今日は美容院へ行き、髪をばっさりと切ってもらった。
長くしようと伸ばしていたのだが、くせ毛のため伸びてくると収拾がつかなくなっていた。
え~い、めんどうだ。切ってしまおう!
・・・と切ったのだが、本当は髪を切って気分をすっきりさせたかった。
ずっと知り合いの女性が気になっていた。
お互いに忙しく、そんなに頻繁に会うということもなかったが、会えば趣味の話など共通することが多く、楽しい話相手だった。
ところが、どうも最近避けられているような気がしていた。
「何か悪いことでもしたかしら・・・」と考えていたが、思い当たることと言えば、彼女から挨拶をされていたのに、気がつかずにいたことだろうか。
ある時、かなり遠いところに立っている彼女を見つけた。
もう少し近づいてから挨拶をしようと思い、道端の植物を眺めながら歩いていった。
多分、この時、彼女は私に遠くから手を振ったのかもしれない。
しかし、私の視線は道端の草に注がれていた為、彼女のことは見ていなかった。
結局、近づいて挨拶と思った時には、彼女は他の人と話をしていて、その場は挨拶を交わすことができなかった。
まさか、そんなことくらいで・・・と思ったが、やっぱり以前と態度が違う。
なので、思い切って彼女に電話をかけてみた。
電話をすると「ありがとう。嬉しい」と言ってくれて(これは本心だと思いたいが)、飼っているペットが病気になったこと、彼女自身うつ状態だったことなど話してくれた。
そういえば、以前親しくしていた頃、彼女はよく「人が嫌い」と言っていた。
そして、将来は誰も住んでいないような田舎で家庭菜園でもやりながら暮らしたいとも話していた。
色々な原因はあったと思うが、仕事も家庭も、そして周囲とも、十分うまくやっているように見えても、内面では人には言えない辛さがあったのだろうと思う。
お互いに心を開いて色んな話ができていたのに、それを「やっぱり人が嫌いだ」と、再び私が彼女に思わせてしまったとしたら、申し訳ない気持ちで一杯になった。
その後、機会があれば、声をかけるようにしていたが、やはり以前のようにはならない。
ある時から、もう無理に近づくのはやめようと思った。
不干渉でいこう。
これは相手を無視するということではなく、会ったら自然に挨拶をするし、相手が話したそうなら話をするが、無理にこちらから何かアクションを起すということはしないということ。
これで縁が無くなったとしても、仕方がない。
ところが、なんだか私の心はもやもやとしてすっきりとしなかった。
なんとなく避けられているというのは変わりなく、そうされると私も気分が悪くなった。
だんだん、自分の心の中の輝きが深く沈みこんでいくのを感じた。
(これを内在神と言うそうです)
あ~!いかん、いかん・・・
自分の中にある内在神を傷つけてはいけない。
相手がいる場合、相手のせいで自分の心が暗くなっている、相手に傷つけられたと思いがちだが、実は、自分で自分の心を傷つけているのだ。
以前の私は分からなかったことだが、今はそれが分かる。
傷つけているのは「自分」だということが分かる。
胸が躍る、胸がいたむ、胸が熱くなる、胸が騒ぐなどなど、胸を使った言葉は多いが、これはとても的を得た言葉だと思う。
胸というのは、つまり「内在神」のことなのだと思う。
今、私の内在神はどうなのか?
踊っているのか?
輝いているのか?
いつも自分にそう問いかける。
そして、すこし前、私の内在神は心の奥底に隠れて縮こまっていた。
そんな時、いつも感謝の言葉を口にする。
内在神が心の奥底に隠れているときは、感謝の言葉を口にすることは、なかなかすんなりできないのだが、それでも無理矢理にでも口にする。
そうすると、忘れていたたくさんの有難いことが思い出されてくる。
また、彼女に対しても早く元気になってね、幸せになってねという気持ちがこみ上げてくる。
こうして、今、私の内在神は輝きを取り戻した・・・と思う。
長くしようと伸ばしていたのだが、くせ毛のため伸びてくると収拾がつかなくなっていた。
え~い、めんどうだ。切ってしまおう!
