一燈照隅

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父母憲章

2007年12月29日 | 朝聞暮改
父母憲章

一 父母はその子供のおのづからなる敬愛の的であることを本義とする。
父母を別つて言へば、父は子供の敬の的、母は愛の座であることを旨とする。
不幸にして父母の孰れか缺けた場合、残つた方が兩者の分を兼ねねばならない。

二 家庭は人間教育の素地である。子供の正しい徳性と良い習慣を養ふことが、學校に入れる前の大切な問題である。
このことが善く行はれれば、少年の非行犯罪も殆んど無くなることは、各國に於て實證されてゐる。

三 父母はその子供の爲に、學校に限らず、良き師・良き友を擇んで、これに就けることを心がけねばならぬ。

四 父母は随時租宗の祭を行ひ、子供に永遠の生命に参ずることを知らせる心がけが大切である。

五 父母は物質的・功利的な欲望や成功の話に過度の關心を示さず、親戚交友の陰口を愼み、淡々として、專ら平和と勤勉の家風を作らねばならぬ。

六 父母は子供の持つ諸種の能力に注意し、特にその隠れた特質を護見し、啓發することに努めねばならぬ。

七 人生萬事、喜怒哀樂の中に存する。父母は常に家庭に在つて最も感情の陶冶を重んぜねばならぬ。


教育再生会議が「親学」の提言をしようとしたら、マスコミやコメンテーターが猛反対して結局潰れてしまったが、反対しても提案すべきだった。
最近の若者の犯罪やマナー違反を見て、これらコメンテーターは家庭の教育が出来ていないと言っています。
子供にとって一番身近な先生は両親だと言うことです。


近代文明、現代文明杜會の一つの大いなる缺陥、或は悲劇、或は罪悪は、父母が堕落した、父母の道が衰へたといふ事であります。父母憲草、大いに必要と思ふのであります。
第一條「父母はその子供のおのづからなる敬愛の的であることを本義とする。」ただ養ふ、ただ學校にやる、それが親の義務だなんといふ、そんな機械的或は動物的なものぢゃない。もっと精神的なもので、「父母を別つて言へば、父は子供の敬の的、母は愛の座であることを旨とする。不幸にして父母の孰れか缺けた場合、残つた方が兩者の分を兼ねゝばならない。」黨然又兼ねるわけであります。これは非常に大事な事で、ありまして、家庭といふものは愛だ、それだから母だ、母さへあれば親父はいらん、どうせ親父は外へ出て働くんだから、といふ考へがたいへん近代家庭にふえた。父そのものがさういふふうに考へがちです。で、家庭は母である、家庭は妻である、子供は母萬能である。その慈愛によつて子供は育つ、家庭は保つのだ。親父は外に出て働くものだ、この考へは道義的、理論的にいつても間違ひであり、その間違ひが又永く世に行はれて來ました。さうではないのでありまして、これもお話をしだすと、實は一朝一夕の事でない。短時間で語れる事ではないのですが、私は機會ある毎に今まで研修會、講習會等で力説指摘して來ましたが、人間と動物とを別ける所謂ボーダーラインといふもの、これはぎりぎり決着何だといふと、結局、大抵が愛といふのですけれども、愛はある程度他の動物でもあるものでありまして、「敬」するといふ事であります。「敬する」といふ事があると、「恥づる」といふ事があるのです。これは一對のものです。敬と恥、即ち敬ふといふことと恥づる、この敬と恥の二つの心、これが人間と動物との限界線です。敬するといふ事があるから恥づるといふ事がある。敬するといふのはより高きものに對する人間獨特の心です。敬するから至らない自分を省みて恥づる、これは陰陽の原理であります。敬するから恥づる、恥づるから愼む。この恥づる、愼むといふ事が主對になる時に道徳といふものが出來るのです。敬するといふ事が建前になる時に宗教といふものになる、信仰といふものになる。信仰といふ本のがあれば必ず道徳がその中に入る、道徳なき信仰といふものはありません。又信ずるところ、信仰があるから恥づる、愼むといふ、これが建前になつて道徳になる。道徳といふ時には宗教が中に入る、宗教といふ時には道徳が中に入る。宗教なき道徳なく、道徳なき宗教はないんです。

