【はじめに】
今回は、日本の民主主義化の歴史について書きます。
新型コロナが猛威を振るう様になって、「日本には今!、判断力/決断力/行動力/指導力の有る優秀な政治家が必要だ!」と思うようになりました。 民主主義国では議員を選挙で選びますが、選挙は「優秀な人間を選別する篩」の役割は出来ないのだと気付きました。
もう直ぐ衆議院議員選挙が行われます。自民党は「選挙の前に総裁選挙をするか?」まだ決めていない様です。「息子に跡を継がせる為に早期引退を決意した!」、「コロナが蔓延している今、総裁選挙をやるべきでは無い!」、「菅氏では選挙に勝てない!」・・・自民党の政治家達は身勝手な事を言っています。
ワクチンの輸入予約は、いくら何でも終わっていると推察するので、誰が総理大臣になっても接種は進むと思います。 自民党の議員諸君よ!、①経済の立て直し、②米中貿易貿易戦争への対応が、上手に出来る方を次の総理大臣に選んで頂きたい!
第4章 :日本の民主主義化
【刀狩り】
鎌倉時代から『刀狩り(かたながり)』は行われてきました。戦国時代に戦になると、農民に槍を持たせて戦わせていましたが、それでは農繁期に戦(いくさ)が出来ません。秀吉は、槍を持たせる下級武士集団を作って『兵農分離』政策を採用しました。1588年に『刀狩令』を布告しました。 国民の大半は農林漁業者でしたから、彼らから武器を取り上げることで「農民一揆を防止する意味も有った」と私は思います。
私が小学生の頃、隣の集落の家の納屋(物置小屋)から多量の刀と槍が出て来ました。母の実家には、鎌倉時代に作られた刀が一振り伝わっていました。農民達は、いざという時の為に武器を隠し持っていたのです。 日本では、何回も!何回も!一揆が起こりましたが、フランスの様に民主化を求める運動には発展しませんでした。
【幕末まで】
近年の学説では4世紀~7世紀半ばを『大和政権』の時代と呼んでいます。日本はまだ統一国家では無く、近畿地方の王達の連合体だってのです。 645年の大化の改新以降から『天皇』と言う称号が使われ始めました。天皇親政から次第に、貴族達が政治を行う様になりました。
源頼朝が幕府を開いた後、(色々・紆余曲折が有りましたが)武士が朝廷の権威を後ろ盾に国を統治する方向に進みました。 その仕上げが江戸幕府だったと思います。徳川家康は統一国家を諦めて、封建制の統治を選びました。
徳川本家が1757年に支配した領地の石高は、預地を含めても500万石程しか有りませんでした。但し、江戸、大阪、京都、堺、長崎は直轄地でしたから、商工業からの税収は莫大だったのでは?と思います。
江戸時代には商業が盛んになり、莫大な富を蓄えた商人が多くなりましたが、(ヨーロッパ諸国の様に)彼らが団結して参政権を要求する事は有りませんでした。 幕末に武士の一部が尊王攘夷運動を始めましたが、運動の中心にいた武士達が、「ヨーロッパ諸国の植民地にならない為には、ヨーロッパの工業技術を取り入れて→→国を豊かにして→→強力な軍隊を持つ必要が有る」と考え方を180度転換させたのだと思います。
【明治時代】
近代化/工業化を進める為には莫大な金が必要でした。徳川本家の資産を没収するだけでは足りません。1871年に廃藩置県を強引に実行して、封建制国家を→統一国家にしました。年貢や税金が国家に入る様にしたのです。 藩が無くなったので、家臣は世襲の武士で無くなり、『禄(ろく)』を失いました。新政府の職に就いた武士以外は失業してしまったのです。
明治政府は16歳にしかならない明治天皇が、直接統治する体制にしました。1869年(明治2年)に『参議』制度が復活し、薩長土肥の維新功労者が参議に就任しました。 明治になって『不要の長物』化していた武士の不満/抵抗を抑える為に、俗に『廃刀令』と呼ばれている命令を1876年に出しました。
翌年(1877年)、不満武士達・30,000人が西郷隆盛のもとに集まって西南戦争を起こしました。この戦争で両軍合わせて13,000人程が命を落としました。 「武士の不満と言う火種をほゞ完全に消せた」と言う点で、西南戦争は有意義だったと私は思います。
1889年に大日本帝国憲法を制定し、翌年に第1回衆議院選挙が行われ、日本は立憲君主国になりました。そして、日本は富国強兵を強力進めました。
【日清戦争】
日清戦争が始まったのは1894年(明治27年)です。明治になって日本軍の兵器は近代化されていましたが、清国は一昔も二昔も前の武器でした。私は、「戦争と言うより殺戮だった」と思います。日本軍は24万人、清国軍は63万人でしたが、戦死者は日本軍は1,100人ほど、清国軍は35,000人と言われています。
清国から莫大な賠償金を得て、台湾、澎湖諸島、遼東半島も獲得しました。(遼東半島は外圧によって返しました。)