・・・と切ったのだが、本当は髪を切って気分をすっきりさせたかった。
ずっと知り合いの女性が気になっていた。
お互いに忙しく、そんなに頻繁に会うということもなかったが、会えば趣味の話など共通することが多く、楽しい話相手だった。
ところが、どうも最近避けられているような気がしていた。
「何か悪いことでもしたかしら・・・」と考えていたが、思い当たることと言えば、彼女から挨拶をされていたのに、気がつかずにいたことだろうか。
ある時、かなり遠いところに立っている彼女を見つけた。
もう少し近づいてから挨拶をしようと思い、道端の植物を眺めながら歩いていった。
多分、この時、彼女は私に遠くから手を振ったのかもしれない。
しかし、私の視線は道端の草に注がれていた為、彼女のことは見ていなかった。
結局、近づいて挨拶と思った時には、彼女は他の人と話をしていて、その場は挨拶を交わすことができなかった。
まさか、そんなことくらいで・・・と思ったが、やっぱり以前と態度が違う。
なので、思い切って彼女に電話をかけてみた。
電話をすると「ありがとう。嬉しい」と言ってくれて(これは本心だと思いたいが)、飼っているペットが病気になったこと、彼女自身うつ状態だったことなど話してくれた。
そういえば、以前親しくしていた頃、彼女はよく「人が嫌い」と言っていた。
そして、将来は誰も住んでいないような田舎で家庭菜園でもやりながら暮らしたいとも話していた。
色々な原因はあったと思うが、仕事も家庭も、そして周囲とも、十分うまくやっているように見えても、内面では人には言えない辛さがあったのだろうと思う。
お互いに心を開いて色んな話ができていたのに、それを「やっぱり人が嫌いだ」と、再び私が彼女に思わせてしまったとしたら、申し訳ない気持ちで一杯になった。
その後、機会があれば、声をかけるようにしていたが、やはり以前のようにはならない。
ある時から、もう無理に近づくのはやめようと思った。
不干渉でいこう。
これは相手を無視するということではなく、会ったら自然に挨拶をするし、相手が話したそうなら話をするが、無理にこちらから何かアクションを起すということはしないということ。
これで縁が無くなったとしても、仕方がない。
ところが、なんだか私の心はもやもやとしてすっきりとしなかった。
なんとなく避けられているというのは変わりなく、そうされると私も気分が悪くなった。
だんだん、自分の心の中の輝きが深く沈みこんでいくのを感じた。
(これを内在神と言うそうです)
あ~!いかん、いかん・・・
自分の中にある内在神を傷つけてはいけない。
相手がいる場合、相手のせいで自分の心が暗くなっている、相手に傷つけられたと思いがちだが、実は、自分で自分の心を傷つけているのだ。
以前の私は分からなかったことだが、今はそれが分かる。
傷つけているのは「自分」だということが分かる。
胸が躍る、胸がいたむ、胸が熱くなる、胸が騒ぐなどなど、胸を使った言葉は多いが、これはとても的を得た言葉だと思う。
胸というのは、つまり「内在神」のことなのだと思う。
今、私の内在神はどうなのか?
踊っているのか?
輝いているのか?
いつも自分にそう問いかける。
そして、すこし前、私の内在神は心の奥底に隠れて縮こまっていた。
そんな時、いつも感謝の言葉を口にする。
内在神が心の奥底に隠れているときは、感謝の言葉を口にすることは、なかなかすんなりできないのだが、それでも無理矢理にでも口にする。
そうすると、忘れていたたくさんの有難いことが思い出されてくる。
また、彼女に対しても早く元気になってね、幸せになってねという気持ちがこみ上げてくる。
こうして、今、私の内在神は輝きを取り戻した・・・と思う。