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私の中学卒業までと勉強

2020-06-27 09:12:22 | 休校
 新型コロナで小中高が2カ月ほど休校になりました。 私には、今年小学校入学と幼稚園入園の孫がいます。 親御さん達が、「休校で勉強が遅れると心配されている」様ですが、私は全く孫達の事を心配していません。 私は大学を卒業するまでに、授業が満足に受けられ無かったことが多々有りました。 本人が努力したら、何とかなります!

 3回に分けて、「私がどんな環境で勉強したか?」について書きます。今回は、中学を卒業するまでの話しです。

【教会の日曜学校】
 私は紀州の山奥で生まれて、中学校を卒業するまで暮らしました。当時・村には、幼稚園は有りませんでした。 戦後、町に出ていた人達が沢山帰っていたので、村の人口は8,000人を超えていたと思います。

 私が小学校に入る前の年(?)に、一番上の・大好きな姉が「カトリックに入信したい」と毎晩の様に両親を説得していました。 「カトリックは素晴らしい宗教だ!」と姉が言うのを毎晩聞いて、「私も入信したい」と考える様になりました。 姉が洗礼を受けに出掛ける朝、家族全員で見送りました。 私は”さりげなく”姉の後ろに付いていって、家が見えなくなる所で「僕も洗礼を受ける!」と大声で叫んで、走って逃げました。 誰も、追っ掛けて来ませんでした。 帰ったら怒られると心配していたのですが、両親は何も言いませんでした。

 入信後、教会の日曜学校に毎週通いました。私にとっては幼稚園の様なものでした。中学生までの年齢が”まちまち”な十人程の子供達が参加していました。賛美歌、祈祷書や聖書を習いました。 当時の聖書や祈祷書は文語体で、白人の神父さんから文語体を教えて頂いたのです。 ルビを振っていたと思いますが、小学1年生の頃には聖書を少し読める様になっていました。

 聖書の教えは、「人は愛の心を持って、どう正しく生きるか!」と言う事だと思います。神父さんから、死後の話しや、天国や地獄についての話しは聞いた事が有りませんでした。 私は段々と、「神は存在しない。その事を承知の上でキリストの教えに従って生きるべきだ」と考える様になりました。 聖書には、「教会を建てよ!」、「教会で祈れ!」とは書いていません。それで、中学生になると、日曜学校にも、ミサにも行かなくなりました。 学生の頃、社会人になっても時々ですが、聖書を読み返しました。今も、本棚に聖書が有ります。

(余談) 父と母は、「私と同じ墓に入りたい」と言って、数年後に入信しました。 そんな分けで、我が家の墓には『十字』が刻んでいて、明石海峡大橋の見える高台に有ります。 父は「私を待ちわびている」と思います。

【小学校入学】
 1953年に小学校に入学しました。 村には小学校が6校?と中学校が4校、高等学校の分校が1校有りました。 私のクラスは22人だったと記憶しています。出入り(転校)が有りましたが、20人は6年間クラスメートでしたから、今でも氏名、子供の頃の顔、性格などを思い出せます。

 昔の山村の子供達は、下校すると毎日1~2時間仕事をして、その後で集落の小さな子供達を含めて皆で遊びました。 私も、蒔き割り、牛に食べさせる草を刈ったり、・・・結構忙しかったです。

【紀州大水害】
 1年生の夏休みが始まる直前に大雨が降って、村の橋の大半が崩壊してしまい、村は孤立してしまいました。(1953年7月18日の紀州大水害) 小学校も浸水して校庭を厚いドロが覆い、一部の教室が被害を受けました。 農地の被害も大きかったのですが、大人達は学校の復旧を優先してくれたので、10月には二学期が始まりました。

(余談) 水害の後・毎日、米軍の飛行機(多分、P-38ライトニングだったと思います)が超低空で飛んできて、時々・落下傘に食糧などを付けて落としてくれました。 水害は、秋の収穫前でしたから、村は食糧難になるのは必定でしたが、米軍は食べ余る食糧を落としてくれました。

 落下傘が落ちて来るのを見ると、何時も”ワクワク”しました。 暫くすると飛行機は飛んできても、落下傘を落としてくれなくなったので、近所の友達と二人で、川原に大きな石を「SOS」と並べて見ました。 信じられないほど沢山の落下傘を落としてくれました。 「大人達が喜んでくれる」と思っていたのですが、全く逆で、二人は”大目玉を食らい”ました。 既に、食べきれ無い量を落としてくれていたのです。

【複式学級】
 言い忘れましたが、私の1年生の時の担任は私の一番上の姉でした。姉は一学期が終わったら退職して、結婚する事になっていました。前述の水害が有って、遅い二学期が始まると、一年生と二年生の複式学級になりました。

 先生は中年の怖い!怖い女の先生でした。一年生は大抵自習でしたが、少しでも騒がしくなると、大声で「静かにしなさい!」と怒鳴りました。 結局、一年生の二学期と三学期は殆ど授業は有りませんでした。 2年生の時もこの先生が担任だったので、大急ぎで一年生の残りも教えてもらいました。

