雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ラスト・テンイヤーズ   第十九回 

2010-01-04 11:17:41 | ラスト・テンイヤーズ

  第三章  姫たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 1 )


( 一 )


戦国時代、それは、わが国の歴史の流れの中で最も激しい時代であったといえましょう。
この時代の主役は、第二章で紹介させていただきましたように、戦乱の嵐の中を戦い抜いた武将たちであることは確かです。それは、単に勝者である人物に限らず、志半ばで倒れた人物であれ、裏切りの汚名を着せられた人物であれ、その懸命の生き方は現代生きる私たちに多くのものを伝えてくれます。


しかし、この激しい時代に生きたのは、現代にその名が伝えられる一握りの人だけではなく、雑兵として、また農民として、あるいは戦乱をさけて山中深くに生活を求めた人たちも、やはり懸命の人生があったはずです。

そしてそれは、男女の区別など有るはずがありません。
この章では、歴史上の人物として私たちに馴染み深い女性たちの『ラスト・テンイヤーズ』を考えてみました。


***     ***     *** 


最初に登場する姫は、お市の方です。
戦国時代を代表する人物を一人だけ挙げるとすれば、誰が選ばれるのでしょうか。
選ぶ人の主張や好みによって多くの候補が挙げられるように思うのですが、実は、案外少数のような気もするのです。
その中で、お市の方が有力な一位候補であることは異論がないのではないでしょうか。


その生涯は実にドラマチックで、しかも悲劇性に満ちています。
織田信長という大英雄に少し遅れて誕生し、天下布武を目前にして本能寺に倒れた兄に少し遅れて、炎上する城と運命を共にした戦国時代屈指の美女・・・。
お市の方は、ヒロインとしての全ての要素を含んでいるような生涯を送った女性でした。


お市の方は、天文十六年 (1547) 織田信秀の娘として誕生したとされています。
歴史上著名な女性の多くがそうであるように、お市の方の生涯のかなりの部分が謎に包まれていて、信長の妹ということにも異説があり、誕生の年にも諸説があるのです。さらに、浅井への輿入れの時期でさえ説が分かれています。


それはともかくとしまして、天文十六年という説に従うとすれば、お市の方は信長の十三歳下、前田利家夫人まつと同年代ということになります。


幼い頃の記録は残されていません。
十七歳の頃、北近江の実力者、小谷城主浅井長政と結婚。これにより歴史の表舞台に登場してきたのです。


当時の武将の娘の常として、この結婚も両家の利害の上に成り立ったものでした。
上洛を目指す信長にとって浅井は味方につけたい大名であり、浅井にとっても日の出の勢いの織田は敵対したくない相手でした。


両家の思惑が微妙な一致をみた結果の結婚でしたが、二人の仲は大変睦まじいものでした。
両家が敵対する状態になったあともお市の方は小谷城に残り、子供も誕生しているのです。


大名家同士の婚姻は、表向きは姻戚関係を結ぶことによる同盟ですが、実態は少々別の意味を持っていて、妻を娶る方は人質を手に入れるということであり、娘を嫁がせる方は間者を送り込むといった側面も持っていたのです。


お市の方にも、実家のために働いたという有名なエピソードが残っています。
信長が朝倉攻略のため浅井領を通って越前に向ったあと、夫長政が長年同盟関係にある朝倉に味方すると決定したのです。
長政は、朝倉との同盟を重視する父久政と、愛妻お市の方の兄である信長との義理に挟まれて苦心しますが、ついに信長打倒を決断したのです。


これにより、信長軍は浅井軍と朝倉軍による挟み撃ちという窮地に陥ったのです。この決定を知ったお市の方は、兄信長に危険を知らせるために働いているのです。


信長に対して最も猜疑心の強い舅の久政に「兄に陣中見舞いとして小豆を贈ってやりたい」と申し出たのです。
浅井家としても反旗を翻すことを悟られないために、信長に陣中見舞いを贈ることになっていたので、お市の方の申し出を受け入れました。


お市の方から贈られた小豆の袋は、その両端が紐で結ばれていました。すなわち、袋の鼠になっている、という謎が込められていたのですが、受け取った信長は瞬時にその意を理解し、直ちに戦線を捨てて京都に逃げ帰ったのです。


この時の退却は「金ヶ崎の退き口陣」と呼ばれ、信長の最も苦しい戦いとも伝えられているものです。
少々出来過ぎた話のようにも思うのですが、事実のようです。
また、お市の方の浅井家や夫長政に対する愛情の深さを考えますと、現在の私たちには信じられない行動のようにも思われるですが、戦国女性の実家に対する気持ちが垣間見られるエピソードのようにも思うのです。


天正元年 (1573) 八月、小谷城は織田軍により落とされ、ここに名門浅井家は滅びました。
お市の方は、三人の姫と共に救い出されます。お市の方が二十七歳、三人の姫は、お茶々が五歳、お初が四歳、お江はまだ誕生間もない頃でした。
長政の嫡男万福丸は逃げ切れずに殺されました。他にも男の子が一人あるいは数人いたらしく、全員が殺されたとも、寺で育てられた子がいたともいわれています。


お市の方は三人の姫と共に清州城に引き取られ、その後信長の弟信包の居城伊勢上野城に移っています。夫を殺され、実子でないとはいえ浅井家の嫡男を惨殺された信長のもとに居るのを拒絶したのかもしれません。
お市の方が清州城に戻るのは、信長が光秀に討たれた後のことになります。


天正十年六月二日未明、本能寺の変により信長自刃という大事が発生します。
この時お市の方はなお伊勢上野城にいましたが、信長との関係はどのようなものだったのでしょうか。長政を討たれた恨みのようなものを持ち続けていたのか、戦国の世の常と達観できないまでも、ある程度は心の整理ができていたのでしょうか。


信長にとっては、浅井との戦いも天下布武にむけた戦いのひとこまに過ぎなかったかもしれませんが、三人の姫を抱えたお市の方にとっては、そう簡単に割り切ることなど無理だったのかもしれません。
九年もの期間を伊勢上野城で暮らしていたとすれば、信長をまだ許していなかったように思われるからです。


本能寺の変では、信長の嫡男信忠も討たれています。
信長には多くの子がいましたが、後継者に値するほどの人物はいなかったようです。もっとも、信長ほどの英傑にふさわしい後継者など簡単なことではないでしょうが、どうも凡庸な人物ばかりだったようなのです。
その中で唯一後継者らしい武将といえる信忠を同時に喪ったことは、織田氏にとって二重の不幸でした。


仇敵光秀が討たれると、早くも次男信雄と三男信孝の間で家督争いが表面化してきました。
ところが、その間隙を縫うように、清州会議において信忠の忘れ形見三法師を立てた秀吉に主導権を取られてしまいました。


信孝は筆頭家老と目されていた柴田勝家と組んで、後継者争いの主導権を握ろうと画策していましたが、その有力な手段として、お市の方を勝家に嫁がせる案が浮上してきたようです。
もちろん、信孝にはお市の方に命令するほどの力などありませんから、織田家の将来のためと泣きついたのでしょう。


お市の方が勝家をどのように見ていたのかは分かりませんが、政略結婚が常識の時代でもあり、勝家と結べば信長の宿老たちの多くが織田支援に動くと考えたのかもしれません。
また、浅井氏殲滅の実行隊長ともいえる立場にあった秀吉に対して、恨みを抱かないまでも、少なくとも好意を持っていなかったと考えられ、このことも結婚を承諾した背景かもしれません。


お市の方は、三人の姫を連れて北の庄の勝家に嫁ぎました。勝家五十三歳、お市の方三十六歳の頃のことでした。


時代は、清州会議で主導権を握った秀吉の天下へと動いていきました。
織田家中第一の宿老で武者働き一筋の勝家にすれば、口先三寸で小者から駆け上がり信長にうまく取り入ったとみえる猿面冠者の下風に立つことなど考えられないことでした。さらに、織田家の隆盛復活がお市の方の悲願だったとすれば、両者の激突は避けることのできない必然の動きだったといえましょう。
世に名高い賤ヶ岳の合戦であります。


しかし、この戦いは、客観的に見れば勝家に分の無い戦いでした。
時代が大きく移りゆく中で、新興勢力に迎合することのできない古武士が散るための戦いだったのかもしれません。
天正十一年四月二十三日、お市の方は勝家と運命を共にしました。


当時、落城の迫った城から妻や女の子を逃すのが武将の慣いでした。勝家もお市の方に姫たちと共に落ちのびるように勧めたが、それを拒絶したと伝えられています。三人の姫たちを脱出させたあと、勝家と共に自害する道を選んだのです。

自刃と同じくして火がかけられ、長年に渡って貯えられてきた火薬が天守閣を天に向かって吹き飛ばしたといわれています。
お市の方、行年三十七歳とか・・・。


***     ***     ***


 


 

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ラスト・テンイヤーズ   第二十回

2010-01-04 11:16:42 | ラスト・テンイヤーズ

   第三章  姫たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 2 )


戦国の世に悲しくもひときわ鮮やかな生涯を生き抜いたお市の方・・・。
その最後は、自ら選んだ道とはいえ、天守閣と共に天空高く飛び散るという壮絶なものでありました。
その波乱の生涯において、彼女の『ラスト・テンイヤーズ』は、どのような意味を持っているのでしょうか。


浅井長政と永久の別れをして小谷城を脱出したのが二十七歳の時、そして、柴田勝家と共に壮絶な最期を遂げたのが三十七歳の時でした。
お市の方が兄信長のように自らの『ラスト・テンイヤーズ』を意識していたか否かはともかく、結果からみる限り、落城に始まり落城で終焉を迎えるという何とも悲しい最後の十年だったのです。


