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言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

チベット亡命政府の方針

2011-05-31 | 日記
時事ドットコム」の「中国との対話継続を最優先=日本の「忍耐力」見習う-チベット新首相と会見」( 2011/05/31-14:15 )

 【ニューデリー時事】チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世(75)の政治上の引退を受け、チベット亡命政府を率いる新首相に8月に就任するロブサン・センゲ氏(43)が31日までに、亡命政府のあるインド北部ダラムサラで時事通信のインタビューに応じた。センゲ氏は、首相就任後の最優先事項を「チベットに自由を取り戻し、法王(ダライ・ラマ)をラサに帰還させることだ」とし、その実現に向けて、中国政府との対話を粘り強く求めていく考えを強調した。
 亡命政府と中国の対話は、昨年1月を最後に途絶えている。センゲ氏は「われわれは常に対話のために特使を派遣する用意がある」とした上で、「中国の強硬派がチベット問題解決のための真剣な交渉に入ろうとせず、対話が停滞した」と批判した。次回交渉のめどは立っていないという。
 ダライ・ラマは対中交渉で、チベットの独立ではなく、自治拡大を求める「中道路線」を採用した。センゲ氏は独立を求める急進派「チベット青年会議」に所属した経験を持つが、「中道路線が私の立つべき基盤だ」と述べ、中道路線を継承する姿勢を表明。独立は「亡命政府の究極目標としてはある」ものの、当面は望まないとした。
 中国は亡命政府を「違法な組織」として、センゲ新政権を相手にしない考えを示している。さらに共産党機関紙からは「テロリスト」と記事で形容されたが、同氏は「非常に不幸なこと。中国は亡命政府のような民主主義を自分たちが持っていないことが気掛かりなだけだ」と一蹴した。
 センゲ氏は日本人の精神にチベット人が見習う点が大きいと指摘。「東日本大震災で原子力事故が起きた際も、苦難からの回復力、忍耐力を見せたことは教訓になった」と述べた。


 チベット亡命政府を率いる新首相に8月に就任するロブサン・センゲ氏は、首相就任後の最優先事項を「チベットに自由を取り戻し、法王(ダライ・ラマ)をラサに帰還させることだ」とし、その実現に向けて、中国政府との対話を粘り強く求めていく考えを強調した。独立は「亡命政府の究極目標としてはある」ものの、当面は望まないとした、と報じられています。



 センゲ氏は、チベット亡命政府の最優先事項が

   チベット人の「自由」と法王の「帰還」

にあることを示しつつ、

   中国政府の受け容れやすい条件を提示

しているのですが、本当にこれでよいのでしょうか?



 報道には、
 中国は亡命政府を「違法な組織」として、センゲ新政権を相手にしない考えを示している。さらに共産党機関紙からは「テロリスト」と記事で形容された
とあります。このことが示しているのは、チベット亡命政府は現在、苦境に陥っているということではないでしょうか?

 報道文中には、亡命政府が苦境に陥っていることを示す言葉は、まったくありません。たんに、「穏健」な「中道路線」を採用していると報じているのみです。しかし実際には、

   「中道路線」を採用して
     中国政府の譲歩を期待せざるを得ない

のではないでしょうか?



 ここで気がかりなのは、「本当に独立を求めなくてよいのか」ということです。



 私がこう考える理由は2つあります。

 一つは、チベット亡命政府が「中道路線」を採用せざるを得ないほど苦境に陥っているなら、チベット亡命政府の意向を実現するには、米国など、「外国政府の協力が欠かせない」からです。

 それにもかかわらず、亡命政府がみずから、自治拡大を求める「中道路線」を採用したのでは、外国政府が協力しようとした際に中国政府が「内政干渉」だとして応じない可能性が高くなります。「中道路線」は一見、中国政府に受け容れやすく亡命政府の希望が実現しやすいかに映りますが、実際には、ますます亡命政府の希望が実現しづらくなるのではないかと思います。



 他の一つは、「中道路線」は本当にチベット人のためになるのか、という疑問です。

 たとえば中国の「内モンゴル自治区」では、(中国の首都)北京に近いためもあってか漢民族の流入が多く、漢化が急速に進んでいます。すでに人口の大部分は漢民族です。また、「モンゴル語」で働ける職場が(ほとんど)なく、「中国語」が必須だと言われています。そのためモンゴル族も(自分の)子供に「モンゴル語」で話せとはいえず、「中国語」を優先せざるを得ない状況になっているといわれています。

 言語は文化の礎ですから、言語が失われれば、文化も失われます。

 チベットは中国「中原」からは遠いですが、中国人のことですから次々にチベットに流入し続けるでしょう。したがってチベットも内モンゴル自治区と同じ状況になってしまうのではないか、それが危惧されます。



 チベットの独立ではなく、自治拡大を求める「中道路線」を採用したダライ・ラマやセンゲ氏の方針は、本当に「正しい」のでしょうか?