【覇権主義国への仲間入り】
富国強兵に成功し/日清戦争に勝利した日本の政治家達は、「欧米の覇権主義国への仲間入りを果たせた」と判断したと想像します。 民主主義とは逆の方向に進んで、軍備を増強して→韓国併合→日中戦争→ノモンハン事件→第二次世界大戦へ。
ノモンハン事件(1939年)は、兵員数、近代兵器、軍需物資量の点で勝ったソビエト軍に、日本軍は散々な目に遭わされました。ソビエト軍側の損害も甚大で、戦闘中にソビエトは独ソ不可侵条約を締結した事も有って、日本軍に壊滅的な打撃を与えないで停戦しました。 日本軍はこの戦いで反省すべきでしたが、事件を有耶無耶にしてしまいました。 (私の父は将校として、ノモンハン事件に参戦し、金鵄勲章を得ました。)
【天皇の神格化から象徴天皇へ】
明治政府は16歳の青年を天皇に奉って、天皇の権威を借りて「我々は、正当な政治を行っている!」と主張しました。そして、次第に天皇を神格化する様になりました。 私の故郷では、全ての家に天皇と皇后の写真(御真影)を額縁に入れて飾っていました。1960年頃に、我が家も含めて・どの家からも御真影は無くなりました。
その頃(1960年頃)、国民の多くが、少しだけ「民主主義とは何か?」を理解出来る様になり、「天皇は現人神(あらひとがみ)では無く、国民の象徴だ!」と認識出来る様になったのでは?と思います。 思想教育は怖いです!民主主義の敵です。
【植民地の解放】
日本は、第二次世界大戦で東南アジアに侵攻しました。当時の東南アジアの国はタイを除いて、下記の様に植民地でした。 日本が、「それらの国々が植民地から抜け出す切っ掛けを作った」とゆう点では、日本は世界の民主主義の進歩に貢献したと言えると思います。
タイが植民地化されなかったのは、イギリスとフランスが、タイを緩衝地帯にして、両国の植民地が直接接しない様にする為でした。
① イギリスの植民地 :ビルマ(ミャンマー)、マラヤ(マレーシア)
★イギリスの保護領 :ブルネイ、サバ(マレーシアの一部)、サラワク(マレーシアの一部)
② フランスの植民地 :ベトナム、ラオス、カンボジア
③ アメリカの植民地 :フィリピン
④ オランダの植民地 :インドネシア
【敗戦と日本国憲法】
私がブログを書こうと思い立ったのは、「何時か、憲法についての自分の意見を公表したい」と考えていたためです。 退職して文書を書くことから遠ざかっていたので、一年ほどトレーニングを兼ねて色々書いた後に、次の投稿をしました。
★ gooブログ :『日本国憲法 (その1)~(その10)』・・・投稿・2019年4月27日~7月13日
日本の民主主義は民衆運動で得たものでは無く、GHQから押し付けられた『日本国憲法』がベースで、国民が『まちまち』に少しずつ獲得したのだと私は思います。 森喜朗氏(84歳)の年代の方の多くは時代遅れの民主主義者です。裕福な旧家に育った人の中には、結構若くても同じような方がおられます。
「九条を改正させない為に、憲法の一字一句の改正も阻止しよう!」と声高に叫ぶ人達がいます。私は、「九条以外で、現在の世界の常識に反する規定は、改正すべきだ」と考えています。例えば、『第二十四条』を改正して同性結婚を認めるべきです。多くの国が同性結婚を認める様になっています。ウイキペディア『同性結婚』で検索して見て下さい。
【労働争議と労働組合】
戦後、GHQは労働組合の結成を奨励し、1945年の末に『労働組合法』が成立しました。急激に労働組合が結成されました。共産党系と社会党系の労働組合が過激なストライキを打つ様になって、GHQは労働組合の運動を抑える様になりました。大手企業では次第に、御用組合が増えてきました。
現在、日本には3つのナショナルセンターが有ります。①組合員700万人の連合(日本労働組合総連合会)、②共産党系の組合員55万人の全労連(全国労働組合総連合)、③新社会党系の組合員10万人の全労協(全国労働組合連絡協議会)。
現在、従業員が100人未満の中小企業には殆ど労働組合は有りません。 戦後、中小企業にも労働組合が少し有った様ですが、1960年代に某野党の市会議員達が社長から金をもらって労働組合を潰したケースを何件か知っています。そして、中小企業の労働組合は無くなっていったのです。
日本の民主主義化に今まで労働組合は貢献してきました。 正社員の労働条件の向上要求だけでなく、今後はもっと「民主主義と自由主義の推進」を主張をして欲しいと思います。
【学生運動】
戦後の大学では個別に、学費値上げ反対運動や反戦運動が起こり、次第に活発にになり、1960年には『安保闘争』が広範囲で行われました。私が大学生だった1967年~70年頃は、学生運動家が教室を時々・占拠して、アジ演説をしていました。その内容は独断的で賛同出来るものでは有りませんでした。
