これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

良き時代の松茸狩り

2018-11-24 00:20:51 | 松茸狩り
 私は中学を卒業するまで、山奥で育ちました。 当時、松茸はそんなに高価な物では有りませんでした。 今回は松茸の思い出話しです。

【父の知人の松茸山 (1)】
 父は行動的な人間で、私を連れて数人の知人の家によく遊びに行きました。その一人に、村のために沢山お金を出す立派な金持ち(A氏)がおられました。広い松茸山を所有されていて、私にその山で松茸を採れと何回も勧めてくれました。

 近所の年上の子供達から、A氏の松茸山に行こうと誘われました。「Aさんは時々見回りをするけど、目が悪いから、地面に伏したり、木の陰でジッと動かなかったら見付からないから大丈夫」と言っていました。

 私は、A氏は目が悪くない事を知っていましたが、一緒に行く事にしました。 小一時間ほど松茸狩りをしていると、A氏が下の方から登ってこられました。 一緒に行った子供達は地面に伏していましたが、私は木の陰に立っていました。 A氏は、子供達が見えなかった振りをして、私の2メール程の所を歩いて行かれました。

 子供達は「やっぱり目が悪いんだ!」と言って松茸狩りを続けました。目が悪かったら、けもの道しかない急峻な山には登れません。

【父の知人の松茸山 (2)】
 県道の隣接地に製材所が出来ました。木の皮や廃材が沢山出て、毎年10月頃から4月頃まで、ドラム缶で一日中焚火をしていました。 私は下校途中に毎日その焚火で暖まりました。

 ある日、猟銃を肩に担いだ中年の男性が二人、松茸を多量に持って焚火に参加しました。 彼らは、A氏の山の下の方と中腹に分かれて、誰かが松茸を沢山採るのを待っていたのです。 
 数人が十分過ぎるほど採った頃に、下の方にいた人が、「猪がそっちの方に逃げた!」と大声で叫んで、一発ズドンと発射しました。 上で待機していた人も、「来た来た!」とか言いながら一発撃ちました。 松茸を採っていた青年達は、袋をその場に置いて、一目散に逃げたらしいのです。

 次の日に、青年が数人集まって来て、前日の怖かった話を始めました。 「もう少しで猟銃で撃たれるとこだった!」 焚火の周りいた子供達は前日、悪い二人の自慢話を聞いていたので、笑いをこらえるのが大変でした。

【父の友人の松茸山】
 日本の松茸は赤松の根の近くにしか生えません。赤松を植えて20年~30年後から手入れが良ければ、松茸が生え始め、毎年少しずつ収穫量が多くなりますが、50年頃から少なくなり、大木になると殆ど生えなくなります。

 実家の近くに住んでいた父の友人が、樹齢20年頃の若い赤松の山に松茸胞子を散布して、落ち葉を取り除くなどの手入れを続けていると、沢山採れる様になりました。私に、「採りに行け」と言ってくれました。

 一歳年上の友達と二人で出掛けました。山の境界に金網をぐるっと巡らせて、一応は立入禁止の掲示がありました。子供達の楽しそうな声が聞こえてきて、近づくと三十人程が無茶苦茶に地面を掘って松茸を探していました。既に、沢山採っていました。

 諦めて帰ろうとした時、金網の外にも赤松が数十本生えているのを見付け、行って見ると、信じられない程沢山松茸が生えていました。黙々と採り続け、二人とも段々興奮して顔が赤くなってきました。持参した大きな布袋が一杯になりました。 

 帰り路に、「採った場所は親にも誰にも言わない」と硬い約束をしました。この約束は数年間守られ、毎年二人で松茸狩りを楽しみました。

【叔父と松茸】
 母の弟(叔父さん)は狩猟名人で、毎年20頭以上の猪や鹿を射止めていました。 時々肉がタップリ付いた”足”を軒先にぶら下げて置いてくれました。 ”シャイ”な性格で、そんな時は、何時も誰とも会わずに帰ってしまいました。

 学校から帰ると縁側に大きな新聞包みがありました。 後にも先にも見た事のない、巨大な松茸が入っていました。 どこで採ったのか聞きましたが、何時もお茶を濁されてしまいました。

