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言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

「シャッター街化」の解決策

2011-05-10 | 日記
 以下に引用する文章は、「「シャッター街化」の原因」で引用した内容が前提になっています。したがって「「シャッター街化」の原因」をお読みになられたうえで、今回の引用をお読みください。



藤井聡 『公共事業が日本を救う』 ( p.52 )

 では、クルマを閉め出すためには、何が必要なのだろう。
 誰もが思いつく、一番簡単な方法は "自動車の流入を法的に禁止する" という方法である。
 しかし、この方法の実現性はかなり乏しい。
 なぜなら、我々生活者にしてみれば、自動車といえば "自家用車" (クルマ) というイメージしかないかもしれないが、当然ながら「物流のトラック」もまた自動車なのであり、これがおおよそ2割 (高速道路では約3割) もの割合を占めているからである。これをもし閉め出してしまえば、都市の活動は、ほとんど止まってしまう。コンビニやスーパー、百貨店にモノは一切並ばなくなってしまう。さらにバスやタクシーもまた自動車であるから、これらの営業を禁止するのは、ナンセンスだろう。
 それなら自家用車だけ流入禁止すればいい、という議論もあるかもしれない。
 しかし、現代の日本では、全ての "移動" に対する、クルマ (自家用車) を使った移動の割合は、平日で45%、休日で63%である。地方都市について言うなら、その割合は、平日で56%、休日で73%にも上っている。だから、やはりクルマを「完全」に閉め出してしまえば、相当程度、都心にやってくる人々が減ってしまうのでは、という心配も、決して杞憂とは言えないのである。
 そんな「クルマ社会」の中で、どうやって、都心からクルマを閉め出しつつ、都市を魅力的にし、元気づけていくのか――。
 この難問について、実は極めて「スタンダードな答え」があるのである。
 そして、その「スタンダードな答え」にそって、ヨーロッパのおおよその都市が計画され、大きな成功を収めているのである。実を言うと筆者の体験を通じて紹介したイエテボリも、そんな街の一つにしか過ぎないのである。
 以下、そんな都市における交通戦略を簡単に紹介することとしよう。
 まず第一に、都市の周辺に環状道路をつくる。これをつくっておけば、ただ単に都心を "通過" するだけのクルマを都心から閉め出すことができる。例えば、東京や大阪といった大都市のクルマの流れの中で、街にとりたてて用事もなく、ただその街を通り過ぎる "通過交通" の割合は、1割から2割程度となっているが、環状道路があれば、こうしたクルマを、都心から排除することができる。
 第二に、そうした環状道路に大規模な駐車場を作る。いわゆる「フリンジパーキング」と呼ばれるものである。それとともに、そうしたフリンジパーキングから、都心に向けて、便利な大量輸送機関 (つまり、公共交通) を整備する。鉄道でもLRTと呼ばれる新しいタイプの路面電車でもいい。こうしておくことで、郊外や他の都市からクルマでやってくる人々を、一旦、その大規模な駐車場で受け止める。そしてその後は、その駐車場から都心部に、公共交通で人々を運ぶのである。そうすれば、都心への自動車の流入を劇的に削減することができる。それと同時に、現代の交通の5~7割も占めるクルマで移動する人々を、都心に呼び込むことができる。
 第三に、環状道路の内側にある道路を自動車のみでなく、「歩行者」や「LRT」や「緑地」「自転車」等に使えるように、つくり替えていく。つまり、自動車の車線を減らし、その分、歩行者専用道路などにしていくのである。環状道路や郊外の大規模駐車場があれば、まちなかの自動車をグンと減らすことができる。だから、都心の道路の車線を減らして歩行者専用道にしても、都市の交通が混乱することなどない。
 そして、クルマで郊外まで来た人々をフリンジパーキングから都心に便利な公共交通で運ぶことができるなら、「自家用車」の流入を禁止するというような施策だって、不可能なことではなくなるのである。逆に言うなら、これまでクルマを閉め出すことが難しかったのは、環状線や大型駐車場といった、道路のインフラが存在しなかったからなのである。
 以上の3つが、このクルマ社会の中で、クルマに依存しない都市をつくるための基本的な交通戦略である。