 私には、かえって彼らに「不利に作用する」のではないかと思われてなりません。

最高裁、「君が代起立斉唱」は合憲

2011-05-31 | 日記
毎日jp」の「君が代斉唱不起立:再雇用拒否訴訟 起立命令合憲判決(要旨)」( 2011年5月31日 )

 教諭に卒業式での君が代起立斉唱を命じた東京都立高校長の職務命令について合憲判断した最高裁第2小法廷の判決(30日)の要旨は次の通り。

 公立高校の卒業式等で日の丸の掲揚と君が代の斉唱が広く行われていたことは周知の事実で、起立斉唱行為は一般的、客観的に、慣例上の儀礼的な所作としての性質を持つ。原告の歴史観や世界観を否定することと不可分に結び付くとはいえない。職務命令は、特定の思想を持つことを強制するものではなく、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するとは認められない。

 もっとも起立斉唱行為は、教員が日常担当する教科や事務内容に含まれず、国旗と国歌に対する敬意表明の要素を含む行為。自らの歴史観や世界観との関係で、日の丸や君が代に敬意を表明するのは応じがたいと考える者が起立斉唱を求められることは、思想及び良心の自由の間接的な制約となる面がある。

 個人の歴史観や世界観には多種多様なものがあり得る。内心にとどまらず行動として表れ、社会一般の規範と抵触して制限を受けることがあるが、その制限が必要かつ合理的なものである場合は、間接的な制約も許容され得る。間接的な制約が許容されるか否かは、職務命令の目的及び内容、制約の態様などを総合的に比べ合わせて考え、必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当だ。

 今回の職務命令は、原告の思想及び良心の自由について間接的な制約となる面がある。他方、卒業式や入学式という教育上、特に重要な節目となる儀式的行事では生徒等への配慮を含め、ふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要。学校教育法は高校教育の目標として国家の現状と伝統について正しい理解を掲げ、学習指導要領も学校の儀式的行事の意義を踏まえて国旗国歌条項を定めている。

 地方公務員の地位や職務の公共性にかんがみ、公立高の教諭である原告は法令及び職務上の命令に従わなければならない。原告は、地方公務員法に基づき、学習指導要領に沿った式典の実施の指針を示した都教委の通達を踏まえて、校長から卒業式に関して今回の職務命令を受けた。

 以上の諸事情を踏まえると、今回の職務命令については、間接的な制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められる。原告の思想及び良心の自由を侵して憲法19条に違反するとは言えない。

 ■補足意見

 <須藤正彦裁判長>

 最も肝心なことは画一化された教育ではなく、熱意と意欲に満ちた教師により、生徒の個性に応じて生き生きとした教育がなされること。今回の職務命令のような不利益処分を伴う強制が教育現場を疑心暗鬼とさせ、無用な混乱を生じさせれば、教育の生命が失われかねない。一律強制に踏み切る前に、教育行政担当者で可能な限りの工夫と慎重な判断をすることが望まれる。

 <千葉勝美裁判官>

 司法が職務命令を合憲・有効として決着させることが、必ずしも問題を最終的な解決に導くことにはならない。国旗及び国歌が強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何よりも重要だ。


 公立高校の卒業式等で日の丸の掲揚と君が代の斉唱が広く行われていたことは「周知の事実」で、起立斉唱行為は「慣例上の儀礼的な所作としての性質を持つ」ので、都立高校長が教員に対し、職務命令として命じても「特定の思想を持つことを強制するものではなく、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するとは認められない」。
 しかし、「思想及び良心の自由の間接的な制約となる面がある」ので、「許容されるか否かは、職務命令の目的及び内容、制約の態様などを総合的に比べ合わせて考え、必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当」である。
 今回の職務命令については、「卒業式や入学式という教育上、特に重要な節目となる儀式的行事」であり、「地方公務員の地位や職務の公共性にかんがみ」憲法19条に違反するとは言えない、
 と最高裁判所が判示したと報じられています。