【友達の弁当のおかず】
 父親がキノコ狩りの名人の幼友達(B君)がいました。毎年、種々のキノコを多量に採ってきて、塩漬けにして、一年中食べていた様です。

 中学校3年になると、給食の無い土日に模擬試験や補修授業があって、弁当を持参しました。 B君の弁当には何時も沢山キノコの炒め物が入っていました。 B君は”うんざり”と言う顔をしていましたので、私はおかずを半分づつ交換しようと提案をしました。 美味しいキノコの炒め物にありつけた分けです。

【義理の母のプレゼント】
 義理の母から、大きな松茸が沢山入った立派な桐の箱が届きました。 路上に黒山の人だかりが出来ていたので、覗くと松茸の叩き売りをしていたそうです。 「そこのオバちゃん、こんな松茸は買えないだろう!」と言われたので、数万円の値札の付いた一番大きな箱を指さして、「その値段で、2箱にしてくれたら買う」と言ってしまったそうです。

 「よし! 売った!」と言われたので買ったそうです。 久し振りに松茸を堪能しました。 後で、義母の事だから、孫に食べさせたくて、話を作ったのではと思いました。

【お願い】
 松茸の菌は極めて繊細です。 初めての方は松茸の採り方を勉強してから出掛けて下さい。松茸の菌が広がったのを『シロ』と呼びます。 シロからも松茸特有の臭いがするため、素人は臭いのする所を”むやみやたら”に掘り、貴重なシロを破壊してしまいます。 こう言う事は絶対に止めて下さい。

【警 告】
 他人の山に無断で入って、キノコを採るのは犯罪(窃盗罪)です。立入禁止の表示の無い私有地に入るのは違法では有りませんが、許可を得ないキノコ狩り、自然薯掘り、山菜採りは違法です。 猪、鹿、野兎、雉などの狩猟で入るのは許されています。

 松茸にも毒があります。いっぺんに多量に食べると、吐き気、下痢などの中毒症状になります。(私は、中毒になるほど食べてみたいです!) 父は、「腐った松茸は有毒だ!」と言っていました。

在宅医療 (その3)

2018-11-10 11:08:17 | 在宅医療
【甥が在宅医療専門の医師になりました】
 二十年ほど前のことですが、、医者の国家試験に合格した甥が、「これからは在宅医療を進めないと健康保険制度は破綻してしまう」と言いました。当時は、在宅医療専門の医師は殆どいなかったと思います。

 親戚や知り合いの医師に聞いてみると、「在宅医療は金にならない」が共通した意見でした。私は、金にならない事を承知で、在宅医療専門を目指すと言う甥を”志のある人間”だと見直しました。

 私は一介のサラリーマンで金は有りませんでした。 甥の活躍を陰ながら見守ること以外は出来ませんでしたが、幸いにも暫くして全国紙に甥の記事が出る様になりました。 インターネットが普及するとともに甥の記事が少しづつ多くなり、講演会の記事や、雑誌のインタビュー記事をインターネットで読んで活躍しているのを見守っています。

 近年インタビューで、含蓄のある事を言っています。『治療の提供でなく、「生活の持続性」を提供する』、 『生活保護のように国や自治体が助ける「公助」、これからは「自助」と「互助」を高めていくべきです』・・・

【マンションの一室で始めました】
 最初は金が無かったためと思いますが、甥はマンションの一室を借りて在宅医療を始めました。全くの試行錯誤だったろうと推察します。

 開業医が午後の休診時間に、在宅患者を往診するのが今でも一般的です。余程の事が無い限り夜中に往診を依頼するのはためらわれます。甥は、『在宅患者を往診するだけでなく、介護している家族の精神的/肉体的な負担を軽減する』ことにも心掛けている様です。 夜中に容態が少しおかしくなったら、家族は心配になり、電話を掛けたくなります。そのために、24時間電話を受け付けている様です。

 365日×24時間電話を受け付けて、電話の内容から必要と判断した時は夜中でも往診しています。20年掛けて、その様な対応が出来る体制の構築や,電子カルテシステムを工夫・導入した様です。

 是非とも、『新宿ヒロクリニック』、『医療法人三育会』、『英裕雄』で検索して見て下さい。

(余談) 甥のメールアドレスを知りたくて、夜の10時頃にクリニックに電話したら、在宅患者の往診中だと言う若い女性が親切に対応してくれました。現在はモバイルの時代ですから、クリニックで電話を受ける必要が無いのですね!

