演劇書き込み寺

「貧乏な地方劇団のための演劇講座」とか「高橋くんの照明覚書」など、過去に書いたものと雑記を載せてます。

貧乏な地方劇団のための演劇講座

2012年04月15日 17時35分13秒 | 貧乏な地方劇団のための演劇講座

一度公開したものですが、自分で読み返す必要があって
読んでみたら並び順が使いにくかったので
並び替えてみました。

もういつの時代に書いたのか
思い出せないくらい古いものです。
自分が劇団を離れて、
劇団員に思いがうまく伝わらなくなったので
書いた記憶があります。
http://www.infonet.co.jp/apt/March/Aki/Binbou/index.html


もうあまり価値はないのですが
ノートを整理していたら
図入りのが出てきたので。

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貧乏な地方劇団のための演劇講座 はじめに

2012年04月15日 17時34分44秒 | 貧乏な地方劇団のための演劇講座

はじめに

地方で劇団活動をするということは一部の例外をのぞいては「名もなく、貧しく、美しくもない」活動をしていることだといってもいいだろう。もちろん、ほとんどの場合、収入にもならず、それどころか、世間や、親兄弟の誤解や、偏見と戦いながら演劇という高級な趣味(*00)を続けていくことになるわけで、時には、この趣味のおかげで社会的な立場すら、危うくすることもままあるであろう。
 本書は地方で演劇活動をしている人たちの参考になればと思い自分自身の狭い体験を基として書いたものである。特に、貧乏な地方劇団と限定したのは、自分自身の活動がいつも「貧乏な」状態で続けられてきたためであり、「豊かな」状態をほとんど知らないのでお金持ちの演劇については書くことが出来ないという、体験の貧しさ故に他ならない。しかしながら、旗揚げ直後の劇団は本当に「名もなく貧しく」であろうから、劇団活動をこれから始めようとする人たちには参考になるのではないかと考えている。
 冷戦構造が失われた今、戦略とか、戦術とかは時代遅れの表現となってしまったが、この稿を書くにあたっては、戦略と戦術を出来るかぎり意識しようと心がけている。つまり、戦略とは、「どのような演劇を誰のためにするのか」ということであり、戦術とは「個々の芝居をいかに上演するのか」という、役者の技術、スタッフの技術にかかわるものである。このため前半の章では、主として戦略的事項にかかわるように、後半は戦術的事項にかかわるように記述することをこころがけたつもりである。

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貧乏な地方劇団のための演劇講座 第一章 経済学入門

2012年04月15日 17時33分54秒 | 貧乏な地方劇団のための演劇講座

十年以上昔に(注1)、NHKのラジオ番組に出させてもらったことがある。地方で活動している劇団の人間を集めて、地方のアマチュア劇団の活動状況について語り合おうというもので、NHKの意図したのは、地方文化の担い手である若者の文化意識、社会問題への取り組み方を探ろうというものだったのだろうが、実際に集まったら、もっぱら金の話で盛り上がってしまい、文化とか、社会問題とかはどこかへすっとんでしまった。
 NHKは必死にフォローしようとしていたが、こちらとしては、最初から意図的にそういう方向に話がいくように仕掛けていたことなので、各劇団の本音がきけて良かったと今でも思っている。
 この番組のプロデューサーは、いろんな点で感違いをしている。第一に、地方で劇団をやっていて、文化なんてのを意識してる劇団は時代錯誤もはなはだしい。文化が東京に一極集中していることは、あたりまえの事実であり、マスコミにのっかったイベントや興業だけが、受け取り手(観客や一般の人たち)にとっては価値のあるものなのだ。
 第二に、文化そのものが多種多様となってしまい、送り手の価値観が劇団ごとに違ってきてしまっていることがあげられる。このため、送り手にも受手にも価値を測るモノサシがなくなってしまった。だから、同じ話をしているつもりでも、実は話がかみあっていないという現象がしばしばみられる。NHKが主催したこの座談会も、NHKが意図した座談会にならなかったのは各劇団の演劇という概念が違っていたためだという気がする。
 唯一盛り上がったのが劇団をどう維持し観客をどう集めどこにどれだけ金を使うかという実務的な話題でしかなかったのは、考えようによっては当然のことなのかもしれない。第一章では主として劇団の経済の問題をとりあげる。

注1)30年ぐらい昔になってしまいました。


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01-01
演劇をやる目的

 


 いきなりすごい話から入る。
 あなた(今これを読んでいるあなた)にとって、「演劇をやる目的」とは何ですか、と質問したいのだ。人によって、答えは色々だろうけれど、最近の身近な女の子の答で多いのは「自分を変えてみたくて」というのをよく聞く。私自身は「目的はよく分からないけれど、しいて答えるのなら、自分を知るための手段」ということになるのかもしれない。大方の意見としては「そんな大げさなことは考えたこともないが、さそわれてやってみたら体に合っていたから」というところだろう。
 だったら、どうしていきなり、「演劇をやる目的は」などと、言いだしたかというと、理由は三つある。

 (ア) 世間の多くの人たちは何か物事をやるにあたっては目的がないといけないと考えている。
 (イ)また、過去の多くの劇団は「目的」を看板として掲げることで、劇団としての方向性を示そうとしていたという、歴史的経緯がある。
 (ウ) やっている本人たちが気付いていないだけで、内在的にあるいは外部からの思い込みで目的をもった劇団になってしまっていることが多い。 

 (ア)と(イ)は演劇が社会主義運動や学生運動の手段だった頃の名残りである。(ウ)については次のように説明すべきだろうか。劇団という形態は必然的に(ウ)のように「目的」を持ってしまうものなのだ、と。
 「多くの人は何か物事をやるにあたっては目的がないといけないと思っている。」というのは、新聞の取材を受けるたびに、「演劇をやる目的は何ですか」と、聞かれることからも、世間の人たちが異常に理由に飢えていることが理解できる。「あなたの劇団が今回公演をする目的は」と聞かれるたびに、こいつ馬鹿かと思うけれど「無目的です」と答えるわけにもいかない。「社会の変革です」などと言ったら、新聞記者は喜んでくれそうだが、観にきた客には嘘八百だということが一発でばれてしまう。(本当に社会変革やろうとしている劇団が今だに健在だったら申し訳ない)また、目的を看板にかかげたりすると目的のためにボランティアすることになってタルイ。しかし、新聞記者やマスコミ、チケットを買ってくれる人たちは目的のない行為というのは胡散臭いものだと考えているらしい。「若者文化の創造です」などと答えたりすると新聞には大きく扱ってもらえるし、それを読んだ客がわんさか来たりするのだ。若者文化の創造などという白々しいセリフがすらすらと出てくるのなら、「目的」を前面に押し出すのもいいだろう。しかし、ほとんどの場合目的なんてしちめんどくさいことを考えて芝居を始めようなどという劇団は稀だろうし、「社会的な」目的とか、集団の意識なんてことすら、考えたことなんてないかもしれない。
 つまり個人にとっては、演劇をやる目的は「自分を変えてみたくて」だったり、「よく分からなかったり」するわけなのだが、集団としての劇団は対外的に目的を示す必要がしばしば出てきて、マスコミや観客は異常と言える情熱で「目的」を求めてくるということなのだ。
 そのための対応は、劇団としての「目的」を決めておくとか、劇団としての最低の理念を示しておくと、それから先はあらゆる場に対応していけるということなのだ。
 ただし、劇団の方向性にかかわるものなので、対外的に示す「目的」を決める時には慎重にかつ思慮深くしなければいけない。外部に示した後で裏切ると、無節操とか、意志薄弱などと非難されたりすることがある。
 参考までに昭和55年に劇団[三月劇場/水戸][月虹舎]の前身。最初の代表である斜三次が平成2年より、再び[三月劇場]の名前で土浦で活動中)の旗揚げの時のパンフレットの一部を引用しておこう。

 (前略)旧[実験劇場](註;斜三次が昭和53年に旗揚げ、一回だけ公演)が、水戸に新しいウェーブを、との理念に支えられた実践集団であったのに対し、[三月劇場]は継続する運動体として活動をすすめていく予定です。もちろん旧[実験劇場]以来の、自主単独公演はすべて劇団オリジナル作品のみで、といった基本理念は捨てないつもりです。水戸における演劇センター的な役割を受け持ち、将来的には専用劇場の開設、他劇団を招く演劇企画、出版、映画製作、照明機材の貸し出し等、われわれの限度を越えず、かつ欲求を最大に充足させられる所まで、活動を拡大していく予定です。(後略)

 この宣言で強調したかったのは次の2点である。

・作品は劇団のオリジナルしかやらない。
・劇団活動の一つとして、演劇センターの役割をになう。

 どちらも、目的というほどのことではなく、方向性を示しているだけに過ぎないが、当時の私たちの活動を支えるためには、この程度の方向性があれば、十分であった。

 すべての作品はオリジナルで、という原則は今でも厳しく守られている。78年の[実験劇場]から現在の[月虹舎]までの27公演について、29作品(再演、併演があるため)のすべてが劇団のオリジナル作品である。
 (イ)の演劇センター構想の方は、[茨城大学自主映画の会]との共同作業や、知り合いが東京から劇団を招いた時の手伝い程度であり、貸し出すほどの機材もそろわなかった。それでも、わずか数台の照明機材がどれだけ多くの劇団の舞台を照らしてきたことだろう。
 現在、土浦で三月劇場を主催している斜三次は「いかに金をかけずに手軽に上演できるかを見せる」ことを目的に三月劇場をやっている。これなどは、実に具体的な演劇をやる目的ではないだろうか。
 演劇をやる目的が明確になるということはそのまま、どのような演劇をやるのかということと結びついてくるということだ。


01-02
どのような演劇をやるのか

 


 次に訊きたいのは、"あなたはいったいどんな演劇をやりたいのか?"ということだ。
 「時代劇」という答えが返ってきたら、拍手を送りたい。「時代劇」をやるにはものすごい金がかかる。「ミュージカル」も同じ、「オペラ」ときたら、数百万円単位の予算を一公演ごとに組まなくてはならない。
 どんな演劇をやりたいのかというのは、どれだけ予算をかけられるのかということと深く結びついている。「貧乏な」地方劇団に「時代劇」や、「ミュージカル」「オペラ」は少し無理かもしれない。
 もちろん、手はいくつもあって、地方自治体とタイアップする形で、大規模なものにすれば、「時代劇」であろうと、「ミュージカル」であろうと怖くはない。最近はこの手の企画が流行っていて、静岡では「子供ミュージカル」「身障者演劇祭」など、自治体や商工会などが金を出す企画が増えているし、水戸ならば芸術館の庭でやる「野外劇」などがこれにあたる。たいてい、これらの企画ものはオーデションが原則であり、作品はプロが書き、演出はそれなりの肩書きのついた人間がやり、スタッフも外部の人間がやるのが普通だろう。出来上がりにソツはないし、観客は自治体が協力して集めてくれる。これで満足できるのなら、こういう企画に参加することをお薦めする。毎日千人単位の観客を相手に芝居が出来る。それで、満足できるのなら、仮にそういう演劇をやりたいのなら、[貧乏な地方劇団のための演劇講座]などをよむ必要はない。スタッフワークをやる必要もなければ、金の問題で悩むこともないのだ、余計なことに惑わされずに演技することだけを考えていればいいと思う。
 こういう企画ものではなく、自分たちの演劇を小人数で作っていこうとする時に「どのような演劇をやるのか」ということは、大きな問題となってくる。東京の大劇場で見て感激したような舞台はまずできない。それどころか、小劇場で観たささやかな芝居と同程度の舞台作りすら難しいだろう。
 理由の第一はスタッフの違いである。現在の東京の劇団の役者のレベルは、地方の劇団の役者のレベルとさほど変わりはない。主役級は役者も訓練されているが、脇にまわっている役者は、そんなにうまいわけではない。事実、うちの劇団に出演したこともある茨城大学の学生演劇劇団「とりっくすたあ」の小松比古左は、卒業した次の年には「ブリキの自発団」の主役で客演していた。その代わり、東京にいれば他の劇団の舞台を観ることが多いし、簡単に観に行けるので、スタッフを使う目が肥えており、おやっと思うような小さな公演でも一流のスタッフが参加していたりする。特に、照明や音響という地方の劇団では片手間ですませてしまおうとする分野に案外エネルギーや、時間を注いでいる。こうして、役者の力量以上のスタッフに支えられた舞台はそれなりにいい舞台となる。
 理由の第二は情報量の違いである。これは、チャンスの量の違いにもつながっている。地方の劇団がメジャーになることはまずないが、東京ではメジャーになるチャンスがある。ひとたびメジャーとなれば公演を続けていけるだけの客数を確保出来る。これは、一本の芝居に投資する金額の違いになるし、そもそも基本的な意気込みが違うのだ。
 だとしたら、地方で演劇を続けていくことはどんな意味があるのだろう。地方で演劇をやるとしたら、どのような芝居をやればいいのだろう。これでは、地方で芝居をやる意味などないではないか。いい解答を出すことは私には出来ないが、自分たちが芝居をやる時にはその時々によって、次のように考えてきた。

 (ア) 東京でやっていない芝居をやる。→オリジナルなので、どこでもやっていない。
 (イ) 自分たちの観客を育てるような芝居をする。→笑いを取ることとはイコールではない。
 (ウ) 東京で出来ない芝居をやる。→テントは東京ではなかなか張れない。
 (エ) 低料金でやる。→時に資金不足で自分たちの首を絞める結果となる。
 (オ) 自分たちが楽しめる芝居をやる。→ひとりよがりと言われることがある。
 (カ) 簡単に出来る芝居をやる。→欠点としては安っぽく見られる。