お市の方は、戦国時代を代表する女性と表現しても決して過言ではない存在ですが、その生涯の多くが謎に包まれています。
まず、生年がはっきりしていません。浅井家へ嫁いだ年や年齢も、本稿では十七歳としていますが、これも諸説があります。
信長との関係も同じく諸説があります。浅井家との婚姻の時点では、信長の妹というのは事実だと思われるのですが、両親とも同じの兄妹とか、異母妹とか、いとことか、姪とか、それ以外の説もあります。


消息につきましても、浅井家に嫁ぐ以前については正確な資料は殆んどないようですし、それ以後についても、戦国史を左右させる出来事に何度も直接間接に遭遇しているのですが、その折々以外は資料的には空白期間が多いようなのです。
それでいて、戦国時代髄一の美人であり実に聡明であったということが広く知られているわけですが、どうやらこれは事実だったようなのです。


さて、お市の方は、愛する夫長政と後髪を引かれる思いで別れ、三人の姫と共に信長のもとに戻りました。そして、それが、彼女の『ラスト・テンイヤーズ』への第一歩でもあったのです。


信長は傷心の妹に大変配慮したようです。
小谷城を脱出したお市の方と幼い三人の姫は、秀吉軍に保護され、清州城に送られましたが、程なく信長の弟信包の居城伊勢上野城に移りました。
お市の方の気持ちを思いやった信長の配慮であったと考えられています。


お市の方は、伊勢上野城で最後の十年の過半を過ごしていますが、この間の資料も極めて少ないようです。
おそらくひっそりと、浅井の血を引く姫たちを懸命に護り養育していたのでしょう。


お市の方が清州城に戻ったのは、信長が本能寺で自刃した後のことです。
伊勢上野城に移ってからは、城中深くで息を殺すようにして生活していたお市の方は、信長自刃の報を受けると素早く清州城に戻っているのです。
伊勢上野城が危険になったためといわれていますが、お市の方が自らの意思で戻ったのだと仮定すれば、違った見方が浮かんでくるのです。


お市の方は絶世の美女と称されることが多いのですが、極めて聡明な女性であったことも事実と考えられています。
信長亡き後の織田家に大きな不安を抱き、自らが後継者問題に積極的に動こうとしたのではないかとも考えられるのです。


もしそのように推定するならば、お市の方が自ら定めた『ラスト・テンイヤーズ』は、本能寺の変に始まるのではないでしょうか。
勝家との婚姻も、後継者争いに絡んで信孝が画策したものといわれていますが、もっと積極的な意思がお市の方にあったのではないでしょうか。


信長の葬儀といえば、秀吉が執り行った大徳寺の葬儀が有名ですが、最初に行ったのはお市の方によるものなのです。
お市の方には、信長の跡目争いで自らが主導権を取ろうと考えた上での行動だったのではないでしょうか。


信長が倒された後の天下の情勢を、お市の方がどの程度把握していたのか推し量る術はないのですが、勝家の武力を頼りにした判断は、それほど間違っているとは言えないと思うのです。
織田家中きっての戦力を有し、前田利家など慕われている有力武将も数多く、後ろ盾にするのに不足はないはずでした。


お市の方が自ら定めた『ラスト・テンイヤーズ』は、歩みだすや否や虚しく崩れ去っていきました。
それを無謀といえば無謀、結果からみれば何とでも批判することはできるでしょうが、お市の方は、兄信長の悲願達成に自らの『ラスト・テンイヤーズ』を懸けたのではないでしょうか。
ただ、秀吉の行動は、それまでの常識や予測を遥かに超えた勢いだったのです。お市の方には、そして勝家にも、そのことが理解できなかった、それだけのことなのです。


お市の方の生涯に、現代に生きる私たちが強く惹かれる大きな要因は、夫と共に北国の城で壮絶な最期を遂げたことにあります。
当時の武将は、自らの最後が迫った時には、妻を含めた女子供を生き延びさせるのが美徳であり常識でした。
勝家ほどの武将が妻を道連れにすることを望むなど考えられません。二人が天守閣と共に天空高く散ることは、お市の方の強い願いだったのです。


勝家が秀吉の風下に立つことができなかったように、お市の方も、織田の衰退を見ながら生きることなどできなかったのです。
ただ、我が身は北国の空に散る覚悟を固めながらも、憎くも必死だった兄信長の姿と、悲しくも幸せだった浅井の血を、三人の姫に託したうえでの死出の旅であったと思えてならないのです。

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ラスト・テンイヤーズ   第二十一回

2010-01-04 11:15:50 | ラスト・テンイヤーズ

   第三章  姫たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 3 )


( 二 )


天空を焦がすように炎上する北ノ庄城から助け出された三人の姫。織田と浅井という戦国の世のサラブレッドともいえる血統を受け継いだ三人の姫は、戦乱の激しい波に立ち向かっていくことになりました。
お市の方の祈りが込められた宿命を背負った姫たちは、この時、お茶々が十五歳、お初が十四歳、お江が十一歳でありました。


勝家は落城が避けられないことを覚悟すると、お市の方と三人の姫を秀吉方に託す交渉を進め、すでに了解を得ていました。
しかし、お市の方が脱出を拒否し夫と運命を共にすることを強く望んだため、三人の姫は孤児として秀吉軍に身を委ねることになったのです。


戦国武将の娘にとって、常に後ろ盾として頼れるのは実家でした。
結婚生活が何年になろうと、子供が何人生まれようと、いかに夫と仲睦まじくとも、その重要性に変わりはありません。従って、常に実家の繁栄を願っており、万が一の時に頼れるのは実家なのです。


しかし、三人の姫には実家がなかったのです。本来頼るべき浅井家は十年前に信長に滅ぼされ、母の実家である織田家も信長自刃後の混乱によりとても頼れる状態ではありません。
三人は秀吉の庇護を受けるしかなかったのです。


***     ***     ***


 さて、お市の方から引き離された三人の姫・・・。
長姉お茶々は、二人の妹の肩を抱くようにして秀吉の保護を受けることになりました。
秀吉はもちろん、取り巻く武将たちの殆んどが直接あるいは間接に信長の指揮下にあった者たちです。三人の姫を信長血縁者として手厚く遇してはくれましたが、すでに織田家の権力者としての影響力は消失していました。


三人の姫を手元においた秀吉は、まず末の姫お江を佐治氏に嫁がせました。そして、次には二番目の姫お初を京極氏と結婚させています。
結婚相手の二人は、いとこにあたる関係で、これらの結婚には当時の常識である政略結婚の匂いが殆んどしないのです。佐治氏にしろ京極氏にしろ、政略という角度からみれば、それほど大きな意味を持つ相手とは思われないからです。


縁戚先を選んだあたりは、むしろ両親も実家も失った姫たちへの配慮が滲んでいるように思われるのです。
この頃の秀吉には、お市の方の忘れ形見を政略の道具として利用するより、織田家に対する敬愛と遠慮の気持ちの方が強かったのかもしれません。
それにしても、三姉妹を下から順に嫁がせたということには特別な意思があったのでしょうか。


それでは、一人残された長姉お茶々はどうしていたのでしょう。
当時、武家の女性の結婚適齢期は十五歳前後だったようです。十歳未満というのは政略的な必要からの婚姻でしょうが、十二、三歳で嫁ぎすぐ子供を生んでいる例も少なくありません。前田利家夫人のまつなどもそうで、十七、八歳というのは遅い部類に入ります。


お茶々は、北ノ庄城から脱出した時、すでに十五歳になっていました。妹たちが次々嫁いで行くなかで残されているのは、いかにも不自然に見えます。
よく言われているように、秀吉は最初からお茶々を側室に迎えるべく狙っていたのでしょうか。もしかすると、妹たちの結婚に先立って、すでに側室になるべき状態ができていたのかもしれません。


もう一つ考えられることは、柴田の家にある時に、すでに決まった相手があった、ということです。その人物は当然柴田家と関わりが強いことが考えられ、北ノ庄落城と共に実現できなくなり、そのことがお茶々の心を傷つけていたのかもしれません。


お茶々が秀吉の子鶴松を出産したのは、天正十七年五月で二十一歳の頃です。
このことから、遅くとも前年の夏頃には秀吉の側室になっていたと推定されますが、北ノ庄落城から鶴松誕生までの間の消息ははっきりしていません。


鶴松誕生により、お茶々は豊臣政権における重要人物として、歴史の表舞台に登場してきたのです。
この子は幸薄く天正十九年八月に早世しますが、二年後の文禄二年(1593) 八月に、運命の子秀頼が誕生するのです。


お茶々の存在は、秀頼の成長と共に大きくなっていきました。
秀吉の寵愛が特に深い側室や、有力な実家を背負う側室もいましたが、跡継ぎの生母であるお茶々の地位は高まってゆき、正室の北政所ねねとさえ張り合うほどになっていきました。そして、京都と大坂の中間にあたる淀の地に居城を与えられました。
淀殿の誕生であります。


しかし、秀頼の成長は、すなわち秀吉の衰えでもありました。
秀頼を溺愛し、その将来に不安を抱きながら、慶長三年 (1598) 八月、秀吉は世を去りました。
秀頼はまだ六歳、お茶々は三十歳位だったのでしょう。


お茶々は、人生の新たな局面を迎えることになりました。懸命に秀頼を教育して、天下に号令できる人物に育て上げなければならなかったからです。

しかし、秀吉が後事を託した体制はあまりにも脆弱なものでした。
過ちの第一は、家康を頼りにしたことでしょうが、その他にも多くの原因が挙げられます。
第二は、自分と年齢の近い前田利家がいつまでも健在だと考えているかのように頼りにしたこと。第三は、石田光成の才覚を過大評価し、頼りにすべき有力武将の多くを家康のもとに走らせたこと。第四は、血縁や養子の多くを手放したり殺害してしまったこと。


