雅工房 作品集

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ラスト・テンイヤーズ   第十五回

2010-01-04 15:44:51 | ラスト・テンイヤーズ

   第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 9 )


天文二十年 (1551) 八月、大内義隆が、その重臣である陶隆房 (後に晴賢) の謀反により討たれるという大事件が発生しました。


この反逆は少々異例のもので、謀反といってもその計画は公然としていたもので家中の多くがむしろ陶隆房を支持していたのです。
陶氏も大内の一族であり、謀反というより家中の主導権争いのようなものでした。


隆房は勇将として名高く、一方の義隆は出雲における尼子との敗戦から全く精彩を欠き、人望を落としていたのです。
どうやら元就も、隆房から事前に支持の要請を受けていたようなのです。


義隆が討たれたという報せを受けると、元就は大内方の城数か所を攻め落としました。隆房の挙兵に呼応したのです。
しかし隆房は、元就を自分の支配下にある一豪族としてしか評価しなかったようで、元就が働きに応じた領地を要求するのに全く応じなかったのです。そのため元就は、隆房との手切れを決断することになるのです。


尼子との戦いは続いており、両面に敵を持つことに反対する家臣も多かったのですが、義隆に可愛がられてきた当主である隆元の意向が隆房討伐にあったことも、手切れの大きな原因でした。


隆房との手切れを決断すると、元就の行動は素早いものでした。
強大な大内勢力は、尼子の存在を考えれば、敵対するか従属するかの選択肢しかなかったのですが、隆房の反逆により、豊かで広大な大内の領土が、新たな獲物として見えてきたのかもしれません。


毛利軍は西に向かって進軍を開始しました。
隆房は毛利のこのような行動を予期していなかったのです。旗揚げ後の元就の働きに対しても望む恩賞を与えようとしなかったように、元就を過小評価していたようです。


隆房は山口に入り毛利対策を練り、元就も郡山城に戻り決戦に備えました。
この時元就は五十八歳、遅咲きの名将は、後に厳島の合戦として名高い決戦に知謀を凝らしていたのです。


この時点での両軍の戦力には大きな差がありました。
二万余の軍勢を持つ隆房に対して、元就の方はせいぜい四、五千の兵力でした。
この戦力差を埋めるべく、元就は策略を練り上げていきました。


謀略の第一は、江良興房を謀反の噂を流すなどして隆房に討ち取らせたことです。興房は知略にたけた勇将で、元就が最も恐れていた敵将だったのです。
さらに諜報活動は緻密さを加え、隆房率いる二万の大軍を厳島に誘い込むことに成功するのです。厳島を押さえられないように元就が苦心しているという情報に隆房が乗ってしまったのです。


弘治元年 (1555) 九月三十日、夕方から激しい嵐となり、厳島にひしめくように陣取った陶軍のかがり火も消えて、島全体が闇に包まれていました。


毛利軍本隊は嵐の中を島の東北部に上陸し、村上・来島両水軍の支援を受けた小早川隆景率いる千五百人も、陶方の援軍と偽って上陸に成功しました。そして、翌十月一日、夜明けとともに毛利軍は呼応して総攻撃を開始しました。


陶軍は全くの不意を突かれ大混乱に陥り、毛利方の一方的な勝利となり、午後二時頃に戦いは終わりました。
隆房は自害、討ち取られた首四千七百四十余りともいわれ、海に沈んだ者や逃亡した者の数も少なくありませんでした。


厳島の合戦の大勝利は、元就の名を大いに高めることになるのですが、手に入れた実利も極めて大きなものでした。
壊滅した陶軍の鉄砲を多数手に入れたことや、村上・来島という強力な水軍を陣営に加えることになったなど、毛利軍の戦力は飛躍的に増大したのです。


元就は休むことなく西に軍を進め、岩国に本陣を置きました。そして、旧大内領の諸城に投降を促し、反抗する者は武力で降していきました。
弘治三年三月には、隆房の子の長房を攻め滅ぼし、山口に入りました。さらに四月には、隆房により大内家の当主として豊後大友家より迎えられていた義長も自害し、ここに隆盛を誇った大内家は滅亡したのです。


大内滅亡により元就は周防・長門の二か国を手中にしましたが、敵対した豪族の残存勢力や郷村の抵抗は激しく完全掌握にはなお時間を必要としました。
しかし、大内亡き後の毛利の最大の敵は、やはり尼子でした。

