ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

念仏唱えて

2013-06-07 14:20:55 | 日記
今日は、月に一度、家に「お寺さん」がやってくる日だった。

お寺さんにお茶とお菓子を用意しておき、お経が終わった後に、義母と私とお寺さんでお茶を飲みながら世間話などをするのだが、軽度の認知症を患っている義母は、いつも同じ話を繰り返す。

子供の頃からお寺で育った話だ。

うちにやってくるお坊さんは複数名いるので、いつも同じ方ではないのだが、皆さん間違いなく義母の同じ話を何度も聞いていると思う。

そして、義母が必ず言うのは「お念仏を唱えるとお浄土に行けますね」ということ。

すると、お坊さんはにこやかにうなずきつつ「そうです。親鸞聖人はそのように教えています」とおっしゃってくれる。

義母は嬉しそうに「ありがたい、ありがたい・・・南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と手を合わせる。

私は「南無阿弥陀仏」だとかあるいは他の念仏でも、昔、恐怖の心霊体験をしているときに何度も唱えてみたものの、何の効き目もなかったことから全然信じていなかった。

だから、お念仏を唱えるだけで、お浄土に行けるなんてナンセンスだと思っていた。

ところが今日、お坊さんや義母とお話をしていた時、何かストンと腑に落ちたような気がした。

それはお坊さんが、こんなことをおっしゃったときだった。

「仏教を勉強すると多くの矛盾に突き当たるんです。

例えば、お釈迦様は「殺生はするな」と教えていますが、殺生をしなければ、私達は生きていくことができません。

動物、魚はもちろん植物にだって命はあるわけですから・・・

今は動物を飼育して、それを食用にしていますが、生産者の人たちは、消費者に美味しい肉を食べてもらいたいと思って、動物を育てていると思うのです。

だから、私達は生産者のその心をお肉と一緒に頂くのです。

もちろん、食用になるために死んだ動物達にも感謝しなければいけません。

多くの命を頂いて、私達は生かされているのです」

なぜ、このお話から「念仏を唱えるとお浄土に行ける」という話が腑に落ちたかと言うと、お念仏を唱える時の気持ちが大切だったことが分かったから・・・

困ったときの神頼みではないが、自分が恐怖のあまり助けて~と言葉づらだけで念仏を唱えても効き目がなかったのは当たり前だった。

義母のように「ありがたい、ありがたい」と何でも感謝できる心を持っていなかったから、自分が困った時だけ使う念仏に頼っても駄目だったのだ。

もっと言うなら、その時に感謝できる心があったなら、恐怖体験もしていなかったのだろうと思う。

義母は、何にでも「ありがたい、ありがたい、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と言う。

この場合、「南無阿弥陀仏」に効力があるのではなく、何にでも感謝できるその心が大きな力を持つのだと思う。

「念仏を唱えて浄土へ行こう!」なんて旅行会社の広告じゃあるまいし・・・とハナから理解しようしていなかった私に傲慢さがあったかもしれない。

帰っていくお坊さんに「今日はよいお話を聞かせて頂きましてありがとうございました」と頭を下げながら、心はうきうきと弾んでいた。







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