この他にも多くの欠点を見つけることができますが、それらの原因の大半が、晩年の秀吉の信じられないほどの衰えに起因しているように思われるのです。


お茶々は、この絶望的な背景の中で、難攻不落といわれる名城と、汲めども尽きぬほどの莫大な金銀を頼りに秀頼の成長を待ったのです。
しかし、秀吉の成し遂げた天下統一は、所詮秀吉の天下でしかなかったのです。


秀吉の死去と共に揺らぎ始め、利家の死去がその流れを加速させました。
秀吉の死後僅か二年で起きた関ヶ原の合戦により、豊臣氏による天下支配は終わったのです。大坂城落城までにはなお十五年を残していますが、それは豊臣家が徳川体制の中でどのような形で生き延びることができるか模索する期間でしかなかったのです。


お茶々は、時代の流れを知ってか知らずか、頑迷なまでに秀頼を天下人とすべく頑張り続けました。
そして、ついに慶長十九年 (1614) 大阪冬の陣が起こり、翌元和元年五月に大阪夏の陣となり、大坂城は陥落したのです。


お茶々は、夢を託し続けた秀頼と共に大坂城内で自害。秀頼二十三歳、お茶々は四十七歳、意地を貫き通したような最期でした。


***     ***     ***


結果からみたお茶々の『ラスト・テンイヤーズ』の起点は、三十七歳の頃になります。この年齢は、奇しくも母お市の方が壮絶な最期を遂げた年齢にあたります。


落城寸前の北ノ庄城から、母と別れ二人の妹の手を取るようにして脱出した時のお茶々の気持ちを考えると、胸に迫るものがあります。
この時お茶々十五歳、当時の結婚適齢期にあたる年頃ですが、多感な年頃でもあります。


永久の別れにあたって、母お市の方はお茶々にどのような話をしたのでしょうか。どのように生きよと話したのでしょうか。
妹たちを頼むという話もあったのでしょうか。織田の、そして何よりも浅井の血を伝えるように諭されたのでしょうか。


お茶々の『ラスト・テンイヤーズ』は、秀頼を天下人に就かせるためにだけありました。
お茶々がどのような経緯で秀吉の側室になるに至ったのか、いろいろと伝えられている話がありますが、いずれも推察の域を出ないものです。


お茶々にとって、秀吉は二度までも落城の憂き目を与えられたおりの敵将なのです。それも、いくら戦国の世とはいえ、一度目は父を二度目は母を死に追いやられているのです。その憎き敵将の側室になるにあたっては、相当の決断があったことは確かでしょう。


それは、頼るべき実家はなく秀吉の庇護を受けざるを得ない状況の中で、妹たちを守っていくための究極の選択だったのか、あるいは、母から託された運命を積極的に切り開こうとする選択だったのか…。
そして、秀頼を生んだのです。その子は、紛れもなく織田と浅井の血を受け継ぐ運命の子だったのです。


しかし、お茶々が『ラスト・テンイヤーズ』の起点に立った時、徳川体制はすでに強固なものになっていました。
秀吉が没して七年、関ヶ原の合戦からでも五年が過ぎていました。
すでに家康は将軍職を秀忠に譲り、天下のことは徳川が受け継いでいくとの意思を明確にしていました。


豊臣に同情を寄せる数少ない大名たちは、秀頼を徳川体制下での有力大名として定着させようと努力を払っていました。
しかし、それらの努力は、淀殿お茶々という頑迷な母堂が邪魔になり実現することができなかったともいわれています。


かつて、お市の方が秀吉の風下で生き延びることを拒絶したように、お茶々には徳川体制の中で首をすくめるようにして生き延びる選択など全くなかったのです。
それを無知だとか頑迷だとかいうのは勝手ですが、母の遺言の中には、織田信長や浅井長政のように誇り高く生きよ、というものもあったのかもしれないと思うのです。


お茶々もまた、生き延びる道を自ら断つようにして壮絶な最期を遂げたのです。


***     ***     ***




 


 

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ラスト・テンイヤーズ   第二十二回

2010-01-04 11:14:58 | ラスト・テンイヤーズ

   第三章  姫たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 4 )


秀吉に引き取られたお市の方の三人の姫のうち、最初に結婚したのは一番下の姫お江でした。


姫たちの父浅井長政が織田軍に攻められ落城寸前になった時、母お市の方と三人の姫は織田方に届けられました。
この時お江は、誕生からまだ何か月も経っておらず、おそらく乳母に抱きかかえられて殺気に溢れた小谷城を脱出したのでしょう。


そして、その十年後、北ノ庄城が秀吉に攻められて落城します。今度は、母も夫勝家と運命を共にして、子供たちだけを秀吉軍に託したのです。
お江は、二人の姉に手を引かれるようにして、どのような思いで敵の軍勢に運命を委ねたのでしょうか。お江も十一歳になっていて、自らの悲運を感じ取れる年齢になっていました。


お江が輿入れしたのは、十三歳か十四歳の頃と考えられています。
当時の花嫁としては珍しい年齢ではありませんが、まだ幼さが残る年齢であることには変わりはありません。秀吉が親代わりだとすれば、豪華できらびやかな装いでの輿入れだったでしょうが、養父と実母が自害するという悲劇からそれほど時間が経っておらず、二人の姉から引き離されて嫁ぐのは、心細いことだったでしょう。

お江が嫁いだ相手は、知多半島にある尾張大野五万石の領主、佐治与九郎一成でした。与九郎の母がお市の方の姉なので、早くから婚約がなされていたのかもしれません。
ただ、お犬の方といわれる伯母はすでに亡くなっていました。また、佐治家は知多半島に勢力を持つ水軍の家なので戦略的な意味も小さくはないですが、秀吉がそれほど重視するほどの家とは思えないのです。
この結婚からは、秀吉の政略の匂いは感じられないように思われます。


結婚生活がどのようなものであったのかは伝えられていませんが、ごく短い期間で終わっています。夫与九郎が秀吉の勘気に触れ所領を没収され、お江も連れ戻されてしまったからです。
秀吉の怒りの原因は、小牧の合戦の時に家康方に援軍を出したためとも、水軍が秀吉に協力しなかったためともいわれています。


秀吉の元に戻されたお江に、次の結婚話が待っていました。
織田と浅井の血を引くお江は、武将の妻としては人気ブランドだったのです。


二度目の結婚相手は秀吉の姉の子供で、秀吉の養子になっていた秀勝でした。秀勝とは面識があった可能性もありますし、大きな意味での身内のようなものですから悪くない結婚だったように思われます。
しかし、この結婚も、一年程で秀勝が病没してしまうのです。お江は懐妊していて、夫が亡くなった後に女の子を出産しました。
この子は、後にお茶々が預かり、その世話で九条家の養女になっています。


若くしてあまり幸せとはいえない二度の結婚生活を経験したお江に、再び結婚話が持ち上がります。
今度の相手は、家康の三男秀忠でした。
お江が二十三歳、秀忠は十七歳。二度の結婚と出産の経験がある女性と、生真面目を絵に描いたような初婚の青年との組み合わせでした。


秀吉は六十歳を間近に控え、家康との繋がりを強める必要に迫られていました。この結婚は、秀吉の思惑が見え見えの結婚でした。
しかし、二人の結婚はとてもうまく行ったようなのです。
いつの世も、男女の仲だけは連れ添ってみないと分からないもののようです。


二代将軍となる秀忠は、側室を持たない稀有な将軍でした。将軍どころか大名の当主ともなれば側室を持たないのは極めて稀なのです。
秀忠にも、後に会津の名君といわれる保科正之という隠し子がありましたが、この人の母も側室ではありません。

このため二代将軍家は大変な嚊天下で、将軍は夫人に頭が上がらなかったとか、三代将軍となる継嗣をめぐって春日の局と争った、などという話がお江の人柄として定着している感がありますが、かなりの誤解があるように思われます。


お江は、三人の姫の中では、むしろ輝くような才覚など最も持ち合わせていない女性のようなのです。
聡明さにおいて姉や妹に劣っているとは思われませんが、過酷な運命を粛々と受け入れ、時代の流れに翻弄されながらも抗することもなく、ただひたすらに生き抜いた女性・・・、のように思われるのです。


お江は秀忠との間に八人の子供をもうけています。
男の子が三人、一人は早世していますが、あとの二人は三代将軍家光と悲劇の武将駿河大納言忠長です。
女の子は五人、長女は豊臣秀頼に嫁いだ千姫、次女珠姫は加賀前田家三代藩主利常の室、三女勝姫は越前福井藩主松平忠直の室、四女初姫は生まれてすぐに姉お初の養女となり若狭小浜藩主京極忠高の室、そして末娘は後水尾天皇の中宮 (のちに皇后) となった和子 ( 東福門院) で、女帝明正天皇の母でもあるのです。


お江は、与えられた運命のままに生きて、栄華の絶頂期ともいえる寛永三年 (1626) 九月、秀忠や子供たちに見守られながら世を去りました。  
行年五十四歳、水の流れのように生きたお江は、戦乱の中に散っていった浅井と織田の血脈を、戦国時代の最終勝利者である徳川家はじめ有力大名に受け継がせる役目を担った女性でもあったのです。


***     ***     ***


お江の生涯は、何度も繰り返すようですが、まるで水の流れのように見えます。
その生涯を記録に従って辿っていきますと、決して平穏なものではなく、むしろ波乱万丈そのものといっていいほど激しいものなのです。
その生涯を小説として見るとすれば、出世話としてはあまりにも出来過ぎていて作品として成り立たないのではないかと思われるほどです。
しかし、それでいて、やはり淡々と水の流れのように見えるのが何とも不思議に思うのです。