内ゲバで殺しあって、勢力が急激に低下してしまいましたが、現在でも細々と存続しています。彼らの主張は「暴力革命によって、日本を政府の無い国家(無政府主義国家)に変えよう」だったと思います。沢山の血を流しましたが、民主主主義化には全く貢献しませんでした。
【再軍備】
朝鮮戦争が勃発した年(1950年)に、アメリカの要請によって警察予備隊を設けました。→安保隊(1952年)→自衛隊(1964年)へと軍備を増強して来ました。 アメリカが「この程度の軍隊にしろ」、日本政府は「このくらいで許して下さい」と言う様な交渉を毎年・続けて、今日に至っています。
【衆議院の選挙制度の変遷】
1889年に衆議院議員選挙法を制定し、小選挙区制が採用され→大選挙区制(1900年~)→小選挙区制(1919年~)→中選挙区制(1925年~)・・・敗戦
敗戦後の1945年には大選挙区制を採用し→中選挙区制(1947年~)→小選挙区(1956年~)→小選挙区・比例代表並立制(1991年~現在)
100年間ほど色々な選挙制度を試しました。この30年間は『小選挙区・比例代表並立制』に落ち着いています。 民主主義と選挙制度には密接な関係が有るので、(選挙制度は国会の多数決で変更できますが、)与党の目先の損得で決めてはいけないと思います。
【金権政治】
戦後・長い間、国家と地方公共団体が発注する物品費と工事費の平均約3%が、『表の金』だけで無く『裏の金』として政治家に流れました。一般会計だけでは無く、特別会計の予算も含めるのですから、想像を絶する金額だったのです。それが表に出てきたのが、1976年の『ロッキード事件』、1979年の『ダグラス・グラマン事件』です。
当時・私は官庁に機械を販売する部隊の設計担当者でした。 官庁と取引する企業は、業種毎に談合団体を作り、談合して十分な利益を出して政治家に渡す金を工面していました。 種々のルールが有って、私の様な設計担当者でもルールを熟知する必要が有りました。 金額をはじく時に、案件毎に何パーセント裏金が必要か?加味しました。 どういうルートで金が流れるのか?自然に分かってきました。 与党の政治家だけでは無く、地方によっては、野党、暴力団、解放同盟の支部のお偉方にも流れました。
政治と金の問題は、私さえ知っていたので、検察や古手のジャーナリストが知らない分けが有りません。『ロッキード事件』と『ダグラス・グラマン事件』が表面化したのは、アメリカが言うことを聞かなくなった日本の政治家達に、「お前ら!叩けば埃が出る輩だ、勝手な事をすると証拠をリークするぞ!」と脅したのだと思いました。 結局、この二つの事件は有耶無耶になって、金権政治は無くなりませんでした。 (金権政治は民主主義の敵ですが、この敵は20世紀の末までは元気に生き続けた様に思います。)
河井夫妻の買収事件が報道されて、「未だに金をばら撒いているのか!」と呆れてしまいました。2006年に始まった『政党交付金制度』で、この手の犯罪は無くなったと私は勘違いしていました。
【経済の再興と発展、そして失われた20年】
第二次世界大戦で工業地域は爆撃され建物は破壊されましたが、結構・生産設備は残っていました。然し、原料や燃料を輸入する金が無く、工業製品を作っても内需が少なく、輸出も難しくなっていました。
戦後、①朝鮮特需(1950年~55年)、②ベトナム特需(1954年~70年)と③賠償特需が有り、工業が発展し/成長しました。 サンフランシスコ平和条約で、日本は工業生産品(機械/装置など)と役務での賠償が認められました。 私が入社した時、賠償特需は終わっていましたが、会社は・建物を修復して、破壊を免れた工作機械で機械/装置を作り、東南アジア諸国に納入した様でした。 そんなわけで、英語と韓国語が話せるブルーカラーが沢山いました。
日本の工業技術は進歩して、設備も増強され輸出大国になり、バブル景気(1986年~91年)を謳歌しました。バブルが弾けて→『失われた20年』が続きました。不景気/デフレの問題に有効な対策が出来る総理大臣が登場しませんでした。『失われた20年』の間の首相は、次に示すように『14人』もいました。「日本の政治が、まだまだ成長していない事を露呈した」のだと私は思います。
『失われた20年』の総理大臣 :海部俊樹(1989年~91年)→宮澤喜一(91年~93年)→細川護熙(93年~94年)→羽田孜(94年)→村山富市(94年~96年)→橋本龍太郎(96年~98年)→小渕恵三(98年~2000年)→森喜朗(00年~01年)→小泉純一郎(01年~06年)→安倍晋三(06年~07年)→福田康夫(07年~08年)→麻生太郎(08年~09年)→鳩山由紀夫(09年~10年)→菅直人(10年~11年)
