第二章 戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 12 )
伊達政宗は、国分氏の旧城である千代城に新たな縄張りを始めました。関ヶ原合戦が行われた年のことです。
千代 (センダイ) の文字を「仙台」と改め、本拠地としたのです。
本丸の構築が完成するのに十年を要し、五基の隅櫓を有する堂々とした構えでしたが天守閣は築かれませんでした。
徳川に対する遠慮からだと考えられていますが、その反面、軍事を重視した時代遅れともいえる山城でした。
政治を行う不便さを補うために低地に二の丸が加えられましたが、それは政宗没後のことです。
慶長八年二月、家康は征夷大将軍となり徳川幕府が始まりました。
豊臣秀頼いまだ大坂にあるとはいえ、時代の趨勢はすでに決していました。大坂城が落ちるのは十二年後のことですが、それは豊臣の時代が終わったということではなく、豊臣家が徳川の世に順応することができなかったというだけのことなのです。
政宗も仙台城に移り、新たな町造りを進めました。
すでに徳川の体制が盤石であることを感じ取っていたと思われ、仙台を中心とした領地六十万石、後に給与された近江・常陸での二万石を加え、六十二万石を有する雄藩としての国造りに邁進していきました。
政宗は三十代後半から四十代という人生の充実期を、徳川家との対応と仙台城を中心とした国造りとで過ごしています。
諸大名の中で最も多くの家臣を擁した伊達藩は、六十万石の全てを家臣の知行に当てています。表高を相当上回る実高を有していたからできたのでしょうが、家臣を重視する政策を行っていたことは確かだと思われます。
また、城下の町人屋敷の中核をなしたのは、政宗が生まれた米沢城下から次の本拠地岩出山へ移り、さらに仙台城下へと移ってきた人々でした。
これは、政宗が単に勇猛なだけの武将ではなく、治世にも優れていた証左ではないでしょうか。
仙台は大都市として整備され、江戸・大坂・京都は別格としましても、金沢・名古屋に次ぐ都市に発展し、奥羽の都としての地位を占めるようになっていったのです。
少し戻りますが、政宗は慶長七年に家康に与えられた江戸屋敷に移っています。幕府開闢の前の年のことで、翌年正月には妻子共々十四年に及ぶ上方生活を打ち切ったのです。
こののち政宗は、ほぼ一年ずつ江戸と仙台を交替して過ごしているのです。まだ参勤交代の制度など無い時のことで、さらに婚姻を進めるなど徳川家との緊密化に努力しています。
豊臣家のことに関しても、秀頼をそばに置いて成人後に然るべく処遇するように家康に具申したといわれています。
それが事実だとしますと、大変微妙な問題に関しても具申できるだけの信頼関係が両者の間にあったということになります。
しかし、結局豊臣家は滅びてしまい、徳川将軍家による二百数十年に及ぶ戦いの無い時代の基盤が作り上げられていきました。
大坂落城から、いくら隆盛を誇っていても時の流れに逆らって生き延びることの難しさを、政宗は強く感じ取ったのではないでしょうか。
元和二年四月、戦国時代の主人公ともいえる家康が没しました。
病の報を受けて駿府に赴いた政宗に、家康は後事を託したと伝えられています。
秀吉と違い、家康が没しても徳川政権は盤石の体制が出来上がっていました。それでもなお、家康が自分の死後の徳川体制に少なからぬ不安を抱いていたことは、幾つかの話として伝えられています。
そして、不安の中心を成す外様大名の中で、家康が誰よりも政宗を頼りとしたということは真実ではないでしょうか。
この時、家康は七十五歳、政宗は人生の絶頂期ともいえる五十歳でありました。
また、政宗に対する熱い信頼は家康にとどまらず、二代将軍秀忠も死に臨んでは政宗に後事を託しているのです。
三代将軍家光の時代には、政宗に対する信頼も待遇もさらに厚くなっているのです。
外様大名とはいえ将軍家との縁故を有し、家康と轡を並べた武将の殆んどが世を去っていて、政宗の存在感はさらに大きくなっていました。
官位も従三位権中納言 (黄門) という高位にあり、何よりもその武勇と識見の高さは若い将軍を魅了するに十分な存在だったのです。