 たとえば、私の学生時代に同じ大学の医学部の連中が大学際の企画としてピーターシェーファーの「エクウス」という芝居を上演することとなった。この作品は、前々年にパルコ劇場で大当たりをとった劇団[四季]のレパートリー作品で、比較的小規模だがそれでも学生がやるには、なかなかたいへんな芝居だった。彼らは舞台装置を専門の大工さんに頼み、小道具を[四季]から借り、照明はプロに依頼した。当日の芝居は可もなく不可もなく、こんなもんかなというものだったが、後で医学部の学生課で「連中金が足りなくなって、泣付いてきたので五十万円程、出してやった」と聞いたときには、本当に頭にきた。
 その時の入場料は三百円で、二千人集めても六十万円にしかならないことは最初から分かっていた事なのだ。赤字を自分たちで埋めることが出来ないような芝居を作ることは、たとえ、どんなにすぐれた作品でも、すぐれた演出家でも次がなくなっていくということだ。彼らにしてみれば、青春のメモリーとしての作品だから、誰に尻拭いをさせても良かったのかもしれないが、こういう甘えは作品を駄目にしてしまう。マネは結局マネでしかないのだ。マネをしようとするから、こういう甘えがでてくるのだと思う。東京であたった作品をただ自分が感動したからといって、そのまま持ってきたところで、資金不足や、技術不足で誰かに泣付くことになるか、一回かぎりで終わってしまうのがオチなのだ。地方の劇団こそ、オリジナリテイや簡易性のある舞台が求められるということを忘れないでほしい。
 ここまでくれば、この「経済学入門」が対象としている劇団のイメージが少しは湧いてきただろうか。


01-03
制作費とは何だ

 


 芝居を作るのにかける金を制作費という。制作費の内訳は以下の通りと考えていいだろう。

 (ア)会場費
 (イ)宣伝広告費
 (ウ)照明代
 (エ)大道具・小道具代
 (オ)衣裳代
 (カ)音響代
 (キ)練習場代
 (ク)雑費・交通費等
 (ケ)著作権料

 「1-2どのような演劇をやるのか」で、述べた通り、上演する演目、上演形態によって、制作費は大幅に変わってくる。たとえば、100ページある台本を40人のキャストと30人のスタッフに配ったとすると、台本代だけで(十円コピーを使ったとしても)七万円になる。100ページの台本というのは、ちょっと長い話ならありえるし、ミュージカルなら70人のスタッフ、キャストも考えられる。このように制作費というのは、変化自在の化物のようなもので、ちょっとしたスキをついて、巨大に膨れあがり、劇団の財政を圧迫してくる。大方の劇団では、この制作費を削ろうとするが、実は安易に制作費を削ることは作品が安っぽくなるだけであり、良い作品を上演したいという欲望は何ら満足させられない。
 それでは、「貧乏な地方劇団」は制作費なる化物とどう戦ったらいいのだろう。ここからが、戦術編となる。今までの話は経済の話題を限定するための前置きにすぎない。つまり、戦略を決定する条件を決めてきたわけだ。あなたの劇団は「目的」が決まり、どの程度の作品を作るのかも、おぼろげに見えている。演劇の場合、戦略の決定は単に経済面だけにとどまらないが、仮に、ある作品に上演が決まったとしよう。観客の支払う入場料に見合う価値(舞台)をあなたたちの劇団は客に提供しなくてはならない。

 (ア)の会場費はいわずと知れた、公演会場を借りるための予算である。会場が大きくなればなるほど、普通は会場費が高くなる。会場費には照明代と音響代が込みになっている場合と、別になっている場合とがある。一般に演劇の場合、四百人前後かそれよりも小さいホールが公演には適している。残念ながら地方都市に作られるホールは千人前後のホールであることが多く、これらのホールは会場費が高い上に舞台が広すぎるので装置を作るのもままならず、照明効果もホールに設備されている機材だけでは思うような効果をあげられないことが多い。
 (イ)の宣伝広告費はポスターチケットなどの製作費である。この中にはデザイナーに支払うギャラや、ダイレクトメール代等も含まれる。公演回数が増えていくに従って、ダイレクトメールの予算に占める割合は増加する傾向にある。
 (ウ)の照明代は照明機材の借り賃などである。後で述べるが、照明機材を借りるのか買うのかは議論の別れるところだろう。
 (エ)大道具・小道具は芝居の中身とかかわっている。また、会場が広いと大道具もそれなりに大きくしなくてはならないので、余計に予算を組まなくてはならない。
 (オ)衣裳代は贅沢をしだすと限りがない。しかし、女性客の目はこの衣裳という問題に対して実にシビアであり、近年の女性客の増加を考えると手抜きをすると安っぽく見られることとなる。
 (カ)音響代は効果音を作るためのスタジオ代やテープ代などが含まれる。
 (キ)(ク)については、説明するまでもないだろう。
 (ケ)の著作権料については後述する。


01-04
制作費はどういう収入によって成立っているのか

 


 最初の制作費はゼロである。どんな劇団でもどこかしらから、金を集めてこないと制作費はいつまでたってもゼロのままである。ゼロの制作費を何万かの金にするには、まず、劇団の構成員が金を出しあうか、スポンサーを見つけなければならない。スポンサーは企業であったり、公共団体であったりするが、この稿はスポンサーから資金の出る芝居については省略する。スポンサーを頼って、芝居をしたことがないので書きようがないというのが本音である。
 集める金の目安は、ポスター・チケット印刷代と当座買う大道具。小道具代等に 見合う金額があればいいだろう。会場費は前払いでないかぎり後で支払えばいいのだから。
 自分たちの経験では最初に劇団員に代金と引き替えにチケットを渡してしまって、最低それだけの収入ですべてをまかなえるように計画をした。六人のメンバーだったから、前売五百円のチケットを二十パーセント割り引いて劇団員に買ってもらい、確定した収入の三万六千円でまかなえるような会場を選び、余った金でポスター・チケットを印刷した。どうせ、プレイガイドに出しても一~二割のマージンを取られるのだから、チケットを売ればメンバーがもうかるような形にしたのだった。この時は一人だけ、やたらとチケット販売能力のある人間がいて、芝居をやっていて、四千円も収入があっていいのかなどと呟いていた。(たかだか、四千円ではあるけれど)
 このノルマ制は最初の四回ぐらいまででやめてしまったが、劇団を始めた当初には不公平感がなく、財政も安定する有効な方法だと思う。ただ、長い間続けるには問題が多く出てくる。ひとつにはチケットが売れる人間と売れない人間とが出てくることであり、最後には知り合いが重なるために劇団員が増えると売り込み先が重なってくるという弊害が生じることである。
 広告を取るという、スポンサーをつける変形もある。これも二回目ぐらいで止めてしまった。広告を取るためには、平日に動き回る必要があり、平日暇な人間がいないとやっていられない。たとえば、三万円の広告収入と同じ収入を得るには、千円の入場料で公演をしているとして三十人の客を増やせばいいということなのだ、と気付いた時に、広告取りは一切しなくなった。創立期の劇団にとっては一つの収入源であるので、チャレンジしてみるのもいいかもしれない。
 金の集め方は、このように集める他、会費、劇団費という集め方もある。じつは、この方法は[月虹舎]の劇団員には理解できない。過去、この方法で金を集めたことがないからである。公演のための製作資金を日常的に貯めるというのが、よく分からない。仮に、こういう金を集めるとしたら、練習場代、講師代、機材購入費にあてるべきあり、公演のための直接予算に組み入れるべきではないと思っている。そうしないと公演は日常の訓練をただ引きずった場となってしまい、緊張感も何もない舞台となってしまう可能性がある。事実、極めて高度な日常訓練をしている劇団が公演では日常訓練程のこともできないでいることがしばしばあるのだ。
 こうして、考えると劇団の収入というのは、基本的にチケット収入が主体となってくる。観客動員の多い劇団では、チケット収入は百万円単位となるだろうし、観客動員の少ない劇団では数万円の単位にしかならない。観客動員が多く、また安定した動員数をもっている劇団ほど財政的には安定してくるのは明らかだろう。


01-05
入場料というものは必要か

 


 不思議なことにアマチュアがやることは入場無料にすべきだという得体の知れない概念が広く世の中にまかり通っており、何かの拍子にこの話が出てくるたびに相手に説明するのに疲れてしまう。
 だいたいアマチュアの演劇を入場無料でやれというのは、無収入でやれということであり、劇団の財政という特殊事情を考えると破産しろあるいは劇団員に献金しろと言っていることと同じなのだ。
 音楽を例にとろう。バンドをやっている時に、楽器を買うのは個人レベルの話であって、バンドとして楽器を買うのは少ないだろう。たとえ、バンドで楽器を買ったとしても、バンドの中の個人が管理することとなる。バンドが解散しても、それから先は個人が所有することで楽しむことも可能であろう。しかし、大道具や、衣裳を個人に分配してどうしょうというのだ。
 舞台で消費される材料を購入することや、セリフを記憶する、そういうその場限りで消えてしまう幻のためにエネルギーと財政を投げ込んでいくのが演劇というものなのだ。
 この舞台という幻をより真実らしく見せるためには緊張感が必要であり、そのためには最低観客が必要となる。この時、入場料を払ってきた客を前にした舞台と無料で観にきた客を前にした舞台とでは緊張感がまるで違う。入場料を払った客はたとえ五百円の入場料であっても、その入場料に見合うだけの価値を求めている。それに対して、無料で入場した客は舞台に幻を視ようという努力をするだろうか。プロとアマチュアを比較するのは好きではないが、アマチュアにこういう客をあてがおうとすることは残酷なことなのだ。プロの劇団ですら、企業の買切の時など、客の半分が舞台と反対の方向を観て、酒を酌み交わしていることがあるそうで、こういう客の時には芝居にならないとのことである。
 入場料は経済的に劇団を支えるためと、価値を求めてくる客を集めるための二点だけでなく、制作方針を決めるときの目安にもなる。演劇の規模をどの程度にするかということは、お客さんにどれだけの価値を観てもらうのかということに等しい。よって、価値を具体的な数値に換算することが可能となる。
 自治体によっては練習所を無料で貸しているのだから、あるいは、演劇祭でホールを無料で使わせているのだから、公演も無料であるべきだ、などと言うところもあるかもしれない。実はこの発想は根本からしてまちがっている。第一に、それを利用する劇団のメンバーは最低一人はその自治体に属しているはずであり、彼は税金を支払っているはずだから、なにがしらの金は支払済である。第二に、演劇活動を認めることは自治体にとって投資である。それも、若者にとって魅力のある、アクティブな劇団がその町にあり、新聞やミニコミや広報をにぎやかすことはその町の財産となりうる。そのためには練習場やホールを無料で使わせることなど安いものなのだ。
 ちょっとした劇団の一つもない町、それは若者にとってはつまらない町でしかない。


01-06
入場料はいくらにすべきか

 


 地域によってかなりの差があり、一概にいくらにすべきかは言えない。二十年近く昔のアマチュアでも青森の「雪の会」などは、入場料が千円以上したし、逆に今でも五百円ぐらいしか取らない劇団もかなり多いだろう。現在静岡では千円以下という劇団はなくなってしまった。高い劇団で千五百円ぐらいだろう。
 アマチュアの場合映画の入場料の料金を越えると、えらく高く感じられるので、上限を映画の入場料程度に設定し、どれだけのものを観客に提供できるのか自問自答して金額を決めるべきであろう。余り安い入場料は安かろう悪かろうという印象を観客に与えることとなる。実際に売ってみると八百円でも、千円でも販売枚数に変化はでないはずだ。二三年同じ金額でやっていたら、少し値上げすることも考えた方がいいかもしれない。あまり安い入場料では出来ることも限られてくる。劇団は常により高いところを求めていないと自然に力がなくなっていくものだから、制作費もそれに伴ってかかっていくものなのだ。 繰り返しとなるが、入場料というのは劇団が観客に提供できる価値と等しいか、それよりも安く感じられる金額でないといけない。たとえ三百円の入場料であっても、芝居がつまらなければそれは高い入場料なのだ。


01-07
チケットの販売方法

 


 チケットをどう売るかという質問に答えるのはとても難しい。方法としては次に示すやりかたがある。

・友人親類に売る。
・プレイガイドで売ってもらう。
・友人に売ってもらう。
・当日精算券を大量にばらまく。
・ダイレクトメールで割引券を送る。

 友人親類に売るというのは実はすごく難しい。売り付けるこっちも恥ずかしいし観に来る方も恥ずかしい。おまけに休みの日にわざわざ芝居を観にきてくれる友人なんてのはなかなかいない。
 プレイガイドで売ってもらうのも難しい。チケットを置くというだけならたいていのプレイガイドは協力してくれるが、二十枚以上売れたことはない。ひどいときには一枚も売れない。マスコミ(小さい地域のミニコミ程度であっても)マスコミに好意的に扱われたりするとプレイガイド売りは急に良くなったりするのだが、マスコミに好意的に扱われることがまずないのでプレイガイド売りが伸びたことはない。
 顔の広い友人がいれば「友人に売ってもらう」のは効果的。しかし、芝居がつまらないと、友人を失うことになりかねない。注意すること。
 当日精算券はばらまきすぎると前売券が売れなくなる。当日精算券はまず来そうにない客層に大量にばらまくべきであり、高校、企業、その他の音楽や書道の団体に送りつけるのもいいかもしれない。
 ダイレクトメールで割引券を送り付けるのは比較的確実な方法。まめにやると観客増加につながる。
 正直な話、自分自身は人との付き合いもあまりないので、チケット売りは苦手である。だから、チケット売りはほとんど劇団員に頼っている。性格が悪いせいか誰も義理ですらチケットを買ってくれない。チケットを売るときだけは友人を多くもちたいものだと考える。しかし、チケットを売り歩く努力をしないでもすむくらい面白い作品にすればいいのだ、と自分を鞭打つ材料にもなっているので、ホイホイチケットが売れないというのは悪いことばかりではないのだ。
 チケットの販売を劇団員のノルマ制にしているところもある。悪い方法ではないと思うが、[月虹舎]ではノルマ制を長い間取っていない(現在もたぶん)。どうしても売れる劇団員と売れない劇団員との間に差があり、ノルマの不足分を自分で埋めなくてはならなくなる劇団員ができてしまうからだ。
 今までの経験では、その時練習している芝居がうまくいっているときは黙っていてもチケットは売れる。あと、ポスターの出来が良いとチケットの売れ行きが急に伸びる傾向がある。


