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朝鮮半島の歴史 (その2)

2018-09-01 11:04:20 | 朝鮮半島の歴史
 今回は、大韓帝国の併合までの歴史をまとめました。

【三度の対馬侵攻】
 李氏朝鮮は、3回(1389年、1396年と1419年)、対馬に侵攻しました。李氏朝鮮には「勝利したと」の記録が残されているようですが、実際は失敗だったと思われます。(侵攻の目的は”倭寇”退治)
 特に第三回目(1419年)の侵攻には、17,000人以上の大軍を派遣しましたが、かなりの損害を受て撤退しました。 李氏朝鮮には、対馬・一島さえ侵略する力が無かったのです。

 対馬を支配していた宗貞盛が、1420年に属国になりたいと申し入れ、認められた様です。翌年(1421年)対馬側は、属国になった事を否定しました。 然し、李氏朝鮮は、その後も対馬は属国であると主張し続けました。 現在でも一部の人達は、”対馬は韓国の領土だ”と主張しています。 李承晩が、李承晩ラインに対馬を含める根拠にしたのではと思われます。

【文禄・慶長の役】 1592年~93年と97年~98年
 1592年に秀吉軍が攻め込んだ時、李氏朝鮮軍には鉄砲が無く、秀吉軍は連戦連勝でした。 明軍が支援に入って、やっと硬直状態になったのです。
 文禄・慶長の役は、明国の財政を悪化させ、約50年後の1644年に滅亡しました。清国になったわけです。

 李氏朝鮮は、この戦争を教訓にして富国強兵をはかった? とんでもない、この戦争で国力はさらに低下しましたが、その後300年以上も改革はほとんどせずに、貧しいままで二十世紀を迎えるのです。
 文禄・慶長の役で、日本にも多大の損失が有りましたが、然し朝鮮半島から捕虜を5~6万人も連れてきて、その中に陶工がいて、その後の文化・経済の発展に貢献しました。

警告) 現在でも”文禄・慶長の役”を問題にする反日運動家がいる様です。 将来より大きな運動になるかも知れません。 「”元寇”では君達が攻めてきた」と反論したら、多分、「元寇は高麗と元がやったことで、我々の祖先・李氏朝鮮は関わりない」と言うでしょう。 

【李氏朝鮮の末期】
 李朝朝鮮の末期には政権内部で政権争いが繰り返され、国内が混乱していました。日本が要求した改革(甲午改革)は細々としか行われませんでした。

 イギリスの女性旅行家・イザベラ・バードの著作『朝鮮紀行』には、政治の混乱の様子や、役人達の腐敗、庶民の暮らしなどが記録されています。 ”断髪令”など、日本の失敗も書かれています。 なお、『朝鮮紀行』(時岡敬子訳)と『朝鮮奥地紀行』(朴尚得訳)は今でも入手可能です。 (共産党や左派の政党を支持する人達には、是非とも読んで頂きたい本です!)

 『朝鮮紀行』は韓国語に翻訳されて出版されている様です。韓国人にとっては不都合な内容が沢山出てくるのに、出版した人達の努力と勇気には敬意を表します。この本は韓国でどれだけ売れたのでしょうか?

【李氏朝鮮は国号を大韓帝国に改めた】 1897年
 1894年から95年にかけて戦われた日清戦争で日本が清国から得たのは台湾です。朝鮮半島ではありません。
 日清戦争で日本が勝利したことで、李氏朝鮮は清国の”くびき”から解放され、李氏朝鮮は1897年に国号を”大韓帝国”に改めました。
 ”朝鮮”と言う国号は、明国から与えられたものでした。属国で無くなったことを明確にするために”大韓”と言う国号にしたのだと思います。 新羅・高句麗・百済を”三韓”と呼びます。 三韓の領土(朝鮮半島)を統治する国であると言う意味で”韓”を採用したと言われています。
 李氏朝鮮の君主は単に”王”でしたが、”皇帝”と称する事にして、国号を”大韓帝国”と改めました。

【大韓帝国の改革】 1897年~
 明治維新の約30年後(1897年)に大韓帝国は日本の支援を受けて改革を始めました。然し、国力が低下していたために、自力での改革が出来る様な状態では無かったのです。

 軍隊の改革にも着手しましたが、財政がひっ迫していたため1899年時点でも軍の定員は9,000名に過ぎませんでした。 その後、増強されましたが2万人程度に止まりました。ちなみに、日清戦争で日本が大陸に派兵した軍隊は、24万人です。(当時、大韓帝国の人口は1,300万人もあったのですが!)

 西洋式の工場を建設することは、資金が無かっただけで無く、儒教に反する事だったので行わなかったのでしょう。

(私の考え) 1894年に日本は李氏朝鮮に改革を要求し、李氏朝鮮は改革(甲午改革)を行う旨の命令書を交付しました。この時に”罪人の連座制”が一応は廃止されました。金が無くても出来る改革が他にも有ったと思われます。例えば、腐敗撲滅、法律の整備、公平な裁判、人材登用などなど。 真剣に取り組んでいたら、民心が離れて行くのを止められたでしょう!

【日露戦争】  1904~5年
 日露戦争は、帝政ロシアの南進政策を阻止するために日本は戦ったと言われています。日本の支援を受けていた大韓帝国の皇帝・高宗(光武帝 )とその一派は、日本を裏切ってロシアを支持しました。

 1904年、高宗は英語が出来た(反皇帝運動家の)”李承晩”(初代韓国の大統領)をアメリカに派遣して、『アメリカの支援を得て日本の影響力を弱めよう』と画策しました。 アメリカに渡った李承晩は、(期待に反して)高宗の批判を始め、そのままアメリカに留まりました。

 自力での改革が不可能と考えていた、大韓帝国の一派は日露戦争で日本に協力しました。

 結局、高宗の予想(期待)に反して日本が勝利したために、大韓帝国は1905年に日本の保護国になりました。 (高宗は1907年に退位し→→純宗が即位しました。)

 1909年に 韓国統監の伊藤博文が暗殺されたあと、アメリカとイギリスの賛同が得られ、その他の列強の反対も無かったので、日本は大韓帝国を無血で併合しました。 (日本では、「大韓帝国の改革派”一進会”から併合の要請があった」と主張してきました。)

(私見) 併合を進めた総理大臣は、”図太く立ち回った”桂太郎です。桂太郎になって考えて見て下さい。当時の世界は、力のある国が弱小国を植民地にすることは当たり前の事でした。”生き馬の目を抜く”様な国際情勢の中で『生き抜ける国力』が大韓帝国には残っていなかったのです。国際的にほぼ認められたので、桂太郎は併合したのだと思います。国内の世論を抑えるために、「韓国の”一進会”から併合の要請があった」ことを巧みに利用したと私は考えています。

★★予告★★
次回は、併合時代の話しです。 是非、読んで下さい!


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