雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ラスト・テンイヤーズ   第十七回

2010-01-04 15:43:05 | ラスト・テンイヤーズ

   第二章  戦国武将たちの『ラスト・テンイヤーズ』 ( 11 )


天正十八年 (1590) 二十四歳の政宗に大きな試練が襲いかかりました。

天下人としての地位を固めてきた秀吉は、ついに関東の雄北条氏の拠点である小田原攻めを決定したのです。この年の正月、政宗に対しても小田原参陣を命ずる書状が届きました。
この命令書は、奥羽の統一を夢見ていた政宗に大きな決断を迫るものでした。


政宗に限らず、奥羽の有力豪族は中央の情勢把握や、権力者との誼を求めて積極的に行動していました。台頭著しい秀吉に対して、政宗は馬を贈るなどして接触を図っていましたし、すでに秀吉に属していた芦名氏を討伐したことについて弁明を行ったりしていました。
他にも、前田利家、豊臣秀次など秀吉側近の有力者にも働きかけをしていました。


これらの一連の行動は、秀吉を敵に回さないための予防であって、政宗には秀吉幕下に入る意志など無く、対等に向き合える手段を模索するための接触だったのです。


しかし秀吉からは、幕下の大名と全く同じように参陣を指令してきたのです。この指令に従って小田原に参陣するということは、秀吉の軍門に降るということを意味しているのでした。

受け入れたくない命令ですが、安易に拒絶するわけにもいきません。もし北条氏が敗れた場合、あるいは和議が成立した場合でも、秀吉の次の獲物が奥羽であることが明白だからです。
しかも、政宗の侵略を受けている豪族たちの中には秀吉に助けを求めている者もあり、北条を片付けたあとは伊達だと秀吉が考えていることは想像に難くないことでした。

同年三月一日には秀吉本隊が京都を出発しました。
政宗に出陣を催促する使いが次々とやってきました。当然北条方からも強硬でしかも好条件の誘いがあったことでしょう。
秀吉の北条征伐は、服従しようとしない北条を討つのが目的ではありましたが、同時に北関東や奥羽に散らばる大名や豪族たちの旗幟を鮮明にさせる狙いもあったと考えられます。


政宗は一族や重臣たちと軍議を重ね、ついに小田原参陣を決定しました。政宗の生涯において、実に大きな意味を持つ苦渋の決断だったことでしょう。


この頃、政宗の心の中に天下人という目標があったのかどうかは分かりません。
奥羽は都から遠く離れており、すでに信長や秀吉によって京都を中心としたあたりの勢力争いは終息されつつありました。それに、家督を継いでからの五年余りは対立する近隣の豪族たちとの戦いに明け暮れる日々でした。
遠い都や西国については、状況を把握する以上の興味はなかったのではないかと推察されます。


従って、いくら青雲の志が高いといっても、天下を望むという発想まではなかったと思うのですが、奥羽の地、すなわち陸奥と出羽両国を支配下に置くことは、すでに構想していたのではないでしょうか。


小田原参陣という政宗の苦渋の決断をめぐっては、重臣たちの意見も分かれ家中は動揺しました。その動揺を突くかのように先に述べました毒殺未遂事件が発生し、藩内はさらに混乱しました。

このため政宗の出陣は大幅に遅れ、小田原に着いたのは落城がひと月後に迫った頃になってしまいました。
秀吉の怒りは激しく、政宗に謁見を許さず、山中に押し込められるという危機を迎えています。
必死の弁明の結果ようやく謁見を許された時には、諸大名が居並ぶ中を政宗は死装束で望んだと伝えられています。


***     ***     ***


北条氏を滅亡させると、秀吉は短期間のうちに奥羽の仕置を完了させました。
政宗の所領は旧芦名領を除き概ね安堵されましたが、蒲生氏郷、木村吉清という秀吉腹心の大名に監視されるような配置がなされました。