01-08
劇団会計の仕事

 


 劇団に収入があったり、支出があればこれを管理するのが会計係である。収入支出共に帳簿を付けるように心がけたい。今劇団にどれだけ金があり、今後どれだけ金が出ていくのかを予想しておかないと当日になってから会場費が払えない騒ぎを演じることになったりする。公演が終わって、トントンぐらいかなヤレヤレとホットしていると、ごそごそとポケットから領収書の束を取り出す奴が出てきて、俺も俺もとみんなの領収書を清算してみたら、みんながポケットから取り出した分がそっくり赤字で、ポケットに領収書だけを戻す、などという笑えない事態ともなりかねない。
 会計は劇団の中では地味な仕事だが重要な仕事なのだ。会計係に求められるのは次のようなことである。

・収入/支出があれば素早く帳簿を付け、現在劇団にいくらあるのかを明確にする。
・劇団に金が不足しているときは劇団員の尻を叩いてチケットを売らせる。
・購入するものが本当に必要なものなのかどうかを判断し、意味不明の領収書は説明を求め、場合によっては清算しない。
・公演の決算をし、全体に占める会場費、材料代などの割合を分析する。また、チケットの販売枚数と実来客数の比から歩留まりを求め、チケットのナンバーから、客の種別等を求め今後の制作の基礎的資料を作成する。

 会計がしっかりしすぎていると、自由に身動きがでなくなるし、会計がルーズだと、公演が終わって一ヵ月しても黒字だったのかはたまた赤字だったのかさっぱり分からないという事態になる。
 会計で一番重要なのは、劇団の帳簿はいつでもオープンでなければいけないと言うことだ。劇団員の誰かが見たいといったら、すぐに見れるようになっていることが大切だ。劇団とは個人のものではないのだから、みんなのお金がどう動いているかを知ることはとても大切なことなのだ。公演が十万円単位で動いているときには、トラブルは出てこないかもしれないが、数百万から一千万円の単位となれば金銭のトラブルも発生しがちになる。会計の責任は極めて重要だといわなくてはならない。


01-09
著作権料

 


 既成の作品を上演するときには作者に上演の許可を求め著作権料を支払わなければならないことを知っているだろうか。高校演劇の脚本集にはこのことが明記されているので、結構支払われているようだが、一般の劇団は支払っているのだろうか。かえって、高校演劇楊の脚本を書いている作者の方が、この収入は多いのかもしれない。
 オリジナルを上演することのメリットは脚本料を支払わなくてもいいということにある。何せ、二十年前で一幕もので一回の上演ごとに七千円、多幕もので五万円だった記憶がある(何せ自作しかやらないのでこの辺りの理解は極めてあいまいである)。だから、二日で三回上演すると、三かける七千円で二万一千円の上演料を支払うこととなる。これは入場料をとらない場合の料金であって入場料を取る場合は確か倍額だったような記憶もある(繰り返すが記憶があいまいなのだ)。さらに言うならば、外国の作品の場合はエージェントとの契約が必要であり、その場合は基本料金+入場料の10~20%を取られる。一本の制作費が十~二十万円単位のアマチュア劇団の場合、制作費の何十パーセントかが消えてしまうことになる。現実問題として支払うことが困難な劇団が多いのではないかと思う。
 だからといって、無断で上演してもいいということではない。でき得るかぎり、上演許可は求めたい。作者としても勝手にやられるのは嬉しくはないだろう。払えないときは払えないけれどといって上演許可を求めたい。それでも許可しない作者はよほど貧乏か根性が曲がっているかのどちらかだ。貧乏な場合はやはりお互い助け合いなので払えるだけでも払ってやりたい。何せ、この世界には四十歳になっても年収六十万円という人がゴロゴロいるのだから。
 もうひとつ、演劇の上演でひっかかるのが、音楽の著作権料である。出来るのなら、この話には触れたくないのだが、話のついでなので触れておく。劇中及び客入れ、客はけで使用した音楽にはすべて著作権料がかかる。しかも音楽の著作権料は脚本と違って会場の座席数にかかってくる。千人のホールに八十人しか入らなくても千人分の著作権料を取られるということなのだ。
 この著作権料はレコード、CDだけでなく生演奏にもかかってくる。アマチュアのコンサートで他人の曲をやった場合でもレコードと同様に座席当たりなんらかの料金を取られる。恐ろしいことに脚本と違ってこの集金はJASRACという団体が担当しており、[ぴあ]や新聞に名前が載ると電話がかかってくることがある。一つの芝居で20曲も使ったりしていると...結構な金額になってしまう。
 そこで、[月虹舎]ではなるべく音楽もオリジナル曲を使うよう努力していた。えー、努力はするんだけど、原則的には支払わなくちゃいけないことは重々分かっているんだけど...こういう法律や規則があることだけは知っておこう。ただ音楽家は(少なくともCDが出ているような音楽家は)脚本家ほどは貧乏ではないと(勝手に)考えている。


01-10
貧乏な劇団のお買い物

 


 貧乏な劇団が買物をするときには人の倍は考えなくてはいけない。

○買うものと借りるものを明確にする。

 第一に買うものと借りるものをはっきりと区別することである。置き場所さえあれば買ってしまったほうが安くつくものがかなりある。逆にわざわざ高いものを買わないでも借りてしまったほうが安くつくものも多い。音響・照明については別に述べるが、衣裳などは特に借りるよりは買ってしまったほうが安い(もちろん古着を利用する)場合が多い。小道具で使うイヤリングなどは特殊なものなので借りたほうが安くつく。

○規模に応じた投資をする。

 ポスターを貼る場所が年々少なくなっており、ポスター代に金をかけるのはもったいないという意見がある。ポスターに四万円なり、十万円なりをかけるのなら、その分をDM(ダイレクトメール)や、ビラ、パンフレットに投資する方がいいかなとも最近は考えている。(しかし、ポスターは記念とか記録としては重要なウエイトを占める。)

○使い回しの出来るものは確保する。そして、買うのなら早く買う。

 舞台をやるたびに使うことになるものは、買っておくほうが便利だと思う。しかし、劇団で購入するということは楽なようでいて大変なことでもある。後々役に立つことは分かっていても「この次自分は舞台に立っているのだろうか」と考えている劇団員がいるのなら、正直な所劇団で物を買うのはためらわれることだろう。
 大きな買物をするチャンスは劇団の旗揚げ直後がいい。志が高い時期なので共同で購入するのはこの時を於いて他にはない。買っておくと便利なもののリストは以下のようなものである。

 ・音響用ミキサー
 ・パネル
 ・メイク用具
 ・ワイヤレスインカム
 ・照明機材
 ・暗幕
 ・公演用テント
 ・地がすり、紗幕など(ホールでやるとき以外いらない)

 もっとも、これらの物を買うために金を使いすぎて後々苦しむようなことがあってはならない。ただ、しつこいようだが、買おう買おうと思ってもチャンスがないとコード一本なかなか買えないものなのだ。買えるチャンスに買っておくべきだ。

○打ち上げは会費制とする。

 制作費とは直接関係ないが打ち上げの費用が案外馬鹿にならない。仮にもし、芝居で儲かったとして、打ち上げをやると少しぐらいの儲けはあっという間に消えてしまう。打ち上げは楽しいものだが制作担当者は心を鬼にして会費制にしようといおう。実は私たちも何度かこれに失敗して、劇団の財布をからにしてしまったことがあり、次の公演のポスター代が払えない騒ぎをしたことがある。
 

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貧乏な地方劇団のための演劇講座 第2章 政治学入門

2012年04月15日 17時33分05秒 | 貧乏な地方劇団のための演劇講座

再開しますが、全部読みたいという人はこちらへ
http://www.infonet.co.jp/apt/March/Aki/Binbou/index.html
書いてから20年近くたちました。
現在、月虹舎は活動を休止していますが、2009年に復活公演をしています。
http://blog.goo.ne.jp/mcberry/e/a0c9f2a37432193960062d05dd100063


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 人と人とが集まって劇団を組織し舞台を作り上げていく、というのはとても生臭いことだと思う。当然劇団の運営には人と人との力学が働いてくる。また、劇団を長くやっていると、恋愛騒ぎも結構あるのだが[月虹舎]では劇団が出来てから劇団内で結婚したカップルは一組もいない。それだけ、魅力的な相手がいないのか、お互いが知りすぎて駄目なのか分からないが、普通は男女が多くいる劇団ならば劇団内で結婚というのはそんなに珍しくはないだろう。
 この章では恋愛についてはなるべく簡単に触れて、劇団の組織とその役割、対外的な対応などについて述べるつもりでいる。

 

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02-01
再び演劇をやる目的

 

 第一章と同じ主題から入るが今度は少しニュアンスが違う。個人個人の演劇をやる目的を「人と集まり出会う」こと、「人に自分の表現を見てもらう」こと、あるいは「自分を発見する」ことという三つに大別するとして自分はどれなのかを確認してもらいたい。もちろん、この三つのいずれとも違うこともあるだろうが、今まで劇団員が「演劇をやりたいんです」と言って入ってくる目的は、この三つぐらいだったと思う。
 「人と出会い、集うこと」を目的としている場合は友達・彼氏・彼女を求めてくる場合であり、実の所最初からこの目的で劇団へ入ってくる人は珍しい。こういう目的のためなら世間にはもっと適したサークルがゴロゴロしているからであり、特に芝居などという特殊な趣味をやろうというサークルにこういう期待をかける人間自体がかなり特殊だと言った方がいいだろう。本当にたまに「彼氏・彼女」だけが目的で劇団に入ってくる人がいる。実はこの目的はなかなか達成しないことが多い。劇団がアクティブに活動していると、外部で思っている以上に禁欲的なムードが漂う。公演直前にイチャイチャしていたらピリピリしている他の劇団員を刺激して、結局退団ということになるし、練習が始まっているのに、女の子を口説いて回っていたら、馬鹿扱いされるのがオチだ。
 結果として、「人と出会い、集うこと」が目的となるケースはよくある。演劇は特殊な趣味だし、地方の劇団の芝居など見ている客も多くないので、過去の芝居の話などは、自然と劇団員同志でしか会話が成立しなくなるのだ。「さあこの次はどんな芝居をやろうか」という、一番楽しい話は劇団員同志でしか出来ない、最高に楽しい会話である。
 「自分の表現を見てもらうこと」を目的として入ってくるのは、社会生活に対するフラストレーションが溜まっているか、ナルシストである場合かのどちらかであり、たいていは両方が混在している。演劇をやりたいという約九割が役者志望であろうから、本来はこのタイプが一番多いはずなのだが、実際に劇団員が入ってくる時にこういって入ってくることはあまりない。
 「自分を発見すること」は「自分を変えてみたくて」というのと同じことだと考えていい。「自分を変える」ためには「自分を知る」必要があるからだ。このタイプはスタッフ志望に多く、最近は女の子にこの傾向が見られる。
 なぜわざわざ第一章と同じ話を持ち出したかというと、主催者の目的、または構成メンバーの目的によって劇団全体の方向が決まっていくからだ。
 「人と出会い集うこと」を目的としているのなら、合宿や合同リクリェーションの多い、いわゆるサークル活動化していくだろうし、「人に自分の表現を見てもらう」ためには舞台は華美に、上演作品は客の反応を確認しゃすい喜劇の上演が多くなっていくだろう。「自分を発見しよう」などというややこしいことを考えていれば、芝居もややこしくなるだろうから、客受けは良くない。
 各個人が演劇をやることにどういう期待を持っているか、によって、また、それにどう答えようとするかによって、劇団の活動の方向性や、劇団としての目的が決まってくる。第一章で言う劇団の目的が、あれもやりたいこれもやりたいという演劇の可能性に対する道しるべを定めるためのものだとすれば、この章で言う目的とは劇団員が芝居を通してどう生きていくのかという問題とかかわっている。
 劇団内部の問題として、劇団をどの方向で運営していくのかは時々考える必要がある。サークル化していくと劇団の戦闘力は衰える。芝居を華美にしていけば、主役とそうでない役者との差を作る芝居づくりに陥る危険性があるし、劇団活動も長時間化して仕事や学業への影響も考えられる。自分を発見しようなどというややこしいことを考えると前衛的になり、客や役者に見捨てられることもあり得る。こういう別々の目的を持った個人の集合体である劇団の目的は力バランスによって、自然に決まってくる。そして意外に自分たちではどういう目的の劇団なのかが見えなくなって惰性で動いてしまうことも多いようだ。

 

02-02
劇団

 

