【はじめに】
最近、三浦瑠璃(るり)氏が、『村八分』の用法を間違えて、批判されました。三浦氏は、私と考え方は少し違いますが、勉強家なので尊敬しています。 それで、擁護する事にしました。
70歳代の複数の女性に、『村八分』について聞いてみましたが、言葉としては知っていましたが、皆さん意味は理解されていませんでした。三浦氏は、まだ41歳ですから『村八分』を、朧げ(おぼろげ)な知識として持っていても恥ずかしい事では有りません。
コロナが猛威を振るいだして、日本の葬儀や法事は簡略化しています。「コロナが収まっても、この風潮は元には戻らないのでは?」、「簡素化して、変質するのでは?」と私は予想しています。 忘却の彼方になる前に、私の経験した葬儀や法事について書いておきます。
【私の経験】
私は山奥の村で生まれ育ちました。 小学校に入学した頃(1955年頃)に隣の集落で『村八分』になった家が有りました。 暫くして、その家の誰かが亡くなりました。 ドンナ葬式になるのか?興味津々だったので、見に行ったのです。
隣近所の奥さん達が、料理を作っていて→→坊さんが来られて→→集落の墓地に葬られ→→普通の葬儀が営まれました。 その後、不義理は水に流されて、村八分は解除されました。結局、一、二年間の村八分でした。
【村八分】
村八分の説明は、「❶火事は延焼の恐れが有るので、皆で協力して消火活動した。 ❷死体を放置すると疫病が発生するから、皆で協力して埋葬した」となっています。
昔は、死体を大きな樽に入れて、大きな/深い穴を掘って埋めました。結構沢山の人が協力する必要が有りました。 各集落の墓は、少し高い所に設けられていたので、棺桶を担いで上がるのにも協力が必要でした。
私の独断と偏見の見立てですが、日本人は、「死んだら、誰でも『神』になる」と言う考え方を持っていますから、村八分になっていた人でも丁重に葬ったのだと思います。
【村七分】
棚田で稲を育てる為には、水田用の用水路が必要です。 故郷では、大昔から幾つかの集落が協力して、長い!長い!用水路を維持・管理していました。 我が家の田圃への用水路は、川上の大きな谷の水を、全長6キロメートル以上も有る用水路から取水していました。
村八分になった家の田圃でも稲は育っていたので、「用水路の利用は許容されていた」のだと思いました。 従って、私の故郷は『村七分』が正しかったと思います。
ドンナニ不義理な事をやったとしても、村七分になった家の住人を、生まれた時から知っていましたから、飢えて死ぬような事になるのは避けたかったのだと思います。
【辻元氏と蓮舫氏の擁護】
辻元清美氏と蓮舫氏が、「安倍晋三氏の国葬には参列しない」と表明した時に、三浦氏が「村八分だ」と言ってしまいました。
岸田首相は、岸/安倍一族と統一教会の問題は全く頭に無く、「安倍晋三氏の死を政治的に利用してやろう!」と安易に考えたのだと想像します。 一方、辻元氏と蓮舫氏が、早々と「国葬には参列しない」と表明して、彼女たちの支持者に政治的な意思を表明しても批判出来ません。
彼女達の言動は、「死者を鞭打つ行為だ!」と批判する方がおられると思います。然し、私は岸田首相、辻元氏、蓮舫氏の御三方は『同じ穴の狢(むじな)』だと思います。
▲▲▲ 葬儀と法事について ▲▲▲
【頼母子講】
『無尽講(むじんこう)』や『頼母子講(たのもしこう)』は死語になってしまいましたが、私が小学校の低学年(1955年)頃までは、集落でやっていました。 お金を持ち寄って、工面し合う制度です。
故郷の葬式は、一種の頼母子講でした。 近年は全国的に香典を辞退するケースが増加しています。 昔は、香典帳に、頂いた方の氏名と香典の額を記入して→→大事に保管して→→お返しの額を決め→→頂いた方の家で葬儀が有ると→→香典帳を取り出して『香典の額』を決めました。
葬儀の費用は全て頂いた香典で賄えて、必ず余った様です。
(余談 :香典) 私が大学生の(1967年)夏休みに、大好きだった祖母が亡くなりました。叔父の一人と私で受け付けと香典の集計係をしました。結構・盛大な葬儀でしたが、ビックリする程・香典を頂いたので沢山余りました。 空の香典袋が必ず有るそうです。 それで、開封は必ず二人以上でするのです。 祖母の時も二、三人は入れ忘れていました。 会社の同僚の親の葬儀が神戸市で有り、香典集計係を頼まれた時も空の香典袋が有りました。
【葬儀の参列者】