元就は陶軍との戦いの間も、尼子に対して諜報活動や謀略活動を続けていました。尼子の戦力は依然強力で、毛利単独では正面切って対抗できない状態に変わりがありませんでした。


尼子家は、知勇兼備の名将経久の孫である晴久の代になっていました。
代は変わっていても、尼子には晴久の叔父である国久が率いる新宮党という強力な軍団が健在でした。
元就は陶隆房に対したのと同じような謀略を続け、ついに晴久の手で新宮党を討たせることに成功します。これにより、経久が築き上げた尼子家は少しずつ揺らぎ始めたのです。


尼子と大内は長年にわたって中国地方の覇を競ってきました。領地拡張をめぐり両軍は幾度も衝突していますが、争点の中心は石見国の内陸部にある大森銀山 (石見銀山) でした。

毛利軍が陶軍を破り岩国に進駐した頃、吉川元春は石見国に入り、大内に属していた豪族たちを従えながら、尼子が抑えていた大森銀山を奪取し、初めて毛利のものとしたのです。
しかし、その後尼子方は大軍でもって奪い返し、毛利軍も再三逆襲しましたが尼子方の守りは固く奪還することができずにいました。


永禄五年 (1562) 七月、元就は一万五千の軍勢を率いて出雲に攻め込みました。隆元、元春、隆景も加わった総攻撃でありました。
晴久の死去により尼子を継いでいた義久は、豊後の大友宗麟に援軍を求めました。宗麟はこれに応えて出陣、挟撃される危険を察知した元就は、隆元に命じて朝廷や足利将軍家に働きかけて、宗麟との和睦を実現させました。


この和睦の証として、隆元の長男幸鶴丸 (輝元) と宗麟の息女との婚姻がまとまりました。隆元は吉田に戻り幸鶴丸に会い、そのあと出雲に向かいました。
その途上、備後の蓮華寺に泊まり、和智城主和智誠春に招かれて饗応を受けました。そして、蓮華寺に戻ったあと急に苦しみだし、翌日未明に亡くなってしまったのです。
行年四十一歳、死因ははっきりしておらず、急病とも毒殺されたともいわれています。


元就は六十七歳になっていました。
これまでの人生も決して順調平易なものではなく、敵対する多くの人を殺めてきていましたが、四十歳そこそこでの嫡男の急死は全く予期していなかったことでしょう。

しかし元就は、己の動揺を押し隠して攻撃を続けました。
富田月山城を陥落させることが隆元への供養だと将兵たちを励ましますが、さすがに要害を誇る名城は、なかなか落とすことができなかったのです。


戦いは四年を超える長期戦となりましたが、永禄九年十一月尼子方は糧道を断たれ、ついに降伏しました。
義久ら三人の兄弟は助命され、安芸に落ちていきました。ここに尼子一族は全滅状態となり、元就は中国地方全土を手中にしたのです。


この尼子との戦いの途中、永禄七年の春に元就はかなり重い病にかかっています。足利将軍の命で京都から医師が送られていることから、かなり重病だったと考えられます。
しかし、ほどなく健康を取り戻したようで、永禄十年には七十一歳で男子をもうけているのです。


急死した嫡男隆元の跡を継いだ輝元は、相続時点で十一歳、尼子義久らを追放した時で十五歳でした。
毛利はすでに中国地方のほぼ全土、すなわち、備中・備後・安芸・周防・長門・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の十か国を支配する身上になっていました。


当主はまだ幼ささえ残る少年だとはいえ、毛利の両川として名高い吉川元春と小早川隆景は、共に本家に忠節を尽くす名将に育っておりました。
それでも元就には、なお安心できる状態には見えなかったのです。
河野氏を支援して伊予を平定し、九州では豊前、筑前に兵を進めているのです。


その一方で、立原久綱、山中鹿之助らに擁立された新宮党の忘れ形見尼子勝久が、織田信長の支援も受けて挙兵しています。
最初は大した勢力ではなかったのですが、勝久が出雲に入ると、散っていた尼子の旧臣や地侍たちの多くが馳せ参じ、勢力を増していきました。