世俗的にいえば、お江は栄耀栄華の絶頂期にその生涯を終えています。その『ラスト・テンイヤーズ』にあたる期間を見てみましても、その起点は元和三年の頃で、大坂落城の二年後、家康が没した翌年にあたります。
夫秀忠が名実ともに天下人となり徳川政権草創期の仕上げの期間とも重なる絶頂期にあたります。


しかし、お江には『ラスト・テンイヤーズ』という考え方が、どうしてもしっくりと来ないのです。
お江の生き様は、苦難の時も絶頂の時も、最後の十年もそれまでの四十余年も、然したる変わりなどないように見えるのです。


ただ与えられた運命に命じられるままに、しかし決して怯むことなく、まるで大河の如く悠々と流れ切ったような生涯でありました。


***     ***     ***



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ラスト・テンイヤーズ   第二十三回

2010-01-04 11:14:05 | ラスト・テンイヤーズ

  第三章  姫たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 5 )

長姉お茶々は、母の生き様を見習うかのように、信念を貫き通し豊臣家と運命を共にして壮絶な最期を遂げました。
末っ子お江は、水の流れに身を任せるように三度の結婚生活を経て、戦国時代の最終勝利者の地位を得ました。

それでは、中の姫お初は、どのような生涯を送ったのでしょうか。


お初が嫁いだ京極家は、宇多源氏を称する佐々木氏から分かれた近江屈指の名家で、浅井氏の主筋にあたる家なのですが、その頃は没落寸前という状態でした。


結婚相手の京極高次は、本能寺の変では明智方に味方して散々な目にあい、近江国内を逃げ回ったり、北ノ庄のお市の方を頼ったりしていました。
高次はお市の方の亡き夫浅井長政の姉の子供ですので、光秀に味方するのは筋が通っているといえますが、光秀が倒した信長の妹を頼るというのは、何んともいい根性をしているのか、無神経なのか、それとも余程困っていたかのいずれかだったのでしょう。


ところが、まことに幸運なことに、高次の姉が秀吉の側室になったのです。
この姉は、若狭の守護武田元明に嫁いでいましたが、本能寺の変で同じように明智方に味方した元明は自刃、未亡人となった姉が秀吉に見染められたのです。
この姉が秀吉側室中の美貌ナンバーワンといわれる松ノ丸殿京極氏なのです。そして、高次はこの姉の恩恵を得て、近江に二千石の所領を貰えたのです。


この二人の結婚には政略の匂いが殆んどありません。お江の最初の結婚もそうでしたが、高次の場合は秀吉から見れば政略的な価値など更にありません。
この結婚も早くから決められていたか、あるいは松ノ丸殿の口添えがあったのかもしれません。


理由はともあれ、没落名門家の貧乏武将の妻となったお初は大いに頑張るのです。
高次はお初より六歳ほど年上の二十三歳の青年武将で、武略や才覚は大したことはありませんが、姉が美人として名高い松ノ丸殿であることを考えれば、見た目はそれはそれは見事な武者ぶりだったものと想像できます。


お初を大いに頑張らせたのは、この惚れ惚れとするばかりの容姿であったと考えられがちですが、人間の価値を腕力や智力だけで判断するのも実に単純なことともいえます。
もしかすると、この高次は、見た目の男振りばかりでなくお初ほどの女性さえ魅了させる何かを持った人物だったのかもしれません。


お初は、嫁ぐとともに名門京極家の再興に奔走しました。
夫が秀吉の寵愛一方ならぬ姉を頼るのに加えて、お初は秀吉の子を産んで権勢を増してきた姉のお茶々に擦り寄りました。
そして、所領を少しずつ増やしていき、ついに夫を大津六万石の城主にまで出世させたのです。


六万石の城持ちとなれば押しも押されもせぬ大名夫人ですが、戦国の世の厳しさをまともに受けて育ってきたお初は安心などしておれません。
時代の流れが東に向かっていることを敏感に感じ取ると、徳川秀忠の妻となっているお江に近付いて行ったのです。


ただ、お江という人は、姉たちと違って政局や利害に関して夫に働きかけけるような女性ではなく、柳に風のように受け流すだけでした。
それは、決して悪意などではなく、のんびりとしたといいますか、泰然自若といいますか、そういう性格の女性でした。
お初は夫の秀忠に対しても直接働きかけたりもしたのでしょうが、この頃の秀忠には気安く引き受ける力など持っていません。


ところが、懸命に動き回るお初に興味を持った人物がいたのです。家康その人でした。
家康は、今や豊臣政権の鍵を握る人物となった淀殿お茶々の妹であることに利用価値を感じ取り、大津城の修築費用をお初に与えたのです。魚心あれば水心、事ある時にはよろしくということでしょうが、お初に異存などありません。これにより、白銀三十貫と家康とのパイプを得たのですから。


やがて関ヶ原の合戦が勃発します。
大津城は上方から江戸へ向かう時の東海道最初の要衝なのです。
西軍方は、お初がいる京極氏は当然味方だとして戦略を立てていましたが、高次は東軍側に加わり西軍の進路を妨害したのです。
淀殿お茶々をはじめ西軍首脳は激怒しますが、ここでの進軍の遅れが関ヶ原での戦いに少なからぬ影響を与えたのは確かです。


東軍陣営の一角として勇躍西軍の進路に立ちふさがった高次は、懸命の働きをしました。しかし、そこは名うての戦下手ですから、関ヶ原での合戦を待たずして降参、自らは高野山に入り出家してしまったのです。


しかし、高次の何とも逞しいところは、戦後、お初の働きかけもあって家康が大津城の抵抗を称賛し若狭で八万五千石を与えると伝えると、さっさと高野山から下りてくる神経を持ち合わせていたことなのです。


お初の活躍はまだまだ続きます。
千姫が秀頼に嫁ぐという大行事に、お江が付き添ってきていました。
この時お江は妊娠していましたが、挨拶に訪れたお初は、産まれてくる子が姫ならば自分にくれと約束させたのです。
徳川の姫を養女に出すなど、いくら御台所だといってもお江の一存で決められることではないと思うのですが、お初とお江の性格が見事に表現されているエピソードだと思います。


高次の妻として存分の働きを見せるお初でしたが、悩みが一つありました。二人の間に子供がいないことでした。
側室が産んだ忠高を跡継ぎとしていましたが、姉のお茶々と北政所ねねの関係を見ているだけに、心中穏やかではなかったのです。


お江に産まれた子が期待通り姫だと分かると、さっさと連れ帰ってしまったのです。
二代目の「お初」と名付けたこの姫を忠高の妻にさせ、自分の権勢を守るとともに徳川との血縁関係を作り上げたのです。


高次の何ともいえないような図太さも大したものですが、お初の逞しさも相当なものでした。
関ヶ原の戦いで東軍についたことや徳川との養子縁組など何事でもないように、姉お茶々のもとへも通い続けていました。
お茶々にすれば、小憎らしいことこの上なく、面と向かって厳しく非難もしましたが、そこは血を分けた姉妹であり、共に悲惨な戦塵をくぐってきた生い立ちから、ついつい気を許してしまって側に迎えているのです。


豊臣と徳川の緊張関係は、日を追うごとに厳しくなっていきました。
その両家と血縁という関係を有しているお初は、双方から貴重な存在として重宝され、使者の役や調停の役を担うことも多くなっていきました。
お初自身も、姉と妹の安全と幸せを願う気持ちを抱きながら奔走しましたが、両家の衝突を避けることはできず、お茶々と秀頼は城と運命を共にしてしまいました。


秀頼には側室との間に二人の子供がいました。八歳の男の子は捕えられて処刑されましたが、女の子は命を救われています。
女の子の助命にあたっては、お初の働きかけがあったともいわれ、千姫の養女として仏門に入り、鎌倉の東慶寺第二十世になっています。


お初の行年は六十四歳、寛永十年八月のことです。
姉は大坂城と共に壮絶な最期を遂げ、妹は徳川将軍正室として絶頂期のうちに先立っていきました。
お初は、戦国末期の荒々しい時代が静まるのを見届けたかのような静かな最後でありました。


***     ***     ***


戦国時代の終焉を告げる戦いといえる大坂夏の陣、姉は豊臣方の実質的な総大将であり、妹は攻めかかる徳川将軍の妻でした。そして、中の姫お初は、最後まで和解の道を求めて両家の間を奔走し続けていました。
お市の方が残した三人の姫たちは、三人三様に戦国最後の大スペクタクルで重要な役割を演じ切ったのです。


姉や妹に比べ、お初は京極家という小さな舞台での活躍でした。しかし、お市の方の三人の姫たちという捉え方をする時、お初の存在が大きく浮かび上がってくるのです。


燃えさかる北ノ庄城を、抱き合うようにして見ていた三人の姉妹。浅井の血を残したいという母の切なる願いを三人は幼い胸に刻みながら・・・。


歴史の結果からいえば、お江がいれば母の願いは果たされたということになります。だが、万一徳川が負けていれば、お茶々がその使命を担うことになっていたのです。
そして、そのいずれの場合でも浅井の血脈を残そうとプロデュースしたのがお初だった・・・、これは曲解過ぎる見方でしょうか。


お初の結果からみた『ラスト・テンイヤーズ』の起点は五十五歳の頃になります。家光が三代将軍に就いた頃に当たります。


家光は将軍宣下を受けたあと居並ぶ大名たちに「われは生まれながらの将軍である」と、自信満々に宣言したと伝えられています。
徳川の天下が盤石となり、戦国の世の名残りも消えつつありました。
お初は平和の中で静かな最期の十年を送っています。