コロナが蔓延する様になって、家族葬が増えてきました。家族葬は遺族から参列依頼が有った人以外は葬儀に出席出来ません。 私の町内で葬儀が有ると、役員二人が香典を持って参列する事になっていますが、家族葬の時は式場には入れてもらえない様です。
(余談 :法事) 一回忌等の法事には、呼ばれた人だけが参列するのが全国的な風習だと思います。 私の母は103歳で逝ったのですが、生前に母に葬儀や法事の案内が来ると私が代理で出席しました。
叔父の一人が亡くなった後、子供達が仲違いして、娘達が団結して祖母を強引に連れていってしまい、何処で暮らしているか?分からなくなってしいました。 叔母の葬儀の連絡が無く、一回忌の法事の場所も日時の連絡も有りませんでした。 叔父の墓が某寺に有るのを知っていたので、私は叔母が好きだったビールを持っていって、草引きの後で、飲みました。
私が高校性だった頃、遊びに行くと(叔父は酒が飲めなかったので)叔母と二人で雑談しながら何時もビールを飲みました。 今でも、帰省して墓の近くの道を通る時は、必ずビールを持っていって墓石の前で飲みます。
【生臭坊主】
義母は信心深い方でした、元気だった頃、毎年の盆には坊さんに来て頂き、そして別に、毎年数万円寺に寄進していました。寺を建て替えた時は、義兄に内緒で百万円以上寄進しました。 坊さんは、気難しく、金にうるさく!、酒と肉が好きで、糖尿病でした。周囲では、『生臭坊主』と陰口を叩いていました。
義母の初盆の時、「頼みに来たのが遅い!」と臍を曲げてしまいました。「今年が初盆だ」と坊さんは知っているはずですから、「幾ら何でも、来てくれるだろう」と待っていましたが、午後7時くらいになっても来てくれませんでした。 仕方が無いので、急遽、御詠歌クラブの人達に来て頂いて初盆をしました。
【見栄っ張りの葬儀】
(社員百人程の中小企業に出向していた時、)古くからの住宅街に実家が有った会社の同僚の父親が亡くなり、実家の近くの寺に付属していた葬儀場で葬儀が行われました。会社の命令で私も含めて社員30名程が参列しました。
親族の席の後ろに100席近いスペースが設けられていて、国会議員、知事、府会議員、市長、市議会議員の席でした。 10人程しか座っていませんでした。(私達はその後方に座りました。)
焼香が始まると、親族の後で「国会議員○○殿」・・・延々と読み上げました。殆ど参列していませんでした。 弔電を読み始めましたが、氏名、肩書、弔電の全文を読むのです。(普通は、以下同文と省略しますよね!) 殆どの葬儀は1時間程で終わりますが、この時は3時間近く続いたと記憶しています。
【迷惑な遺言】
2005年頃の夏の暑い日に、田舎に住んでいた母の妹の葬儀が有りました。土葬にする様に遺言していました。墓は県道から幅が1メートル程しかない急な山道を300メートル程登った所に有りました。 墓は土が殆ど無く、石を敷き詰めた線路状でした。簡単には穴が掘れなかったのです。
従兄弟の一人が土建業を営んでいたので、若い社員を10人程連れて来ていました。彼らは、先に大きな穴を掘ってくれていて、交代で棺を担ぎ上げてくれました。 私は何も持たないで、墓まで登りましたが、ハンカチが全く役に立たない程、汗が吹き出しました。
【困った風習】
某大企業の実力者だった重役の父親が亡くなり、葬儀は四国の山奥の実家で行われました。交通が非常に不便で、日帰りでは行けない所でした。私が勤務していた会社では営業課長などが複数参列しました。
普通は、参列すると会葬返礼品と『お礼状』が渡されます。社命で参列したサラリーマンにとって『お礼状』は重要です。香典、旅費、宿泊費の清算時に必要になるのです。 『お礼状』を保存しておかなかったら、税務署が『カラ出張』として→→使途不明金扱い→→追徴課税します。
この時は、葬儀の後で『餅まき』が有り、課長達は『お礼状』の代わりに餅を持って帰りました。税務署が『餅』を『お礼状』の代わりとして認めてくれる分けが有りません。
【紅白の饅頭】
播州の田園地帯に住んでいた会社の同僚の父親が亡くなったので、葬儀に参列した事が有ります。 その地域では、高齢で亡くなると、会葬返礼品として『紅白の饅頭』を配る習慣が有りました。
大きくて美味しい『上用饅頭』でした。彼は、私が饅頭が好物だと知っていたので、二箱渡してくれました。『上用饅頭』は祝い事で使用されますが、仏事でも昔は配ったそうです。 私は十分生きましたから、葬儀で『上用饅頭』を配る様に遺言しようと考えています。
【立派な葬儀❶】
