「軍事評論家=佐藤守のブログ日記」の「恥ずかしい国に住んでないか」
私自身、人間関係で似たような状況を体験したからわかるが、要は、「なめられている」 から、こういうことになるのである。
話し合いで解決すべく努力すべきなのは当然であるが、相手が話し合いに応じない場合、聞く耳をもたない場合には、軍事力の行使をも辞さない、という態度で接しなければ、「平和的解決は不可能」 であろう。
拉致された人々のことも、忘れてはならない。国民を守れない国家など、もはや、国家とはいえない、ともいえる。
日本が平和国家であり続けるためには、軍事力は必要不可欠である。
この文章は、考えようによっては、外国を侮辱している、といえなくもない。しかし、そんなことを言っていたら、言論なんて成り立たない。当然、書いてよいと考えるべきものなのだと思います。
このような言論が許される、自由な社会であることに価値がある。
むしろ、外国に対する侮辱とは、こういう態度をいうのでしょう。
「突っぱねた」 のか、たんに 「移せない事情を述べた」 のかはわからないが、可能なかぎりの努力をすべく、奔走するのが筋だと思います。
8日の産経「正論」欄に、表記の題で古田博司・筑波大大学院教授が書いているのだが深く考えさせられた。
「もういいかげんに覚悟を決めたらどうだろうか。中国には海を奪われ、油田をかすめ取られ、毒食を送りこまれて知らぬ顔の半兵衛を決めこれ、国連で常に妨害され、韓国には島を占領され、野球のWBCのマウンドに太極旗を立てて侮辱され、ミサイルを発射され、これら特定アジアからそろって偽史まで強要されている。そのような恥ずかしい国に住んでいくという覚悟を、もう決めた方がよいのではないか」という書き出しなのだが、“海の向こうの三種一様の国”という表現がまた面白い。
私自身、人間関係で似たような状況を体験したからわかるが、要は、「なめられている」 から、こういうことになるのである。
話し合いで解決すべく努力すべきなのは当然であるが、相手が話し合いに応じない場合、聞く耳をもたない場合には、軍事力の行使をも辞さない、という態度で接しなければ、「平和的解決は不可能」 であろう。
拉致された人々のことも、忘れてはならない。国民を守れない国家など、もはや、国家とはいえない、ともいえる。
日本が平和国家であり続けるためには、軍事力は必要不可欠である。
「日本軍と戦わずしてアメリカに解放してもらった国(韓国)、少しゲリラ戦をしたが大負けに負けてソ連の傀儡にしてもらった国(北朝鮮)、別の人たちが日本軍と戦っている間に山で英気を養い、戦後、前に戦っていた人々を追い出して独立した国(中国)。これらは日本に戦勝したという偽史なしには国民の物語が作れない国々であり、これからも絶えず日本と戦っていると国民にアピールするために、日本の主権を侵し、侵略をし続けることであろう」というのだが、「日本が敗れてからは、それらの遺産を活用した韓国は栄え、払拭して社会主義を始めた中国や北朝鮮は、あるいは遅れ、あるいは衰えていったのであろう」と言うに至っては実に明快で的確な表現である。
この文章は、考えようによっては、外国を侮辱している、といえなくもない。しかし、そんなことを言っていたら、言論なんて成り立たない。当然、書いてよいと考えるべきものなのだと思います。
このような言論が許される、自由な社会であることに価値がある。
ところで「テーミス」5月号の「日本警世」欄に、「トルコの好意を無にした日本を貶める国辱市長」という題で、高山正之氏が、新潟県柏崎市の「社会主義系市長」会田洋市長の国際的非礼を取り上げている。
90年代半ばに新潟県柏崎市がオープンしたテーマパーク「トルコ文化村」に、トルコ政府から送られたトルコ建国の父、ケマル・アタチュルクの記念像が、野晒しにされているというのである。
(中略)
「トルコ大使館は会田市長の『日本人とは思えぬ品位のない行為』を怒り、『せめて寄贈したケマルの像を、和歌山にある串本のエルトゥール号記念館に移して欲しい』と文書で伝えた。しかし彼は『売っちまったものに市は口を出せない』と突っぱねたという。こんな男が市長として選ばれたことに慄然とする」と高山氏は書いているがあきれてものも言えない。
むしろ、外国に対する侮辱とは、こういう態度をいうのでしょう。
「突っぱねた」 のか、たんに 「移せない事情を述べた」 のかはわからないが、可能なかぎりの努力をすべく、奔走するのが筋だと思います。
ご挨拶がてら…。
私の思想に興味がある、ということでしょうか? 賛否なども書き込んでいただけると、意見を修正するきっかけになります。よろしくお願いします。