言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

北朝鮮の核実験、日本に事前通知はなかったのか

2009-05-25 | 日記
YOMIURI ONLINE(読売新聞) の 「核実験規模最大20キロ・トン、長崎型原爆に匹敵か

 北朝鮮は25日、朝鮮中央通信を通じて「地下核実験を成功裏に実施した」と発表した。


 北朝鮮の核実験は2006年10月に続き2回目。韓国青瓦台(大統領府)によると、午前9時54分、北朝鮮北東部の咸鏡北道豊渓里(プンゲリ)を震源とするマグニチュード(M)4・4の人工的な揺れが確認された。日本政府は「厳重に抗議し、断固として非難する」との麻生首相の声明を発表。国連安全保障理事会は25日午後(日本時間26日未明)に緊急会合を開く予定だ。北朝鮮は25日、日本海に向け短距離地対空ミサイル3発も発射した。

 ◆06年の核実験を上回る規模示唆◆

 【ソウル=前田泰広、モスクワ=浜砂雅一】朝鮮中央通信は「爆発力と操作技術において、新たな高い段階で行われた。実験結果で核兵器の威力をより高め、核技術を発展させる」としており、06年の核実験を上回る規模であると示唆した。

 北朝鮮は、4月の長距離弾道ミサイル発射を非難する国連安保理の議長声明などに反発し、同月29日、外務省報道官声明で核実験の実施を予告。核問題を巡る6か国協議のボイコットも宣言しており、強硬姿勢を貫くことで米国を交渉に引きずり出す狙いがある。

 爆発の規模について韓国の李相喜(イサンヒ)国防相は25日、国会国防委員会で「(TNT火薬換算で)最大20キロ・トンだった可能性がある」との見方を示した。タス通信によると、ロシア国防省当局者も同日、「10~20キロ・トン」と指摘。事実なら、最大で長崎型の原爆に匹敵する。

 韓国政府高官によると、北朝鮮は前回同様、核実験実施を米国に事前通報。聯合ニュースは、中国にも事前通報していたと報じた。特に中国へ通報することで、国連安保理での制裁などの動きに加わらないよう誘導する狙いとみられる。

 一方、韓国政府関係者によると、北朝鮮は25日午後、北東部の咸鏡北道舞水端里(ムスダンリ)と南東部の江原道元山(ウォンサン)付近から日本海に向け、短距離ミサイル計3発を発射した。核実験にあわせた発射で、米韓を恫喝(どうかつ)する狙いとみられる。聯合ニュースは消息筋の話として、3発はいずれも地対空ミサイルで、射程は130キロと伝えた。ミサイルの名称などは不明。

(2009年5月25日22時24分 読売新聞)


 北朝鮮が核実験を行うことの是非はともかく、

 このニュース、「韓国政府高官によると、北朝鮮は前回同様、核実験実施を米国に事前通報。聯合ニュースは、中国にも事前通報していたと報じた。」 というところが、ひっかかります。

 日本には事前に通知されなかったのでしょうか? アメリカ経由で通知はあったかもしれませんが、この記事を読むかぎりでは、「直接の」 通知はなかったのではないか、と思われます。とすれば、

 やはり、日本は 「なめられている」 のではないか、と思います ( 「「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」なら」 参照 ) 。




軍事を軽視する経済大国、カルタゴの末路

2009-05-24 | 日記
是本信義 『経済大国カルタゴ滅亡史』 (p.15)


 紀元前八~三世紀、北アフリカを本拠とする経済大国カルタゴは、「地中海の女王」と呼ばれてその繁栄を誇っていた。
 滅亡した母国フェニキアのあとを受けつぎ、地中海貿易をはじめとする広い商業活動により、古代世界の富のほとんどを独占していた。
 無限の経済力と莫大な資産を持つこの商業帝国は、やがて高度文明の末期的退廃をしめし、国家建設の民族的精神を失ってしまい、いたずらに個人主義、利己主義、功利主義、そして経済至上主義に走るようになった。
 とくに、その富をまもるべき安全保障政策を軽視した結果、三回にわたる「ポエニ戦争」により、かつては歯牙にもかけなかった新興国ローマに滅ぼされてしまった。
 カルタゴを滅ぼしたローマは、それを機に地域国家から世界的大帝国へ発展していくが、

 このカルタゴの描写、どことなく、いまの日本に似ている気がしないでもない。


 ところで、ローマは農業国であり、カルタゴは商業国である。
 したがって、ローマにしてみれば、軍事力をもって国土を守ることが、経済基盤を維持するうえで、なによりも重要であったはずである。それに対して、カルタゴにしてみれば、加工貿易を行う通商路さえ確保されれば、すくなくとも経済的には、領土 (土地) の確保に固執する理由はなかったはずである。
 ローマに比べ、カルタゴが 「いたずらに個人主義、利己主義、功利主義、そして経済至上主義に走」 り、「その富をまもるべき安全保障政策を軽視した」 ことは否定しえないとはいえ、富を生みだす形態の違いによって、軍事力に対する必要性や考えかたが異なっていたことも、否定しえないと思われます。
 すなわち、カルタゴの態度には、ある程度の必然性があったといえると思います。