 演劇は劇団という組織がなくても成立する。十五年以上昔から、プロデュース公演というのが一般的になってきており、全国的に自治体や企業が絡んだプロデュース公演が年々盛んになってきている。
 しかし、継続的に方向性を持った演劇活動をしていこうと考えると、劇団というのはかなり便利な組織といえる。つまり、自分たちで何かを作り上げていこうとするときのベーシックな力はプロデュース公演では蓄積されていかないのだ。プロデュースで集められるのは力を持った個人個人であって、養成という作業にむいていないのではないか。無名の役者、無名の演出家の劇団公演は存在しても、無名の新人ばかりのプロデュース公演は、役者をやろうとする人間を集めることすら難しいのではないだろうか。
 ましてや、地方の演劇ともなれば、著名な作家、著名な演出家がかかわるか、水戸のACM(水戸芸術館)のような著名な組織が冠にならないと役者は集まらない。また、役者が集まったとして、客が来るだろうか。
 さて[月虹舎]の場合はかなりゆるやかな劇団制を取っている。結成初期から他劇団との掛け持ちをしている人間は何人もいたし、茨城大学の演研と掛け持ちしている人間も何人かいた。この中には[月虹舎]がメインになってしまったメンバーが多い(所属している劇団が活動を止めてしまった場合もある。)[月虹舎]の公演は年二回程度であり、仕事の忙しいメンバーは公演当日本番が始まってからしかこれなかったり、出演できなかったりするのだが、たくさん出演したいメンバーにとっては年二回のペースでは少ないらしい。これは他の劇団でも同じことだし、他の劇団で思うような役が回ってこない役者や、もっと変わったことをしたい役者が[月虹舎]へ遊びにやってくるのだ。こういうとき、[月虹舎]のように劇団員がいつ入ったのか、いつ止めたのかよく分からない劇団は便利で、いつのまにか劇団員となって芝居をしていたのが、おや姿が見えなくなったなと思っていると、二三年してまた舞台に復帰しているというかなりフレキシブルな体制となっている。このため、[月虹舎]には、「えっ」という人間が役者で出ていたり、スタッフをやっていたりする。水戸の演劇関係者では、大貫真司が役者で出たことがあるというと意外だろう。
 こういう体制を維持していくのは簡単なようでいて実はかなりしんどい。誰が抜けたとしても、核となっているメンバーが自由な発想で対応できなければならないし、経済的なトラブルをさけるためには入場料収入で公演が賄えるように劇団運営をしなければならない。誰が劇団に来ても、「とにかくやってみれば」と言うためには、核のメンバーが脇に回っても芝居を成功させようという度量の広さと、演技をフォローできる力がなくてはいけない。まあ、実際の活動では全部が全部うまくいっているわけではなくて、つい「あとから入ってきたくせに」とか「うちのやり方はこうなんだ」と言ってしまうことが多いが、ただ見学にきただけの人間が結構好き勝手な意見を言っても許してしまう体質があることは確かだ。
 こういう体質になれているためか、今静岡で他の劇団の練習を見ていてもつズケズケといってしまい、随分と嫌われている。こちらとしては忌憚のない意見を言っているつもりであり、アンケートでは書かれない批判の部分を言っているつもりなのだが、批判されたり、叩かれたりすることに慣れていないのだろうか。もっとも[月虹舎]がこの間久しぶりにアンケートを取ってみたら、なかなか厳しいことを書く人間が増えていた。水戸では着実に観客の質も向上していると思う。
 こういうフレキシブルな体制は劇団としての力がやや弱くなる面があるが、いくつかの劇団のある町では接着剤としての機能も持っている。ただ基本的な、底力がないとこういう体制は組めないので、結成当初はまず自分たちの場を固めることが大切だろう。
 劇団とは個人の物ではなく参加しているメンバー全員の物である。どうしても意見が合わなくなったり、他にやりたい芝居があるときなどは、劇団の中に、さらに劇団を造るという方法もある。[月虹舎]の周囲には「山本孝和演劇事務所」、劇団[三月劇場/土浦]などいくつかの分枝的な団体があって、[月虹舎]とはまた違った芝居の上演をしている。これらの劇団はさらにそれぞれが外部の劇団とのコネクションをもっており、[月虹舎]を母体とした、対立的な関係([山本孝和演劇事務所]とは最近ごちゃごちゃともめているらしい。個性の強い人間同志の作業なのでこういうことがあるのもある意味では当然のことなのだろう)も含めて有機的な組織が形成されている。
 劇団という組織で大切なのは、劇の創造という作業に向いている組織であること、またある程度続けることが可能な組織であることである。

 

02-03
劇団の組織

 

 劇団の組織といっても、アマチュアレベルでは代表と会計がいるくらいであとはみんな同列だろう。[月虹舎]でも、代表と会計が決まっているだけで、他は決まっていない。代表は所健一がずっとやっていてくれている。
 アマチュア劇団の代表というのは苦労が多く報われることは公演の最後のあいさつで「座長、所健一」と呼ばれる時ぐらいだ。劇団員はみんなわがままで、困った時しか代表を立てようとしないし、年上の口うるさい連中がゴロゴロしている(特に著者はうるさい)。こういう劇団の代表は、人望があり、面倒見がよく、細かいところに気がつく人間が向いている。
 あれもやりたい、これもやりたいタイプや、威張りたいタイプ、性格に裏表のあるタイプは長い間にはぼろが出たり、無理が出るので脇に回っていたほうが良い。年上だから、押しがきくから、頭が良いからというのは代表を選ぶときの重要な要素とはならない。所健一が代表となったのは二十代の後半だったが、その時の[月虹舎]には三十歳以上の人間が何人もいたし、大阪大学の大学院を首席で卒業した人間や、芝居を長いことやってきた人間もいたのだ。
 いろいろな劇団を見ていると、代表は選ばれるべくして選ばれているようだが、たまになぜこういう人間が代表なのだろう、なぜこういう人間を選ぶのだろうという劇団がある。代表は劇団の顔なのだから、良い人間を選びたい。
 会計については一章でその仕事の内容を説明してある。職務を的確に遂行できて、使い込みの心配のない人間を選ぶべきであろう。

 

02-04
他劇団との関係

 

 他の劇団との関係は難しい。
 仲が良すぎると、なぜ劇団が二つあるのか分からなくなるし、かといって仲が悪いのも困る。お互いに刺激しあう関係がいいのだが、刺激が強いと悪口の言い合いになる可能性もあり、まあ、仲が悪いよりは良い方がいいとしか言いようがない。
 大切なのは出来るだけ他の劇団の芝居を観にいくこと。一番動きの良い劇団ほど、マメに他劇団の芝居を観ている。芝居はとにかく観にいかなくては批判も何も出来ない。観た芝居がつまらなかったら、なぜつまらないかを考え、どうしたら面白くなるかを考えてみる。出来れば、その劇団の人間と話をしてみるといいだろう。「あそこはつまらないから」とか「なんであんな芝居をやるんだ」なんてのは、批判でも何でもなくてただの悪口にすぎない。「わたしはああいう芝居は嫌い」、というのも単なる印象批判であり、なぜ好きかなぜ嫌いかを明確にしておくことも時には必要だ。自己分析していくとあまりに強烈に自分の生き方や、価値観とぶつかっているからという場合もある。口に甘いものだけを食べていたのでは表現者にはなれない。
 褒め殺しもうまくない。よく褒めてくれる人で、結局はこちらをけなしている場合がある。あるいは、「わたしの所は力がないから」といって話から逃げ出す相手もいる。こういう劇団は残念だが相手にしない方がいいかもしれない。一生懸命しゃべっている自分が馬鹿に思えてくる。
 本当は、どんな時でもどんな相手にも、誠意をもって対応するのがいいのだろうが、時に毒もないと人生はつまらない。
 私自身は少しお節介なくらいに他劇団とかかわろうとする傾向がある。一寸私に声をかけたばっかりに、しまいには「おっさん、あとは自分たちでやるからいいよ」と叫び出したくなった気の毒な学生劇団は一つや二つではないだろう。

 

02-05
お手伝い

 

 演劇をやるということは他人に迷惑を掛けることだと思っている。一番の被害者は一寸手伝ってくれと頼まれた人たちかもしれない。
 こういう人たちに、ギャラや物品でお礼をするのは失礼なことだと思っている。つまり、劇団員とどこかで差別していることになるし、そんな経費があるのなら、芝居に金を掛けて、手伝ってくれた人が、この芝居にかかわれて良かったと思える感動的な芝居を作るべきである。これは一般常識と少し外れた考え方なので、実際に実行するときには、あらかじめ相手にはギャラは出ないと言ってから、参加してもらう必要があるかもしれない。逆に最低しなければならないことは招待券をだすこと、せっかくかかわってくれた人に芝居を観てもらえなければ何にもならない。
 世の中には信じられない劇団がいくつもあって、ある劇団の照明の手伝いをしたときには、芝居が終わって最後にこっちが一人でこつこつと後片付けをしているのに、みんな帰ってしまったとか、劇場(テント)の組み立てに一日付き合って、しっかり入場料を取られたとか、冗談話としか思えないような事実をいくつも体験している。
 そうかと思うと、手伝いのお礼にと煎餅を持ってきたり、ビール券を持ってきたりする劇団もあり、こういう劇団に対してはこちらを人足としてしか考えていないのかな、と思えて淋しくなる(煎餅は断って、ビール券はもらいましたけれど)。
 手伝いにいくほうとしては、それなりに楽しませてくれたら良いわけで、(きわめて個人的な考え方ではあるけれど)気を使われたりするのはかえって困ることが多い。
 かといって、こっちが作業をしているときにその劇団の人間だけでこちらに声も懸けずに飯を食いにいってしまい、こっちは中断して食事にいったらいいものやら、悪いのやら分からないほど気を使われないのも困る。
 手伝ってくれた人に一番返さなければならないのは、手伝ってもらった芝居がうまくいって、芝居にかかわれて良かったという満足感ではなかろうか。

 

02-06
自治体とのかかわり合い方

 

 地方自治体とのかかわり方は各劇団の性格、代表者の性格が出る。[月虹舎]の場合、森島が代表だったときは自治体とは喧嘩腰で接していたし、現在の代表の所は物腰のやわらかい対応をしている。
 [月虹舎]のようにテントを張ったりする劇団は、特に自治体とのトラブルが多い。初期の頃は自治体とのトラブルをさけるために民有地を借りて公演していたが、芝居が大きくなるにつれて、民有地では上演が不可能となり、市有地での公演が多くなっている。幸い、水戸市は今までテントを貼ることに好意的であったため、平成四年まではほとんどトラブルらしいトラブルは発生していない。しかし、平成五年からはグリーンフェスティバルとかが開かれることになったため、今後の公演でもこれまでと同じようにテントが張れるかということになると、全くメドが立たない状態だ。水戸芸術館の中庭にでも立てようかという話も持ち上がっているが、相手が許可を出さないかもしれない。
 正直言うとこういう場合は喧嘩をする覚悟で渡り合わないと駄目だと思っている。喧嘩をするということはお互いの立場をはっきりとさせ、最善の策に歩み寄る手段である。演劇の練習は日常の練習をそのまま舞台に掛けられるというものではなく、公演一ヵ月前にはほとんど毎日の練習が必要となる。特に[月虹舎]のように、新作を多く上演する劇団は作品のあがってくるのが公演一ヵ月前ということがよくあるので、練習場を毎日使えないと練習不足で最低の公演となってしまう。練習場確保のために市と渡り合ったことは何度もあって、それでも週に二回とか一回しか同じ練習場を確保できないでいる。(部屋はいっぱい空いているというのに)
 自治体はとかく事なかれ主義なので、正面から劇団の立場を主張すること。ただし、ただ叫んでいるだけでは、味方もつかないので、社会福祉の関係者にチケットを寄付するとか、市の組合にチケットを送るとかして、味方を増やす努力をすること。あるいは自治体の企画に参加することもいいかもしれない。そのうえで、言いたいことははっきり言う、要求もしっかりだす、こういうポリシーのある劇団の姿勢が望まれる。
 ただ、市の企画があるからやらせていただく。公民館を使わせていただく。という考え方は止めてもらいたい。演劇祭に参加すること一つをとっても、どういう形の演劇祭にしたいのかビジョンを持って相手に対応しないとビジョンで負けてしまう。
 良いものを創るには、こんな努力も必要となってくるのだ。

 

02-07
恋愛問題

 

 男と女がいるのだからあって当然。
 でも、芝居を創り始めると劇団内で付き合っている場合には男女間の関係はあまりうまくいかなくなってしまう。これは劇団の体質もあるのだろう。[月虹舎]では長続きしたことがない。特に、芝居を創っていないときは練習も会合ももたないという劇団制度なので、芝居の稽古にかこつけてデートもできない。芝居を創り始めれば、稽古日にデートしていて二人して遅れたりすると袋叩きものになる。こういう体質がいいのか悪いのかはわからないが、だからといって劇団員が結婚しないわけではない。それなりの歳になれば外部の人間と結婚している。
 人間の一番根源的な問題なので、あまりとやかくは言えないのだが本番に影響のでる恋愛だけはやめてほしいものだ。公演の前日に喧嘩して本番に穴を空けるとか、一週間前に中絶するなどはとても迷惑なことだ。

 

02-08
金銭問題/宗教問題

 

 劇団内で金銭のトラブルは避けたい。好きなことをやっている人間が集まって好きなことをしているのだから、金儲けを持ち込まれると劇団員全員が迷惑する。
 これは宗教も同じこと。劇団に宗教は持ち込まない。宗教色の濃い芝居をやりたいときは最初から宗教団体内部に劇団を創ること。信仰は個人の自由であるが、劇団内に信仰を持ち込まれると、お互いの関係がぎすぎすする。一人がモルモン教で、もう一人が天理教、もう一人が創価学会で、もう一人は共産党、もう一人が統一教会で、あとの一人がイスラム教などという劇団に誰が入りたいと思うだろうか。今までの経験では芝居関係者で比較的多いのは今光経と創価学会だ。まあ、選挙の時に「投票する人が決まっていなければ、〇〇先生をお願いします」という電話が掛かってくるぐらいですんでいる。

 

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貧乏な地方劇団のための演劇講座 第3章 脚本

2012年04月15日 17時31分21秒 | 貧乏な地方劇団のための演劇講座

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 経験的に見てプロよりもアマチュアの方が脚本の選定は重要だ。練習の時間を多く取るわけにも行かず、舞台に金をかけられるわけでもないので、脚本の面白さが舞台の善し悪しを決めてしまうことが多いからだ。