政宗の神経に触るような勢力配置でしたが、特に氏郷とは一揆討伐とも絡んで険悪な関係が続き、真否はともかく政宗が氏郷に毒を盛ったという記録さえ残っています。


政宗と秀吉の関係も当然緊張した関係が続いていました。臣下に加わったからとはいえ秀吉は政宗を油断できない若造と警戒していたようです。しかし、それでいて、ずいぶん可愛がっているようなふしもあるのです。
おそらく秀吉は政宗の器量を認めていて、奥羽の安定には欠かせない人物だと考えていたのではないでしょうか。


文禄元年 (1592) の朝鮮出兵の時には、前田軍、徳川軍に続いて京都を発っています。僅か二年足らずで秀吉幕下の主力大名として処遇されていることが、この出立順序から窺えます。
政宗は秀吉から割り当てられた員数の二倍にあたる三千人を率いていました。軍勢の装いは一際きらびやかで人目を引くものでした。
「伊達者」という言葉が生まれたといわれるように際立ってはでやかなもので、何かにつけて派手好きな秀吉を大いに喜ばせました。


朝鮮でも苦しい戦いの中で奮戦し、有力大名としての地位を固めていきました。
しかし、その矢先に関白秀次が謀反の疑いで処罰されるという大事件が発生し、政宗も加担していると疑われる危機に直面しています。


そして、この時もそうですが、小田原参陣遅延の時以来、危機に直面する度に支援してくれる徳川家康の存在が政宗の心の中で大きくなっておりました。


慶長三年八月、秀吉はその波乱の生涯を閉じました。政宗は三十二歳になっていました。
豊臣政権は秀吉という強烈な個性により作られ維持されていました。一見強固と見えた基盤は、秀吉という存在が除かれるとあまりにも脆弱で、時代は激しいうねりを伴いながらも確実に家康の時代へと動いていきました。


豊臣政権下で国内の戦は消えていましたが、秀吉の死と共に大名たちの思惑が表面化してきました。その激しいうねりの中心には家康が居り、その実力は抜きんでていました。
家康への流れに歯止めをかけることができる人物としては、僅かに前田利家が挙げられるばかりです。


利家は北陸の雄藩としての実力があり、秀吉恩顧の大名たちに人望があり、ひびが入りかけている豊臣政権をまとめるだけの器量を持っていました。
単独では前田家を遥かに超える実力を備えている家康ですが、安易に利家を敵に回すことはできませんでした。
しかし、翌年春、利家が秀吉の後を追うように没しますと、家康の動きは目に見えて激しくなり、時代は関ヶ原の合戦へと動いていったのです。


政宗は、長女五郎八姫と家康の子息忠輝との婚約を結ぶなど、逸早く旗幟を鮮明にしました。
中央を窺う家康には後背にあたる奥羽の地に有力な味方が必要でしたし、政宗も蒲生氏の後に移ってきた上杉氏と対抗するためには、徳川を敵にすることなどできません。
両者にそれぞれの思惑があったことは確かですが、早い時期から家康は政宗に好意的だったようです。


伊達軍は関ヶ原の合戦の前哨戦ともいえる上杉景勝討伐軍に加わり、石田光成が挙兵した後もその任務を任されました。
天下分け目の戦いは、単に関ヶ原における東西両軍の激突だけでないことはすでに述べておりますように、全国各地でそれぞれ敵対する相手と戦いを繰り広げていたのですが、その中でも家康が最も気がかりだったのは上杉の動向でした。


上杉軍に自在に行動されるようなことになれば、後背を突かれる恐れがあり、悪くすれば江戸に乱入されることさえ懸念されたからです。
政宗に与えられた任務は決して軽いものではなかったのです。


そのことは家康も十分認識していて、政宗に五十万石程の加増を約束していたと伝えられています。
これまでの五十八万石と合わせて「百万石のお墨付き」と呼ばれるものですが、これは実現されませんでした。


政宗が南部領内の一揆を画策したため家康が約束を反故にしたといわれていますが、家康らしい老獪さが感じられるとともに、政宗も混乱に乗じて領地拡大をはかる図太さを持っていたともいえる、面白いエピソードだと思います。

政宗が家康を頼りにしていたことは確かだと思われますし、家康も政宗の器量を評価し可愛がっていたと考えられますが、この当時の二人の関係は、単純な親分・子分の関係ではなかったことが窺えます。


***     ***     ***



 


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