演劇書き込み寺

「貧乏な地方劇団のための演劇講座」とか「高橋くんの照明覚書」など、過去に書いたものと雑記を載せてます。

脚本を書く技術-2-2

2009年04月08日 22時12分52秒 | 脚本を書く技術

前に書いていたものを、切って貼るだけなんですが、もう少しで書きかけの部分が終わります。
予定では6章まで行くつもりだったのですが、2.4.5で挫折した状態です。
どうしようかなあ。いい機会だし、続きを書いてもいいんだけど
あまりに内容が当たり前で、呆れている人もいるかもしれない、って思い始めたら続きが、書けなくなったのです。

2.2登場人物一覧表

タイトルの次に来るのが登場人物一覧表です。
登場人物一覧表はつける人と、つけない人がいます。
なくても、脚本を読んでいるうちに
誰が出てくるのかは分かりますから、
なくてもことは足りますが、あると親切です。

登場人物一覧表には、人物の年齢や関係
職業などが書いてあることがあります。
これも必ずしも必要ありません。
詳細に書き込みがしてあるために、
かえってイメージが混乱することもあります。
ただ、脚本を読み慣れない人だと
読んでいるうちに誰がどういう役なのか、
どういう関係なのか、分からなくなって
一覧表で確認しながら読むこともあるので
関係を書いてあげると、いいかもしれません。
私は、先入観をもたれたくないので、
関係とかは書かないことが多いです。
なお、登場人物が外人ばかりの時には
特に名前を覚えられないことが
しばしばありますので、
関係が書いてあると親切です。

一覧表で一番ありがたいのは、名前によみがながついているときです。
普通の名前だったら、なくても困りませんが
章子などは「しょうこ」とも「あきこ」とも読めますので悩みます。
難しい名前もふりがながついていると助かります。
瑛、瞭はどちらも「あきら」ですが、
めったにこんな名前の人にはお会いしません。

2,3ト書きって
脚本を読んでいると、一番最初に、どういう場所なのかとか、誰がいるのか、とか書いてあります。
途中にも、「誰それ、下手に退場」なんて書いてあるところがあります。
これが、ト書きです。

アメリカやイギリスの脚本は一般に、ト書きがすごく長いです。
それは、脚本を文学として鑑賞する習慣があるから、
より細かく理解してもらおうとするため説明部分が長くなるわけです。
日本の脚本も1960年代までは、ト書きが長かったのです。
余談ですがこういう、文学として読む対象の脚本を戯曲と呼んだりします。
同じものが、台本、脚本、戯曲というように用いられかたによって名前が変わります。

1970年代にはいると「つかこうへいブーム」という、
劇に関わる人たちが巻き込まれた一大ブームがありました。
このつかこうへいが、ト書きをほとんど書かない人なんで、
これ以降のト書きは一般にすごく短くなりました。

私が生徒に上演台本を選ぶのに脚本を読むときの注意としては、
最初読むときには「注意深くト書きを読まない」ようにするように言っています。
これは長いト書きを読むと、読むスピードが遅くなるから、
ある程度とばして読むことで多くの脚本を読むほうがいい、という指導です。
まあ、たいていの作品はト書きなんか読まなくても理解可能です。

では、脚本を書く人間にとって、ト書きの本質はなんでしょう。
私は書いているときの、防備録のようなものだと思っています。
いつ誰がどこでなにをしているのかを、書いている本人もよく忘れてしまうので、
ト書きに書いておくと便利です。
特に、舞台の上にいる人間といない人間は、入退場の指示がないと分かりません。
あと、その人がどこにいるのかも、ト書きがないと分からないですよね。

逆に基本的にやってはいけないのが、ト書きで感情を説明する事です。
「彼女は怒って」と書くよりも、怒った台詞を書くほうがだいじです。
これは、台詞の書き方の技術でももう一度説明しますが、
ト書きで書く習慣をつけると、いきなりその感情にしてしまいがちになります。
怒るには怒るなりの過程があります。

「笑う」
なぜ笑っているんでしょう。

逆の感情を説明する時には、ト書きは有効です。
ものすごく怒っている台詞なのに、「笑って」と
書いてあれば、凄みがまします。

ところで、ト書きというのは必ず必要なものでしょうか。
実は、そんなことはありません。
ト書きなんて、なくたって話は進みます。
シェイクスピアの脚本には本来ト書きはなかったようです。
書いてなければ、演出が適当に設定すればいいだけのことです。

でも、どこの話なのか、いつの話なのか分からないと、
読むときに不便です。

こんな時には5W1Hです。
いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのように、どうした。
ってやつですね。
このうち、ト書きで一番必要なのは
いつ、どこで、です。

   江戸末期、京都池田屋、新撰組討ち入りの前夜。


これだけで、なにが起きるのか予想がつきそうです。
ここには、時間を示すものが、ふたつはいっています。
一見「だれが」もはいっていそうですが、
実は「だれが」なにをするのかは
次から始まるセリフが担当することになっているようです。
これに、誰がを付け加えてみます。

   夕暮れ時、居間の中で男がうろうろと歩き回っている。

なぜ、まで入れてしまうと書きすぎかもしれません。
「なぜ」が次のセリフで明らかになるようなときのト書きです。

2.4簡単なようで、難しいセリフ

脚本を書いてみようと思ったきっかけのひとつに、脚本はいつもしゃべっている言葉をつかうだけだから、小説よりも楽だ。と、思った人はいないでしょうか?
実は私がそうです。
小説も書いてみたことがありますが、地の文がうまく書けません。
もうひとつには落語をはじめとする話芸が好きだったというのも理由です。

ところが、いざ脚本を書いてみようとするとセリフが浮かんできません。
あるいは、ぱっとしないセリフしか浮かんでこない、ということがありませんか。
実は私がそうでした。

これは、いいアイディアでないからセリフがうまくかけないのだ、と最初は思っていました。
つまり、物語の基盤になる素材がよければいい物語になるという錯覚です。
しかし、何本か脚本を書いて演出をしているうちに、実は違うことが分かってきたのです。

脚本の中の登場人物が何かをしゃべるときには、その登場人物にはそのセリフをしゃべらなくてはならない必然があるのです。
登場人物の持つ性格や立場が台詞を生み出すのです。
特に、立場というものを意識していない作品をよく見ます。
人は立場によって考えることが違う、当たり前のことです。
しかし、登場人物の性格については、いろいろなところで書かれていますが、登場人物の立場について触れていることは少ないように思います。

このことについては、技術だけではない話になりそうなので、とりあえず技術について話を進めることにします。

コメント
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