としての地位を占めるようになっていったのです。


少し戻りますが、政宗は慶長七年に家康に与えられた江戸屋敷に移っています。幕府開闢の前の年のことで、翌年正月には妻子共々十四年に及ぶ上方生活を打ち切ったのです。
こののち政宗は、ほぼ一年ずつ江戸と仙台を交替して過ごしているのです。まだ参勤交代の制度など無い時のことで、さらに婚姻を進めるなど徳川家との緊密化に努力しています。


豊臣家のことに関しても、秀頼をそばに置いて成人後に然るべく処遇するように家康に具申したといわれています。
それが事実だとしますと、大変微妙な問題に関しても具申できるだけの信頼関係が両者の間にあったということになります。


しかし、結局豊臣家は滅びてしまい、徳川将軍家による二百数十年に及ぶ戦いの無い時代の基盤が作り上げられていきました。
大坂落城から、いくら隆盛を誇っていても時の流れに逆らって生き延びることの難しさを、政宗は強く感じ取ったのではないでしょうか。


元和二年四月、戦国時代の主人公ともいえる家康が没しました。
病の報を受けて駿府に赴いた政宗に、家康は後事を託したと伝えられています。
秀吉と違い、家康が没しても徳川政権は盤石の体制が出来上がっていました。それでもなお、家康が自分の死後の徳川体制に少なからぬ不安を抱いていたことは、幾つかの話として伝えられています。

そして、不安の中心を成す外様大名の中で、家康が誰よりも政宗を頼りとしたということは真実ではないでしょうか。
この時、家康は七十五歳、政宗は人生の絶頂期ともいえる五十歳でありました。


また、政宗に対する熱い信頼は家康にとどまらず、二代将軍秀忠も死に臨んでは政宗に後事を託しているのです。
三代将軍家光の時代には、政宗に対する信頼も待遇もさらに厚くなっているのです。


外様大名とはいえ将軍家との縁故を有し、家康と轡を並べた武将の殆んどが世を去っていて、政宗の存在感はさらに大きくなっていました。
官位も従三位権中納言 (黄門) という高位にあり、何よりもその武勇と識見の高さは若い将軍を魅了するに十分な存在だったのです。


寛永十三年 (1636) 政宗は七十歳を迎えました。この年の二月頃から体調不良が目立ち始めました。
四月二十日、五月の予定を早めて江戸に向かいました。
この出立が仙台城や家臣たちとの最後の別れとなると覚悟を決めていたのでしょう、重臣たちに後事を託しています。


旅の途中で病はさらに重くなりましたが、二十五日には日光に参詣しています。
この年は家康の二十一回忌にあたっていました。政宗は家康とどのような語らいをしたのでしょうか。
二十八日、江戸屋敷に到着。殆んど食事が摂れない状態になっていました。


五月一日登城、将軍家光に拝謁しました。
家光は政宗のあまりの衰弱ぶりに驚き医師を遣わしました。
容体を知った幕府要人や諸大名たちが見舞いの使者を差し向けましたが、政宗はその度に裃に威儀を正して迎えたと伝えられています。


二十一日、将軍家光自らが伊達屋敷に政宗を見舞いました。

二十三日、夫人などからの対面の願いを退け、形見の品を贈りました。そして、夫人には書を送り、嫡男多忠宗に将軍家への奉公と家臣の繁栄に努めるよう助言することを申しつけています。
その後部屋を清掃させ、夜になってから沐浴し、髪を結い直し衣服を改めてから寝につきました。
夜半に目覚めて「今夜は秋の夜よりも長く思われる。少年の頃から度々死地を逃れてきたが、このように畳の上で死ねるとは思わなかった」と、宿直の者に語ったとか・・・。


二十四日、朝早く起き、髪を整え手水をすませました。
「死後みだりに人を入れぬように」と命じて床につき合掌。
死去は午前六時頃、行年七十歳でありました。


***     ***     ***


さて、政宗の『ラスト・テンイヤーズ』を辿ってみましょう。


行年から遡りますと、六十一歳の頃が起点になります。
この前年、秀忠に従って参内し権中納言に叙任されています。つまり奥羽の黄門さまになったのです。


秀忠はすでに将軍職を家光に譲っていましたが、実権はまだ掌握していました。家康のあまりに大きな存在の陰に隠れて、秀忠を凡庸と捉えてしまいがちですが、実際は徳川長期政権にとって欠かせない人物だったのです。


大変厳しい政策を行っていて、外様だけでなく一門・譜代を含む三十九の大名を改易にしているのです。朝廷や寺社に対する統制も厳しく行い、幕府の基盤を固めるうえでの貢献は極めて大きいのです。
反対に、大名、特に外様大名にとっては、秀忠の治世は心休まることのない厳しい毎日だったといえます。


伊達藩とてその例外ではなく、政宗の苦心が六十二万石を支えたのです。
幸い秀忠は、家康の遺訓を守って政宗を重用しましたが、戦場を共にしてきただけに政宗の高潔な人柄と器量をよく承知していて、むしろ積極的に政宗をブレーンに取り込んでいったと考えられるのです。


最後の十年を迎えた頃、政宗に天下を狙うとか奥羽を手に入れるといった野望は、すでに無かったと思われます。
徳川将軍体制もすでに三代目に入り、全国津々浦々まで威光が浸透していました。

将来の禍根を断つために、関ヶ原では東軍方の主力を担った有力外様大名が次々と取り潰され、体制に害をなすとなれば一門とて容赦なく切り捨てているのです。
しかも、それらの過酷な仕置に対して反抗らしい反抗も起きていないのです。

関ヶ原の合戦のあと「百万石のお墨付き」に関わる出来事がありました。結果からみれば、政宗が家康に上手くあしらわれたという感じになりますが、奥羽の覇者になりたいという野望を呑み込んで「百万石のお墨付き」をまぼろしにしたことが、その後の伊達藩と政宗の安泰に繋がったようにも見えるのです。


政宗は、文武に抜きん出た才能を鎮めるようにして『ラスト・テンイヤーズ』を徳川家との関係強化と仙台六十二万石の経営に没頭したのです。
そして、いよいよ七十年の生涯の最後を迎える時、三代将軍家光が示した真情あふれる行動は、政宗の心血を注いだ努力が報われた証ではなかったでしょうか。


遅れてきた武将、伊達正宗。
その生涯の紆余曲折はともかく、『ラスト・テンイヤーズ』を生きる姿はまことに高潔で、病を得たあとの最後の生き様は実に潔く清々しいものでありました。 

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