【新宿ヒロクリニック】
 2015年に新宿区大久保に”新宿ヒロクリニック”を移転して外来診療も手掛けている様です。グーグルアースで建物の外観を見る事が出来ました。クリニックを建てた会社のホームページで内部の写真も見えます。 軌道に乗っているのだと安心しました。

 現在のスタッフは85人と書いていました。このスタッフで在宅医療患者(450人)と外来患者に対応している様です。新たに450床の病院を設立しようとしたら、”医療法”の規定によって(私の試算では)200人以上のスタッフが必要になります。東京23区内に450床の病院を建設するためには莫大な費用が掛かると思われます。在宅医療が不可欠です。

【元気な内に意思表示を!】
 だいぶ前に読んだ新宿ヒロクリニックの記事の中に、在宅医療を始める前に、患者の受けたい医療を聞いて書くフォーマットがありました。

 まだ患者が元気な内に、「病状が悪化したら入院したいですか? 在宅医療のままでよいですか?」等々、細かく聞いて記録/保管する様になっていました。

 甥のプログに、幼児を抱えた母親が回復の見込みが無い難病になった話がありました。「息子が一人立ちするまで何が何でも生きる。そのためには呼吸器をつけることも、胃婁をすることも辞さない。たとえ何もできなくても息子のそばに居続けよう。」。高校三年生になった時、頑張り続けた母親が突然息をひきとったそうです。その時息子は、「僕は大丈夫だよ。お母さんから、命をもらったから、何があっても大丈夫」と言ったそうです。 人は色々です、本人や家族の希望が叶う様になるのが理想の社会だと思います。

 私は医者に作ってもらった、”私が治る見込みのない病気にかかり死期が迫ったときに以下の処置を希望します ・・・”と書いた小さなカードを財布に入れて持ち歩いています。妻と子供達にその諭旨を伝えています。

【甥のエピソード】
 この甥は私が大変世話になった、姉の長男です。(姉はもう30年以上前に無くなってしまいました。) 義理の兄と姉は子供を大事にしていましたが、友達の様にして育てました。毎年お盆に一週間ほど甥を連れて帰省しました。私はこの甥が可愛くて、一日中遊んでやりましたが、少し目を離すと昆虫や蛙を捕まえていました。蛇が大好きで、捕まえるとなかなか手放さず、困りました。

 甥がまだ中学生の頃に、東京から私の故郷の和歌山県の山奥まで自転車で、一人で行った事があります。この行動的な性格からか、近年は一人でインドやネパールに旅行しています。

 殆ど例の無い在宅医療専門医を目指したのは、義理の兄と姉の子供の育て方が影響しているのではと私は思います。私は甥を誇りに思っていますが、姉が生きていたら同じ思いでしょう!

 甥の祖父は英義彦と言います、ウイキペディアに簡単な記事があります。喜界島の出身で、義理の兄(甥の父)が良い所だったと言っていたのですが、一週間ほど夏に仕事で行ったことがあります。喜界島にはハブがいないので、仕事の間に探索しました。海で泳いだら熱帯魚がうようよいて感動しました。

 英義彦は米英仏独などに留学して、日大の法学部の教授になり、晩年には衆議院議員になりました。子供が四人いましたが、姉の家に集まると英語で談笑していましたので、義彦家では英語で話していたと推察します。義理の兄は、息子には英語を教えませんでした。

 甥の祖母は栃木(?)の旧家の出で、上野の音大の声楽科の第一期生だったと言っていました。(現在の東京藝術大学?) オペラを良く聞いていました。私も時々一緒に聞きましたが、オペラは好きになれませんでした。でも管弦楽は大好きになりました。

【看取りは貴重な経験です!】
 ”住井すゑ”が書いていた「子を持つて知る、子の恩」と言う言葉を時々噛みしめています。 子供のいない方には申し訳無い話しですが、子供から沢山楽しい事を貰い、自分が少しですが成長した様に思います。

 両親を引き取って、介護して、看取ったら、楽しい事は少なかったですが、人の一生が少し分かった様に思えます。貴重な経験でした。

 私には姉が五人いますが、皆、義理の親と同居したり介護したりせずにすみました。母が亡くなる三か月程前に、姉達に会いたいと言うので何回も連絡しましたが、病院の近くに住んでいた姉が、一度だけ見舞ってくれました。 姉達も死ぬ前に子供に会いたいと思うかもしれません。その時、母を見舞わなかった事を後悔するのでは?

