第三章 姫たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 1 )
( 一 )
戦国時代、それは、わが国の歴史の流れの中で最も激しい時代であったといえましょう。
この時代の主役は、第二章で紹介させていただきましたように、戦乱の嵐の中を戦い抜いた武将たちであることは確かです。それは、単に勝者である人物に限らず、志半ばで倒れた人物であれ、裏切りの汚名を着せられた人物であれ、その懸命の生き方は現代生きる私たちに多くのものを伝えてくれます。
しかし、この激しい時代に生きたのは、現代にその名が伝えられる一握りの人だけではなく、雑兵として、また農民として、あるいは戦乱をさけて山中深くに生活を求めた人たちも、やはり懸命の人生があったはずです。
そしてそれは、男女の区別など有るはずがありません。
この章では、歴史上の人物として私たちに馴染み深い女性たちの『ラスト・テンイヤーズ』を考えてみました。
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最初に登場する姫は、お市の方です。
戦国時代を代表する人物を一人だけ挙げるとすれば、誰が選ばれるのでしょうか。
選ぶ人の主張や好みによって多くの候補が挙げられるように思うのですが、実は、案外少数のような気もするのです。
その中で、お市の方が有力な一位候補であることは異論がないのではないでしょうか。
その生涯は実にドラマチックで、しかも悲劇性に満ちています。
織田信長という大英雄に少し遅れて誕生し、天下布武を目前にして本能寺に倒れた兄に少し遅れて、炎上する城と運命を共にした戦国時代屈指の美女・・・。
お市の方は、ヒロインとしての全ての要素を含んでいるような生涯を送った女性でした。
お市の方は、天文十六年 (1547) 織田信秀の娘として誕生したとされています。
歴史上著名な女性の多くがそうであるように、お市の方の生涯のかなりの部分が謎に包まれていて、信長の妹ということにも異説があり、誕生の年にも諸説があるのです。さらに、浅井への輿入れの時期でさえ説が分かれています。
それはともかくとしまして、天文十六年という説に従うとすれば、お市の方は信長の十三歳下、前田利家夫人まつと同年代ということになります。
幼い頃の記録は残されていません。
十七歳の頃、北近江の実力者、小谷城主浅井長政と結婚。これにより歴史の表舞台に登場してきたのです。
当時の武将の娘の常として、この結婚も両家の利害の上に成り立ったものでした。
上洛を目指す信長にとって浅井は味方につけたい大名であり、浅井にとっても日の出の勢いの織田は敵対したくない相手でした。
両家の思惑が微妙な一致をみた結果の結婚でしたが、二人の仲は大変睦まじいものでした。
両家が敵対する状態になったあともお市の方は小谷城に残り、子供も誕生しているのです。
大名家同士の婚姻は、表向きは姻戚関係を結ぶことによる同盟ですが、実態は少々別の意味を持っていて、妻を娶る方は人質を手に入れるということであり、娘を嫁がせる方は間者を送り込むといった側面も持っていたのです。
お市の方にも、実家のために働いたという有名なエピソードが残っています。
信長が朝倉攻略のため浅井領を通って越前に向ったあと、夫長政が長年同盟関係にある朝倉に味方すると決定したのです。
長政は、朝倉との同盟を重視する父久政と、愛妻お市の方の兄である信長との義理に挟まれて苦心しますが、ついに信長打倒を決断したのです。
これにより、信長軍は浅井軍と朝倉軍による挟み撃ちという窮地に陥ったのです。この決定を知ったお市の方は、兄信長に危険を知らせるために働いているのです。
信長に対して最も猜疑心の強い舅の久政に「兄に陣中見舞いとして小豆を贈ってやりたい」と申し出たのです。
浅井家としても反旗を翻すことを悟られないために、信長に陣中見舞いを贈ることになっていたので、お市の方の申し出を受け入れました。
お市の方から贈られた小豆の袋は、その両端が紐で結ばれていました。すなわち、袋の鼠になっている、という謎が込められていたのですが、受け取った信長は瞬時にその意を理解し、直ちに戦線を捨てて京都に逃げ帰ったのです。
この時の退却は「金ヶ崎の退き口陣」と呼ばれ、信長の最も苦しい戦いとも伝えられているものです。
少々出来過ぎた話のようにも思うのですが、事実のようです。