しかし、その間には、妹のお江を見送り、お江から貰い受けた初姫にも先立たれています。
平穏と見える十年の中にも悲しい出来事も少なくなかったのでしょうが、お市の方が血を吐く思いで秀吉に託した自分も含めた三人の姫たちの、激しくも鮮やかな生涯を反芻しながらの『ラスト・テンイヤーズ』だったのです。

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ラスト・テンイヤーズ   第二十四回

2010-01-04 11:12:58 | ラスト・テンイヤーズ

   第三章  姫たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 6 )


( 三 )  


戦国時代、武将の妻として存分な生涯を送った二人の女性がいました。一つ違いの二人は、若くして隣どうしに住み、米や味噌の貸し借りをする仲だったといいます。
夫は共に織田家中の武士。激しい時代を最も激しく生きたそれぞれの夫は、共に競い合い、助け合い、時には対立しながらも出世を重ねていきました。
それぞれの妻として夫に従いながら、二人は生涯信頼関係を崩さなかったと伝えられています。


前田利家夫人まつと豊臣秀吉夫人のねねの生涯は、権謀術数渦巻く戦国時代にあって、悲喜こもごもの苦難を織り交ぜながらも、清々しいものを感じさせてくれるのです。


***     ***     ***


まつは、天文十六年 (1547) 尾張国海東郡で生まれました。
父は織田家の家臣篠原主計、母の名前は分かりませんが、後に結婚することになる利家の母と姉妹なので竹野氏と思われますが、どういう家柄なのか不明です。


父についても異説がありますが、まつが幼いころに父を亡くしたことは事実のようです。やがて母は再婚することになりましたが、何故かまつを連れて行かず、前田家で育てられることになったのです。
まつが四歳の頃のことであります。


まつが預けられた前田家は、尾張国荒子で二千貫文 (およそ五千石) の領地を有する土豪でした。
利家は城主前田利春の四男で、幼名は犬千代、元服して孫四郎利家、通称は又左衛門と称しました。生年は天文六年 (異説もある) で、まつより十歳年上にあたります。


利家は、天文二十年一月に尾張那古野城主である織田信長に出仕していますので、荒子城で二人が一緒に過ごしたとしても一年程のことだと思われます。
利家は出仕後も時々荒子に帰ることもあったのでしょうが、二人がどのような経緯で結ばれたのかは興味深いところです。


二人が結婚したのは、まつが十二歳で利家が二十二歳の頃ですが、利家はすでに織田家中では知られた存在になっていました。
身の丈六尺という堂々とした体躯に加え、容貌は人並みすぐれた美丈夫で、合戦においても幾度か手柄を立てていて「槍の又左」と呼ばれるようになっていました。
城下を行く時も、信長譲りのかぶき振りで、長槍を引っ抱えて練り歩く時には人々は道を避けたといわれるほど知られた存在でした。


信長の覚えもよく、禄高も百五十貫文 (三百七十五石位) になっていました。
当時の常識としては、利家ほどの武士であれば、何らかの政略なり利益なりを配慮して婚姻が成立するものなのです。主君のためになるか、家のためになるか、自分のためになるかなど、目的に差はあるとしても婚姻は家と家の結びつきであり、勢力拡大の最も有効な手段だったのです。


しかし、利家にとって、まつとの結婚によって得るものなど何もありません。まつの父は早くに亡くなっていますし母もまつを利家の母に託して再婚しています。
まるで妹のような存在のまつを娶っても、何かを得る方法など考えられません。


もしかすると、この二人の結婚は、当時の上級武士としては極めて珍しい恋愛結婚だったのかもしれません。
どちらが恋い焦がれたのか分かりませんが、利家が後に手にする百万石の相当部分がまつの働きにあったとすれば、下手な打算などはしない方が良いという見本のようなものです。


永禄元年 (1558) 秋、二人は清州城下で新婚生活をスタートさせました。当時としては特別珍しいことではなかったのかもしれませんが、十二歳の新妻となれば、何んとも初々しいものだったことでしょう。
しかも、翌年六月には長女幸が誕生、十三歳で母親となるのです。
まつは、健康面でも優れた女性だったのでしょう。


まだママゴトが似合いそうな幼な妻と、織田家中きっての男振りといわれる夫、そして愛らしい赤ん坊・・・と、幸せに包まれた新婚生活に大事件が発生します。
信長が可愛がっていた同朋衆の拾阿弥という者を、利家が切り殺してしまったのです。


事件の直接の原因は、利家の笄 (髪を結うのに使う小道具) を拾阿弥が盗んだということですが、拾阿弥には信長の寵愛をいいことに日頃から目に余る言動があったようです。
しかし、この殺害を信長が目撃していて激怒、利家を手討ちにしようとしました。
幸い柴田勝家らの尽力で死罪は免れましたが、勘当となり織田家を追われてしまったのです。


浪人となった利家は、一時は酒に喧嘩にと荒れましたが、それはごく短い期間で、復帰に向けての行動を始めています。
当時は、主家を追放された武士の多くは次の仕官先を求めて行きましたが、利家にはそのような考えはなく、ひたすら織田家への復帰の機会を狙っていました。
利家の性格が如実に表れている行動で、ただ一人の家来である村井重頼と共に、柴田勝家などの支援を受けながら帰参の時を待ち続けていました。


この間、まつと子供はどうしていたのでしょう。
乳児を背負った十三歳の幼な妻を連れて武者働きの機会を狙うなど無理な話ですから、おそらくは荒子城に身を寄せていたのではないでしょうか。


浪人してから一年後に、帰参のチャンスが訪れました。
どのようにして情報を掴んだのか、桶狭間の合戦に利家は勝手に織田軍に加わっていたのです。
誰かの許可を得たわけではないのですが、当時の合戦ではよくあることで、首尾良く手柄を立てると褒美なり仕官なりの恩恵が期待できるのです。そのかわり味方した方が敗戦となれば、ただ働きになり、負傷したり討死しても何の保証もないのです。


戦いは織田方の大勝利となり、利家も敵の首級をあげ信長の馬前に差し出しましたが、無視されてしまいました。まだ許せないということなのです。


その一年後の斎藤氏との戦いにも利家は加わり、今度は「首取り足立」と恐れられていた敵将足立六兵衛を得意の長槍で討ち取りました。
さすがに信長も勘気を解き、利家の帰参を許しました。しかも、追放される前の三倍にあたる四百五十貫文 (千百石余にあたる) の禄高で近習に取り立てられたのです。


永禄四年、まつと娘の幸は再び清州城下に戻りました。家族一緒の生活を取り戻し、しかも禄高は三倍、幸せな再出発でした。
この年、生涯に渡って情誼を結ぶことになる木下藤吉郎 (後の秀吉) とねねが結婚しています。
秀吉は利家と同年の二十五歳 (一歳年上という説もある) 、ねねはまつより一歳年下の十四歳でした。おそらくこの頃に、この二組の夫婦は隣接して住み、米や味噌を貸し借りするような親しい関係を育んだといわれています。


利家は歴とした豪族育ちですが、秀吉は百姓の出身で最初は小者としての出仕で一人前の武士とはいえない身分でした。しかしこの頃には、二人は大差のない禄高を得ていたように思われます。


この後、二人の出世競争には大きな差がついて行きます。
利家は「槍の又左」と呼ばれるように、華々しく武者働きを積み重ねていきました。一方の秀吉は、情報の入手や調略に優れ斬新な着想や思い切った戦略で頭角を現していきました。
二人は対照的な能力の持ち主として存分な活躍を続けていきますが、出世ということでは秀吉がぐんぐん先行していくことになります。


秀吉は天正元年八月、三十七歳の時に浅井の旧領を与えられて十二万石の大名になっています。
一方利家は、天正三年九月に越前国の府中城主として三万三千三百石を与えられて大名の仲間入りをしました。ずいぶん半端な数字ですが、これは、利家・佐々成政・不破光治の三人に今立・南条の二郡十万石が与えられたからです。


大名に取り立てられるのが秀吉に二年遅れ、領地も三分の一に満たないものでしたが、出仕した時の五十貫文、まつと結婚した時の百五十貫文から見れば大変な出世でした。秀吉が特別だったのです。


***     ***     ***


 



 

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ラスト・テンイヤーズ   第二十五回

2010-01-04 11:12:08 | ラスト・テンイヤーズ

   第三章  姫たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 7 )


天正三年九月、利家は府中城に入りました。
まつも子供たちを連れて、ほぼ同時期に入城しています。晴れて大名夫人となったまつには、すでに五人の子供がいました。
さらに、ここ府中城での六年の間に三人の子供をもうけ、全部で八人になりますが、他に夭折した子が三人いますので合計十一人の子供を産んだことになります。このうちの一人は、養女だという説もあります。


この時期、信長は天下布武に向かって戦いの日々を送っていますが、利家にとっても全く同じように戦いに明け暮れる日々でした。
夫の武者働きを支えるまつは、すでに賢夫人として織田家中に知れ渡っていました。大名となって家臣の数は増え、多くの子供にも恵まれ、まつは充実した結婚生活を満喫しつつ、膨れ上がっていく一家をしっかりと纏めていました。


