第二章 戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 10 )
( 五 )
馬上少年過 馬上に少年の時は過ぎ
世平白髪多 世は平らにして白髪多し
残躯天所赦 残躯は天の赦すところ
不楽是如何 楽しまざることこれ如何せん
四十年前少壮時 四十年前少壮の時
功名聊復自私期 功名いささか自ら期す
老来不識干戈事 老い来たり識らず干戈の事
只抱春風桃李巵 只春風に抱かれ桃李の盃をとる
この二つの詩は、伊達政宗の作品です。
五十歳代半ばに作られたという漢詩には、独眼竜と呼ばれ戦場を駆け巡ってきた男の切ない気持が込められているように思えてならないのです。
由緒ある家系を持つ武将の子に生まれ、武勇に優れ知謀は戦国武将の中でも抜きんでたものを有し、また教養人としても高く評価される政宗。
動乱の世の中にあって、数多くの殺戮や権謀術数の泥を飲みながら走り続けてきた日々は、何を求めてのものだったのでしょうか。
そして、激しい人生の過半を過ぎて、戦い続けてきた足跡を想う時、その胸に去来するものは何だったのでしょうか。
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伊達政宗は、永禄十年 (1567) 八月三日、米沢城主伊達輝宗の第一子として誕生しました。輝宗は二十四歳、母は山形城主最上義守の息女義姫で二十歳でした。
幼名は梵天丸、後の政宗が誕生したこの年は、戦国時代の幕開けとされる応仁の乱から数えて百年目に当たり、群雄たちの争いが大詰めを迎えようとしている頃でありました。
織田信長が足利義昭を奉じて京都に入ったのが政宗誕生の翌年のことです。
因みに、政宗誕生時の有力武将たちの年齢を見てみますと、今川義元四十九歳、武田信玄四十七歳、織田信長三十四歳、豊臣秀吉三十一歳、徳川家康二十六歳と、いずれも働き盛りの年齢であり、毛利元就に至ってはすでに七十一歳になっていました。
そして、政宗が十八歳で家督を相続して一族の棟梁になったのが天正十二年 (1584) 十月のことで、中央ではすでに秀吉の天下が固まりつつありました。
信長が本能寺の変で倒れたのがこの二年前、秀吉が関白になったのが翌年七月のこと。政宗は、まさに遅れてきた英雄だったのです。
すでに権力構造が固まりつつある中で、政宗の半生は、冒頭の詩にあるように戦いに明け暮れる日々だったのです。
中央では信長という巨星の出現により、百年に及ぶ乱世も収束に向かおうとしていました。
その信長は明智光秀の謀反にあい志半ばで倒れましたが、間髪を入れず秀吉が跡を襲い、天下統一への流れに変わることはありませんでした。
しかし、都から遠く離れた奥羽の地では、なお群雄割拠の状態が続いていました。むしろ中央勢力との関係も複雑に絡み、混迷を深めていたのです。
伊達氏は奥羽における有力豪族ではありましたが、周囲に割拠する豪族たちも兵を養い、互いに連携し、あるいは互いに隙を狙っている状態でした。
伊達氏は、政宗の妻の実家である田村氏とは友好関係にありましたが、東に相馬氏、北に最上氏、そして南には畠山氏・足名氏・佐竹氏などが勢力を張っていました。特に相馬氏とは、何度も攻防を繰り返している関係でした。
このように中央から取り残されたような混乱の奥羽の地で、政宗は波乱の人生をスタートしたのです。
五歳の頃に疱瘡を患い、これが原因で右眼を失明しました。後に独眼竜政宗と畏敬される原因になるのですが、幼年期の政宗はこのことも原因してか人見知りが激しかったようです。
そのため重臣たちの中には武将としての器を疑う者もあり、母義姫の愛情も著しく弟に偏っていました。やがてこのことが政宗と母や弟との不幸に繋がって行くことになります。
十一歳で元服、梵天丸から藤次郎政宗となります。
十三歳で結婚。妻となった愛姫は十二歳、三春城主田村清顕の息女です。当時の常識として、この結婚も両家を結びつけるための政略結婚でした。
豪族たちは婚姻を通じて同盟関係を築くことに奔走していましたが、入り組むように複雑に結ばれた婚姻関係が絶対的な安全を保証するものでもありませんでした。血の繋がった兄弟同士が争い、父と子が戦うことさえ珍しいことではなかったのです。
それでも豪族たちは、血縁や婚姻、利害や義理などが複雑に絡みあう中で、婚姻関係を有力な同盟の手段として評価していたのです。
十五歳で初陣。宿敵相馬氏との戦いでした。
相馬氏とは、初陣の後も奪われた領地を取り返すために父と共に三年に渡り戦い続け、旧領を奪回しています。
そして、田村氏らの調停により相馬氏との和睦が成立したのを機に、父輝宗は十八歳の政宗に家督を譲りました。
この時輝宗は四十一歳の働き盛りであることを考えれば、政宗に余程の非凡さを認めていたのでしょうか。
家督を受け継いだ政宗は、田村氏との同盟を軸にして、強力な旗本を率いて対立する豪族たちと激しい戦いを繰り広げました。
芦名、大内、佐竹、二階堂、岩城、石川、白河、畠山、最上、相馬、大崎、黒川・・・、割拠する豪族たちは、伊達・田村連合を中心に渦巻くように、ある時は連合し、ある時は様子を窺い、ある時は激しく干戈を交えました。
都から遠く離れているとはいえ、中央の動向や天下を狙う大大名たちの思惑も微妙な影響を与えていました。
政宗の武勇は戦うごとに非凡さを増し、領地も拡大していきました。
しかしながら、戦いは常に非情なものであります。奥羽に限ったことではありませんが、合戦の度に多くの血が流されました。それは兵士に限らず農民や女子供も巻き込んだ悲惨なものばかりでした。
政宗とて楽な戦いなどなく、幾度かの敗戦を経験し多くの旗本を失ってもいます。とりわけ悲惨だったのは畠山義継との戦いで、敵に捕らえられた父輝宗を敵将共々戦死させる事態になったことでした。
さらに、保春院 (実母義姫) によって毒殺されそうになり、これが原因で弟小次郎を斬殺することなり、母も実家を頼って山形に逃れるという事件も発生しているのです。
この事件は、幼い頃から政宗を疎み小次郎を溺愛していた保春院によって起こされたものですが、その背景には、保春院の兄である最上義光が小次郎を立てて伊達家を牛耳ろうと画策したものでした。
当時の豪族の婚姻は政略主体なのが常識ですが、女性が一方的に犠牲になっていたと考えるのは正しくないようです。
戦国期の武将の妻は意外に逞しく、教養もあり実権も相当のものを握っていました。そして、実家に対して情報を送るのもごく当り前のことだったのです。
この事件で政宗は、実の弟を殺害するという辛い決断をしていますが、これもまた特別なことではなく、信長も、信玄も、謙信も、そして家康も、一家の勢力を守り拡張していく過程で骨肉の血を流すという決断をしているのです。
これは、討たなければ逆に討たれるという戦国武将たちにとって、避けて通ることのできない宿命なのかもしれません。
戦乱の世に遅れて生まれてきた武将伊達政宗は、家督を受け継いでから僅か五年、二十四歳の頃には奥羽の覇者としての地位を掴もうとしていました。
その領地は、広大な陸奥・出羽両国六十六郡のうちの三十余郡に広がっていました。これは、平安後期に栄えた平泉藤原氏に匹敵するほどだったのです。
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