『アベノミクス』を旗印にして、安倍氏が再登場しましたが、掛け声だけで終わった様に思います。 民間企業が頑張ったので輸出は好調でした。 2005年頃から輸入が増加し、11年~15年は貿易収支は赤字になったので心配でしたが、その後の貿易収支は適当な値で推移しています。 (近年の国会は、スキャンダルや失言の追及に時間を割いており、経済政策なんか殆ど議論していません。経済が良くなったのは政策・政治が良かったからでは決して有りません。)
【家業としての政治】
日本には「家柄を重んじる伝統」が現在でも残っています。 「家柄の良い人には悪人はいない! 私達の為に尽くしてくれる」と夢想する人が多いいのでしょう?! その為に日本には二世議員が多いいのだと思います。 自民党だけでなく野党にも沢山二世議員がいます。ウイキペディア『親族関係にある政治家一覧』で検索して見て下さい。
判断力/決断力/行動力/指導力の有る人を国会議員に選べる様にする為には、選挙制度を変えても駄目だと思います。 『地盤・看板・鞄』を相続税を払わずに受け継げる事が問題です。国会議員の子供は、親の選挙区からは立候補出来ない様にすべきです。
『家業としての政治家』を撲滅する運動を始めるべきです!
(余談 :吉田茂) 吉田茂も二世議員です。土佐藩出身の政治家だった竹内綱の五男です。裕福な吉田家に養子に入ったので吉田茂になりました。外交官でしたが、敗戦後貴族議員に登用され、総理大臣になりました。戦後に初めて行われた衆議院議員選挙に立候補して当選し、総理大臣を続けました。吉田茂は父親の地盤を引き継いではいません。
【日本の民主主義化の歴史】
★ 江戸幕府 :1603年~1867年(大政奉還)
★ 天皇親政復活? :1868年=明治維新・・・大日本帝国
★ 廃藩置県 :1871年
★ 廃刀令 :1876年
★ 西南戦争 :1877年
★ 大日本帝国憲法 :1889年
★ 第1回衆議院選挙 :1890年 ・・・小選挙区制、25歳以上の男子で15円以上の直接国税(有権者は人口の1.1%)
★ 第1回帝国議会 :1890年 貴族院と衆議院
★ 日清戦争 :1894年~95年
★ 第7回衆議院選挙 :1902年 ・・・大選挙区制、25歳以上の男子で10円以上の直接国税(有権者は人口の2.2%)
★ 日露戦争 :1904年~05年
★ 韓国併合 :1910年~45年
◎◎◎ 1919年1月『職業としての政治』講演 ◎◎◎
★ 第14回衆議院選挙 :1919年 ・・・小選挙区制、25歳以上の男子で3円以上の直接国税(有権者は人口の5.5%)
★ 第16回衆議院選挙 :1928年 ・・・中選挙区制、25歳以上の男子の普通選挙(有権者は人口の20%以上)
★ 日中戦争 :1937年~45年
★ ノモンハン事件 :1939年・・・ソビエトとの国境紛争
★ 太平洋戦争 :1941年~45年
★ 敗戦 :1945年
★ GHQの駐留 :1945年~52年
★ 第22回衆議院議員総選挙 :1946年4月 大選挙区制、男女普通選挙制度、男女20歳以上、被選挙権は25歳以上
★ 日本国憲法 :1946年に公布→→象徴天皇
★ 貴族院の廃止 :1947年→→参議院
★ レッドパージ :1950年
★ 公職選挙法 :1950年
★ 朝鮮戦争 :1950年~53年・・・朝鮮特需
★ ロッキード事件 :1976年
★ ダグラス・グラマン事件 :1979年
★ バブル景気 :1986年~91年→→バブル崩壊→→失われた20年
★ 衆議院選挙改革 :1994年 小選挙区比例代表並立制
★ 政党交付金制度 :2006年~
★ 民主党政権 :2009年~11年
今回は、日本の民主主義化の歴史について書きます。
新型コロナが猛威を振るう様になって、「日本には今!、判断力/決断力/行動力/指導力の有る優秀な政治家が必要だ!」と思うようになりました。 民主主義国では議員を選挙で選びますが、選挙は「優秀な人間を選別する篩」の役割は出来ないのだと気付きました。
もう直ぐ衆議院議員選挙が行われます。自民党は「選挙の前に総裁選挙をするか?」まだ決めていない様です。「息子に跡を継がせる為に早期引退を決意した!」、「コロナが蔓延している今、総裁選挙をやるべきでは無い!」、「菅氏では選挙に勝てない!」・・・自民党の政治家達は身勝手な事を言っています。
ワクチンの輸入予約は、いくら何でも終わっていると推察するので、誰が総理大臣になっても接種は進むと思います。 自民党の議員諸君よ!、①経済の立て直し、②米中貿易貿易戦争への対応が、上手に出来る方を次の総理大臣に選んで頂きたい!