そして、天正九年十月、利家は能登一国を拝領しました。ついに二十万石を超える国持ち大名へと栄進したのです。
利家四十五歳、まつは三十五歳になっていました。


天正十年六月二日早暁、主君信長が自刃。日本全土を揺るがせる大事件の発生は、利家・まつ夫妻にとっても想像を絶する出来事でした。


この頃利家は、越後の上杉景勝と激しい戦いを繰り返していました。武田勝頼を破った信長にとって、この方面の次の狙いは上杉攻略でした。
利家は富山城から北進し、上杉方の魚津城に迫っていました。景勝も重要拠点の魚津城を守るべく出陣していましたが、勝頼討伐を終えた織田軍が上野・信州方面から進出してきたため、魚津城を見捨てる形で本拠地の春日城に引き上げて行きました。
戦線が織田方有利に動き始めたまさにその時に、本能寺の異変が伝えられたのです。六月四日のことでした。


突然の報に織田軍は動揺し、全軍が撤退を始めました。
利家の軍勢は一晩で二十里 (80km) 程の距離を駆け抜けて、居城の一つである小丸山城に戻りました。
利家が領有する能登国は、二百年にわたり畠山氏が治めていました。二年前に織田軍により追い払われていましたが、信長死去となれば、旧勢力が上杉の支援を受けて動き出す懸念が強かったのです。


この懸念は現実のものとなり、六月二十三日には畠山氏の重臣だった温井・三宅らの勢力が越中から能登に侵入し、石動山天平寺に本陣を置きました。
利家は加賀の佐久間盛政や越前の柴田勝家に援軍を求め、自らも二十四日の夜に出陣しました。


戦いは、敵勢四千余りを撫で切りにし、千余りの首を山門にさらすという、一方的で残虐な形で勝利しました。
しかし、勝家を総大将とする織田の北陸方面の軍団は、旧勢力や宗教勢力、あるいは上杉勢の脅威のため領地を離れることができない状態になっていたのです。


一方の秀吉は、世に名高い「中国大返し」を敢然と実行し、利家が石動山の反乱を制圧した頃には、すでに光秀を討ち京都周辺を制圧していました。この差が秀吉の独走を許すことになったのです。
六月二十七日に行われた清州会議も、秀吉の思惑通りに進められました。
利家はこの会議には出席していません。勝家の与力のような立場でしたし、もし招集されても領国内が不安定で離れることは無理でした。


天正十一年四月、秀吉と勝家がついに激突、賤ヶ岳の合戦であります。
両者の戦いは、清州会議の結果から見て当然起こるべきして起きた戦いといえます。以前から二人の仲はあまり良くなかったようですが、経歴、戦法、処世方法、価値観など、どれをとっても正反対といえる二人だったのです。


この戦いは、利家に苦しい決断を迫りました。
利家は、北陸に領地を与えられて以来、勝家の与力のような立場でした。勝家は織田北陸方面軍の総大将のような立場にあり、利家はその指示下にあったからです。

それに、若い頃から勝家は利家に特別目を掛けてくれていました。拾阿弥殺害の時も取り成してくれましたし、浪人生活の間も何かと気遣いをしてくれていたのです。
二人は共に武者働きこそ何よりも重要と考えている点でも、親近感を深めていたのです。


一方で、秀吉とは家族ぐるみで親しい関係でした。四女の豪は秀吉の養女になっており、 親戚といっていいほどの関係なのです。
勝家の北ノ庄城にも、三女の麻阿が人質として差し出されていて、利家にとっては、どちらも戦いたくない相手だったのです。


賤ヶ岳は琵琶湖の北端部東岸に位置していますが、ここが信長後継者の最終決着をつける舞台になりました。
戦いは、最初こそ、織田信孝の決起の報に秀吉が美濃に向かった隙をついた勝家側が攻勢でしたが、素早く駆け戻った秀吉主力軍が反撃に出ると形成は一気に逆転してしまいました。


この時、利家率いる前田軍三千は、勝家側の第二陣として後方に陣を張っていましたが、味方の最前線が総崩れの状態になるのを見ると、戦うことなく撤退を開始し、嫡男利長の居城である越前府中城に引き上げてしまったのです。
勝家陣営大敗の原因の一つに、前田軍の行動も関係していることは確かだと思われます。


利家が府中城に戻ったのは合戦当日の昼頃でしたが、数時間後に北ノ庄に向かって敗走中の勝家が立ち寄っています。
利家・利長親子は勝家を丁重に迎え「ここを固めて追手を防ぎますから、北ノ庄で再挙を計って下さい」と話したと伝えられています。
これに対して勝家は「貴殿が秀吉と昵懇であることは承知している。今後は秀吉に従いお家の安泰を計られよ」と応えたとか。

どこまでが事実だか分かりませんが、利家親子の言葉は白々しく、勝家の言葉は器量が大き過ぎるようですが、資料として残っていることのようです。
ただ、この逸話は、当時の武士たちがお家第一に命を懸けていたことを示していると思うのです。


翌日には、今度は秀吉軍が追撃してきました。
秀吉は、大軍を城から離れた所に待機させて、ただ一騎で大手門に乗りつけてきたのです。
利家・利長が揃って迎え、書院に案内しようとして台所の横を通ると、
「まずは、まつ殿にお会いしたい」と台所に入り込みました。そして、まつに会うと同時に「この度の戦は、又左衛門殿に勝たせてもらった」と言って手を合わせました。さらに、養女にもらい受けている豪姫の消息についても伝えています。
何んとも良くできた話ですが、秀吉の面目躍如たる場面ではありませんか。


この頃のまつの消息を伝える正確な資料は少ないのですが、利家の活躍の裏にぴったりと寄り添っていることが、この秀吉とのエピソードでよく分かります。また、まつの心を掴むことが利家を自陣に引き込むのに有効であることを秀吉は承知していていたのです。
前田家中におけるまつの存在の大きさが感じ取れるエピソードでもあります。


さらに秀吉は、これからは利家の力を借りたいと北ノ庄攻めに同道するように求め、利長にはこの城でまつを守るように伝えました。
これに対してまつは、利長に自分に構わずお供して行け、と従軍させました。
いくら秀吉の言葉があるとしても、一度敵対した身であれば、のんびりと城など守っていないで、懸命な働きを示すことが必要なことをまつは知っていて、、夫と息子を前線に送りだしたのです。
子供を産み立派に育て上げる・・・、まつはそれだけの戦国武将の妻ではなかったのです。


四月二十四日、勝家はお市の方と共に自刃し、北ノ庄城は炎に包まれ落城しました。
落城寸前に人質になっていた麻阿は救出され、お市の方の三人の姫も城外に送り出され数奇な運命を生きることになるのです。


四月二十八日、越前・加賀を平定した秀吉は論功行賞を行ない、利家は能登を安堵された上に北加賀二郡を加増されました。利長も僅かながら加増され、戦いの経緯からすれば望外の厚遇といえます。
利家は一家揃って新しく与えられた尾山城に移りました。後の金沢城で、このあと三百年に及ぶ前田家の居城となるのです。
この時、利家四十七歳、まつは三十七歳になっていました。


勝家の滅亡により秀吉体制は大きく前進しましたが、天下掌握ということになればまだ道半ばという状態でした。
織田信雄は依然信長の後継者になる野望を抱いていましたし、家康はじめ大大名たちは秀吉を天下人と認めたわけではなかったのです。


能登と加賀半国を領有することになった利家ですが、北陸方面での最大勢力は丹羽長秀でした。
長秀は信長幕下の有力武将で、清州会議で秀吉派として行動したことから加賀の南半分と越前が与えられ、これまでの若狭と近江二郡を合わせて領有する太守になっていました。
秀吉陣営の北陸方面の総大将は長秀ということになるのです。


そして、前田家の後背にあたる越中一国は佐々成政が領有していました。成政は合戦上手として知られ、若い頃からの利家のライバルでした。
二人は同年代であり、信長に仕えたのも同じ頃で共に小姓としてでした。性格は、利家は槍一筋の律儀者と言われているのに対して、成政は腹の奥を見せない戦上手の野心家として知られていました。
共に信長幕下の旧知の人物ではありますが、油断できる人物ではなかったのです。


***     ***     ***


 


 


 

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ラスト・テンイヤーズ   第二十六回

2010-01-04 11:11:17 | ラスト・テンイヤーズ

   第三章  姫たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 8 )


天正十二年春、秀吉と家康が戦火を交えました。小牧・長久手の戦いであります。

事の発端は、信長二男の織田信雄が家康を頼ったことからで、秀吉軍十万と家康・信雄連合軍一万六千が小牧山で対峙しました。
戦いは、局地的には家康側が勝利していますが、全体としては膠着状態が続きました。


この戦いに利家は参加していません。千人ほどの部隊を派遣しただけで、秀吉からの命令もあり金沢に残っていました。
国内で一揆が蜂起する懸念があったことと、越中の佐々成政の動向が油断できないからでした。


果たして、小牧の初戦で家康側が有利に展開すると、成政は秀吉から離れる決意を固めたらしい動きを見せ始めました。そして、八月末には国境を越えて加賀に侵入、朝日砦を急襲したのです。
守備軍の大将は利家の最初の家来である村井長頼でしたが、奮戦し成政軍を撤退させましたが、次には末森城を攻撃してきました。


末森城は能登と加賀の国境に位置する要衝の地でした。
重臣奥村永福以下千五百人が守っていましたが、一万五千の成政軍に囲まれてしまいました。守備軍は必死の抵抗を続けましたが、兵力の差はあまりにも大きく、三ノ丸から二ノ丸と攻め落とされ、千二百人が討死しました。
本丸で最後の抵抗を続ける兵力は僅か三百になっていました。


三十キロ程離れている金沢城には、末森城の危機が刻々と伝えられていました。
危急の報に直面しながら、利家は決断に手間取っていました。その理由は、秀吉から金沢城を死守するように命令されていたことと、命令を無視して救援に向かうとしても兵力に差があり過ぎて全滅の恐れがあったからでした。