在宅医療 (その2)

2018-11-03 11:23:44 | 在宅医療
 今回は、私の両親の介護や知り合いの介護の話しです。痴ほう症の在宅医療については、後日別に書くつもりです。

【私の父のケース】
 私の父と母は年老いても元気に野良仕事をしていました。父は80才を過ぎても時々山の見回りもしていました。二人とも耳が遠くなって、大声で話す様になりました。

 実家の近所に嫁いだ姉から、父と母が近所の人達の悪口を言って困っていると電話がありました。 父と母に連絡せずに最終のバスで田舎に帰り、家の横の道で様子を伺うことにしました。二人は大きな声で「○○家は、昔は貧乏で・・・」と大きな声で喋っていました。

 当時、私は家を物色中でしたので、キッチンを二か所設けた当初の計画より広い家を建てて、父と母を引き取る事にしました。父は84才、母は81才でした。

 明石海峡大橋が建設中で、近くの高台から毎日進捗状況を見るのが二人の楽しみな様でした。 私には息子が二人いますが、当時下の子は2才で可愛い盛りでしたが、抱っこしようとしませんでした。 私は70を過ぎて、父と母には2才の孫を抱っこする力が残っていなかったのだと分かりました。 最近家内から聞いた話では、私が会社に行っている時は、父は孫を膝に抱いて遊んでいたそうです。

 同居を始めて3年後に、父は急に体力が無くなり、ベットから出られ無くなりました。 一か月程すると食べられなくなり点滴だけで生きる様になってしまいました。長期出張から帰って父の様子を見に行くと、話せなくなり、体温がかなり低下していました。 医者が数日前から学会にいって、点滴していなかったのです。

 救急車を呼んで入院させたのですが、ベットに横たわるとすぐに。紙と筆記用具が欲しい様な仕草をしたので、渡すと判読が難しい字で「そとにでたい、かえりたい」と書いていました。数時間後に眠る様にして亡くなりました。 最後の親孝行と思い、家で通夜をしました。

(余談) 父は軍人で、戦争で沢山部下を死なせたので、陛下が崩御されたら殉死するとずっと言っていました。 幸いな事に、昭和天皇より数か月先に亡くなりました。 87才でした。

【私の母のケース】
 父が亡くなったあと、母は元気でした。95才くらいまでは、庭の草引きをしてくれ、自分の必要な物は自分で買って来ていました。その後、数分歩くのが難しくなり、家内が買い物をしていました。更に体力が無くなり、家内の作った料理を食べる様になりました。

 100才になった頃、部屋からトイレに行くのに介添えが必要になりました。休日は私が肩を貸してトイレに連れて行きましたが、殆ど筋肉が無くなった手で私の身体を掴みました。力の調節が出来なくなっていましたので、母が掴んだ所は必ず”青あざ”になりました。(物凄く痛かったです!)

 1年ほど在宅医療をしていた時に、親戚の方の紹介で電車で2時間ほど掛かる病院に入院出来ました。母は家には帰れなくなる事を知っていたと思いますが、病院に入る事に反対しませんでした。

 毎週、見舞いに行きましたが、母は少しずつ衰えて寝る時間が長くなりました。最後に見舞いに行った日に、先生が「もう目覚める事は無いと思います」と言われ、一旦帰りました。次の日の未明に、苦しむ事無く逝ったそうです。103才でした。

(余談) 父と母の墓は、二人が毎日眺めていた明石海峡大橋の見える高台の民間の墓地に有ります。 近年急に、お盆や彼岸の頃でも、草の茂った墓が増えて来ています。「もう十年もすると、この墓地は維持出来なくなるのでは?」と心配しています。