第4章 :日本の民主主義化
【刀狩り】
鎌倉時代から『刀狩り(かたながり)』は行われてきました。戦国時代に戦になると、農民に槍を持たせて戦わせていましたが、それでは農繁期に戦(いくさ)が出来ません。秀吉は、槍を持たせる下級武士集団を作って『兵農分離』政策を採用しました。1588年に『刀狩令』を布告しました。 国民の大半は農林漁業者でしたから、彼らから武器を取り上げることで「農民一揆を防止する意味も有った」と私は思います。
私が小学生の頃、隣の集落の家の納屋(物置小屋)から多量の刀と槍が出て来ました。母の実家には、鎌倉時代に作られた刀が一振り伝わっていました。農民達は、いざという時の為に武器を隠し持っていたのです。 日本では、何回も!何回も!一揆が起こりましたが、フランスの様に民主化を求める運動には発展しませんでした。
【幕末まで】
近年の学説では4世紀~7世紀半ばを『大和政権』の時代と呼んでいます。日本はまだ統一国家では無く、近畿地方の王達の連合体だってのです。 645年の大化の改新以降から『天皇』と言う称号が使われ始めました。天皇親政から次第に、貴族達が政治を行う様になりました。
源頼朝が幕府を開いた後、(色々・紆余曲折が有りましたが)武士が朝廷の権威を後ろ盾に国を統治する方向に進みました。 その仕上げが江戸幕府だったと思います。徳川家康は統一国家を諦めて、封建制の統治を選びました。
徳川本家が1757年に支配した領地の石高は、預地を含めても500万石程しか有りませんでした。但し、江戸、大阪、京都、堺、長崎は直轄地でしたから、商工業からの税収は莫大だったのでは?と思います。
江戸時代には商業が盛んになり、莫大な富を蓄えた商人が多くなりましたが、(ヨーロッパ諸国の様に)彼らが団結して参政権を要求する事は有りませんでした。 幕末に武士の一部が尊王攘夷運動を始めましたが、運動の中心にいた武士達が、「ヨーロッパ諸国の植民地にならない為には、ヨーロッパの工業技術を取り入れて→→国を豊かにして→→強力な軍隊を持つ必要が有る」と考え方を180度転換させたのだと思います。
【明治時代】
近代化/工業化を進める為には莫大な金が必要でした。徳川本家の資産を没収するだけでは足りません。1871年に廃藩置県を強引に実行して、封建制国家を→統一国家にしました。年貢や税金が国家に入る様にしたのです。 藩が無くなったので、家臣は世襲の武士で無くなり、『禄(ろく)』を失いました。新政府の職に就いた武士以外は失業してしまったのです。
明治政府は16歳にしかならない明治天皇が、直接統治する体制にしました。1869年(明治2年)に『参議』制度が復活し、薩長土肥の維新功労者が参議に就任しました。 明治になって『不要の長物』化していた武士の不満/抵抗を抑える為に、俗に『廃刀令』と呼ばれている命令を1876年に出しました。
翌年(1877年)、不満武士達・30,000人が西郷隆盛のもとに集まって西南戦争を起こしました。この戦争で両軍合わせて13,000人程が命を落としました。 「武士の不満と言う火種をほゞ完全に消せた」と言う点で、西南戦争は有意義だったと私は思います。
1889年に大日本帝国憲法を制定し、翌年に第1回衆議院選挙が行われ、日本は立憲君主国になりました。そして、日本は富国強兵を強力進めました。
【日清戦争】
日清戦争が始まったのは1894年(明治27年)です。明治になって日本軍の兵器は近代化されていましたが、清国は一昔も二昔も前の武器でした。私は、「戦争と言うより殺戮だった」と思います。日本軍は24万人、清国軍は63万人でしたが、戦死者は日本軍は1,100人ほど、清国軍は35,000人と言われています。
清国から莫大な賠償金を得て、台湾、澎湖諸島、遼東半島も獲得しました。(遼東半島は外圧によって返しました。)
【覇権主義国への仲間入り】
富国強兵に成功し/日清戦争に勝利した日本の政治家達は、「欧米の覇権主義国への仲間入りを果たせた」と判断したと想像します。 民主主義とは逆の方向に進んで、軍備を増強して→韓国併合→日中戦争→ノモンハン事件→第二次世界大戦へ。