 既成の戯曲の中からどういう脚本を選ぶかについては、より多くの戯曲を読み、実際の上演に触れてみるしかない、と言うしかない。

 ここでは、オリジナル台本の書き方について具体的な例を挙げて述べることとする。どう書くかということは、どういう作品を選ぶかについても参考になるだろう。テキストには拙作の[カサブランカ]と[グッバイガール]の二作を用いる。この二作はシリーズ企画である[まるで映画のように]の八本の作品のうちの二本である。

 アマチュア劇団でもいつのまにか主役をやる人間が決まってきてしまうことが多く、人数が増えれば増えるほど、良い役というのはなかなかめぐってこなくなる。[まるで映画のように]は登場人物を一~三人と限定し、出ればかならず主役になってしまうという企画である。なおかつ出演希望者のリクエストを聞いて(それが必ずしも台本に反映されるわけではないが)脚本を作った。

 特にこの二作は一定の制約を自分に設けて脚本を書いたため、目的と方法論がきわめて明確であり、脚本の成立したときの条件もはっきりしているという珍しい特性を備えている。通常脚本というものは、自分の頭のなかのごちゃごちゃしたイメージを取りまとめたものであるから、説明がしにくい。なぜ、こんなイメージを作ったのか、どうしてこういうセリフなのか、作者である自分にも分からないことが多いのだ。 

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03-01
脚本を書くのに一番大切なもの

 

 最初に脚本を書くのに一番大切なものについて説明する。

 昔から若手劇団の作家志望の人間が[脚本を書きたいんですけど、どう書いたらいいんですか]と聞いてくると、かならず、同じ答えを返すことにしている。[ボールペンと紙を選ぶこと]

 これでは[どう書けばいいのか]という質問の答えになっていないので、たいてい質問した相手は怒ってしまうのだが、実は半分は答えているつもりなのだ。

 脚本というのは、最終的には[語られる]物なので、リズムが大切となる。このため、自分にあった筆記用具というのはとても重要だ。

 私は大学生協のcoopストレッチノートSB40枚を愛用している。(現在は製造中止となっている)ボールペンはボクシーの百円の物を使っている。このノートを使って書くと[大体この芝居はこのリズムで、この字の埋まり具合だと、上演時間はこのぐらい][この登場人物のセリフが多すぎる、少なすぎる]も判断しやすい。灰色の縦線を引いてあるので、セリフを言う人物を線の左側に、セリフを右側に分けて書くのにいちいち線を引かなくても良い。もうひとつには、目が悪いのでノートが白いと長い間ノートを視ていられない。このノートは浅黄色なので、目が疲れない。

 以下の条件は私にあっているだけなので、人によっては原稿用紙があっている人、バインダー式のノートがあっている人、ワープロがあっている人などさまざまだろう。

 もし、脚本をかけないで悩んでいるときは、ノートを変えてみてほしい。筆記用具は、水性ボールペンは書くスピードが早いと擦れてしまうので、早く書くタイプの人には、サインペンもしくは油性のボールペンが向いている。鉛筆は書き直しがきくので、脚本には向いていない。私の場合、勝手にセリフが滑らないで、論理的になったり、説明的になってしまう。

 ワープロは脚本が書きあがったときには、すぐきれいな台本となるので、とてもいいように思えるのだが、実は少しだけ気に入らない点がある。逆にきれいになりすぎて、リズムもだれも伝わらないことだ。ボールペンで真っ黒に塗り潰されたところが何箇所もある台本などは、作者の迷いが伝わってくるだろう。こうした感覚が伝わるのが、少人数でやっている劇団のメリットであろう。

 手書き台本をワープロにうちなおすのはなおのこと無駄。雑誌や外部にだすのならともかく、自分の劇団の中で使うのだから、手間はかけないほうがいい。

 実はこの原稿を書き上げたあとで[秘密の教室]という脚本を書くことになり、これにはワープロを使うことにした。[貧乏な地方劇団のための演劇講座]の原稿を読んだ劇団員から、"でもね、森島さんの脚本て字が汚いから台本をみんなで解読するのにえらい手間食うし、読み違いする奴が続出するから、ワープロで打ち直すんですよね"と言われたのだ。脚本の締切から、上演まで期間がほとんどなかったので、すぐ使える台本にすべきだと思ったのだ。しかし、予想どおりリズムはうまくつかめないし、長さもメチャクチャになってしまった。使い慣れれば、その内解決するだろうが、登場人物の名前とセリフの部分との間あけが面倒でならない。これもそのうちに解決されるのだろうが...

 

03-02
脚本を書く目的

 

 私自身の場合について、テキストを例にして述べる。

 私の場合脚本を書く大きな目的はたぶん自分自身を楽しませ、自分自身の内面の違う領域を発見していく冒険の旅に出掛けることである。そして、いつも目の前にある目的は役者たちが舞台の上で生き生きと演技できる脚本を書くことにある。しかしながら、大きな目的は、作品を書いている最中にはなかなかはっきりとは自覚できないし、自覚したからといって具体的な作業の役にたつものでもない。

 さてテキストの場合である。

 [カサブランカ]は中村真実のために書き下ろした作品である。彼女は17才の高校生でちょうどこの企画の前後に劇団に出入りしていた。ある日、同じ高校生の杉山くんと我家にやってきた。二人は当時私たちの企画していた[まるで映画のように]のシリーズに参加したいとのことだった。どういう役をやりたいのかということについてどんな話をしたのかはあまり記憶がない。とにかく、現役の高校生が喋るセリフを作ることがこの脚本の目的だった。同時期に、劇団に出入りしていたバンドをやっていた女子高校生の[デーとクラブの名前を使って男をレストランに呼びだして、一時間も男が女の来るのを待っているのを見て、影でみんなで笑ったんだ]という実話らしきものを筋にしてみることにした。

 [グッバイガール]]はニール-サイモンの同名の映画を底本にしている。この芝居は、水戸のよその劇団が、やるやるといって結局やらないので、一寸やってみせたもの。あんまり硬く考えずに、こんな程度でいいんじゃないのと、書き方の見本を示す例を目的としている。そのため、私の作品としては珍しく原作がはっきりしている。相手にしてみれば、イラんお節介だといいたいところだろうが、私はこういう制約があるととても脚本を書きやすい。

 

03-03
脚本を書く方法

 

 [まるで映画のように]という企画は登場人物を1~3人と限定している。これは、出演すればかならず主役になれる数であり、また、低予算で出来る用にしているためだ。(少人数と低予算は必ずしもイコールとならないが)十五分という極端に短い一人芝居から、一時間二十分の歌いり芝居までの八本の芝居を八つのグループが週のうち木金土日の四日間、延べ二十日間計四十二ステージの上演であった。会場は水戸市南町の唄声喫茶[タンポポ](今はなくなってしまった)のご好意により低料金で借りることが出来た。舞台はベニヤ板四枚分の小さなスペースであり、装置はテーブル一つに椅子二つという実に簡単なものとなっている。([グッバイガール]ではソファも使っているが)

 この制約に加えて[カサブランカ]では、次のような遊びをしている。主人公二人は映画好きに設定して彼らのセリフはなるべく映画のセリフの引用とすることにした。映画のセリフについては和田誠著[お楽しみはこれからだ]1~3巻を利用させていただいた。 それぞれの映画のセリフは背景となる映画を背負っているため、単独では成立しない。一般的な引用の仕方は、パロデイあるいはギャグとして処理する方法である。しかし、テキストを読んでもらうと分かるが、そういう使い方は根本的に避けている。ギャグととして映画のセリフを言うのは一ヶ所ぐらいしかない。

 実はここの所に多くの勘違いあるらしく、この脚本はとても評判が悪い。(上演された舞台の評判が悪いというわけではない)パロデイとかギャグの台本としてはポップ感覚が不徹底だし、リアリズムの台本としては不自然だ。特に[きみの瞳に乾杯]というセリフは恥ずかしくて言えない、とよく言われる。

 ギャグでこのセリフを言おうとすると恥ずかしいだろう。リアリズムだと変だということになる。あのセリフは合い言葉なのだ、という芝居の流れを忘れてしまうとギャグとして処理したくなるのだろう。繰り返して言う、この芝居はギャグを意図して書いたのではない。ギャグとして考えたのは、一番最初の方の男のセリフの幾つかだけだ。この役をやった山本孝和は[ため]の山本というくらいセリフに[ため]を作る役者なので、待ちくたびれてために貯めてセリフを出す、というギャグを期待したのだが、案外実際の上演の時にはあっさりセリフを喋りだしたので、がっかりしてしまった。そのほかには、ギャグらしいギャグはないつもりでいる。あえてもうひとつあげるとすれば、彼女に笑ってみせてと言われて、笑ってみせると、ウェイターが来て、歯医者の話を始めるところだが、これもギャグというよりも次の乾杯の時の女のこのセリフをうまく言わせるための段取りといった方がいい。
 この手の話は書けば書くほど言い訳じみてくる。その代わり、この脚本を書くにあたって自分に課した制約を整理してみよう。

○原則として二人芝居である(このシリーズではこの作品だけ途中にウェイターがビールを持って出てくる。出さないことも考えたが、芝居に無理が出るので止めた)。

○舞台装置は椅子とテーブルだけ。

○現役の十七歳の女の子が喋るセリフなので、途中がどぎつくてもどこかに可愛らしさや夢を残すようにする。

○和田誠著[お楽しみはこれからだ]に出てくる映画のセリフをなるべく多く引用する。

○引用するセリフはギャグとして使わない。

 男が一人デートクラブの女を待っている。約束の時間はとっくに過ぎているのに、女は現れない。このイントロに上の条件を当てはめていくだけの作業なのだ。男の性格、年令を決め、職業や趣味を与える。この主人公の性格づけは台本作者の趣味だが、私の場合は性格が真面目なので、つい主人公も真面目になってしまう。主人公の性格づけに失敗すると芝居はとんでもない方向へいってしまう。この男がデートクラブの女専門に狙う殺人鬼だとしたら、最初は笑顔を作る練習をしているに違いない。室内装飾のデザイナーだとしたら、店のインテリアばかりが気になって、目の前の女が見えなくなってしまうかも知れない。 こうやって、人物の性格と舞台上の制約がある程度固まってしまえば、セリフは勝手に出てくるはずである。もし、素直にセリフが出てこなければ、きっと書いている人間が頭の中で考えすぎているのではなかろうか。構成のしっかりした推理劇や、歴史物を書くのでないかぎり、登場人物のイメージさえしっかりしていれば、ストーリーはある程度後を追いかけてきてくれる。アイデアを大切にしすぎたり、プロットを考えすぎると、この手の芝居は書きづらいだろう。

 [グッバイガール]では条件が少し変わってくる。一応、[グッバイガール]]という映画を下敷きにすると決めていたので、舞台を日本に移したほかは、大筋は変更しないこととした。また、[まるで映画のように]のシリーズは、1~3人の芝居と限定しているので、登場人物は二人だけとした。
 この芝居に関して自分に課した制約は次の通りである。

○実際に舞台に立つ登場人物は二人だけとする。

○舞台装置はテーブルと椅子、それにソファをプラスする。

○映画の[グッバイガール]の大筋を残す。

○原作は一回観るだけとして、印象だけを頼りに組み立てる。

 はじめの二つは[カサブランカ]と同じで、この企画全体の考え方でもある。
 あともう一つ、[グッバイガール]の場合は、

○娘が登場する。この少女は観客には見せないものとする。

という仕掛けも作った。この少女は、話の中で大きな役割をしめている。
 プロットが決まっていて、登場人物のキャラクターもほとんど決まっていれば、残るのはアイデアしかない。映画と同じことをやれば、映画に負けるのは分かり切ったことなので、登場人物は舞台上の二人以外は観客にはまったく見えないし、声も聞こえてこないように設定した。

 正直言って、この芝居をささえているのは、このアイデアだけなのかもしれない。姿の見えない少女に大人二人が振り回される、客はその娘を大人二人のセリフと表情から読み取るのである。

 だから、ラストシーンのスライドで、娘を見せてしまうことは、観客のイメージを壊してしまうことなのかもしれない。初演の際には、松岡矩夫(当時はまだ劇団員ではなかったがのちに参加)のすぐれた写真により、ラストシーンは好評であったのだが...