 敗訴した原告の反応は次のように報じられています。



東京新聞」の「起立定着に「無力感」 君が代命令合憲」( 2011年5月31日 )

 君が代斉唱で起立を命じることは思想・良心の自由を間接的に制約する-。三十日の最高裁判決は職務命令を合憲とする一方で、自由の制約について踏み込んで判断し、合理的な理由もなく命令で一律に教育現場を統制することのないよう警鐘を鳴らした。敗訴した原告の申谷(さるや)雄二さん(64)は「起立しないことこそ憲法に認められた行為」と不満をにじませたが、判決は今後、各地の教育委員会の対応や大阪府での条例化の動きなどにも影響を与えそうだ。 

 判決後、東京・霞が関の司法記者クラブで会見した申谷さんは、「日の丸・君が代を愛することが国を愛することというのは短絡的な考え。少なくとも私は石原(慎太郎)都知事よりも国を愛していると自負している。判決には失意を感じた」と悔しそうに話した。

 都立高校で三十年以上教壇に立ち、再雇用後は外国籍の生徒たちの支援を夢見たが、たった一度の不起立で、機会は失われた。当時の思いを「起立をしないことで静かな抗議を示したかった」と振り返った。

 大阪府議会では、橋下徹知事が率いる地域政党「大阪維新の会」が、君が代の起立斉唱を義務づける条例案を提出。罰則規定はないが、橋下知事は懲戒免職を含めた厳しい処分に言及している。申谷さんは大阪の動きにも触れ、「政治家は教育現場に安易に介入することをやめてほしい。教師は命令通り動くしかなく、無力感を感じている」と訴えた。

 式典での日の丸掲揚、君が代斉唱をめぐっては戦後長く、教育現場の混乱を招いてきた。一九八九年の学習指導要領改定で「望ましい」から「指導する」に強化。九九年施行の国旗国歌法がさらに後押しし、都は二〇〇三年の教育長通達で、教職員の起立・斉唱を義務づけ、従わない場合は「責任を問われる」と明記した。

 この流れに反発した教職員らの提訴が相次ぎ、東京だけで二十三件の同種訴訟が係争中で、原告の教職員は延べ七百人余に上る。

 訴訟の多くは、起立斉唱命令が合憲かどうか、さらに合憲の場合に違反者の処分などに行き過ぎ(裁量権の乱用)がないか、と二段階で判断される。〇六年九月に東京地裁が「強制は違憲」との判決を出したが、ピアノ伴奏拒否を理由とした処分の是非が争われた訴訟で最高裁は〇七年に合憲と判断。これ以降、下級審が起立・斉唱命令を違憲とした例はなかった。

 一方、裁量権をめぐっては、判断が分かれている。都立学校の教職員百六十七人が懲戒処分取り消しを求めた訴訟で、今年三月の東京高裁判決は「懲戒処分は重すぎる」とし、教職員側の逆転勝訴とした。

 今回の判決は裁量権について判断しなかったが、裁判官の補足意見では「裁量の範囲を逸脱して違法となることはあり得る」と言及。行政側の対応に行き過ぎがないか、今後も個別の訴訟ごとに争われることになる。


 敗訴した原告の申谷(さるや)雄二さん(64)は「起立しないことこそ憲法に認められた行為」と不満をにじませ、「日の丸・君が代を愛することが国を愛することというのは短絡的な考え。少なくとも私は石原(慎太郎)都知事よりも国を愛していると自負している。判決には失意を感じた」と悔しそうに話した。また、申谷さんは大阪の動きにも触れ、「政治家は教育現場に安易に介入することをやめてほしい。教師は命令通り動くしかなく、無力感を感じている」と訴えた、と報じられています。



 「日の丸・君が代を愛することが国を愛することというのは短絡的な考え。少なくとも私は石原(慎太郎)都知事よりも国を愛していると自負している」という考えかたもわかりますが、やはり「仕事」であることを考えれば、原告の主張は「おかしい」のではないかと思います。

 逆にいえば、校長や政治家はこれまで、「指導に従わない教員がおり、入学式や卒業式の秩序が乱れる」ことに「無力感を感じていた」ということになります。



 そもそも、嫌ならはじめから公立の教員 (公務員) にならなければよいのではないでしょうか?

