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マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

紙の話し (その2-1)

2019-08-17 11:27:09 | 工業技術
 私は、足掛け10年以上、紙関係の仕事をしました。今回は、最初に取り組んだ『水を使わないで紙を綿状にする機械』を開発した時の話しです。話が長くなってしまいましたので、二回に分けて投稿します。

【開発の経緯】
 1990年頃に古紙の価格が暴落して、一部の地域では古紙を回収してくれる業者がいなくなりました。「開発費を支援するから、古紙の新しい利用技術を提案して欲しい」と政府が大手企業に通達しました。これから述べる機械の開発は、その要望によって始められたのです。

【発明品の見学】
 昔、私が嫌いだった上司がいました。彼に追い出されて、私は別の部署に転勤していたのですが、突然、「某社が特許出願中の機械を見て、感想を聞かせてくれ」と電話が有りました。当時の上司から「行ってやれ」と言われたので、渋々東京まで出掛けました。

 少し胡散臭い会社で、①(日本を代表する)T大学のA教授の発明で、②超音波を発生させて紙を綿にする、③アメリカ製の特殊な送風機(ブロワ)をベースにしている、④電力消費量が極めて少ない、⑤特許使用契約を締結するまで機械の内部構造は開示しない、・・・と事前に説明されました。

 新聞紙を裁断して機械に投入すると、綿状になって排出されました。それまでの見学の時は、2~3分で停止させていた様ですが、私が手で機械の振動を見たり、金属の棒を機械に当てて振動音を聞いたり、種々質問したために、この時はあっという間に10分近く経ってしまいました。急に紙片を吸い込まなくなってしまったので、「内部で詰まってしまった様うですね!」と言うと、機械を分解してくれました。多分、もう十分金を巻き上げたので、これ以上騙すのは可愛そうだと考えたのだと思います。

 私は入社以来、音と振動についても勉強していましたので、超音波で紙を分解すると言うのは眉唾だと思いました。機械にはアメリカの会社の銘板が貼られていましたが、同じ構造の国産メーカを知っていました。モータをインバーターで制御していましたが、普通の電力計で計測していましたので、計測値が少なく表示される事を知っていました。(故意に嘘を言っていたのか?無知だたのか?とにかく、説明は出鱈目だったのです。)

【国立大学の特許】
 昔は、国立大学や国立の研究所が取得した特許は、使用願いを出すと、どの企業にも使用許可が出る事になっていました。一見公平な制度の様に見えますが、まったく馬鹿げた制度なのです。(現在は、改められています。)

 A大学からB社が使用権を得て、ある機械を苦労して開発したとします。その機械を上市すると好評でした。それを見ていたC社が、A大学に特許の使用願い出すと、必ず許可が得られるのです。それでは、可能性が有ると思われる特許でも、実用化して見ようと思う企業は殆ど無いのです。

 一方では、発明者の先生達に支払う特許料は微々たるものでした。先生達の発明を、自分の名前で出願して、企業に売る商売人が登場する事になります。素晴らしい発明は少ないので、骨董商の様に怪しげな(紛い物の)アイディアでも金を稼ぐ必要が有ります。

 この発明品の場合は、機械の運転を見たいと言うと数百万円、二回目の見学を希望すると2~3百万円の追加料金を支払う必要が有りました。私は、三回目の見学会に参加したので、総額は一千万円にもなっていました。

【嘘から出た実(まこと)!?】
 私は、機械の運転を見ながら「どんな原理で紙綿になるのか?」考えていました。「超音波で無いとしたら、・・・」。機械を分解して、内部構造がわかった時、ふと子供の頃に見た情景を思い出しました。

 私は子供の頃、洪水が起こると、木材が川岸の岩壁に衝突するのを見にいきました。(時々しか起こりませんでしたが、)丁度良い角度で激突すると、木材の先端が見事に砕けて、”ささくれ立つ”たり、裂けたりするのです。もし、そんな現象で紙が綿になっているのなら、目詰まり対策は出来そうだから、『噓から出た実』で、この機械は物になるかも知れないと思いました。

 然し、私の考えを言ったら、嫌な上司の下でまた働く事になるのが必定でしたから、黙っておくことにしました。

【結局、開発を担当する事になりました】
 暫くたって、上司から「来週から、○○工場に出勤して、例の機械を開発しろ!」と命令されました。人事異動は出ず、私は貸し出されたのです。私は、他部署に貸し出されて、その部署の開発を担当するのは、この時で4回目でした。(開発に全て成功しましたが、その部署には存在しない人間ですから、結局4回とも私の成果にはなりませんでした。)

 例の会社から、私が見た装置が一式送られて来ていました。私は、早速目詰まりを回避する大胆な改造を行いました。これで駄目なら、手を引こうと考えていましたが、上手くいったのです!