 都市のシャッター街化をくいとめるには、(1) 環状道路を作り、(2) フリンジパーキング(駐車場)を作って、そこから人々を公共交通機関で都心に運べばよい。そして (3) 都心の道路から自動車の車線を減らして、歩行者専用道路やLRT・緑地・自転車用に転用すればよい、と書かれています。



 これは「夢のある」プランですが、やや現実性に乏しいのではないかと思います。以下、その根拠を述べます。



 まず、(1) 環状道路ですが、これはたとえば東京には存在しています。地方都市においても、程度の差こそあれ、整備されていると思います (環状道路という名前がついていなくとも、実質的に都心を迂回する機能があればよいはずです) 。

 次に、(2) フリンジパーキング(駐車場)から人々を公共交通機関で都心に運ぶ機能についも事実上、東京には存在していると思います。

 しかし東京には、都心に流入するクルマが大量に存在します。つまり、(1) と (2) では、都心に流入するクルマの数は減らない、ということです。したがって、

 (3) 都心の道路から自動車の車線を減らして歩行者専用道路やLRT・緑地・自転車用にするなどというのは論外であり、むしろ自動車のために道路の拡幅工事が必要である、ということになります。



 もちろん、著者が主張するように、「自家用車」の流入を禁止するというような施策を行えば、問題は解決するでしょう。しかし、このような施策では、(おそらく) 国民の同意は得られないと思います。なぜなら東京の場合、(1) と (2) が満たされているにもかかわらず都心に自動車が大量に流入するのは、「自動車のほうが都合がよいから」に決まっているからです。

 つまり、「自家用車」の流入を法的に禁止したりすれば、「不便になる」と感じる国民が多数、存在しているということです。したがってこのような禁止には、国民の同意が得られにくいでしょう。

 また、消費者たる国民のみならず、たとえば (売上に影響しかねない) 自動車関連業界の同意も得られにくいのではないかと思います。



 したがって、著者の主張には説得力・現実性がありません。



 けれども、(対策の) 欠点ばかりあげつらっていても状況は変わりません。著者の主張には説得力・現実性が乏しいと考えられるものの、そこには「夢がある」こともたしかです。

 そこで、より現実的な方法として、代案を提示します。「有料化」です。

 高速道路とは異なり、国道を走るのは無料ですが、これを環状道路の内側では有料にしてしまうのです。そうすれば、都心へのクルマの流入は劇的に減るはずです。したがって、都心の渋滞は大幅に解消されます。さらに、国(または地方公共団体)にとっては貴重な財源になります。地価の高い (=用地買収費のかさむ) 都会で道路を建設する必要性も減ります。財政赤字も少しは減るでしょう。

 もちろん有料化によって国民は「不便になる」わけですが、財政赤字解消のために「消費税などの増税」が主張されている昨今の状況を踏まえれば、「増税するくらいなら都心の国道有料化のほうがよい」のではないでしょうか。国民の同意・理解も、(すくなくとも法的に禁止するよりは) 得られやすいと思います。



 ここで、本来の目的であるシャッター街の解消に戻って考えます。このような場所(地方)では、道路を「有料化」してしまえば、ますますシャッター街化が進む可能性もあります。しかし、それでもなお、法的に「禁止」するよりは、有料化のほうがよいと思います。

 なぜなら、有料化によって徴収した通行料で、環状道路の内側を走る鉄道やバスの料金を「無料」にすることも可能になるからです。いったん「まちなか」に入れば、あとは「無料ですむ」なら、道路の有料化によってますますシャッター街化が進むとはかぎらない、ということになります。シャッター街化が進むどころか、活気あふれる街に戻るかもしれません。

 これは一考に値するのではないかと思います。



■関連記事
 「雇用対策としての道路建設
 「高速料金の最適化
 「鉄道と自動車、どちらが効率的か

「シャッター街化」の原因

2011-05-10 | 日記
藤井聡 『公共事業が日本を救う』 ( p.46 )