 これは、形を変えて考えてみればわかります。

 たとえば仏教徒がキリスト教系のミッションスクールの教員になり、「仏教徒としての信仰」を理由に「学校行事としての」クリスマス・ミサ等への出席を拒否した場合を考えれば、どうでしょうか? このような場合、教員の拒否は「おかしい」と考えるのが自然ではないでしょうか?

 したがって、「日の丸・君が代」を教員が拒否する行為についても同様に、「おかしい」と考えてよいのではないかと思います。



 最後に、(参考のために) 今回の最高裁判決に対する読売新聞社説と、橋下大阪府知事の発言を引用しておきます。



YOMIURI ONLINE」の「君が代起立命令 最高裁の「合憲」判断は当然だ(5月31日付・読売社説)」( 2011年5月31日01時18分 )

 卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱するよう教師に命じた校長の職務命令は憲法に違反しない――。

 最高裁は、そう結論づけた。東京都から定年後の再雇用を拒否された都立高校の元教師が、損害賠償を求めた訴訟の上告審判決だ。

 判決理由をこう述べている。

 卒業式や入学式は、教育上、特に重要な儀式的行事である。式典の秩序を保ち、円滑な進行を図る目的で校長が出した職務命令には必要性と合理性がある。

 妥当な判断である。この判決を機に、教育現場で長く続いている国旗・国歌を巡る処分や訴訟などの混乱に終止符を打つべきだ。

 元教師は「君が代を起立して斉唱することは良心が許さない」と訴えていた。校長の職務命令は思想・良心の自由を保障した憲法に違反すると主張していた。

 しかし、君が代の斉唱は、学校の式典などで広く慣例的に行われている。教師は生徒に国旗・国歌を尊重する態度を教え、自らその手本を示す立場にある。

 職務命令について、最高裁は、「思想・良心の自由を間接的に制約する面がある」とも述べた。だが、職務命令の目的や内容が正当なものであれば、制約は許されるとして合憲の結論を導いた。

 国旗掲揚と国歌斉唱は、学習指導要領が「入学式や卒業式で指導するものとする」と定めているにもかかわらず、一部の教師がこれらを拒否してきた経緯がある。

 東京都は2003年に起立・斉唱を義務づける通達を出したが、違反して懲戒処分を受けた教職員は延べ400人以上に上る。

 判決が指摘するように、公立学校の教師は本来、「法令や職務命令に従わなければならない」ことを自覚すべきだろう。

 折しも大阪府では、橋下徹知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」の府議団が、教職員に起立・斉唱を義務づける全国初の条例案を議会に提出した。

 橋下知事は「府教委が指導を続けても、まだ職務命令に違反する教員がいる」と言う。昨春以降、6人の教師が処分を受けた。そうした状況では、条例制定の動きが出てくることもやむを得まい。

 さらに、9月議会では、違反した教職員の処分基準を定めた別の条例制定も目指している。

 自国、他国の国旗・国歌に敬意を表すのは国際的な常識、マナーである。そのことを自然な形で子供たちに教える教育現場にしなければならない。




産経ニュース」の「橋下知事「きちっとした判断だが条例も必要」 国歌起立で最高裁合憲判断」( 2011.5.31 08:19 )

 卒業式での国歌斉唱時の起立命令を合憲とした30日の最高裁判決。国歌斉唱時に、教員に起立を義務付ける条例案を大阪府議会に提出した地域政党「大阪維新の会」(維新)の代表を務める橋下徹知事は、記者団に「入学式や卒業式で起立を求めるのは憲法違反にあたらないというきちっとした判断を最高裁が出した」と評価した。

 ■思想の自由に影響せぬ仕組み、考える

 その一方で「判決が出たことで条例までは必要ないのではという有権者に対し、維新は条例の必要性を丁寧に説明しなければならない」と述べ、「先生は起立斉唱以外の命令に対しても組織として動くべきで、条例は必要だ」と持論を展開した。

 橋下知事は、職務命令に繰り返し応じない教員ら職員の処分ルールを定めた条例案を、9月議会で提出する方針だが、今回の判決が職務命令について「思想、良心の自由が間接的に制約される面はある」と指摘したことについて、「そこは重い。思想、良心の自由に影響を及ぼさないような仕組みをしっかり考えたい」とも述べた。




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