【先生が癌になりました】
 私の小学校では、6年生は教頭先生が担任する事になっていました。一、二年前から教頭先生は体調が悪かったのですが、私達の担任になった時は、学校に来るのが『やっと』と言う状態で、授業は全く出来ませんでした。 先生の人数はクラスの数と校長で、校長先生は絶対に授業されない方だったので、私達は一年間自習する事になりました。 私の記憶では、テストは一回も無かったと思います。

 雨の日は大人しく教室で自習しましたが、晴れた日は、大抵校庭でドッジボール、軟式テニス、・・・種々の遊びをして一年間過ごしました。当時の教科書は薄い本でしたから、何回も!何回も!自習時に読みました。

 教頭先生は癌の末期で、私達が中学に入って直ぐに亡くなりました。

【えりごにべらくけた】
 私が小学生の頃、姉達が中学校と高校に通っていて、図書室から種々の小説を借りてきました。 我が家にはテレビが無く、私は小さい頃から歌謡曲が好きで無かったのでラジオも聞きませんでした。姉達が借りてきた小説を毎晩読みました。同じ本を何日も借りられませんから、急いで読む必要が有りました。

 小学・高学年になった頃、島崎藤村、芥川龍之介、森鷗外、夏目漱石などを読みました。私が中学に入学した年に、姉達は全員家を出ましたので高校の図書室の本は読めなくなってしまいました。

 6年の時にクラスメートの一人が、「『えりごにべらくけた』を買ってくれ」と言うので、言い値で買いました。樋口一葉の『たけくらべ、にごりえ』だったのです。戦前に出版された岩波文庫だったと思います。一葉の文章は綺麗で、情緒が溢れていますね!それで、一葉の大ファンになりました。

(余談) 姉達の借りてきた本の多くは、軽い青春の恋愛小説でしたが、不思議と私は”恋”には晩熟で、初めてデートしたのは二十歳を過ぎていました。いとも簡単にに振られてしまいました。

【中学校入学】
 二つの小学校の生徒が、中学校で一緒になりました。私達の小学校からは20人ほどで、合計40人弱のクラスになりました。 前述のように私達は6年の授業が有りませんでしたが、両校の卒業生に学力の差は無かった様に思います。 (私の故郷は雨が多いので、教室で自習した時間が多かった為でしょうか?!)

(余談) クラスメートが少ないので、名前と子供の頃の顔は今でも記憶しています。 数年に一度、中学校の同窓会の案内が来ます。 皆さん面影が無くなっていると想像するので、私は絶対に同窓会には出ない事にしています。 貴重な思い出が吹っ飛んでしまいそうに思えるからです。

【崖崩れ】
 1959年9月16日の伊勢湾台風の時だったと記憶するのですが、通学路に崖崩れ等々が発生して一か月以上登校出来ませんでした。 (夏休みが3カ月間になった様なものでした。)

 中学校には片道40分くらいの自転車登校で、山を一つ越える必要が有りました。崖崩れで山道の部分が通れ無くなったので、川岸の岩場を歩いて登校しました。往復で3時間ほど掛かりました。重い教科書を持って、岩場を毎日2時間歩くのですから、家で勉強や読書する元気は残っていませんでした。 段々、日が短くなって、寒くなってきました。 二、三か月間岩場を歩いたと思います。

【数学の先生が気が狂いました】
 私の中学2年と3年の時の数学の先生が、頭が少しずつ可笑しくなって来ました。2年の二学期には、授業中に時々異常な言動をする様になりました。3年生になった頃には支離滅裂な事を言い出し、「先生の説明は間違っています」と言うと烈火の如く怒鳴り始めました。 結局、3年生の時は数学の授業は無かった様なものでした。 (私達が卒業した二、三か月後に、この先生は精神病院に入られて、二度と退院されませんでした。)

(余談 :自慢話し) 3年生になると共通模擬試験が月一程度であり、各受験者に群と市で何番の成績だったか通知されました。 校長先生の自慢の娘さんが私と同い年でした。彼女は市の一番大きな中学校に通われていて、何時も十番以内だった様です。教頭先生が「私が、一番か二番だと言う事を校長には絶対に言ってはいけない」と皆に注意しました。

【高校進学について】
 軍人だった父は、戦後・故郷に帰って木材と山林の商売をして可成りの蓄財をしていたのですが、私が小学2年の頃に商売を止めて、その後は軍人恩給で暮していたのです。 色々有って、私が中学生になった頃には、貯金は殆ど無くなっていました。 (中学校を卒業した時、父は61歳でした。当時、サラリーマンの定年は55歳だったと思います。)

 村には日高高校の分校が有りました。(現在は南部高校の分校になっています。)家が貧しくなっていたので、その分校で勉強するつもりでいました。

 中学1年の時に、姉の一人が東京の男性(H義兄)と結婚しました。 H義兄が、「お金の心配はしなくて良いから、東京の高校に入れ!」と言ってくれ、東京の家を増築して私の部屋を作ってくれました。 それで、中学2年の頃から、東京の高校を目指して独学で勉強したのです。 (中学時代は読書は殆どしませんでした。クラスメートの家に住井すゑの本が数冊有ったので、借りて読みました。彼女の代表作『橋のない川』は社会人になって読みました。)

 中学3年の正月頃に、母が「東京には絶対行ってはいけない」と言い出して、家からは遠いい田辺高校を受験しました。 高校を卒業したら、H義兄のお世話になって東京の大学に行くつもりだったのです。