 原作は一度しか観ない、というのは原作のイメージに縛られないようにするためである。これは、台本化する作家の方法論の問題であり、私の性格上原作に縛られたくないというだけのことだ。

 このように、同じ企画であっても[カサブランカ]と[グッバイガール]とでは、脚本を書くときの方法論がまったく異なっている。[カサブランカ]では役者をイメージし、その役者にやらせてみたい役の性格を作り上げることにより、自然発生的にプロットが生まれてくるように書いた脚本であり、[グッバイガール]はプロットが決まっていて、現場でいかに効率的に見えるかのアイデアだけがポイントになっている脚本である。普通の脚本では、この二つの作業が同時に行なわれ、こういう意識的な作業となることは珍しい。

 

03-04
脚本に何を書いたらいけないのか

 

 前の話の途中で、制約ということばが何回も出てきた。それは、座付きで台本を書くときには、好むと好まざるとにかかわらず、制約があることを忘れないでいてもらいたかったためである。時々、会場条件や、劇団員、スタッフのことを考えないで、脚本を書く人がいるが、最低次のようなことだけは止めてほしい。

○本人がイメージできないことは書かない
 たとえば、"不思議な音楽が聞こえてくる"というような書き方はなるべく止める。それに、どうせ舞台にかけるので、音楽は聞こえてきてしまうのだ。

○指定照明、指定登場を多用しない
 "男の背後に別の男が近付く。しかし影になっていて、誰なのかは分からない"、というような書き方はしない方がいい。こんな照明を作るためには、最低3灯のスポットライトが必要となる。こんな指定がやたらとある脚本では指定灯りだけで手いっぱいになってしまう。
 同様に、煙とともに男登場、というのも頂けない。スモークマシンないしドライアイスマシンが必要となる。スタッフとしては、脚本に書いてあるのだから、使わなくちゃいけないかなと考えるのが人情だ。予算と戦っているスタッフを考えればこういうト書はなるべく入れない方がいい。

○場面を区切るのに暗転指示をなるべく入れない
 自分でも時々入れてしまうので、あまり人のことは言えないが、ブロードウェイミユージカルでは暗転がないのが常識になりつつある。[時間]か[空間]を区切るために暗転が必要なのは仕方がないとしても、ただ単にシーンをきるだけのために暗転指示を書き込んではならない。

○自分のイメージにこだわりすぎるト書をいれない
 "二人の間には、1925年物のワインがあり、サモワールが音をたてて沸いている"...誰がサモワールなぞ持っているんだ。スタッフは、一度は脚本家を信じて小道具を用意しようとするわけで、作者がイメージにこだわりすぎるとスタッフが可愛そう。(最初からこれは手に入らないからカットといって、用意しようという努力すらしないスタッフがいたりすればさらに情けないが)ただ、虹にのって登場、などというト書をいれておくとスタッフも一生懸命考えて、時々あっというイメージを出してくるときがある。こういう、スタッフのイメージを刺激するト書は時々入れておいた方がいい。もちろん、いったいこのシーンはどうするつもりなんですか、と最終的に詰め寄られたときに出せる答えは準備しておく必要がある。

 

03-05
脚本の書き直し

 

 やっと書き上げた脚本も、書き直しが求められる場合がよくある。一つには、自分が気に入らないとき、もうひとつには演出なり、劇団員からの要求による場合である。

 このどちらの場合にも私は答えるように努力している。時間と才能が許すかぎり。大体は、時間がないか、どうしても別の形を考えることが出来なくて、そのままやってしまうことが多い。

 以前には、こういうトラブルを避けるため、脚本を書き始める前に、どういう芝居、どういう役をやってみたいのか劇団員にリクエストを取ったりしていた。

 ほとんどの場合、劇団員が気に入らないというというよりは、自分が気に入らなくて書きなおすことが多い。

 脚本家が偉くなってしまうと、自分のイメージを大切にするあまり、脚本を書きなおすのを嫌がる人もいるようだ。それぞれ人のやり方があるので何とも言えないが、座付きで書いている以上、書く側も、出る側もお互いが納得するまで、書き直しの努力はした方がいいと思う。

 

03-06
もう一度脚本とは

 

 ここまでは、初級篇のつもりで書いている、これ以降はもう少し詳しい話となるが、用語の使用も少し難しくなる。

 脚本が大きく変化したのは、60年代の作家たち以降であろう。これは三一書房から出版されている[現代日本戯曲大系]を読んでみるとよく分かる。60年代から70年代にかけて戯曲の形態は大きく変化している。

 この時期には、ベケットに影響を受けた不条理劇や、アメリカのオフオフブロードウェイの影響をうけたさまざまな戯曲が登場してきた。こうした戯曲は最初のうちはごく一部の演劇関係者の注目を集めていたにすぎない。これらの戯曲がマスコミに取り上げられ、世間の注目を浴びるようになったのはアングラと呼ばれる社会現象のせいだとも言える。この間の時代の流れと演劇との関係は前述の全集に詳しい。どこかの図書館で読んでもらいたい。ただ、この全集に収録されているのは、唐十郎、寺山修司までであり、つかこうへい以降の第2次、第3次小劇場運動については残念ながら別の資料をあたってもらいたい。アングラと呼ばれていた演劇群が小劇場運動と呼ばれるようになったのは、野田秀樹の率いる[夢の遊眠社]がマスコミに取り上げられるようになってからだろう。

 これらの戯曲の特徴は、それらが各劇団にあわせてかかれているために、読んだだけではどんな芝居になるのかよく分からないということだ。比較的分かりやすいつかこうへいの作品も戯曲と実際の舞台とでは違っている。このため、戯曲が戯曲だけで評価されることはなくなり、作者、もしくは作者に近い演出家の演出した舞台でなければ、その戯曲が本来持っている姿が見えてこないというケースが増えている。これは裏を返せば、戯曲が文学としてではなく、本来どおりの姿に向かっているともいえる。読者はそれぞれ自分のための自由な舞台を観ることが出来るのだ。もちろんそれだけの想像力があればの話だが。

 こうした60年代以降の演劇の流れは近年力を失ってきているといっても良い。理由は色々考えられる。まず、戯曲の構造が特定の世代に共有する感性に支えられているために、その感性を共有できない観客にはチンプンカンプンの芝居になってしまう。戯曲が言葉遊びやメタファー(暗喩)によって複雑化しており、筋を追おうとする観客はついていけなくなってしまっていること。人格が記号化されているために、心理を追い掛けようとする客には薄っぺらな芝居に見える。等である。

 最近の外国戯曲の上演の増加、新劇スタイルの芝居の復活はこうした内的な要因に加えて社会全体の復古調、安定志向がもたらしたものであろう。

 貧乏な地方劇団の座つき作家はこの時代にどのような作品を書いていけばいいのだろう。こんな問いに答などあるはずもないが、答のきっかけはいくつも転がっている。もちろん独断と偏見による答だが。

 

03-07
物語原理

 

 宮沢賢治と同世代の作家の作品は今どれだけ読まれているだろうか。賢治が死んだのは1933年(昭和8年)のことだ。1945年以前の作家で読んだことのある作家をあげてみると驚くほど数が少ないことに驚かされる。受験のために文学史で題名と作者名ぐらいは知っているかもしれないが作品まではなかなか目を通していないはずだ。当時は天才と騒がれた芥川龍之介の作品ですら、ほとんどの人が読んだことがないに違いない。私自身も[トロッコ]とか[河童]とか作品の名前は出てくるのだが、どんな作品だったのかと言われても、おぼろげにしか思い出すことが出来ない。それに引き替え賢治の作品の寿命の長さは異状といえる。アニメーションや朗読で繰り返し人目に触れる機会が多いこともあるが、共感を持ち支持されていなければこんなにも長いこと読まれ続けはしなかっただろう。

 童話だから詩だから長く読まれたのではないかという人がいるかもしれないが、小川未明の[赤いローソクと人魚]や坪田譲治の[風の中の子供たち]などの童話が時代とともに消えていってしまったことを考えると、宮沢賢治だけが長く残っていることの説明にはならない。こうした宮沢賢治の魅力については多くの評論家、ファンによって語られており、これから説明する物語原理はその魅力の一つにすぎない。

 物語原理とはどんなに複雑に見える小説、戯曲でも比較的単純な物語を基盤としていることが多く、またこの物語原理を持たない作品は人の心を単純に引き付ける魅力を持たないということだと解釈している。これは[ウェストサイドストーリー]が[ロミオとジュリエット]をモチーフとしているように、ストーリーを骨組みだけにしていくと単純な構造の物語へと帰結していくことを示している。

 古くから伝わる民話や説話は時代のフィルターを通して物語としての力を持っており、人々の記憶のなかに無意識的に植え込まれている。こうした物語の上に植え込まれた意識というものは単語や風景のなかにもあって、こうした単語は案外世代をこえて受け入れられるようだ。

 たとえば、[汽車]とか[電信柱]というものは懐かしいとかしみじみしたイメージが強い。[タイプライター]などというのはもうすでに過去の遺物となってしまっているのに懐かしいというイメージがないのはタイプライターが身近にないせいであろうか。[オルガン]は懐かしいが[ピアノ]は懐かしくない。[コップ]は懐かしいが[グラス]は懐かしくない。こういう印象を受けるのは私だけなのだろうか。

 唐十郎や寺山修司が説話や童話から多くの題材を取り、野田秀樹がシェイクスピアや近松という古典に題材を求めているのはそれらの作品の持つ物語の力を借りているわけで、これはシェイクスピアの作品の多くが原作を持っていたことと同じことだろう。

 [電信柱]や[汽車][飛行機][サーカス]というのは初期~中期の別役実の戯曲で多用されている単語である。つかこうへいでは[郵便屋さん][お父さん][全共闘]となる。どれもこれもどことなく懐かしい感じがする。ラジオで小沢昭一が[小沢昭一の小沢昭一的心だ]という番組をもう随分と長いことやっているが、ここにいつも出てくる[ミヤサカお父さん]という人物にやたら親しみを感じるのも[お父さん]という語感のせいかもしれない。

 こうした人の記憶にうったえる物語性や単語風景などについては、これ以上論証しないが、よくできている作品は物語性や物語原理を持っているものだと思ってほしい。(物語原理を明確に捕まえていないのであやふやな表現になってしまって申し訳ない)

 では、戯曲を書く人間は物語原理を意識すべきなのだろうか。私の考えでは戯曲を書く際には意識する必要はないと思う。書きたいことを書きたいように書いてみた上で、うまくいかないときは物語原理を考えてみる必要があるだろう。

 不思議なもので、人間の考えることなんて大して変わりがないようだ。私が過去に書いた作品のプロットと同じプロットをテレビで見たりするとなるほど人の考えることは同じようなものだと呟くしかない。たとえば

 [恋の百連発-見合い篇]...99回の見合いに失敗した男が100回目の見合いで女に惚れてしまう→[101回目のプロポーズ]

 [エデンの東の向こう側]...背後霊になってしまった男が戸惑う話。使命はタッチといって伝えられていく。→[背後霊だかんな][触手]

 他にもときどきおやっと思うほど似たストーリーに出会うことがある。

 自分の作品が物語原理にのっとっているなどというつもりはない。物語などというのは似たり寄ったりになってくるものなのだろう。ただ時代や社会の流れにあわせて観客に受け入れられたり受け入れられなかったりするのだ。

 脚本を書く人間は知識として[物語原理]という言葉があることを知ってほしい。正確な意味は私の書いていることと違っているかもしれないので他人と[物語原理]について語ろうとするのならば、文学辞典で意味を調べてからにしてほしい。

 

03-08
笑い

 

 毎日テレビを観ているとつくづくギャグの時代だと感じさせられる。どのチャンネルをひねってもお笑いタレントが当たり障りのないギャグを飛ばしている。

 30年前まではお笑いというのは、一段下の下等なものと見られていた。こうした事情は小林信彦の[日本の喜劇人](中原弓彦のペンネーム)や[世界の喜劇人]などの一連の著作に詳しい。

 少なくとも70年代の後半まではミケンにしわを寄せて[人生って何なんだろう]と呟いているほうがカッコ良いと言われていた。ダジャレを言う奴などお調子者と呼ばれ犬猫と同程度の扱いを受けていたものだ。笑いが支持を集めたのは井上ひさしつかこうへいなど、今までの笑いとは異質の笑いを持った作家の台頭と、テレビの漫才ブームタモリのようにまったく過去の伝統を引きずっていない才能が出てきたことによる。気が付けばテレビにお笑いの出演していない時間帯を捜し出すのが難しいくらいだ。ところが新しいネタを生産し続けることはエネルギーを要する作業なので、たちまちのうちにネタ切れとなってしまい、コントをやるグループも漫才をやるグループも自作を上演することはほとんどなくなってしまった。今も続いているのは昔ながらのマンネリコント番組しかない。

 井上ひさし、つかこうへい等によって築かれていった小劇場の笑いもだんだんとマンネリズムに陥っている。井上ひさしやつかこうへいが既成の概念や権力構造を異化するための手段として笑いを用いていたのに、笑いが[お笑い]自身を目的としたときに力をなくしてしまったのだろう。

 では、もう芝居には笑いは必要がないのだろうか。必ずしも不必要だとは思わないが、次のような笑いはそろそろ止めた方がいいと思う。

○テレビネタ
○単なる駄洒落
○楽屋落ち
○モノマネ

 こういう笑いは、見ていても楽しくないし、もうやり尽くされた感じがする。役者は舞台の上で客のリアクションを欲しがる。この点笑いというのは最も手っ取りばやいリアクションといえる。本当は、静かな客の反応というのもあって、そちらの場合の方が大切な場合も多いのだが、役者にはなかなか届かない。座つき作家としてはこういう役者のことも考えてやらなくてはならないときもある。

 [笑いを目的としてはいけない]ということだけは忘れないでほしい。

 

03-09
キャラクター

 

 登場人物のキャラクターをどうするのかは、どういう芝居を作るのかによってだいぶ違うだろう。逆に登場人物の性格が芝居を決めてしまうこともある。キャラクター(性格)が役者によって左右されることも多い。特に座つき作家ともなれば劇団員のキャラクターが逆に台本に返ってくることが多いだろう。

 ストーリー性が強くなればなるほど複雑な性格づけが要求される。たとえば全編怒りに満ちている[ロミオとジュリエット]など、単調で見ていられない。(これは演出の問題だが)

 コントを組み合わせたような芝居では、逆にあまり複雑な性格づけをしても意味はない。意味を多く持ちすぎている台詞は役者の自由度を減らしてしまうので役者はフラストレーションになるかもしれない。

 何本かの台本を書いていると一種のスターシステムのようなものも出来てくる。この登場人物たちさえだしておけば安心というキャラクター(登場人物)たちである。こうした登場人物たちはキャラクター(性格)が作者の頭のなかにしっかり出来上がっているために、どんな芝居に登場させても生き生きとしている。たとえば、私の作品では痴呆刑事という人物がこれに当てはまる。

 [痴呆太郎(37才)]別名[嵐を呼ぶ男]。本名は石原裕次郎という説もあるが本人は本名だと主張している。特別別動課、係長。

 特別別動課とは一課二課では手におえない事件を専門に担当しており、手懸けた事件のほとんどは迷宮入りしている。他の課から応援にきた人間たちの証言によれば事件は毎回必ず解決しているのだが犯人が人間以外のなにものか(幽霊、宇宙人、マネキン人形等)である場合が多く法律が適用されないので逮捕できないか、女性が犯人の場合は、犯人から除外される(痴呆刑事の辞書では犯人と言う欄に[女性は除外する]とある)ためほとんどの事件が迷宮入りしてしまうのはしょうがないとのことである。