某中小企業に出向した時に高齢の重役(S氏)が亡くなられ、社葬を行う事になりました。 S氏はアイディアマンで、種々の発明をして、複数の大手企業に納入していました。S氏の発明した機械は現在でも沢山稼働していると思います。
200人以上は入れる大きな葬儀場を借りました。ウイークデーの葬儀でしたが、複数の大手企業の重役達を始めとして、ビックリする程沢山の参列者が有りました。S氏の発明が素晴らしかっただけで無く、S氏の人柄が良くて沢山の方がお見送りに来られたのだと思いました。
【立派な葬儀❷】
叔父の一人に高校の教師がいました。校長になって退職しましたが、その後は県の教育委員会の嘱託(?)になって、非行少年/少女を出来るだけ少年院に入れないで済む様にする活動をしていました。 「非行に走る子供の多くは、辛い/悲しい環境で育っのだ!」、「溺愛は駄目だが、愛情を持って子供は育てないといけない!」・・・と叔父は言っていました。
叔父が亡くなった時、リタイヤして20年以上経っていました。 200席以上も有る広い葬儀場を借りたので、そんなに参列者が来て頂けるとは思えなかったのですが、葬儀が始まるズット前に満席になりました。扉の前に広いスペースが有りましたが、そこにも沢山おられ、建物の外にも傘を差した方が沢山おられました。
私は愛煙家です。タバコをふかしていたら、叔父のリタイヤ後の活躍が話題になっていました。私が全く知らなかった話しばかりでした。叔父の大学時代の同級生は、殆ど戦死していたので、『友』の分も頑張って生きたのだと思いました。
最近、三浦瑠璃(るり)氏が、『村八分』の用法を間違えて、批判されました。三浦氏は、私と考え方は少し違いますが、勉強家なので尊敬しています。 それで、擁護する事にしました。
70歳代の複数の女性に、『村八分』について聞いてみましたが、言葉としては知っていましたが、皆さん意味は理解されていませんでした。三浦氏は、まだ41歳ですから『村八分』を、朧げ(おぼろげ)な知識として持っていても恥ずかしい事では有りません。
コロナが猛威を振るいだして、日本の葬儀や法事は簡略化しています。「コロナが収まっても、この風潮は元には戻らないのでは?」、「簡素化して、変質するのでは?」と私は予想しています。 忘却の彼方になる前に、私の経験した葬儀や法事について書いておきます。
【私の経験】
私は山奥の村で生まれ育ちました。 小学校に入学した頃(1955年頃)に隣の集落で『村八分』になった家が有りました。 暫くして、その家の誰かが亡くなりました。 ドンナ葬式になるのか?興味津々だったので、見に行ったのです。
隣近所の奥さん達が、料理を作っていて→→坊さんが来られて→→集落の墓地に葬られ→→普通の葬儀が営まれました。 その後、不義理は水に流されて、村八分は解除されました。結局、一、二年間の村八分でした。
【村八分】
村八分の説明は、「❶火事は延焼の恐れが有るので、皆で協力して消火活動した。 ❷死体を放置すると疫病が発生するから、皆で協力して埋葬した」となっています。
昔は、死体を大きな樽に入れて、大きな/深い穴を掘って埋めました。結構沢山の人が協力する必要が有りました。 各集落の墓は、少し高い所に設けられていたので、棺桶を担いで上がるのにも協力が必要でした。
私の独断と偏見の見立てですが、日本人は、「死んだら、誰でも『神』になる」と言う考え方を持っていますから、村八分になっていた人でも丁重に葬ったのだと思います。
【村七分】
棚田で稲を育てる為には、水田用の用水路が必要です。 故郷では、大昔から幾つかの集落が協力して、長い!長い!用水路を維持・管理していました。 我が家の田圃への用水路は、川上の大きな谷の水を、全長6キロメートル以上も有る用水路から取水していました。
村八分になった家の田圃でも稲は育っていたので、「用水路の利用は許容されていた」のだと思いました。 従って、私の故郷は『村七分』が正しかったと思います。
ドンナニ不義理な事をやったとしても、村七分になった家の住人を、生まれた時から知っていましたから、飢えて死ぬような事になるのは避けたかったのだと思います。
【辻元氏と蓮舫氏の擁護】
辻元清美氏と蓮舫氏が、「安倍晋三氏の国葬には参列しない」と表明した時に、三浦氏が「村八分だ」と言ってしまいました。
岸田首相は、岸/安倍一族と統一教会の問題は全く頭に無く、「安倍晋三氏の死を政治的に利用してやろう!」と安易に考えたのだと想像します。 一方、辻元氏と蓮舫氏が、早々と「国葬には参列しない」と表明して、彼女たちの支持者に政治的な意思を表明しても批判出来ません。