 それでは日本はどうか、と考えれば、日本は農業国とは言い難く、加工貿易を行う商業国 (商工業国) であろうと思います。とすると…、日本では、「反戦平和」 を説く人に、軍事力の必要性を説くのは難しく、したがって…、


 このままいくと、日本がカルタゴとおなじ末路をたどるのではないか、と気がかりでならない。



サプライ・サイド原因論をめぐって

2009-05-23 | 日記
長期不況とケインズ経済学 2」で、疑問に一応の決着がつくと、

「総需要を強調するケインズ経済学でさえも、需要不足は長期的には価格の調整を通じて解消されるとされる。ケインズ経済学は、景気循環のような短期の経済変動を説明するには有効かもしれないが、九〇年代の日本のような長期の停滞を説明するには無理がある」(林 二〇〇三、三頁)。


という記述は正しいのか、が再度、疑問として浮上してきます ( 「長期不況とケインズ経済学」参照 ) 。


これに対しては、いくつか、ありうる可能性が考えられるのですが、ここはひとまず、疑問のまま、保留にしておこうと思います。

言及は、根拠となるメモ (すなわち記事) を書き続ける過程で、可能性を絞ったうえで、行おうと思います。

長期不況とケインズ経済学 2

2009-05-21 | 日記
長期不況とケインズ経済学」で掲げた疑問

「ケインズ経済学は、長期に及ぶデフレ下で唱えられた、長期に及ぶデフレに対処するために考えだされた理論である、という私の理解が誤っているのかもしれません。」

につき、調べました。


Wikipedia の「世界恐慌」の項、「世界恐慌中の各国工業生産の推移」の欄には、1928 年~1935 年のデータが掲げられていることから、世界恐慌とは一般に、この期間を指すと考えられている、と思われ、


同 「ケインズ経済学」の項には、

ケインズ経済学(ケインズけいざいがく Keynesian economics)とは、ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」(1936)を中心に展開された経済学のこと。


とあり、書籍の出版が 1936 年であることから、ケインズ経済学が生みだされたのが世界恐慌期間内であると考えられること、そして、


同 「雇用・利子および貨幣の一般理論」の項、

『雇用・利子および貨幣の一般理論』(こよう・りしおよびかへいのいっぱんりろん、The General Theory of Employment, Interest, and Money 単に『一般理論』と呼ばれることもある)は、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズが1936年に著した経済学の理論書。

概要
当時の古典派経済学では、市場は自律的に調整されるので失業は存在しないとされたが、世界恐慌で大量の失業が発生し、現実との齟齬が指摘されてきた。ケインズは本書で、需要によって生産水準が決定され、それが失業を発生させるという理論を展開した。そして、失業の解消を図るために政府による財政金融などの政策の理論的根拠を与えた。



この記述のみでは、ケインズ経済学が考えだされた目的・動機は確定しえないものの、常識的に考えれば、世界恐慌に対処するため、とくに、失業の解消を図るためであると思われること、


をもって、今回の疑問には、一応の決着がついたもの (私の理解は適切だった) としたいと思います ( 10 年が「長期」なら、世界恐慌期間は「ほぼ長期」と考えてよいでしょう ) 。

年金給付減額の論理

2009-05-20 | 日記
吉川洋 『構造改革と日本経済』 (p.138)


 年金給付の抑制(カット)を行う際に考慮しなければならない大切なポイントは、「高齢者は非常にばらつきの大きい集団だ」ということである。二〇代の人一〇〇万人をみると、経済力、健康などのばらつきは小さい。これに対して六〇代、七〇代の人一〇〇万人では経済力、健康のばらつきが非常に大きい。「平均的」な給付水準をカットする際、この事実が十分に考慮に入れられなければならない。具体的には経済的に恵まれた富裕な高齢者の給付カットを大きくし、逆に低所得層の給付カットは小さくなるような制度改革を行う必要がある。現在議論されている年金の所得税法上の優遇措置の見直しは、こうした理念からみても望ましい方向だと言える。
 ここで公的年金の意義について改めて考えてみると、給付には二つの異なる性格があることに気づく。一つは現役時代に積み立てた見返りとして一定年齢に達したとき当然受け取るべき「権利」(entitlement)としての側面である。通常は年金の給付としてこの側面だけが考えられている。
 しかしもう一方で公的年金には高齢になったときの健康や経済力が不確実であることに対する「保険」(insurance)としての側面もある。第二の側面からすれば一定の年齢に達しても健康で経済力が十分にあれば満額の給付を受けなくてもよいだろう。こうした考え方も成り立つはずだ。年をとっても元気で経済力のある人は、あたかも火災保険に入って家が焼けなかった人と同じだと考えるのである。


公的年金の給付を抑制(カット)しなければならない、という結論がさきにあり、あとから根拠を考えていると思われるところがひっかかりますが、説得力があります。

経済力をもつ高齢者も彼らの経済力に対して、「相対的にわずかな」給付カットに (さほど) 不満はないだろうと思われます。