さらに周防でも、大内輝弘が兵を挙げました。
輝弘は義隆の叔父にあたる人物で、大内宗麟の娘と結婚し機会をうかがっていたのです。輝弘が尼子の動きに呼応して宗麟の支援のもとに周防に入ると、大内の旧臣たちが集まり数千人の勢力に膨れ上がり、山口に攻め込みました。


この時元就は、下関で筑前の立花城攻撃の指揮をとっていましたが、続々と危急の知らせが続き、ついに立花城攻撃の打ち切りを決断し退却を命じました。
大友の大軍と対峙している状態からの退却は容易なことではありませんが、元春に山口を急襲させました。


この迅速な行動に、一度は大内方についた者たちの多くが逃亡してしまい、輝弘は孤立、山口を占拠してから十日ほど後には自害に追い込まれました。


大内勢力を撃ち破った毛利軍は、翌永禄十三年一月、輝元を総大将とした一万数千の大軍で出雲に進軍しました。
しかし、尼子軍は勢力を増大させていて毛利軍は攻めあぐみました。


四月に改元されて元亀元年となった夏頃から、元就は寝込む状態になっていきました。
出雲の戦線から、輝元と隆景が郡山城の元就のもとに戻りました。この頃から元就は、自ら決断できない状態になっていたようなのです。


元亀二年 (1571) 六月十四日、元就は輝元や隆景に看取られながら生涯を閉じました。
行年七十五歳。二百に及ぶ合戦に明け暮れた英雄の静かな最期でした。ただ、元春はなお出雲の戦場にあり、父の臨終に立ち合うことはできませんでした。


***     ***     ***


私たちが戦国武将の伝記を紐解く時、有力武将の多くが天下を掴むことを目指していたように考えてしまう傾向があります。
しかし、実際はどうだったのでしょうか。

信長は早くに「天下布武」を宣言していましたし、都を目指したとされる武将も数多く伝えられています。でも、本当にそうだったのでしょうか。本気で天下を治めようと考えた戦国武将は、それほど多い数ではなかったのではないかと思うのです。

毛利元就は西国の雄として、十か国を超える版図を有するに至りました。
この時点における領土の広さや動員可能な兵力からみれば、元就が最大最強の武将だったといえるでしょう。
しかし、元就には天下を治める野望などなかったと思われます。


最愛の妻を亡くし、家督を嫡男に譲った時、元就は本気で隠居を考えていたのではないかと思われるのです。
元就に『ラスト・テンイヤーズ』という意識はなかったとしても、修羅場のような戦いの日々から退いて、静かな隠遁の生活を考えたのではないでしょうか。


しかし、いくら家督を譲ったからといっても、毛利家の将来を考えればまだ未熟な嫡男に全てを託すこともできなかったことでしょう。
そこに大内の当主が討たれるという大事件が起こり、元就がこれまで描いたこともなかった構図が浮かんできたのです。
元就は自らの気力を鼓舞しながら、新たな『ラスト・テンイヤーズ』を描いたのではないでしょうか。


そして、その十年が終わる頃には、尼子との対立は続いていましたが、大内領を手中に収め、隆元、元春、隆景の三人の息子は逞しい武将に成長していました。
元就は思い描いた人生設計に達成感を感じていたのではないでしょうか。


しかし、元就は再び『ラスト・テンイヤーズ』の構築を迫られるのです。
嫡男隆元の急死という予期せぬ悲劇に遭遇してしまったからです。
この時元就は六十六歳、現在とは比較にならないほどの老齢にあたります。


元就は、新しい当主となった孫の輝元のために、再び老骨に鞭を討ちます。
毛利のために、毛利の安泰のために、知謀の限りを注ぎ込んで戦い続けます。


元就の最後の『ラスト・テンイヤーズ』の起点を六十六歳と考えますと、完成の一年前に亡くなったことになります。さらに、亡くなる一年ほど前からは戦いに出ることはできず、やがて判断力も失っていったと思われます。

しかし、元就の『ラスト・テンイヤーズ』には、満足感が漂っているように思われてなりません。
築き上げた領土は中国地方全土に及び、嫡男を早世させたとはいえ子孫に恵まれ、関ヶ原以降徳川時代は不遇ともいえますが、明治維新への胎動期には、毛利が大きな原動力となっているのです。

元就が生涯かけて求め続けたのものは、ただただ毛利の安泰だけで、功成り名を遂げた『ラスト・テンイヤーズ』を送った武将といえるのではないでしょうか。
 


 




 


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