「シャッター街」という言葉をご存じだろうか?
 写真2をご覧いただきたい。これは日本の中心にある、ある街の商店街である。ここでは、平日の昼間であるにもかかわらず、半数以上の店がシャッターを閉めている。人通りもほとんどなく、まるで "ゴーストタウン" の様相だ。これが、いわゆる "シャッター街" と呼ばれる風景である。

(中略)

 では、日本の都市はなぜこんなことになってしまったのだろうか。
 この問題について、これまでの様々な都市交通研究の中で、誰もが共通して指摘する原因がある。
 それは、「クルマ」の存在である。
 考えていただきたい。
 もし仮に誰もクルマを持っていないとしたら、誰もが、徒歩や電車を使わないと移動できないのだから、人々は必然的に都心か駅前で、まとまって(=コンパクトに)暮らして行かざるを得ない。
 だから必然的に、都心や駅前の商店街に人が集まってくる。そして、まとまって暮らしているからこそ、豊かなコミュニティも徐々に形成されてくることとなる。
 ところが、クルマがあれば、人々は都心や駅前に固執する必要がなくなる。どこでも好きな所に住むことができるし、どこへでも好きな所に行くことができる。だから、人々は、土地代の安くて広い、郊外に住むことになる。
 そして、企業側も、巨大な駐車場を備えた大型のショッピングセンターを郊外につくることとなる。そうなると、人々はますます都心から離れ、郊外で、クルマを使って暮らすようになってしまう。
 つまり、人々がクルマを使うようになった必然的な結果として街の中心が衰退し、「シャッター街」が見られるようになったのである。

★クルマを閉め出していれば「シャッター街化」を食い止められた

 しかし、こうしたクルマ文化は、日本だけではなく、ヨーロッパにも訪れているはずである。いわんや、スウェーデンなら、ボルボやサーブといった世界的な自動車メーカーもあるのだから、イエテボリにも、同じように「シャッター街化」の波が訪れても不思議ではなかったはずだ。
 それにもかかわらず、日本とヨーロッパの間に、なぜこれほどまでに大きな違いが生まれたのだろうか?
 この点にこそ、シャッター街化の問題を解く鍵がある。
 そして実を言うと、この点については、これもまた大方の都市交通研究者の間で一致した見解がある。
 それは、イエテボリをはじめとした多くのヨーロッパの都市では、都心へのクルマの流入を、徹底的に排除した一方で、日本では、ほぼ無制限に、クルマを都心部に流入させた、という点である。
 一見、人々がクルマを使うようになったのだから、クルマを受け入れた方が、都心は「得」をするのではないか――、と思うかもしれない。実際、日本のたくさんの商店街は、未だにそのように考えている節がある。
 しかし、実態は、その逆なのだ。
 商売の極意は "損して得取れ"。
 クルマを受け入れないで、少しガマンをして、クルマを閉め出してみる。
 そうすると、確かにクルマのお客さんは来なくなってしまうのだが、その分、クルマを使わない、大量のお客さんが街にやってくることになる。
 なぜなら、クルマを街に受け入れるためには、随分と大層な "装置" が必要とされるからだ。
 第一に、都心の一等地に「駐車場」が必要だ。
 第二に、クルマを通すための「道路」が必要となる。クルマのための「駐車場」と「道路」には、かなり広い土地が必要である。
 もしも駐車場が要らないのなら、その場所を公園にすることもできるし、百貨店をつくることもできる。あるいは、その場所を、筆者がイエテボリで暮らしていたようなアパートにすることだってできる。しかし、クルマを都心で引き受けるための駐車場をつくるためには、そんな公園や百貨店やアパートをつくることを諦めなければならなくなってしまう。そんなことをあちこちで続けていけば、都市の魅力はどんどん低下していってしまうのである。
 そして、さらにやっかいなのは、「クルマのための道路」である。
 道路はそもそも、クルマのためだけのものではない。
 歩く人のためのものでもあるし、路面電車のためのものでもある。場合によっては、真ん中に緑を植えた遊歩道をつくることだってできるし、「オープンカフェ」をつくることもできる。
 だから、もしもクルマが都心から閉め出されていれば、人々はゆったりとした歩道の上を、ぶらぶらと歩くことができるようになるのである。そして、気軽に路面電車を使うことがきるようにもなるし、道の上のベンチやカフェでゆったりと過ごすことだってできる。
 しかし、「クルマを処理するため」だけに道路を使うなら、つまり、せっかくの公共の空間である "道路" をクルマに明け渡してしまうなら、そんなことが、全てできなくなってしまうのである。
 そうなると人々は狭い歩道を歩かなければならない。
 ベンチもカフェもないから、ちょっと腰をかける場所も、ゆっくりとくつろぐ場所も道の上にはない。