【綿になる現象を確認しました】
 開発を始めて直ぐに(1993年2月頃)、矢が刺さった鴨が話題になり、NHKでクロスボウで放たれた矢の超高速映像が放映されました。1秒間に何コマの映像か凡その計算をして見ると、1万コマ以上だと分かりました。(テレビは、1秒間に30コマです。)機械の内部を、この高速カメラで撮影したら、綿になっている状況が確認出来るだろうと思いました。

 早速、メーカーを調べたら、フォトロン社でした。価格は確か1,300万円ほどだったと思います。1,150万円が限界だと言われたのですが、私が用意出来たのは400万円ほどでした。映像機器をレンタルしている映像センター社に、「フォトロン製超高速ビデオカメラが如何に優れ物で有るか」売り込みました。「10日間400万円のレンタル料で、貴社の最初の顧客になるから、貴社で購入して欲しい」と説得して、成功しました。

 機械の一部を透明なアクリル製にして、光が内部に入る様に工夫しました。撮影は大成功で、私が予想していた様な原理で古紙が綿になっていました。大型化する為のポイントが分かり、機械の寿命を延ばす為に必要な改善点も把握出来ました。完成した機械は構造がシンプルで、製造原価を安く抑える事が出来、消費エネルギーが少ない優れ物でした。 嘘が、本当に実(まこと)になったのです!

【特許の修正】
 出願されていた特許は、超音波で綿にすると言う前提の内容でしたので、私が全面的に書き直し、私を発明者に追加して再出願しました。当時は、出願後1年以内であれば、明細書の修正が出来ました。例の胡散臭い会社経由で出願したのですが、私の名前を削除して提出していました。その為に、私は特許料を1円も頂けませんでした。 (この機械は、エコパルパーと命名して商標登録しました。)

(余談) 私が発明者の一人だと、特許庁に異議申し立てしたとします。特許庁が私の主張を認めたら、(読者は)私が発明者に追加されると思われるでしょう! 実際は、その特許が無効になってしまうだけなのです。

【大型機を開発しました】
 紙綿からコンクリートパネル(コンパネ)を製造するのが、開発の目的だったのです。従って、試作機の10倍程の処理能力が必要でした。直ぐに大型機の設計/試作に着手しました。大型機は何の手直しをする事無く、目標の性能を達成しました。コンパネ製造のレシピを研究していた開発チームに、必要な紙綿を供給するのを兼ねて、大型機の耐久試験に入りました。 (私は、珍しく暇になりました。)

【有機肥料を作る機械(植繊機)の開発】
 (当時、大手の)K製鉄会社の重役だった方(Y氏)が、早めに退職され、田圃を買って趣味で有機農業に取り組まれていました。Y氏がK社の某工場の技術陣に雑草から有機肥料を作る機械の開発を依頼しました。K社は、町の発明家(H氏)の協力を得て開発を続けてきましたが、暗礁に乗り上げてしまいました。H氏は、機械で処理した物を入れて、効率よく発酵させるビニールシート製の発酵槽を試作済みでした。 モンゴール人のテント(ゲル)状で、直径1.5m×高さ2mほどの大きさでした。

 耐久試験に入った頃、H氏が訪ねて来て、K社の機械を見てアドバイスして欲しいと言いました。K社に行くと、課長以下数人で機械を運転して、最後に機械を分解して見せてくれました。種々の分野で使用されている、極ありふれた原理の機械でした。問題の原因を理解出来ず、逆の方向に改良していたことが、直ぐに分かりました。 ”引く”相撲取りは大成しませんが、開発では『押して駄目なら、引いてみろ!』が重要です。K社は、押して、押して、押しまくっていたのです。

 アドバイスしようとしたら、「もう懲り懲りなので、貴方に任せたい。この機械を差し上げます!」と言われました。同行していたH氏が私と二人で開発したいと言うので、引き継ぎを了承しました。失敗の試作機を貰っても参考にならないので、機械の貸与は丁重にお断りしました。

 H氏と、二日間掛けて試作機の検討をしました。K社の機械はモータ駆動でしたが、H氏は田畑で運転出来る様に、トラクターの出力軸での駆動を強く要求しました。試作一号機はトラクター駆動とし、二号機は電動機駆動にする事にしました。(試作一号機は、四カ月程で完成しました。)

 二人の名前で特許を出願し、『植繊機』という商標登録もしました。殆どは私のアイディアだったのですが、彼は時間が経つと全てのアイディアを自分が出したと言い出し、最後には私が特許を盗んだとまで言い出しました。そして、「君とは絶交だ!」と言ったので、それ以来、彼とは会っていません。植繊機は、今でも販売されています。

【私に自由が与えられました】
 話が前後しますが、大型機の耐久試験に入り問題が発生していなかったので、「本来の職場に返して下さい」と申し入れました。「他の開発チームの開発が遅れているから、君の開発チームはそのままにして、開発費は今まで通り出すから、好きな研究をして待っていろ」と言われました。

 直属の部長から、「(他の課の若手社員)S君に特許を、I君に流体力学を、T君に設計ノーハウを、・・・を教えてくれ」と言われました。私の開発チームには国立大学の修士卒の新人が二人いましたので、若手数人の教育係になったのです。その上、仕事が全く出来ない私より年上の社員二人を、「人件費は別に出すから、君の部下にする」とまで言われました。(この二人には手を焼きました。)

 植繊機の引き合いが入り始めると、営業部隊を作る事になり、部長職の方と”ひら”営業マンを私の部下にする命令が出ました。部長職の方は人格者でしたが、アイディアが全く出ない方で、細かい所まで私が指示する必要が有りました。ひら営業マンは、「君は、僕の上司ではない!」と言い張りました。彼の考えは正論です。私は、(人事上)その部署には存在しない幽霊社員でしたから。

 会社の金で田圃を借りて、トラクターをリースし、草刈り機等々を買って、有機農業に詳しい方に指導をお願いして有機農業の実験をしました。有機農業関係の書籍を沢山購入して勉強しました。 私の会社人生の中で、この時期は一番気楽で楽しかったと今では思います。


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