知り合いのかめおかゆみこさんが脚本を書いた『ハヤブチノヌシ、帰るとき』の公演を観に横浜青葉区まで行ってきました。
さて、肝心のミュージカルですが
いまいちでした。
2004年に観た「こどもの国物語」と比較しても
出来がよくありません。
理由は多分こんなところにあります。
・演技
音は聞こえるのですが、台詞として聞こえないのです。
発声はできているけれど、発音と滑舌が悪いのです。
だから、何を言っているかわからないので
芝居に入り込めません。
姿勢からも肩に力が入りすぎているのがよくわかります。
・脚本
一番の問題は脚本のテーマでしょう。
人間は悪い、でも、それを認めると
自分を否定することになってしまうわけですね。
それをどう解決するのか。
単なる手段の問題ではなくて、心の中をもっとすっきりさせる未来を見せないと
いけないと思います。
台詞がみんな説明なんです。
だから、役者に共感できません。
説明的な台詞しかないから登場人物が区分できません。
みんながその他大勢になってしまっています。
せっかくの設定が生かされていない。
せっかく夢で予言ができるのに
テーマに縛られすぎて
エンターティメントになっていません。
・演出
役者同士が安全な距離でしか台詞を言っていない気がするのですが。
講師の話によく出てくるものの一つに「演劇は総合芸術だ」というのがあります。
確かに、演劇とはいろいろな要素が組み合わさったものですが、教育と言う概念からすると、そんなご大層なものにしてしまうと大きく間違えます。
つまり、明確な教育が不明瞭なものになってしまうのです。
ちなみにWikipediaでは「表現者が鑑賞者に働きかけるためにとった手段、媒体、対象などの作品やその過程を芸術と呼ぶ。」とあります。
つまり、表現者がなにかやって、本人が芸術だと言えばみんな芸術と言っているわけですね。
むしろ、企画をして、それを実現できる最も手っ取り早い表現手段と考えたほうが、社会生活をしていく生徒たちにはいい教育になるはずです。
だから、無料公演は教育的には「無責任な企画でも許される」からよくないのですけど、この話はいずれまた。
確かに、演劇とはいろいろな要素が組み合わさったものですが、教育と言う概念からすると、そんなご大層なものにしてしまうと大きく間違えます。
つまり、明確な教育が不明瞭なものになってしまうのです。
ちなみにWikipediaでは「表現者が鑑賞者に働きかけるためにとった手段、媒体、対象などの作品やその過程を芸術と呼ぶ。」とあります。
つまり、表現者がなにかやって、本人が芸術だと言えばみんな芸術と言っているわけですね。
むしろ、企画をして、それを実現できる最も手っ取り早い表現手段と考えたほうが、社会生活をしていく生徒たちにはいい教育になるはずです。
だから、無料公演は教育的には「無責任な企画でも許される」からよくないのですけど、この話はいずれまた。
高校演劇の公演の後の講評を聞いていると「発声がだめだ」と言っている講師が多いです。でも、本当にそうでしょうか。そんなに大声を出さなくても、十分聞こえるはずの会場でも、声が聞き取れません。
私に言わせると滑舌がだめなんです。
発声にこだわりすぎて、ちゃんと相手に伝えるというところがおろそかになっているから聞き取れません。
発声練習も、もちろん大事ですが、同じ時間をかけて滑舌と呼吸の練習をしたほうがいいと思います。
私に言わせると滑舌がだめなんです。
発声にこだわりすぎて、ちゃんと相手に伝えるというところがおろそかになっているから聞き取れません。
発声練習も、もちろん大事ですが、同じ時間をかけて滑舌と呼吸の練習をしたほうがいいと思います。