ノモンハン事件(1939年)は、兵員数、近代兵器、軍需物資量の点で勝ったソビエト軍に、日本軍は散々な目に遭わされました。ソビエト軍側の損害も甚大で、戦闘中にソビエトは独ソ不可侵条約を締結した事も有って、日本軍に壊滅的な打撃を与えないで停戦しました。 日本軍はこの戦いで反省すべきでしたが、事件を有耶無耶にしてしまいました。 (私の父は将校として、ノモンハン事件に参戦し、金鵄勲章を得ました。)
【天皇の神格化から象徴天皇へ】
明治政府は16歳の青年を天皇に奉って、天皇の権威を借りて「我々は、正当な政治を行っている!」と主張しました。そして、次第に天皇を神格化する様になりました。 私の故郷では、全ての家に天皇と皇后の写真(御真影)を額縁に入れて飾っていました。1960年頃に、我が家も含めて・どの家からも御真影は無くなりました。
その頃(1960年頃)、国民の多くが、少しだけ「民主主義とは何か?」を理解出来る様になり、「天皇は現人神(あらひとがみ)では無く、国民の象徴だ!」と認識出来る様になったのでは?と思います。 思想教育は怖いです!民主主義の敵です。
【植民地の解放】
日本は、第二次世界大戦で東南アジアに侵攻しました。当時の東南アジアの国はタイを除いて、下記の様に植民地でした。 日本が、「それらの国々が植民地から抜け出す切っ掛けを作った」とゆう点では、日本は世界の民主主義の進歩に貢献したと言えると思います。
タイが植民地化されなかったのは、イギリスとフランスが、タイを緩衝地帯にして、両国の植民地が直接接しない様にする為でした。
① イギリスの植民地 :ビルマ(ミャンマー)、マラヤ(マレーシア)
★イギリスの保護領 :ブルネイ、サバ(マレーシアの一部)、サラワク(マレーシアの一部)
② フランスの植民地 :ベトナム、ラオス、カンボジア
③ アメリカの植民地 :フィリピン
④ オランダの植民地 :インドネシア
【敗戦と日本国憲法】
私がブログを書こうと思い立ったのは、「何時か、憲法についての自分の意見を公表したい」と考えていたためです。 退職して文書を書くことから遠ざかっていたので、一年ほどトレーニングを兼ねて色々書いた後に、次の投稿をしました。
★ gooブログ :『日本国憲法 (その1)~(その10)』・・・投稿・2019年4月27日~7月13日
日本の民主主義は民衆運動で得たものでは無く、GHQから押し付けられた『日本国憲法』がベースで、国民が『まちまち』に少しずつ獲得したのだと私は思います。 森喜朗氏(84歳)の年代の方の多くは時代遅れの民主主義者です。裕福な旧家に育った人の中には、結構若くても同じような方がおられます。
「九条を改正させない為に、憲法の一字一句の改正も阻止しよう!」と声高に叫ぶ人達がいます。私は、「九条以外で、現在の世界の常識に反する規定は、改正すべきだ」と考えています。例えば、『第二十四条』を改正して同性結婚を認めるべきです。多くの国が同性結婚を認める様になっています。ウイキペディア『同性結婚』で検索して見て下さい。
【労働争議と労働組合】
戦後、GHQは労働組合の結成を奨励し、1945年の末に『労働組合法』が成立しました。急激に労働組合が結成されました。共産党系と社会党系の労働組合が過激なストライキを打つ様になって、GHQは労働組合の運動を抑える様になりました。大手企業では次第に、御用組合が増えてきました。
現在、日本には3つのナショナルセンターが有ります。①組合員700万人の連合(日本労働組合総連合会)、②共産党系の組合員55万人の全労連(全国労働組合総連合)、③新社会党系の組合員10万人の全労協(全国労働組合連絡協議会)。
現在、従業員が100人未満の中小企業には殆ど労働組合は有りません。 戦後、中小企業にも労働組合が少し有った様ですが、1960年代に某野党の市会議員達が社長から金をもらって労働組合を潰したケースを何件か知っています。そして、中小企業の労働組合は無くなっていったのです。
日本の民主主義化に今まで労働組合は貢献してきました。 正社員の労働条件の向上要求だけでなく、今後はもっと「民主主義と自由主義の推進」を主張をして欲しいと思います。
【学生運動】
戦後の大学では個別に、学費値上げ反対運動や反戦運動が起こり、次第に活発にになり、1960年には『安保闘争』が広範囲で行われました。私が大学生だった1967年~70年頃は、学生運動家が教室を時々・占拠して、アジ演説をしていました。その内容は独断的で賛同出来るものでは有りませんでした。
