先日観てきたのはSTAGE21の「ジュウシチネンゼミ」というミュージカルでした。
とても、がんばっていましたが、演出と脚本がいまいちでした。先日観てきたかめおかゆみこさんの作品にも同じような問題がありました。
ではなぜ、いまいちなのか、どうすればよかったのか、書いてみようと思います。こういう問題をまともに書く人はまれでしょうし、舞台を観ていない人にとっては、何の意味かも分からないかもしれません。こういう時に、映画や小説と違って演劇はとても不便ですが、それを上回る何かがあると信じています。
と、それはさておき脚本と演出のだめ出しを。
1.時間設定にリアリティがない
舞台の設定は1991年+17年です。ここで、17年というのは非常に大事です。題名にもあるように、17年ごとにセミが成虫になる、そのときに奇跡が起きるというのがこのお芝居の大筋です。
では、冒頭から検証しましょう。
同窓会のために、3人の女性が集まっているところから、このミュージカルは始まります。パンフレットに主人公は15歳と説明されていますから、その少女の17年後ということになりますが、まったくそんな感じがしません。32歳の女性ですよね。
もう子供が小学生になっていてもおかしくない年です。家庭を持っていれば、家を空けるのも大変でしょう。
恋もしているでしょうし、仕事の重圧から鬱になっているかもしれません。
そういう、感覚がまったくないから、東京で就職したばかりの女の子たちが同窓会にやってきたという説明的な台詞が続くだけです。
そのためか、最初の10分間ぐらいは、会話の意味がよく理解できませんでした。台詞にリアリティがないから会話が弾まない、ということは心に響いていないのです。
解決策
こういうときのつかみは「あの人は私だ」と思わせることです。
久しぶりに会えた。見栄を張るか、弱みを見せるか。それまでの付き合いが見えてきます。
もうひとつ付け加えると、彼女たちは劇中に登場する先生たちよりも、年をとっているはずです。
技術的な問題だけを、まずとりあげます。
1991年に離島では携帯電話はない。
携帯電話がはいつの間にか当たり前のようになりましたが、初めて見たのは1988年の山本寛斎さんのファッションショーでのことでした。大きさは弁当箱ほどで、肩に下げてました。本格的に普及しだしたのは、1998年以降です。だから、体育館に電話をかけることは不可能です。職員室の電話に呼ばれたのなら、今度は奇跡を見ることはできません。
2.3番目の奇跡は?そして4番目の奇跡は?
1991年の奇跡の17年前には一週間山の中をさまよった子供が無事に救出されました。
その17年前には山火事で100軒の家が焼失したが、何かに導かれたのか一人の死者も出なかった。
では、今回の奇跡は何なんでしょう。
2つ考えられます。
ひとつは、体育館にいないはずの先生が姿を現して、その幻のおかげで中学生たちともう
一度お芝居をすることになったし、島にも定住することになった。
もうひとつは、なぜかリゾート開発が中止になった。
最初の奇跡は、前の二つの奇跡と比較するとすごく貧弱な奇跡です。これは、奇跡そのものが貧弱なのではなくてそこに至る登場人物の感情が貧弱だから、奇跡が貧弱に見えるのです。
次の、リゾート開発が中止になった、というは奇跡どころか、とんでもない話です。
島がどうしようもないから、リゾート開発しようとする。でも、それによって、自然が失われる。自然を守るためには、リゾート開発は中止したほうがいい。でも、結局そうしたら島には誰も住めなくなります。
実は時間設定にリアリティがないというところで触れようとしたことに、1991年+17年の時の島の現実が見えない、というのがあります。今島はどうなっているのでしょう。
さらに、1991年+17年目にジュウシチネンゼミはどんな奇跡を起こすつもりなんでしょう。
解決策
リゾート開発がすべて悪いはずがありません。
画一的で自然を無視したリゾート開発は、結局利益をもたらさない、というだけなのです。
私だったらこの脚本はこうします。
村長「では、撤退されるんですか」
社長「いいえ、リゾート開発は続けます」
村長「でも、今やめるとおっしゃったではないですか」
社長「夜、空を見上げたら、空にはこんなに星が光っているんだって、それを思い出してもらえるような、そんなリゾート地にしてみようかと思ったんです」
村長「でも、ゴルフ場がないと」
社長「大丈夫です。世の中には、ゴルフの嫌いなお金持ちもたくさんいますから」
村長「本当ですか」
社長「ええ、たぶん。ね、先生(と生物学の教授に)」
と、長くなったので本日はここまで