寛永十三年 (1636) 政宗は七十歳を迎えました。この年の二月頃から体調不良が目立ち始めました。
四月二十日、五月の予定を早めて江戸に向かいました。
この出立が仙台城や家臣たちとの最後の別れとなると覚悟を決めていたのでしょう、重臣たちに後事を託しています。
旅の途中で病はさらに重くなりましたが、二十五日には日光に参詣しています。
この年は家康の二十一回忌にあたっていました。政宗は家康とどのような語らいをしたのでしょうか。
二十八日、江戸屋敷に到着。殆んど食事が摂れない状態になっていました。
五月一日登城、将軍家光に拝謁しました。
家光は政宗のあまりの衰弱ぶりに驚き医師を遣わしました。
容体を知った幕府要人や諸大名たちが見舞いの使者を差し向けましたが、政宗はその度に裃に威儀を正して迎えたと伝えられています。
二十一日、将軍家光自らが伊達屋敷に政宗を見舞いました。
二十三日、夫人などからの対面の願いを退け、形見の品を贈りました。そして、夫人には書を送り、嫡男多忠宗に将軍家への奉公と家臣の繁栄に努めるよう助言することを申しつけています。
その後部屋を清掃させ、夜になってから沐浴し、髪を結い直し衣服を改めてから寝につきました。
夜半に目覚めて「今夜は秋の夜よりも長く思われる。少年の頃から度々死地を逃れてきたが、このように畳の上で死ねるとは思わなかった」と、宿直の者に語ったとか・・・。
二十四日、朝早く起き、髪を整え手水をすませました。
「死後みだりに人を入れぬように」と命じて床につき合掌。
死去は午前六時頃、行年七十歳でありました。
*** *** ***
さて、政宗の『ラスト・テンイヤーズ』を辿ってみましょう。
行年から遡りますと、六十一歳の頃が起点になります。
この前年、秀忠に従って参内し権中納言に叙任されています。つまり奥羽の黄門さまになったのです。
秀忠はすでに将軍職を家光に譲っていましたが、実権はまだ掌握していました。家康のあまりに大きな存在の陰に隠れて、秀忠を凡庸と捉えてしまいがちですが、実際は徳川長期政権にとって欠かせない人物だったのです。
大変厳しい政策を行っていて、外様だけでなく一門・譜代を含む三十九の大名を改易にしているのです。朝廷や寺社に対する統制も厳しく行い、幕府の基盤を固めるうえでの貢献は極めて大きいのです。
反対に、大名、特に外様大名にとっては、秀忠の治世は心休まることのない厳しい毎日だったといえます。
伊達藩とてその例外ではなく、政宗の苦心が六十二万石を支えたのです。
幸い秀忠は、家康の遺訓を守って政宗を重用しましたが、戦場を共にしてきただけに政宗の高潔な人柄と器量をよく承知していて、むしろ積極的に政宗をブレーンに取り込んでいったと考えられるのです。
最後の十年を迎えた頃、政宗に天下を狙うとか奥羽を手に入れるといった野望は、すでに無かったと思われます。
徳川将軍体制もすでに三代目に入り、全国津々浦々まで威光が浸透していました。
将来の禍根を断つために、関ヶ原では東軍方の主力を担った有力外様大名が次々と取り潰され、体制に害をなすとなれば一門とて容赦なく切り捨てているのです。
しかも、それらの過酷な仕置に対して反抗らしい反抗も起きていないのです。
関ヶ原の合戦のあと「百万石のお墨付き」に関わる出来事がありました。結果からみれば、政宗が家康に上手くあしらわれたという感じになりますが、奥羽の覇者になりたいという野望を呑み込んで「百万石のお墨付き」をまぼろしにしたことが、その後の伊達藩と政宗の安泰に繋がったようにも見えるのです。
政宗は、文武に抜きん出た才能を鎮めるようにして『ラスト・テンイヤーズ』を徳川家との関係強化と仙台六十二万石の経営に没頭したのです。
そして、いよいよ七十年の生涯の最後を迎える時、三代将軍家光が示した真情あふれる行動は、政宗の心血を注いだ努力が報われた証ではなかったでしょうか。
遅れてきた武将、伊達正宗。
その生涯の紆余曲折はともかく、『ラスト・テンイヤーズ』を生きる姿はまことに高潔で、病を得たあとの最後の生き様は実に潔く清々しいものでありました。
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