内ゲバで殺しあって、勢力が急激に低下してしまいましたが、現在でも細々と存続しています。彼らの主張は「暴力革命によって、日本を政府の無い国家(無政府主義国家)に変えよう」だったと思います。沢山の血を流しましたが、民主主主義化には全く貢献しませんでした。
【再軍備】
朝鮮戦争が勃発した年(1950年)に、アメリカの要請によって警察予備隊を設けました。→安保隊(1952年)→自衛隊(1964年)へと軍備を増強して来ました。 アメリカが「この程度の軍隊にしろ」、日本政府は「このくらいで許して下さい」と言う様な交渉を毎年・続けて、今日に至っています。
【衆議院の選挙制度の変遷】
1889年に衆議院議員選挙法を制定し、小選挙区制が採用され→大選挙区制(1900年~)→小選挙区制(1919年~)→中選挙区制(1925年~)・・・敗戦
敗戦後の1945年には大選挙区制を採用し→中選挙区制(1947年~)→小選挙区(1956年~)→小選挙区・比例代表並立制(1991年~現在)
100年間ほど色々な選挙制度を試しました。この30年間は『小選挙区・比例代表並立制』に落ち着いています。 民主主義と選挙制度には密接な関係が有るので、(選挙制度は国会の多数決で変更できますが、)与党の目先の損得で決めてはいけないと思います。
【金権政治】
戦後・長い間、国家と地方公共団体が発注する物品費と工事費の平均約3%が、『表の金』だけで無く『裏の金』として政治家に流れました。一般会計だけでは無く、特別会計の予算も含めるのですから、想像を絶する金額だったのです。それが表に出てきたのが、1976年の『ロッキード事件』、1979年の『ダグラス・グラマン事件』です。
当時・私は官庁に機械を販売する部隊の設計担当者でした。 官庁と取引する企業は、業種毎に談合団体を作り、談合して十分な利益を出して政治家に渡す金を工面していました。 種々のルールが有って、私の様な設計担当者でもルールを熟知する必要が有りました。 金額をはじく時に、案件毎に何パーセント裏金が必要か?加味しました。 どういうルートで金が流れるのか?自然に分かってきました。 与党の政治家だけでは無く、地方によっては、野党、暴力団、解放同盟の支部のお偉方にも流れました。
政治と金の問題は、私さえ知っていたので、検察や古手のジャーナリストが知らない分けが有りません。『ロッキード事件』と『ダグラス・グラマン事件』が表面化したのは、アメリカが言うことを聞かなくなった日本の政治家達に、「お前ら!叩けば埃が出る輩だ、勝手な事をすると証拠をリークするぞ!」と脅したのだと思いました。 結局、この二つの事件は有耶無耶になって、金権政治は無くなりませんでした。 (金権政治は民主主義の敵ですが、この敵は20世紀の末までは元気に生き続けた様に思います。)
河井夫妻の買収事件が報道されて、「未だに金をばら撒いているのか!」と呆れてしまいました。2006年に始まった『政党交付金制度』で、この手の犯罪は無くなったと私は勘違いしていました。
【経済の再興と発展、そして失われた20年】
第二次世界大戦で工業地域は爆撃され建物は破壊されましたが、結構・生産設備は残っていました。然し、原料や燃料を輸入する金が無く、工業製品を作っても内需が少なく、輸出も難しくなっていました。
戦後、①朝鮮特需(1950年~55年)、②ベトナム特需(1954年~70年)と③賠償特需が有り、工業が発展し/成長しました。 サンフランシスコ平和条約で、日本は工業生産品(機械/装置など)と役務での賠償が認められました。 私が入社した時、賠償特需は終わっていましたが、会社は・建物を修復して、破壊を免れた工作機械で機械/装置を作り、東南アジア諸国に納入した様でした。 そんなわけで、英語と韓国語が話せるブルーカラーが沢山いました。
日本の工業技術は進歩して、設備も増強され輸出大国になり、バブル景気(1986年~91年)を謳歌しました。バブルが弾けて→『失われた20年』が続きました。不景気/デフレの問題に有効な対策が出来る総理大臣が登場しませんでした。『失われた20年』の間の首相は、次に示すように『14人』もいました。「日本の政治が、まだまだ成長していない事を露呈した」のだと私は思います。