 好きな言葉は[私たちは法律とか社会の正義のために捜査をやっているんじゃないぞ。向こう三軒両隣が、安心して生活できるよう捜査をしているんだ。これくらいのつもりで十分なんだ。]

 部下はいつもコンビを組んでいる手足刑事が決まったメンバー、他にもパソコン刑事とか他の課からの応援もあるがいつも人材不足に嘆いている。歯ブラシ仮面という正義の味方と同一人物だという説もある。パートタイムで正義の味方をやっているのである。

 事件に対する姿勢だが、いつも部下たちに

 事件には3種類ある。起こった事件、起こる事件、そして起こるであろう事件だ。
 起こった事件は嫌いだ。起こる事件も嫌いだ。
 でも、起こるであろう事件はいい。私は、起こるであろう事件を夢見ながら、煙草をふかして海のかなたをずっと眺めていたい。

とこぼしている。しかし、起こった事件や起こる事件が追いかけてくるので、ぼんやりしている暇はなかなか取れないのである。

 登場作品は[蒼ざめた街](75)で初登場、[窓ガラスの花](82)で歯ブラシ仮面も登場する。[マーマレード症候群](86)より手足刑事が部下となり、係長になる。[嵐を呼ぶ男](87)で殉職するが[水戸芸術館殺人事件](92)で奇跡の復活をとげる。

 こういうキャラクターを持っていると、作品を考える時にも比較的楽になる。テレビの連続物と同じでお馴染みの台詞回しややりとりが可能になるからである。初期の唐十郎の作品だとキャラクターだけでなく、場面設定まで同じシーンが毎作品出てくる。床屋と禿の客ドクター袋小路などである。

 ただし、いつも同じキャラクターを使っていると、作品が安易になってくる可能性がある。ふるいキャラクターと新しいキャラクターを混ぜて使い、古いキャラクターは徐々に出番を少なくすることでマンネリを回避する必要があるだろう。

 キャラクターの作り方にはかなり個人の趣味が出てくる。私の作品に登場するキャラクターはみんな異常な人間ばかりだといわれているが、書いているほうとしては心理的な特徴を強調しているに過ぎないと思っている。ホームドラマのような作品では強調された性格はかえって邪魔になるかもしれない。

 さて、具体的におもしろいキャラクターを作り上げていくにはどうしたらいいだろう。

○役者の個性をそのまま生かす、あるいはその反対に役者の個性とまるっきり違うキャラクターにする。

○ストーリーの必要性からキャラクターを作っていく。

○実際に起こった事件や、他の小説からキャラクターを引っ張ってくる。

○日常の観察を細かくしておもしろい人間の特徴を捕まえる。

 役者の個性を生かすというのは座付き作家なら意識的にせよ無意識的にせよ、やっていることだろう。次のはストーリーが出来ていくのと同時作業となる。その次のは下手をすれば盗作となってしまう(キャラクターだけでなく、設定までパクったりしないこと)。結局は最後のが、つまり日常の観察を細かくして自分の価値観のフィルターに残ったキャラクターを育てていくのが最もいいことなのかもしれない。

 

03-10
アイデア

 

 "作品を書くときのアイデアはどうやって見つけるんですか"と訊かれることがある。あるいは"よく次から次へとアイデアが浮かんできますね"と言われることもある。確かに30本も芝居を書いていると30本分のストーリーを作ってきたわけで、こういうことを言われるのも当然かもしれない。

 ここで言うアイデアとは着想もしくは粗筋のことを指しているのだと思う。実は作品がどういうストーリーになっていくのかは書いてみるまでよくわかっていないし、アイデアもどうやって見つけるのか自分でもよく分からないことがある。

 ここではアイデアはアイデアのままで使うとうまくいかないことを忘れないで欲しいと言うだけに止めておく。実はもっと詳しい下書きを作ってみたのだが自分の言いたいことを言い表わせていないので、この問題については保留したいのだ。

 一番肝心なところをあいまいにしているなと非難する人もいるかもしれないが、あいまいな部分なので説明するのがとても難しいのだ。この章の前半で具体的な作品をテキストにしたのは比較的どうアイデアをつかんでくるのかが、説明しやすかったために他ならない。

 現象学的に言えばアイデアとは最初から見えているものだということも出来るが、こういう説明で分かりますか。もしこの説明で分かる人にはもうアイデアについて説明する必要がないし、この説明で分からないとえらく難しい話になるので、やっぱりやさしい言葉が見つかるまで保留というのが一番いいようだ。

 


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貧乏な地方劇団のための演劇講座 第4章 演出

2012年04月15日 17時30分51秒 | 貧乏な地方劇団のための演劇講座

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 その昔、芝居をやるには演出家なんていなかったそうだ。筆頭の役者か、座付き作家が演出をかねていた。現代になって、芝居というと必ず演出家の名前が出てくるが、実は芝居をやるときには必ずしも演出は必要ではない。脚本に書いてあるセリフを上手に言えて、役者同士であっちから出てきて、こうやってなどと段取りさえ決めてやればそれなりの芝居になっていくからである。現実に[月虹舎]ではこういう演出家不在に近い芝居の上演経験があるし、私自身の演出方法も自分自身が出演してしまうことが多いため、単なる役者の交通整理人になってしまうことがままある。
 しかし、本当に良い芝居にしていこうとするとき、演出家の才能やセンスが芝居全体を大きく左右することは事実なのだ。

 

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04-01 良い演出・悪い演出

 

 芝居を観終わって、良い演出だったとか、悪い演出だったとか話をすることがある。観ている客は無意識のうちに芝居全体の責任者は演出家にあることを知っており、芝居が面白ければ良い演出、つまらなければ悪い演出と区分してしまう。もうひとつ"演出は良かったんだけどね"という言い方があり、これは演出家が望んでいる方向と、役者の演技が一致していないことを示している。

 現実には、演出家が何もしていなくても、役者たちが自分の役割や、役柄を理解していれば、勝手にそれなりの舞台になっていく。では、こういう舞台で好いのかというと、こういう舞台はすぐにマンネリズムに陥り、芝居としてのパワーがなくなってくる。それでは、良い演出とはどういう演出のことなのだろうか。たぶん、こういう演出を良い演出というのだろう。

○脚本の読み直しが行なわれている。

○全体に一つの方向性が明確で、文体がしっかりしている。

 自分が書いた作品であっても、脚本の読み直しはされなければならない。書いたものと、上演されるものは別物でなければならないからである。舞台のうえでは脚本とは別の文脈が生きている。全体にひとつの方向性を明確にしなければならないのは、読み直された台本が元の脚本に流されないようにするためだ。この方法を論理化していくとスタニラフスキーシステムに近似していくのかもしれないが、残念ながら、論理化していくことと実際の舞台作りは異なっているための理論が先行してはいけない。

 こういう抽象的な話は議論好きな人間には向いているが、残念ながら私は実務的なタイプなので、具体的な話しか出来ない。以下に、具体的な例を挙げながら説明していく。

 

04-02
具体的な演出法

 

○脚本に書かれている人物の背景や、時代背景を延々と役者に説明する演出家がいるが、実はごく簡単に説明できて、役者が理解できるのでなければ観ている客はもっと理解できない。何度も台本を読んでいる役者が理解しないことを、たった一度しか舞台を観ない客に理解させなければならないのだ。そんな複雑な時代背景だったら、まず時代背景を一発で見せる工夫が必要となる。

○抽象的な言葉遣いをして、演出をする人がいるが(抽象的な脚本を書く人に多い。)イメージというものは相手に伝わりにくいものだ。抽象的な表現も最終的には具体化しなくてはならない。

○舞台の構造、照明の基本等をまったく理解しないで、自分のイメージばかりを先行させる演出家がいるが、演出の作業は舞台全体の一部分でしかない。前述の通り、演出家は本来はいてもいなくても良い存在なのだ。各スタッフの意見を聴いて、作業を進めなくてはならない。演出プランと大道具・照明プランが一致しないことはままある。大道具や照明プランによっては演出のやり方を根本からかえてしまうぐらいの勇気が求められる場合があっても良い。

 役者に対しても自分のイメージを先行させてはいけない。訓練されてきた役者ならともかく、訓練されていない役者にイメージだけを喋っても頭で理解しようとして、体が動かない。具体的にその役はどういうくせを持っているのか、どういう物を持っているのか、どういう服装をしていて、どういうメイキャップをしているのかを示してやり、その姿形で、何度か練習させてみるとかである。

 自分自身の演出方は自分が脚本を書いているためか、あまり説明はしない。大きな流れに添っていれば、ほとんどの場合オーケーを出してしまう。ただ、この大きな流れを誤解している役者がままいるので、その時には苦労する。アドリブは基本的には認めているがなるべく練習中に出し尽くすように言っている。一度や、二度やったことのあるアドリブでないと、劇のリズムに当てはまらないし、相手役も応えられない。こういう演出は細部に目が届かないという欠点や、舞台にムラが多いという欠点を持っている。

 


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貧乏な地方劇団のための演劇講座 第4章 演出の補足

2012年04月15日 17時30分19秒 | 貧乏な地方劇団のための演劇講座

自分が大昔に書いた「演出」の方法論を読んでいて、演出術についてもう少し書いたほうがいいかなと思ったので補足してみる。
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基礎練習を応用することを考える。

ここでいう、基礎練習とはスローモーションやストップモーション、滑舌、ストレッチングなどのことだ。

スローモーションやストップモーションをうまく使うと、言葉で説明するよりも心理がうまく表現できることがある。
人が驚いたときは、「驚いた!」とは言わない。凍り付いて(ストップモーション)、体の動きがゆっくりと解凍して(スローモーション)、最後に興奮して早口になる(滑舌)。
逆に言うと、なぜこのような基礎練習をしているのかを意識しながら参加しているタイプが演出に向いているともいえる。

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音楽を先行させる

曲のイメージから、演出を決めていくやり方だ。一時期すごくはやって、うるさくて仕方がなかった。日本のテレビドラマも昔はイメージフイルムの羅列か、と思わせるドラマがあったものだ。
テレビドラマでいえばこのシーンになるとこの曲が流れて、というような使い方だが、注意がある。

曲を聞かせてはいけない。曲は盛り上げるためのものなので、聞かせてしまうと芝居が弱くなる。
曲をまるまる一曲聞かせてから、さあ台詞というあほらしい演出のドラマをここ数年何本見させられたことか。

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説明できないことは説明しなくていい

登場人物の背景や心理などを、演出家はある程度押さえておく必要はあるのだが、全部を把握できているわけではない。
むしろ、最初から説明する必要はないかもしれない。
無責任なといわれるかもしれないが、やっていくうちに分かることだってあるのだから。
いや、練習を進めるうちに分かることのほうが多いのかもしれない。
無理に説明して「昨日と違うことを言っている」といわれるよりは、自分の中に全体像が見えてきてから、じっくりと説明するのも手だと思う。

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貧乏な地方劇団のための演劇講座 第5章 演技

2012年04月15日 17時29分45秒 | 貧乏な地方劇団のための演劇講座

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 演技についてかかれた本は山ほど出ている。演劇の本イコール演技の本と言ってもいいほどだ。実は演技というのはこれで良いという物が存在しないので、一つの本に書かれているのは、その本の作者が考える演技でしかない。脚本が違えば演技も全部違ってこなければならない時もある。

 

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05-01
演技するということ

 

 アマチュア劇団で演技をするということは、日常の自分と違う人間になろうとすることだと思う。日常生活で蓄積されたストレスを発散できることが必要となる。創造の喜びとか、スタッフワークの楽しさを知るのはその先のことであって、とりあえずは祭りに参加することと同じだといってしまっても良い。

 楽しまなければ損である。

 演技を楽しむにはいくつかの方法がある。

○相手役とのアンサンブルを楽しむ。

○思い切ったメイクを楽しむ。

○まったく違う人間になって楽しむ。

○大きな声を出して楽しむ。

 こうやって並べてみると、女性がストレスを発散させる方法と似ている。男性は日常的にこういうストレス発散をしていないので、役者をやっても最初はぎこちない。内面にある女性的な部分を開放してやるのが芝居をするということなのかもしれない。

 

05-02
演技者の心得

 

 演技者はある程度のエゴを持っていないとおもしろくならないが、わがままであっていいというものではない。アマチュア劇団では次の点に注意したい。

○相手役の台詞を大切にする。

○スタッフを兼ねていることも多いので、スタッフワークもしっかりやる。

○練習にはなるべく多く参加する。都合で休むときにはあらかじめ連絡を入れる。

○チケットをたくさん売る。

 最後のチケットをたくさん売るというのは、観客が少ないと舞台が盛り上がらないため、なるべくたくさんチケットを売って客を集める必要がある。自分の客がたくさんきているといいかげんな演技もできないので、演技は向上する。この心得はスタッフにも当てはまることだが、スタッフよりも役者の方が舞台に出てじかに肌で感じられることなので、演技者の心得として挙げておいた。

 

05-03
舞台の上で

 

 本番の舞台はほとんどが役者の物である。もうそこは、演出も手をだせない。舞台に立った役者がその場その場のほとんどの責任を負っているのである。

 ライトを浴びて舞台に立つとき、全身がかーっと熱くなる。緊張と興奮でヒザが震えてくる。ライトの向こう側に客がぼんやりと見える。最初の台詞は空回りしてなかなか口から出てこない。相手役の口が目の前で動いているが、声は聞こえてこない。早く自分の台詞を言い終わって退場したい。

 これが私の舞台の上の姿だ。

 空気の流れが変わった。相手の台詞は初めてきくように私の心に響いてくる。会場にいる観客一人一人の呼吸が私の体に感じられる。私の台詞の一粒一粒が、私の口を離れて観客に飛んでいくのが見える。舞台で私は生きている。

 こんな思いをしたことが一回だけある。大学時代のことだった。その後、何度も舞台に立っているが、こんな感覚は二度とは味わえなかった。演出をしていても、こういう状態を役者が味わえるようにするにはどうしたらいいのかを、考えていた時期があった。結局のところ、そういう状態は作為的に求めても求まるものではない、という結論に達して、演出も役者が舞台を楽しめるように自由にさせる演出へと変わっていった。

 しかし、今でも自分がなぜ演劇にかかわっているのかと考えるとき、あの一瞬が忘れられないから、というのを答にしてもいいかな、と思ったりもする。

 会場の空気が変わった。時間はやけにゆっくりとし、照明は体にやさしく、相手役の台詞は心地よく体に響いてくる。そして...