また、お市の方の浅井家や夫長政に対する愛情の深さを考えますと、現在の私たちには信じられない行動のようにも思われるですが、戦国女性の実家に対する気持ちが垣間見られるエピソードのようにも思うのです。
天正元年 (1573) 八月、小谷城は織田軍により落とされ、ここに名門浅井家は滅びました。
お市の方は、三人の姫と共に救い出されます。お市の方が二十七歳、三人の姫は、お茶々が五歳、お初が四歳、お江はまだ誕生間もない頃でした。
長政の嫡男万福丸は逃げ切れずに殺されました。他にも男の子が一人あるいは数人いたらしく、全員が殺されたとも、寺で育てられた子がいたともいわれています。
お市の方は三人の姫と共に清州城に引き取られ、その後信長の弟信包の居城伊勢上野城に移っています。夫を殺され、実子でないとはいえ浅井家の嫡男を惨殺された信長のもとに居るのを拒絶したのかもしれません。
お市の方が清州城に戻るのは、信長が光秀に討たれた後のことになります。
天正十年六月二日未明、本能寺の変により信長自刃という大事が発生します。
この時お市の方はなお伊勢上野城にいましたが、信長との関係はどのようなものだったのでしょうか。長政を討たれた恨みのようなものを持ち続けていたのか、戦国の世の常と達観できないまでも、ある程度は心の整理ができていたのでしょうか。
信長にとっては、浅井との戦いも天下布武にむけた戦いのひとこまに過ぎなかったかもしれませんが、三人の姫を抱えたお市の方にとっては、そう簡単に割り切ることなど無理だったのかもしれません。
九年もの期間を伊勢上野城で暮らしていたとすれば、信長をまだ許していなかったように思われるからです。
本能寺の変では、信長の嫡男信忠も討たれています。
信長には多くの子がいましたが、後継者に値するほどの人物はいなかったようです。もっとも、信長ほどの英傑にふさわしい後継者など簡単なことではないでしょうが、どうも凡庸な人物ばかりだったようなのです。
その中で唯一後継者らしい武将といえる信忠を同時に喪ったことは、織田氏にとって二重の不幸でした。
仇敵光秀が討たれると、早くも次男信雄と三男信孝の間で家督争いが表面化してきました。
ところが、その間隙を縫うように、清州会議において信忠の忘れ形見三法師を立てた秀吉に主導権を取られてしまいました。
信孝は筆頭家老と目されていた柴田勝家と組んで、後継者争いの主導権を握ろうと画策していましたが、その有力な手段として、お市の方を勝家に嫁がせる案が浮上してきたようです。
もちろん、信孝にはお市の方に命令するほどの力などありませんから、織田家の将来のためと泣きついたのでしょう。
お市の方が勝家をどのように見ていたのかは分かりませんが、政略結婚が常識の時代でもあり、勝家と結べば信長の宿老たちの多くが織田支援に動くと考えたのかもしれません。
また、浅井氏殲滅の実行隊長ともいえる立場にあった秀吉に対して、恨みを抱かないまでも、少なくとも好意を持っていなかったと考えられ、このことも結婚を承諾した背景かもしれません。
お市の方は、三人の姫を連れて北の庄の勝家に嫁ぎました。勝家五十三歳、お市の方三十六歳の頃のことでした。
時代は、清州会議で主導権を握った秀吉の天下へと動いていきました。
織田家中第一の宿老で武者働き一筋の勝家にすれば、口先三寸で小者から駆け上がり信長にうまく取り入ったとみえる猿面冠者の下風に立つことなど考えられないことでした。さらに、織田家の隆盛復活がお市の方の悲願だったとすれば、両者の激突は避けることのできない必然の動きだったといえましょう。
世に名高い賤ヶ岳の合戦であります。
しかし、この戦いは、客観的に見れば勝家に分の無い戦いでした。
時代が大きく移りゆく中で、新興勢力に迎合することのできない古武士が散るための戦いだったのかもしれません。
天正十一年四月二十三日、お市の方は勝家と運命を共にしました。
当時、落城の迫った城から妻や女の子を逃すのが武将の慣いでした。勝家もお市の方に姫たちと共に落ちのびるように勧めたが、それを拒絶したと伝えられています。三人の姫たちを脱出させたあと、勝家と共に自害する道を選んだのです。
自刃と同じくして火がかけられ、長年に渡って貯えられてきた火薬が天守閣を天に向かって吹き飛ばしたといわれています。
お市の方、行年三十七歳とか・・・。
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