『失われた20年』の総理大臣 :海部俊樹(1989年~91年)→宮澤喜一(91年~93年)→細川護熙(93年~94年)→羽田孜(94年)→村山富市(94年~96年)→橋本龍太郎(96年~98年)→小渕恵三(98年~2000年)→森喜朗(00年~01年)→小泉純一郎(01年~06年)→安倍晋三(06年~07年)→福田康夫(07年~08年)→麻生太郎(08年~09年)→鳩山由紀夫(09年~10年)→菅直人(10年~11年)
『アベノミクス』を旗印にして、安倍氏が再登場しましたが、掛け声だけで終わった様に思います。 民間企業が頑張ったので輸出は好調でした。 2005年頃から輸入が増加し、11年~15年は貿易収支は赤字になったので心配でしたが、その後の貿易収支は適当な値で推移しています。 (近年の国会は、スキャンダルや失言の追及に時間を割いており、経済政策なんか殆ど議論していません。経済が良くなったのは政策・政治が良かったからでは決して有りません。)
【家業としての政治】
日本には「家柄を重んじる伝統」が現在でも残っています。 「家柄の良い人には悪人はいない! 私達の為に尽くしてくれる」と夢想する人が多いいのでしょう?! その為に日本には二世議員が多いいのだと思います。 自民党だけでなく野党にも沢山二世議員がいます。ウイキペディア『親族関係にある政治家一覧』で検索して見て下さい。
判断力/決断力/行動力/指導力の有る人を国会議員に選べる様にする為には、選挙制度を変えても駄目だと思います。 『地盤・看板・鞄』を相続税を払わずに受け継げる事が問題です。国会議員の子供は、親の選挙区からは立候補出来ない様にすべきです。
『家業としての政治家』を撲滅する運動を始めるべきです!
(余談 :吉田茂) 吉田茂も二世議員です。土佐藩出身の政治家だった竹内綱の五男です。裕福な吉田家に養子に入ったので吉田茂になりました。外交官でしたが、敗戦後貴族議員に登用され、総理大臣になりました。戦後に初めて行われた衆議院議員選挙に立候補して当選し、総理大臣を続けました。吉田茂は父親の地盤を引き継いではいません。
【日本の民主主義化の歴史】
★ 江戸幕府 :1603年~1867年(大政奉還)
★ 天皇親政復活? :1868年=明治維新・・・大日本帝国
★ 廃藩置県 :1871年
★ 廃刀令 :1876年
★ 西南戦争 :1877年
★ 大日本帝国憲法 :1889年
★ 第1回衆議院選挙 :1890年 ・・・小選挙区制、25歳以上の男子で15円以上の直接国税(有権者は人口の1.1%)
★ 第1回帝国議会 :1890年 貴族院と衆議院
★ 日清戦争 :1894年~95年
★ 第7回衆議院選挙 :1902年 ・・・大選挙区制、25歳以上の男子で10円以上の直接国税(有権者は人口の2.2%)
★ 日露戦争 :1904年~05年
★ 韓国併合 :1910年~45年
◎◎◎ 1919年1月『職業としての政治』講演 ◎◎◎
★ 第14回衆議院選挙 :1919年 ・・・小選挙区制、25歳以上の男子で3円以上の直接国税(有権者は人口の5.5%)
★ 第16回衆議院選挙 :1928年 ・・・中選挙区制、25歳以上の男子の普通選挙(有権者は人口の20%以上)
★ 日中戦争 :1937年~45年
★ ノモンハン事件 :1939年・・・ソビエトとの国境紛争
★ 太平洋戦争 :1941年~45年
★ 敗戦 :1945年
★ GHQの駐留 :1945年~52年
★ 第22回衆議院議員総選挙 :1946年4月 大選挙区制、男女普通選挙制度、男女20歳以上、被選挙権は25歳以上
★ 日本国憲法 :1946年に公布→→象徴天皇
★ 貴族院の廃止 :1947年→→参議院
★ レッドパージ :1950年
★ 公職選挙法 :1950年
★ 朝鮮戦争 :1950年~53年・・・朝鮮特需
★ ロッキード事件 :1976年
★ ダグラス・グラマン事件 :1979年
★ バブル景気 :1986年~91年→→バブル崩壊→→失われた20年
★ 衆議院選挙改革 :1994年 小選挙区比例代表並立制
★ 政党交付金制度 :2006年~
★ 民主党政権 :2009年~11年