利家が対策に苦しんだ末ようやく出陣の決断をした時、まつが女房たちを引き連れて現れ、利家に厳しい口調で声をかけました。

「大軍と戦うのに、金銀の蓄えなど役に立ちません。蓄財は国が治まってからでよく、それより一人でも大勢の家臣を抱えることが肝要と申し上げてきたではありませんか。今さら人集めしようとしたところでどうにもなりません。いっそ、この金銀を引き連れて行って戦わせたらいいでしょう」
と言うと、女房たちが持っていた革袋の銭を利家に向かって投げつけました。


苦しい熟慮を重ねた上ようやく出陣を決意したところだったので、利家は大いに怒り、生かしておかぬと、まつの黒髪をつかみ脇差に手をかけました。
十一人の子を成した夫婦のとんだ修羅場ですが、家来や女房たちが中に入って何とか収めました。


利家は槍一筋の武骨者として知られていますが、その一面算盤を愛用していたといわれるように、経済面に関心が強く蓄財に熱心でした。
一方で、まつが家臣を増やすことに熱心だったとすれば、なかなかおもしろい夫婦であり、後々まで前田家においてまつが敬われるのが分かるような気がします。


怒りを抑えて出陣した利家は、苦しい戦いの末大軍を撃ち破りました。案外、まつが利家をけしかけたのが役立ったのかもしれません。
この戦いは局地的な合戦に過ぎませんが、利家にとって大きな意味のある戦いだといえます。


利家の生涯において最も厳しいともいえる戦いでしたが、それにも増して、単なる「槍の又左」ではなく、武将としての実力を天下に示したものだったのです。
翌年秀吉は、利家・利長父子に加賀・能登・越中の三か国を与え北陸支配を任せたのも、この戦いでの活躍の影響が大きかったと思われるのです。


やがて秀吉は、家康を臣従させることに成功し天下人に駆け上って行きました。
秀吉政権のナンバーツーは家康でしたが、利家も家康に対抗しうる存在として地位を高めて行きました。家康が力を持ち過ぎることに懸念を抱いていた秀吉が、利家を持ち上げようと意識していたこともあるでしょうが、利家の裏表のない人柄が人望を得ていたことも確かでした。


まつも利家の地位に応じて女性としての身分を高めていましたが、単に利家夫人というだけでなく、秀吉政権内でも小さくない影響を持つに至っていました。
その証左となるエピソードが、秀吉最後の盛大行事である醍醐の花見の席でのこととして残っています。


あの、世に名高い絢爛豪華な行列の輿の順序は、一番がねね、二番が淀殿、三番が松ノ丸京極氏、四番が三之丸織田氏、五番が加賀殿、六番がまつ、となっています。
一番は正妻で、二番以下は側室が続き、大名夫人としては、まつだけが加わっているのです。豊臣家内ばかりでなく公式行事においても特別な存在であることが分かります。


さらに、このような話も残っています。
この宴席で、秀吉から受ける盃の順番をめぐって淀殿と松ノ丸殿が争うという揉め事がありました。この時に、ねねとまつが仲裁に入って収めたのです。
ねねはともかく、まつも秀吉の側室たちをたしなめるほどの力を持っていたことが窺えます。


やがて、絶大なる権力を握っていた秀吉も、ついに世を去りました。
醍醐の花見から五か月後のことで、幼い秀頼の行く末を五大老たちに託しながらの最期でした。
臨終間近の秀吉に正常な判断力が残っていたとすれば、戦乱を戦い抜いてきた有力大名たちに秀頼を託すことの危うさを、十分承知したうえでの懇願だったことでしょう。


ただその中で、利家に対しては心底から秀頼の行く末を頼んでいたと思われます。
そして、恐らくまつも、ねねと共に秀吉の臨終の床近くに控えていたことでしょう。


しかし、秀吉が最も頼りにした利家も、翌慶長四年 (1599) 閏三月三日に亡くなりました。
秀吉に遅れること僅か半年余りの旅立ちでした。


利家は、ひと月程前には自らの死期が迫っていることを認識していました。 半月程前からは、遺物の配分を決め、遺言はまつに筆記させています。


死に臨んでこんなエピソードが残されています。
まつが経帷子を着るように勧めると「そのようなものはいらぬ。それはお前が臨終のときに着るがよい」と言ったとか。
また、「あなたは戦場で多くの人を殺してきています。罪深いことですから、ぜひこの経帷子を着て下さい」とまつが重ねて頼むと、
「確かに自分は乱世に生まれ、多くの敵を殺してきたが、全て理由があってのことだ。理由なく人を殺めたことなど一度もない。何の罪で地獄に堕ちるというのか。心配はいらぬ。経帷子など必要ない」と、答えたといいます。


槍一筋の前田又左衛門利家にふさわしい話です。
利家は、前田家の大坂屋敷で、まつや利長らに看取られての大往生でした。


***     ***     ***


まつは、髪を下ろして「芳春院」となりました。
利家の遺骸と共に金沢に戻り、葬儀に立ち合いました。嫡男利長は大坂に残り、父の葬儀には参列していません。
利家の後継者として大老職に就き、秀頼の守役も引き継いでいたからです。また、大坂を離れるなと利家から遺言されていたのです。


利家は利長に対して、自分の死後三年間は加賀へは帰らず秀頼を守るように遺言していましたが、その一方で、死のひと月ほど前に見舞いに来た家康に、余命が僅かなことを告げ、利長のことをくれぐれも頼むと付け加えているのです。
しかも、単なる挨拶としてではなく真剣に頼み込んでいるようなのです。それは、このあと利長に「お前のことは家康によく頼んでおいたから、わしが死んでも前田の家は大丈夫だ。天下は、やがて家康の者になるはずだ」と話しているからです。


遺言と父子の会話は相反しているといえます。
秀頼を守れという遺言は、情勢から察して家康から守れということだと考えるのが自然だと思われるのですが、天下を取るだろうという家康にお前の今後を頼んでおいたというのは、家康に敵対するなという意味になります。
果たして、利長やまつは、利家の意向をどう受け取ったのでしょうか。


利家の死後、前田家は苦しい立場に追い込まれます。 
石田光成をはじめとした反家康陣営にとって、前田は盟主に取り込みたい存在でした。秀吉没後の豊臣政権において、家康に対抗できる大名は前田以外には考えられませんでした。
しかしそれは、利家存命なればのことで、利長となれば役不足は否めないのですが、家康から見れば、利長になっても前田家の存在は無視できる勢力ではなかったのです。


家康は、懐柔と恫喝を織り交ぜて利長に帰国を勧めました。利長を秀頼から離そうというのが本音と思われます。
利長も大坂を離れることに難色を示していましたが、墓参や国元の状況把握などを強く勧める家康の意向を拒みきれず、帰国に踏み切りました。


すると、そのタイミングを待っていたかのように、家康暗殺計画なるものが浮上し、その首謀者が利長だと噂されたのです。
この話はデマだと考えられますが、利長に家康と対抗させたい勢力が企てた計略を、家康がこれ幸いと頂戴してしまったらしいのです。


家康は、素早く行動しました。
兵を率いて大坂城に入り、直ちに加賀討伐の号令を発しました。
利長は思わぬ濡れ衣に驚き、激しい怒りと大坂を離れた後悔の中で一戦も覚悟しましたが、当時大坂にいたまつと利長夫人の永が人質に取られている状態であることから思い止まりました。
結局、重臣の横山長知を大坂に派遣して釈明させることになるのです。


交渉は半年近く続けられ、ようやく利長の釈明が受け入れられましたが、その条件として、まつが人質として江戸へ行くことになるのです。
おそらく家康はこの段階で、前田家を滅ぼすよりも味方につける方が有利だと決断したものと思われます。


攻め滅ぼす意向ならば、事件の真偽に関係なくこの時がチャンスですが、味方にできるなら頼りになる勢力と考えたのでしょう。
そして、味方に引き寄せる決め手が、まつを人質に取ることでした。
まつは、単なる藩主の実母という立場ではなく、前田家中における大きな求心力や、豊臣家に対しても少なからぬ影響力を持っていることを、家康は承知していたのです。


***     ***     ***

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ラスト・テンイヤーズ   第二十七回

2010-01-04 11:10:21 | ラスト・テンイヤーズ

   第三章  姫たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 9 )


慶長五年 (1600) 五月十七日、まつは江戸に向かって伏見の前田屋敷を発ちました。
人質としての心重たい旅立ちでしたが、人質には重臣四人の子女も居り、それぞれに侍女たちが付き、護衛の侍たちも加わっていました。全体を統括するのは重臣村井長頼で、数十人の堂々たる一行でした。


一行が江戸に到着したのが六月六日。まつはこの旅の様子の一端を「東路記」として書き残しています。
江戸にはまだ前田屋敷はなく、おそらく江戸城内に住まいが用意されていたのでしょう。
まつは、五十四歳のこの時から六十八歳までの十四年間を人質として過ごすことになるのです。


まつが江戸に到着するのを待っていたかのように、家康の動きが激しさを増していきました。ついに上杉景勝討伐のために上方を離れたのです。
家康が大軍を率いて江戸城に入ったのが七月二日、まつたちの一行を追うように東海道を下ってきたことになります。


そして、この間隙を縫うように光成が挙兵し、関ヶ原の戦いへと進んでいきました。
史上最も名高いこの合戦は、徳川も含めた豊臣の家臣団が二つに分かれて激突した形ですが、この戦いの結果、家康が天下人としての地位を固めたことは明らかです。