 


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追記:(2011.4.23)
基礎練習や演技についてはキャラメルボックスの演出家である「成井豊のワークショップ」が参考書としてお勧めだ。とはいうものの、この本がアマチュアに向いているとは必ずしも思えない。また、キャラメルボックスの役者の演技を見ていると、プロとしてもどうなんだろうと思うこともあるが、分かりやすくよく書けている。
完全に初心者なら、かめおかゆみこの「演劇やろうよ!」は中学生とその指導者を念頭にしているがよく書けている。

演技については伊藤四郎さんが、「役者は舞台の上で何度も同じ台詞をやっているから飽きるけど、お客さんはそうじゃない。初めて観に来るんだから」と、自分の演技に飽きてあまりいじってはいけないというような意味のことをおっしゃっていた。
さらに、「役に入っているときは、相手がこういう台詞を言ったら、こう言う、というもんじゃなくて、その役の中では相手の台詞は初めて聞くわけだから、初めて聞いた感情で答えなくちゃいけない」とも。
考えれば、当たり前のことだが、意味は深い。

 

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貧乏な地方劇団のための演劇講座 第6章 大道具・小道具

2012年04月15日 17時29分07秒 | 貧乏な地方劇団のための演劇講座

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 大道具(カッコ良い言葉で言うのなら、舞台美術)をうまく作るのに必要な条件は、一に情熱、二にセンス、三に広い場所であろう。残念ながら、[月虹舎]では、一もなく二もなく三もないので、過去舞台装置らしき物でうまく出来たものは、野沢達也の作った踏み切りだけである。

 また、舞台装置は作ったものを保管しておく空間も必要であり、近年の住宅事情の悪さを考えると、舞台装置を作ることはほとんど絶望的といってもいいだろう。

 しかし、舞台装置はないよりもあったほうが舞台の見栄えはよくなる。小道具もまたしかりである。大道具も、小道具も苦手な分野なのでさらっといきたい。

 

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06-01
良い舞台装置を作るには

 

 センスがよくて、情熱的でからだのよく動く人間を見つけることが第一である。最低、枠だけは自分たちで作って、仕上げを美術をやっている人間にやってもらうと、出来栄えがよくなることが多い。

 自分自身の体験では高校時代は同級生の井戸良弘に、大学時代は箕浦孝に装置は任せて自分で手を下したことはほとんどない。大枠だけは作るのに参加するが、細かいところはこういう情熱を持っていてセンスのある人間に任せたほうが絶対にいいものが出来る。特に箕浦の場合は釘を二本打つか三本打つかで下級生と喧嘩になり、剪断強度からモーメントまであらゆる専門知識で口論をかわし、果てはトンカチが空中を飛びかったという男である。こういう人間が作る階段などは思わず家へ持って帰って飾っておこうかと思うくらい出来がいい。

 


図6-1 階段の違い

 

 同じように家の壁を作ってもただ単にパネルを並べるのではなく、パネルの下部に帯を付けることで部屋のイメージを作る。

図 6-2 壁の違い


 実際の壁もたぶんこうなっているのだろう。

 しかしながら、大道具を作る情熱とセンスを持った人間が見つからなかったとしたら、残念ながら自分で作るか、大道具をあきらめるしかない。あきらめるのは最後の手段である。(我々はしょっ中あきらめていたが)では、どうすれば大道具をうまく作ることが出来るのだろう。

○本物を使う

 電話ボックスや、自動販売機、踏み切りなどなら本物を持ってきてしまう、という手がある。最近の[月虹舎]はよくこの手を使う。

○[劇づくりハンドブック]を買う

 何事も参考書が必要である。

○良い大工道具を買いそろえる。

 大工道具だけはいいものを使いたい。きれない鋸ではまがった大道具になってしまう。

○素材を検討する。

 大道具といえば、角材にベニヤという概念にとらわれないで新しい素材を検討してみる。素材のもつおもしろさだけで勝負しようという考え方である。今まで観た中では、山海塾の戸板に何百枚ものマグロの尻尾を打ち付けた生臭い舞台装置が一番変わっていて印象に強い。

○スライドプロジェクタを利用する。

 小さな原画を拡大してパネルに映し出し、大体のイメージを決めるやり方。少々お金がかかるが、写実的な背景や複雑な背景などには効果的。

(1)原画を写真に取る。カラーと白黒だとなおベター


(2)必要な大きさに拡大してみる。この時舞台のイメージもつかみやすいのであわなければここで没にする。

(3)白黒のスライドでデッサンを取る。その後カラースライドを映して色を決めていく。

図6-3 スライドを使った背景の描き方。

 

 高校の時に、井戸良弘がアンリ-ルソーの[ライオンの食事]という作品を拡大して[カチカチ山](原作:太宰治)の装置を作るのにこの方法を使っていた。欠点は、スライドを使うので金が掛かること。また、こんな面倒なことをして装置を作らなくても、最初からスライドを投影してしまえば楽でいいなどという乱暴な意見もあり、実際に使うことなどはあまりないだろう。

 以上、五つほどあげてみたが、他にもぼかしをうまく使うだの、いろいろなテクニックはあるに違いない。違いないが、あまり作ったことがないので知らないことが多いのだ、申し訳ない。

 

06-02
小道具

 

 小道具はなるべく本物に近いものを使うことにしている。大きい舞台ならともかく小さな舞台ではちゃちな小道具を使うとリアリテイがなくなる。ただ、あまりぴかぴかしたものは照明を受けると安っぽくなるので注意した方がいい。

 ちゃちだとわかっていても、安物のピストルを使うのは音が大きいためだ。音を出す必要のないときは実物大のピストルを使うことにしている。重量感があって舞台ばえもするが、値段が高いことと、音が小さいのが悲しい。

 舞台で食べるものは消え物といって、実際に食べる場合と、パントマイムで表現するのと二種類ある。[月虹舎]では食事シーンはきっちり食べる用にしている。最初から汚らしさをねらっているケースが多いからであるが、[グッバイガール]の場合は珍しく消え物を使わなかった。これは芝居全体が観客に見えない少女を見えるようにする構造となっているため、抽象的な表現でないと芝居が生きてこないと判断したからである。
 ホールのような大きな舞台では、せっかく消え物を使っても、後の客にはそれが見えないことがある。このような場合は消え物を使う意味がほとんどなくなってしまうので無理して使う必要はない。

 手に持って使う小道具は、もち道具という。ピストルなどはその良い例だ。特にもち道具は事前に衣装とあわせてみるとか、演技の練習中に使ってみるなど本番同様の扱いが必要といえる。衣装を着てみるとあわない道具が出てくる。令状を縛ってあるリボンをケーキ用のひらひらリボンにして失敗したこともある。

 なるべく本物に近い物がいいといっても、別に本物でなくてもいいものがいっぱいある。なるべく、事前にそろえて、練習の時から使ってみること、家から持ってきたり、拾ってすむものなら、借りたり拾ったりしてすます。(粗大ゴミの日に近所を歩いてください)景気がよくなると信じられないものが落ちている。特に新築のマンションの周辺が狙い目である。[月虹舎]の舞台で長年使っていた革のトランクや、ジュラルミンのトランクは拾ってきたもの。特に、アンティークな物は恥を捨てて拾おう。拾っておいてなんといっても便利なものはトランク類である。小道具として使わないときは衣装を入れておけば良い。茶箱もあると便利。昔はキャスターを付けて移動しやすくしていた。

 本物のピストル、本物の刀などが落ちていたとしても、拾わないこと。そばに死体も捨てられている可能性がある。

 

06-03
特殊効果

 

 灰皿からいきなり火花が吹き出す、座っている椅子の回りが自然に燃えだす、こういう特殊な小道具はほとんどを電気仕掛けにしている。

図6-4 灰皿から花火

 

 こういう仕掛けは仕掛けだけいくら凝ってもほとんど意味がない。脚本と深い関わりがあるからであり、次のようなト書の時にこういう仕掛けを使うのはアホである。

"ふっと気が付くと火がついていた"

 こういうふっと気が付いたり、はっとしたぐらいでは効果にならない。せっかく派手にやるのだ。意図的に使わなくては意味がない。

"奇跡を見せてやる"

"奇跡ですって"

"そうさ、ほら(と手をかかげると、火のついたマッチが手のなかにある。)"

"何よ、たったそれだけのことなの(笑い)"

"えいっ"(男がマッチを投げると、灰皿がいきなり火を吹き出す)

 というふうに、二段階ぐらいステップをふんでくれると効果的である。"奇跡"という台詞で客の注意を引き、マッチで客の視線を集める。次に投げることでいきなり灰皿から火花が吹き出す。客の注意を一度マッチに集めてから、灰皿に移すことで効果は倍増するわけだ。

 小道具を使った特殊効果はほかにも色々考えられるが、いずれも脚本と密接な関係にあり、その部分だけが浮き上がることのないようにするべきだろう。

 こういう特殊効果は客に強い印象を残すので、うまい手を考えて、何本かに一本ぐらいは使ってみてほしい。こういうチャレンジをする劇団が少ないのは淋しい。

 


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貧乏な地方劇団のための演劇講座 第7章 衣装・メイク

2012年04月15日 17時28分37秒 | 貧乏な地方劇団のための演劇講座

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 衣裳は男も女も毎日着ている。女性で化粧をしたことがないというのは珍しいだろう。ただほんの少し舞台と日常ではわけが違う。

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07-01
衣裳

 センスと技術のある衣裳スタッフが劇団内にいればこれほど強い味方はいない。別に衣裳を作る必要はない。組合せのセンスの問題なのだ。衣裳を作れれば更にそれにこしたことはない。

 衣裳スタッフが気をつけなければいけないのは靴だ。どうしても、服までで予算が終わってしまうことが多い。服なら少しぐらいのサイズの違いでもきられるし、他人の物でもあまり気にならないが、靴だけは下着と同じで、他人の履いたものは気分が悪いせいだろう、どうしても個人用の物をあつらえなくてはならなくなる。

 服がいくらすばらしくても靴を手抜きするとすべてがおじゃんになる。逆に服は少しぐらい安っぽくても、主役の役者の靴ぐらいはいいものを使いたい。

 過去に一番靴に金をかけたのは、三月劇場時代に使ったハイヒール。これは衣裳というよりも、小道具だったのだが、浅草の靴メーカーの試作品の靴を分けてもらった。10年ぐらい前で、半値に負けてもらって一万円だった記憶がある。

 特殊な衣裳は自作しなければならない。時代物の衣裳は借りてもいいが高いので、作った方がいいのかもしれない。古着屋かバザーで和服や古いコートを買ってきてばらして作ると安くあがる。こういうときは縫えないことはわかっていても男性も手伝うこと。衣裳担当者の苦労がわかるだろう。

 黒いドレスには、艶のある暗幕が意外といい素材になる。[蒼ざめた街]では、市毛恵美子が、赤いドレスの下に黒のドレスを着て、図7-1のように前後からひっぱると一瞬のうちに早変わりが出来るようにした。

図7.1 衣裳の早変わり


 歌を歌っている最中のドレスの早変わりは大好評だった。こういう遊びもたまには必要だと思う。

 衣裳の担当者は、イメージデッサンが出来た段階で照明の人間と打ち合せをしておくこと。青の衣裳に赤の照明を当てられたりしたら、せっかくの色が台無しになってしまって大変だ。

07-02
メーキャップ

 一時ノーメイクで芝居をしたことがあったが、結果は散々だった。舞台へあがってから恥ずかしくてしょうがないのだ。メイクには、それをすることで心が落ち着く効果ある。

 メイクは一般的にはドーランを使うが、最近はスティックタイプのドーランや、フェイスケーキタイプの水化粧も多く使われている。

 メイクの基本的な順番は次の通りだ。

○クレンジングクリームを塗って、それをティッシュペーパーで拭き取り顔の地肌を整える。肌のつやの良い若い女性はやる必要がない。

○基礎になる色のドーランを塗る。

○スーパーホワイトなどのパウダーを叩く。

○シャドー部分を塗る。

○パウダーで整える。

○目や口を描く。

○ライトにあててみる。

 ここで大切なのは、パウダーを忘れないことだ。パウダーを忘れると、顔が均一にならないし、ぎらぎらして見える。照明とあわせてみるのは、照明の色によってはメイクの感じが随分と違って見えるからだ。

 メイクの本は随分と出ているからそれらの本を参考にしてもらいたい。またいくつかの劇団が集まれば、三善というメイク用品のメーカーの人間を招いてメイキャップ講習会を開くことも出来る。ドーランはほとんど三善の製品なので、ドーランの裏に書いてある住所に連絡してみれば、講習会の開き方を教えてくれるはずだ。

 
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追記:(2011.04.25)
最近の舞台は衣装とか小道具に力を入れていないような気がする。
メイクは三善がかなり撤退しているので
チャコットあたりで買うか、100均で手に入れたほうが安いのかもしれない。
いずれにしても、時間があれば本番の照明とおなじ照明で
確認するのが望ましい。

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