(中略)

 そうなってしまえば、巨大資本をバックに展開する郊外の大型ショッピングセンターに、都心の商店街は、全く太刀打ちできなくなってしまう。こうして、人々はますます都心から郊外へと流れていくようになってしまったのである。
 ところが逆に、都心へのクルマの流入を抑制していれば、都心に魅力を保ち、その魅力にさらに磨きをかけていくこともできたのである。都心に魅力さえあれば、別にクルマで来てもらわなくとも、人々はどうにかこうにか都心にやってくるのである。そして、街はますます賑やかになり、街は元気であり続けたのである。
 それがイエテボリの姿なのであり、ヨーロッパの街々の姿なのであった。
 要するに、クルマに媚びて好き勝手に流入させてやるのか、それとも、クルマに対して毅然とした態度をとって閉め出すのかが、シャッター街と元気な街の分かれ目だったのである。


 「シャッター街化」の原因は、クルマである。都心へのクルマの流入を抑制していれば、都心の商店街の魅力は維持され、衰退することもなかったのである、と書かれています。



 私は最初これを読んだとき、「なるほどなぁ…」と思いました。

 しかし、上記、著者の主張には、やや疑問があります。今回はその疑問について書きたいと思います。



 たしかに著者の主張する通り、クルマがシャッター街化の原因の「ひとつ」であることは間違いないでしょう。クルマの流入を抑制すれば、クルマのためのスペースを歩行者のためのスペースとして有効に利用することができます。この点については、なんら疑問はありません。

 しかし、それだけでは説明できない部分もあるのではないかと思います。

 なぜなら、商店街のなかには「歩行者天国」となっているものもあるからです。そこには当然、クルマは走っていません。引用文の冒頭、著者は
 写真2をご覧いただきたい。これは日本の中心にある、ある街の商店街である。ここでは、平日の昼間であるにもかかわらず、半数以上の店がシャッターを閉めている。人通りもほとんどなく、まるで "ゴーストタウン" の様相だ。これが、いわゆる "シャッター街" と呼ばれる風景である。
と述べていますが、そこに写っている風景は、「屋根=アーケードのある」商店街、つまり「歩行者天国」として「クルマを閉め出している」商店街なのです。

 したがって (ヨーロッパと対比した) 著者の主張には説得力があるけれども、「それだけでは」シャッター街化の原因を説明できない、外にも原因があるはずである、と考えられます。



 それでは、外の原因とはなにか。

 おそらく複数の原因が複雑にからみあっているのだろうとは思いますが、最大の原因は、「価格」ではないでしょうか。一般的に、「商店街では (商品の) 価格が高い」傾向にあります。消費者の立場で考えれば、(同じ商品であれば)「安いほうがよい」のは当然だと思います。

 したがって消費者が大型スーパーに流れ、商店街がシャッター街化しつつある原因としては、(クルマの存在も重要ではあるけれども) クルマは唯一の原因ではない、外にも原因がある、と考えてよいと思います。



 とはいえ、コンビニの存在を考えれば、店 (商店街) に魅力があれば「価格」が高くてもお客さんが来ることはあきらかです。「価格」ですべてが説明できるわけでもありません。「クルマの存在」も無視しえない要素であることは間違いないと思います (「規制緩和倒産のなか、生き残った酒屋がある」参照 ) 。