利家が亡くなって僅か一年半で、天下は豊臣から徳川へと移ったのです。利家が利長に言い残したことは、極めて正確な情勢判断を下していたことになります。


この戦いにおいて、利長の去就は東西両軍にとって大きな影響を持っていました。
秀吉が定めた五大老はいずれも大大名で、毛利・宇喜田・上杉の三家は反家康の西軍と態度を決めていました。ただ一人利長だけは、態度をはっきりさせていなかったのです。


光成は、利長が秀頼の守役を引き継いでおり、秀吉と利家の緊密な関係からも西軍に加担すると計算していて、四大老が結集すれば戦力面は圧倒的に有利と考えていました。
家康も前田家を重視、まつを人質に取ったことで利長を味方にできたと読めたからこそ、上方を離れることができたのです。


利長は思い悩んだ末、「江戸にいる芳春院を見捨てることはできない」と、家康方につくことを決断しました。
まつは江戸に向かうにあたって、「わたしの身を案ずるあまり、家を潰すようなことになってはなりません。万一の場合には、わたしを捨てなさい」と言い残していましたが、利長にはまつを捨てることなどできなかったのです。


それは、利長の優柔不断だとか母への思い遣りなどといった理由ではなく、家康がまつに人質として大きな価値を認めたように、前田家にとって、まつは単なる先君の未亡人ではなかったのです。


秀吉政権下において、奥向きのことに限ってのことかもしれませんが、秀吉からも高く評価されていたことを有力武将であれば誰もが知っていたのです。
利長が簡単にまつを見捨てたりすれば、例え西軍が勝利し戦功をあげたとしても、利家の器量は評価されなかったことでしょう。


関ヶ原における戦いに先立つ七月二十六日、利長は二万五千の大軍を率いて越前に向かって金沢城を発ちました。
越前は殆どの大名が西軍に属していましたが、府中城の堀尾忠晴だけが東軍に属していて救援を求めてきていたのです。


前田軍は、弟の利政率いる能登軍と共に南下、八月三日には大聖寺城を一日で陥落させました。これを見た越前の小大名は、次々と恭順を申し入れてきました。


越前全体を制圧する勢いの最中に、敦賀城主大谷吉継が金沢を急襲するらしいという情報があり、利長は全軍を引き上げさせました。
結局これは偽情報で、吉継にうまく騙されたわけですが、家康がまだ江戸を出発していない状態の時に、前田軍だけで西軍主力との衝突を避ける口実になったことも事実でした。

情報の真偽にかかわらず、利長が本国を守るという大義名分の下で全軍を撤収させたとも考えられるのです。利長も、決して凡庸な武将ではなかったのです。


結局前田軍は、関ヶ原の地へは出陣していません。利政が出陣を拒んでいたため、出陣の機を逸したのです。
利政が本家と分かれて西軍に味方しようとした理由については、様々なことがいわれています。利家以来の豊臣家との関係を重視したという正論、妻が大坂で人質になっていたこと、嫡子のいない利長の後継をめぐる不仲説、などです。

もっと穿った見方をすれば、兄弟が両陣営に分かれて家の安泰を図ったということも考えられなくはありません。
この戦いでは、真田家などはそういう形を取っているのです。


利長の関ヶ原に向けての出陣は大幅に遅れましたが、家康はそれを咎めることなく最初の出陣を高く評価し、戦後の仕置では、利政から没収した能登一国と加賀の南二郡を加増したのです。


これにより前田家は、加賀・能登・越中の三国の太守となり、その禄高は百十九万五千石に及ぶものでした。
後に十七万石を二支藩に分与、ここに加賀百万石が誕生したのです。利長が三十九歳の時のことでした。

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ラスト・テンイヤーズ   第二十八回

2010-01-04 11:09:37 | ラスト・テンイヤーズ

   第三章  姫たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 1 0 )


関ヶ原の戦いの結果、加賀前田百万石が誕生しました。
しかし、前田家の隆盛の陰で、大きな試練を受けることになった子供たちもいました。


まだ二十三歳の二男利政は、領地を全て没収されました。そして、同時に武士を捨て、無事に返された妻と共に京都嵯峨野に隠棲し、こののち歴史の表舞台に姿を見せることはありませんでした。


この時四十二歳の長女の幸と三十八歳の二女の蕭は、共に前田家の重臣に嫁いでいました。夫はそれぞれに利長と共に働いていて勝利の恩恵を受けた側といえましょう。


二十九歳の三女の麻阿は、秀吉の側室となり加賀殿と呼ばれた人ですが、醍醐の花見のあと病気を理由に側室を辞して前田屋敷に戻り、病気が癒えた後に権大納言万理小路充房に嫁いでいましたので、関ヶ原の戦いの直接的な影響は受けていません。


二十七歳の四女の豪は、大変な悲劇に見舞われています。
夫の岡山城主宇喜田秀家は、西軍の副将格として一万六千の大軍を率いて関ヶ原で戦いました。総大将毛利一族の頼りない参戦ぶりに比べ、西軍の二割近い戦力を投入した宇喜田軍こそ中心戦力だったのです。


夫婦共に秀吉に育てられた恩義を果たすかのように奮戦しましたが、武運つたなく敗れました。
豪と三人の子供は大坂の前田屋敷いたと考えられますが、秀家は敗戦後逃亡を続けやがて島津を頼った後、八丈島に二人の息子と共に流されました。
豪と秀家が逃亡中に会えたのかどうか記録がありませんが、二人はこのあと数十年を遠く離れたまま生きることになるのです。


なお、前田家は八丈島の宇喜田氏に対して支援を行っており、それは実に明治維新で流罪が解かれるまで続いたそうです。
また、秀家は八丈島で八十三歳まで生きており、この人の『ラスト・テンイヤーズ』も詳しく知りたいものです。


二十一歳の六女千世も悲しい経験をしています。
千世は、丹後宮津城主細川忠興の嫡男忠隆に嫁いでいました。忠興は豊臣家臣団の武断派の有力武将で、光成らと激しく対立していました。上杉討伐の徳川軍に加わり、関ヶ原でも東軍として戦っています。


西軍方は、旗揚げと共に大坂と伏見の大名屋敷に兵を出し、大名の妻子を人質として大坂城に移そうとしました。
大半の屋敷では藩主妻子を先に脱出させていましたが、細川屋敷には忠興夫人と二人の娘、それに千世が残っていました。

忠興夫人お玉とは、あの有名なガラシヤ夫人のことですが、自分は人質となることを拒否して死ぬので、千世と二人の娘には逃れるよう指示しました。キリシタンとして自殺を禁じられているガラシヤ夫人は老臣の介錯を受けて世を去りました。
千世と二人の娘は無事脱出することができましたが、忠興は、武人の妻は危急の場合には潔く死なねばならないと怒り、千世を離別させてしまったのです。


まつの子供たちにも大きな犠牲を強いた関ヶ原の戦いでしたが、前田家は百二十万石を領有する屈指の外様大名として、江戸時代を生きて行くことになったのです。
前田藩は、徳川政権下の北陸の雄として重きを成すとともに、幕府からは常に警戒される立場でもありました。現に、関ヶ原で勝者となった豊臣恩顧の大名が数多く取り潰されているのです。


激しく移り変わる天下の情勢を、まつはどのような思いで見ていたのでしょうか。
江戸にあって、厳しい拘束は受けていなかったようですが、人質の身としては、国元の大事に尽力できず心痛めていたことでしょう。


そのような状況の中で、関ヶ原の戦いから一年経った慶長六年九月、利長の養嫡子利常に二代将軍秀忠の息女珠姫が嫁ぐという慶事が実現しました。
利常九歳、珠姫三歳という痛々しいような縁組でしたが、前田家が徳川の世を無事に百万石を守り抜き、しかも外様でありながら御三家に次ぐほどの家格を与えられる端緒になる大きな出来事でした。


その一方で、二女の蕭、三女の麻阿、さらには嫡男利長にも先立たれるという不幸に直面しています。
利長が没したのは、慶長十九年五月、大坂の陣が勃発する直前のことでした。死因は、覚悟の服毒によるものだともいわれています。


家督は九年前に利常に譲り、越中高岡城に隠居する身でしたが、豊臣方も徳川方も利長の力を高く評価し、あるいは懸念していました。
利長の心中には、御家大事という気持ちと共に豊臣に対する恩義や同情も消えていなかったと思われます。


利長の死が覚悟の服毒によるものだとすれば、将軍秀忠の息女を娶り、今や徳川幕下の最有力大名という地位を占めようとしている利常に対する配慮と、自らの心に息づく秀頼を護れという父利家の遺言が錯綜していたのかもしれません。


利長の死去により、まつは長い人質の身から解放されました。
もっとも、交代に利常の実母が江戸に赴いているのです。たとえ娘を嫁がせていても、徳川将軍にとって前田家は手放しで安心できる存在ではなかったのです。


まつは、手元で育てていた二男利政の庶子、すなわちまつの孫にあたる直之を伴って江戸を離れました。
この直之は、後に叔父である利常に召し抱えられ禄高一万石余の重臣となり、まつの血統を伝えていく人物なのです。


途中、高岡で利長の墓に参り、利長未亡人の永を連れて金沢城に向かいました。
慶長十九年六月のことで、藩主や家臣たちと共に、幸や豪や千世も出迎えたことでしょう。


翌元和元年五月には、大坂夏の陣により豊臣家が滅亡しました。
その翌年には、戦国時代の最終勝利者ともいえる家康も世を去り、戦乱の時代は終焉を迎えようとしていました。


そして、戦国の世の英雄たちの最後を確認し終えたかのように、元和三年七月十六日、まつは、金沢城内で藩主や娘たちに看取られながら七十一年の生涯を閉じました。
後々の世まで、賢夫人と称えられる鮮やかで見事な生涯でした。


***     ***     ***


 

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