【兄弟が多いいと何とかなるものですね!】
 男二人、女二人の兄弟で、母親が在宅医療を受けている50才代の男性社員がいました。彼以外の兄弟は母親の近くに住んでいる様でしたが、彼の家は高速を使っても2時間ほど掛かりました。

 交代で、毎日誰かが母親の家に行く事になっていた様です。彼は、毎週土曜日の午後に一人で車で出掛け、一泊して、日曜日に帰って来ていました。 私が彼と仕事をしたのは5年間程でしたが、その前からそんな生活をしていた様です。今でも続けているかも知れません。

 仕事の出来る優秀な社員で、会社では疲れた様子は全く見られませんでした。高速代とガソリン代だけでも大変な出費だったでしょう。何時も感心していました。

【末期のがん患者】
 近所に夫婦で末期のがんの母親を介護されている方がおられました。 急に様態が悪化して、救急車を呼びました。 病院に駆けつけると、医者が「病院は治療して助かる人の為にあります。この患者は二三時間で亡くななれますから、連れて帰って下さい」と言われたそうです。 医者が言われた通りに、帰宅後すぐに亡くなられました。
 医者の主張はもっともですが、私でも救急車を呼んだと思います。貴方はどうですか?

【賃貸に住んでいる身寄りのない人】
 70才過ぎの身寄りの無い女性が、エレベーターの無い小さな賃貸マンションの二階に一人で住んでいます。足が悪くなって、階段を後ろ向きにしか降りられません。それでも、最近まで働いていました。

 階段を上り下りする時、大きな声で「おーいちーにーさん」と掛け声を掛けるので、私達は彼女を「オイチニイさん」と呼んでいます。

 彼女の話しでは、「年金が少なく、働かないと生活保護を受ける必要があるので、足を直したい」と言って、毎日階段の上り下りの運動をいています。 時々夜中の1時や2時に大きな声で「おーいちーにーさん」と叫ぶので、住人は大変迷惑しています。

 もう1年以上こんな状態で、少しづつ足は悪くなっている様に見えます。先日は階段で立てなくなり、住人に助けてもらった様です。 彼女は毎日心細いと思いますが、大家は「30年以上住んでいるから、家賃が払えなくても追い出さない」と言っています。 彼女は唯我独尊の毒舌家で他人の話しを最後まで聞かないタイプです。私は先日、彼女を安心させようと思い、大家の意向を伝えようとしたのですが、散々な目にあいました。

 彼女は生活保護を受けるのと、入院するのは絶対嫌だと話していますが、そんな訳にはいかないでしょう! これからどうするのかな?

【身寄りのない人の病院】 入院患者のほとんどが、ホームレスや一人住いの生活保護者だった方の完全介護の病院を知っています。医者や看護師さんが少なく、建物が古くて、綺麗でない以外は普通の病院と変わりません。

 ベッドは背上げが出来る介護ベッドで、殆どの患者さんはテレビをレンタルされています。 私はタバコを嗜むのですが、なんと!病院なのに喫煙室が有るのです。換気には問題があり、喫煙室に入ると煙が充満していますが、たいてい数人が雑談しています。外見では病人と見えない方も時々見掛けます。

 普通の病院に行くと、見舞いに来られたと思われる方を見掛けますが、この病院では殆ど有りません。 近年、同じ病気で3か月以上入院させてもらうのは難しくなりましたが、この病院にはそんなルールは無い様です。

 生活保護費を受け取る日に、何回か行ったことが有るのですが、多分病院の費用を天引きして渡されるのでしょう。食費も、洗濯代も光熱費も要りませんから、テレビのレンタル料やタバコ代は貰えるのでしょう。

 この病院に行くと、「日本の社会福祉って凄い!」と感心します。国に余裕がある間は、社会の底辺で暮らしてきた方に、最後は”安穏”な生活を送って頂くのは良い事だと思います。

【エピローグ
 ある医者から聞いた話ですが、老齢の患者さんが「先日、少し気分が悪くなってホームのベンチで休んでいたら、スーッと意識が無くなって、気が付いたら病院のベットに寝ていました。助けてくれなければ良かったのに。だって、次に死ぬ時に苦しまないとは限らないでしょう!」と言われたそうです。