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明日は極東国際軍事裁判開廷の日(東條英機大将はなぜ自決したか)

2006年05月02日 | 東條英機
昭和二十一年五月三日からポツダム宣言に違反して、報道や言論の自由を奪ったうえ極東国際軍事裁判(東京裁判)が始まっています。
昨年から靖国神社に、所謂A級戦犯が祀られているから参拝するなとか、分祀論の声を聞く。

石原慎太郎や佐々敦行なども東條英機を批判しています。 なぜ敗戦後すぐ自決しなかったのか、また陸軍大臣たるものが自決を仕損じるとはと。

東條英機がなぜ敗戦後、占領軍が逮捕にくるまで自決しなかったのでしょうか。 決して生き延びようとしていたのではないでしょう。おそらく、自分が死んだら誰か代わりの人間が責任を負わされることになる、そう考えていたのではないでしょうか。それと、開戦から敗戦までの事を詳しく主張できるのは自分しかいないと考えていたのではないでしょうか。首相までなった人間がこの当時死ぬことの方が生き恥をさらすよりどれだけ楽か。近衛でさえ自決しています。
逆に、東條英機が生きて東京裁判に臨んだことで、裁判という名前を語った復讐劇でしかないことがよりはっきりと分かることが出来たと言えるでしょう。


自分は現在、政治、軍事と完全に無関係である。「敗軍の将兵を語らず」であるからそうした問題を語ることはできない、また自分は、今は作物の世話をしている一介の農夫にすぎない、などと言った。  

しかし、「あなたは日本の目的が正しかったと思っているのか」と一人の記者に問われて、東條は即座に「はい、私は日本の戦いは正義に立脚していたと固く信じている。アメリカはこうした見解に同意しないと思うが、しかしアメリカの戦いが正義の戦いであったか、それとも日本の戦いが正義であったか、という最終の判断を下すには、時の経過と、公正な第三者を待たねばならないと信じている。私は今度の戦争に責任があった。私は全面的にその責任を負う。しかし、だからといって、そのことから私が戦犯であるということにはならないと信ずる。  
自国が正しいと信じている国家の戦争指導を行なうことと、戦犯であることとは別問題である。…しかしこれもまた、戦勝国の決定することである」と力強くはっきりと答えた。  

陸海軍の統一という問題に話しが及んだとき、東條は、記者達に対して、戦争中日本軍の陸海軍協力という問題について、アメリカ軍がどのように感じたか聞いてみるといい、と提案した。   (ロバート・ビュートー著 「東條英機」より)


逮捕前日に行われた、アメリカ人記者とのインタビューです。 しかし、翌日占領軍が逮捕に来たら自決をしました。なぜ、急に自決をしたのでしょうか。

 こんな記者会見があった翌日の九月十一日午後四時、東條家はMPや米兵たちに突然包囲され、マッカーサー元帥の命令を持った憲兵は「トージョー、お前を逮捕する」と乗り込んできたのだ。これは明らかに約束違反であった。  
東條に思考する時間はなかった。とっさに日頃の信念に従った。それは妻かつ子にも平素から言っていたことである。「自分は、生きて虜囚の辱めを受けず、という戦陣訓を作った本人だ、米軍が礼を守って自分を迎えるなら、戦争責任者として堂々と法廷に立ち、自分の立場を主張する。しかし、罪人扱いするようなら自決するつもりだ」であった。  

戦陣訓は東條が昭和十六年一月八日に示達したもので「皇軍道義の高揚」をはかったもの。「夫れ戦陣は大命に基き皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、あまねく皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘しむる処なり」ではじまっている。その中に「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残す勿れ」がある。  

重光外務大臣が東條英機自決の報を受け取ったのは、その日の夕食中のことであった。当時重光外相は官邸も私邸も消失してしまい帝国ホテルに仮住まいしていた。次官の沢田廉三とホテルで夕食をとっているテーブルに急報が届いたのだ。  

重光外相は「なに、東條が自決? どういうことだ。GHQは約束が違うではないか、マッカーサーに抗議してくる」と激怒し、食事を中断して席を立ちGHQに向かったという。  
戦犯容疑者の逮捕は、占領軍司令部から日本政府に該当者の氏名を通告し、日本の官憲の手で逮捕するという取り決めになっていたのである。

重光葵の手記によると 九月十一日火曜日、米国占領軍官憲は突然多摩川畔の自宅で、東條(英機)大将を逮捕せんとした。東條大将はピストル自殺を計って倒れたが、米国憲兵は其の儘大将を横浜の米軍病院に収容した。(東條大将が自決を図ったのが午後4時、家から運び出されたのが午後7時20分頃、約3時間も何があったのでしょうか)  

翌九月十二日には占領軍から戦争犯罪人として三十名が指名され及其氏名を横浜の連絡官鈴木公使が受け取った。開戦当時の閣僚全員(後に入閣した八田喜明氏を脱す)及俘虜の虐待関係者を含むものであって、玄洋社関係を右翼、所謂ドラゴン・ソサヘチーと見てか、その中に広田前首相や緒方現閣員の名前もあった。記者は直に之に抗議せしむると共に、自ら横浜に出かけて、サザランド参謀長に会見した。  
戦犯リストに重臣や現閣員を指定することの不穏当を強く指摘して、先方は之を納得した。記者は更に占領軍は直接に行動せず、総て日本政府を通じてやると言う約束に拘わらず、東條大将を自ら逮捕したのは約束違反である。以後は万事約束通りにして貰い度い、日本政府は決して約束に相違することはしない、と申し込んだ処、サザランド参謀長は簡単に「あーそうだった。今後は必ず左様する。然し島田(繁太郎・元海軍大臣)提督は間に合わぬ」と応う。聞けば島田海軍大将は今朝己に逮捕発令になったとのことであった。


東條英機はピストル自決したのに、なぜ助かったのでしょうか。
当時の日本の医療だと間違いなく死んでいます。しかし偶然が重なったとしか言えません。
米軍の病院で手術に立ち会った医師は、東條の心臓は人と異なるところに位置していた。東條は左利きであった。自決に使ったピストルが娘婿、古賀秀正が自決に使った大型のもので、発射の反動が大きい等があげられます。そして日本の医学では到底命をとりとめることのできない傷ですが、アメリカの進んだ医学が東條を生かしたと言えます。

私は、この時死ななかったのは、日本の神様が東條英機をしばらくの間生かしたのだと思っています。
その事によって、戦勝国による敗戦国の人間だけを裁く裁判が違法(茶番劇)かがはっきりしています。

引用は「東條英機〔わが無念〕」佐藤早苗著 より












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