ところが西洋では始終分けて物を考へたり、説明したりしますから、明治以來この西洋流の思考方法になれた。それがかう畫一的に支配されるやうになつて、宗教と道徳といふものを截然(せつぜん)と何か二物の如く別ける考へ方が非常に普及した。これは東洋流にみると大きな間違ひでありまして、よく聞かされる事ですが、人間は道徳ぢゃあまだ駄目だ、宗教にならんと駄目だ、こんな事を言ふ人がよくある。かういふのを一知半解、本人は分つたやうな積りでをるけれど、實は本當は分つてをらん。これは兩者一體のもののただ表現、表はれ方が違ふだけで、要するに人間が一番大事な失うてならぬものは敬と恥であります。敬ふ、参るといふ事と、恥づるといふ事、恥づるから愼む、戒む、修める。敬ふからそれにかう参る、侍る、或はもう總てを捧げるといふやうな、歿我になるわけですね。よく私は若い人々に説明してあげた事がありますが、日本語といふものは決して世界のいろんな國語に比べて負けるものではない、といふよりは獨特の長所、美點を持つてをる。その一番顯著な分り易いのは、例へば男女關係、戀愛である。よその國ではラブだとかリーベンだとか色々いふが、日本人は参るといふ。おれは彼奴に参つた。参つたといふ事は偉いといつて頭を下げる事、敬する事だ。戀愛はやっばり敬しなくては戀愛ではない。それでなくては馴合ひといふ奴で、動物的である。敬するから省みて恥づるんで、愼むんですね。その敬するのを日本語で参るといふ。これは支那の古典でも「参」参ると同じ意味に使つてをる。参る、これは誰でも分る。参らぬ男女關係など、要するに犬猫と變らない。もっと感心するのは勝負。勝負をして負けて、参ったと日本人は言ふ。これは勝れた言葉です。大抵は勝負して負けたら、やりやがったなとか、畜生とか、何とか碌な事を言はんが、日本の士は参つたと言ふ。参ったといふ事はお前偉いといふ事です。戀愛でもさうだ。あれに参ったといふ事は、あれは偉いといふ事です。かういふ言葉といふものは無限の味はひがある。そんな話をしてをるといくらでも時間がかゝるので、もう一つだけ。
今アメリカで未だにウーマンリブだとか何とかいふやうな流行が盛んな様に思ふと、大きな間違ひでありまして、アメリカの知人から送ってくれるいろいろのレポートだとか著書を見て、よく成程と思ふが、今アメリカで、識者がいちばん喧しく言ってゐる事は、家庭に歸れといふ事です。家の回復といふ事です。それと共に、嚴しくいはれてをる事は、母や妻ぢやない、父です。アメリカでは特に近代都市文明の爲に都市が膨脹して、人々の居住、住宅が皆郊外に遠く離れる。だから通勤、家から出たり家に歸つたりするのに非常に時間がかかる。それから近代産業が非常に理論化、技術化し、專門化して、昔のやうな勞働勤務が簡單でない、勉教しなくてはならぬ。そこで親父共はもう通勤にへとへとになり、仕事が、一日で捌ききれんで、へとへとになって歸つても、家族の相手するどころぢゃあない。自分の郡屋へ籠つて、こそこそと仕事をするといふやうな事で、だんだん家庭に於ける父の権威といふものがなくなる、これがいかん。父といふものはもつと権威をもつて家庭人の、特に子供の敬の對象にならなければならぬといふ事が、今のアメリカ社會の一番喧しい問題です。かういふ事を日本のマスコミがぢゃんぢゃん書けばいいのだけれど、こんな事はわからんものとみえて、まだ一つも取り上げんですね。

今アメリカの男が一番耳に痛い言葉は、親達、家庭の父達が the authority relinquishing fathers といふ言葉ださうです。その権威を放棄する父達。それは父たる者が皆駄目になつてしまつて、父たる権威を失ひ、自ら進んで放棄する。そればかりでない。政治家も教育家も、とにかく大事な人間の指導的職域にある人々が、總じて “the authority relinquishing”自らその権威を放棄する人々になつてゆく。率直にいへば、大臣、重役皆さうですね。ゴルフをやつたり、麻雀やつてをつて、何もかもやめろとは言はんけれども、そんなことが建前で権威が出ようわけはない。人間の家庭に於ても、やっぱり伜が歸つて來れば、親父はだらしのない褞袍(どてら)大胡坐姿で會ひ、與太者口調で話をするなんて事は以ての外の事である。

よく父親は、やかましく叱つたり鍛へたりすることが道徳敏育であると錯覺してゐることも多い。それは見當違ひである。まして母においてをやで、孟子(離婁上)にも、父子の間は善を責めず。善を責むれば則ち離る。離るれば不祥焉(これ)より大なるはなしと云つてゐる。

「家庭は人間教育の素地である。子供の正しい徳性と良い習慣を養ふことが、學校に入れる前の大切な問題である。このことが善く行はれれば、少年の非行犯罪も殆んど無くなることは、各國に於て實證されてゐる。」少年の非行犯罪、delinquency といふ喧しい問題があるが、日本の法務省も米國から專門家を呼んで研究した事もありますが、この專門家が殆ど異論なく言うてをる事はこの事であります。五、六歳頃に十分人間教育が、常識的道徳的教育が行はれたら、十二、三歳の少年非行犯罪といふものは殆どなくなる、といふ事において符節を合してをります。
第三條「父母はその子供の爲に、學校に限らず、良き師・艮き友を擇んで、これに就けることを心がけねばならぬ。」特に父はさうであります。松陰の「士規七則」に、成徳達材は師恩有益多きに居る、と云つてをるのは名言である。
第四條「父母は随時租宗の祭を行ひ子供に永遠の生命に参ずることを知らせる心がけが大切である。」どの一項目も實はお話をすればこれは容易ならぬ事なんですが、まあ皆さんには講ずる必要もない事と致しておきます。

第五條「父母は物質的・功利的な欲望や成功の話に過度の關心を示さず、親戚交友の陰口を愼み、淡々として、專ら平和と勤勉の家風を作らねばならぬ。」アメリカの幾つかの研究所や大學で、日常家庭生活の實際を調査した報告がありますが、文明諸國の家庭も日本の家庭も似たやうなもので、社會が悪いといふ前に、家庭の中がだらしないといふことが計り知れない弊害を作つてをるのであります。
第六條「父母は子供の持つ諸種の能力に注意し、特にその隠れた特質を發見し、啓發することに努めねばならぬ。」第七條「人世萬事、喜怒哀樂の中に存する。」これは王陽明のいうた有名な言葉であります。政を爲すも亦その中に有りと彼はいつてをる。政治もさうだ。國民と共に、何を喜び、何を怒り、何を哀しみ、何を樂しむかが大切です。「父母は常に家庭に在つて最も感情の陶冶を重んぜねばならぬ。」理智よりも感情の陶冶といふものが人間には大事なのであります。家庭の中へ餘り功利主義や頽廢趣味を容れるものではありません。
「師と友」昭和49年1月号






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