彼女達の言動は、「死者を鞭打つ行為だ!」と批判する方がおられると思います。然し、私は岸田首相、辻元氏、蓮舫氏の御三方は『同じ穴の狢(むじな)』だと思います。
▲▲▲ 葬儀と法事について ▲▲▲
【頼母子講】
『無尽講(むじんこう)』や『頼母子講(たのもしこう)』は死語になってしまいましたが、私が小学校の低学年(1955年)頃までは、集落でやっていました。 お金を持ち寄って、工面し合う制度です。
故郷の葬式は、一種の頼母子講でした。 近年は全国的に香典を辞退するケースが増加しています。 昔は、香典帳に、頂いた方の氏名と香典の額を記入して→→大事に保管して→→お返しの額を決め→→頂いた方の家で葬儀が有ると→→香典帳を取り出して『香典の額』を決めました。
葬儀の費用は全て頂いた香典で賄えて、必ず余った様です。
(余談 :香典) 私が大学生の(1967年)夏休みに、大好きだった祖母が亡くなりました。叔父の一人と私で受け付けと香典の集計係をしました。結構・盛大な葬儀でしたが、ビックリする程・香典を頂いたので沢山余りました。 空の香典袋が必ず有るそうです。 それで、開封は必ず二人以上でするのです。 祖母の時も二、三人は入れ忘れていました。 会社の同僚の親の葬儀が神戸市で有り、香典集計係を頼まれた時も空の香典袋が有りました。
【葬儀の参列者】
コロナが蔓延する様になって、家族葬が増えてきました。家族葬は遺族から参列依頼が有った人以外は葬儀に出席出来ません。 私の町内で葬儀が有ると、役員二人が香典を持って参列する事になっていますが、家族葬の時は式場には入れてもらえない様です。
(余談 :法事) 一回忌等の法事には、呼ばれた人だけが参列するのが全国的な風習だと思います。 私の母は103歳で逝ったのですが、生前に母に葬儀や法事の案内が来ると私が代理で出席しました。
叔父の一人が亡くなった後、子供達が仲違いして、娘達が団結して祖母を強引に連れていってしまい、何処で暮らしているか?分からなくなってしいました。 叔母の葬儀の連絡が無く、一回忌の法事の場所も日時の連絡も有りませんでした。 叔父の墓が某寺に有るのを知っていたので、私は叔母が好きだったビールを持っていって、草引きの後で、飲みました。
私が高校性だった頃、遊びに行くと(叔父は酒が飲めなかったので)叔母と二人で雑談しながら何時もビールを飲みました。 今でも、帰省して墓の近くの道を通る時は、必ずビールを持っていって墓石の前で飲みます。
【生臭坊主】
義母は信心深い方でした、元気だった頃、毎年の盆には坊さんに来て頂き、そして別に、毎年数万円寺に寄進していました。寺を建て替えた時は、義兄に内緒で百万円以上寄進しました。 坊さんは、気難しく、金にうるさく!、酒と肉が好きで、糖尿病でした。周囲では、『生臭坊主』と陰口を叩いていました。
義母の初盆の時、「頼みに来たのが遅い!」と臍を曲げてしまいました。「今年が初盆だ」と坊さんは知っているはずですから、「幾ら何でも、来てくれるだろう」と待っていましたが、午後7時くらいになっても来てくれませんでした。 仕方が無いので、急遽、御詠歌クラブの人達に来て頂いて初盆をしました。
【見栄っ張りの葬儀】
(社員百人程の中小企業に出向していた時、)古くからの住宅街に実家が有った会社の同僚の父親が亡くなり、実家の近くの寺に付属していた葬儀場で葬儀が行われました。会社の命令で私も含めて社員30名程が参列しました。
親族の席の後ろに100席近いスペースが設けられていて、国会議員、知事、府会議員、市長、市議会議員の席でした。 10人程しか座っていませんでした。(私達はその後方に座りました。)
焼香が始まると、親族の後で「国会議員○○殿」・・・延々と読み上げました。殆ど参列していませんでした。 弔電を読み始めましたが、氏名、肩書、弔電の全文を読むのです。(普通は、以下同文と省略しますよね!) 殆どの葬儀は1時間程で終わりますが、この時は3時間近く続いたと記憶しています。
【迷惑な遺言】
2005年頃の夏の暑い日に、田舎に住んでいた母の妹の葬儀が有りました。土葬にする様に遺言していました。墓は県道から幅が1メートル程しかない急な山道を300メートル程登った所に有りました。 墓は土が殆ど無く、石を敷き詰めた線路状でした。簡単には穴が掘れなかったのです。
従兄弟の一人が土建業を営んでいたので、若い社員を10人程連れて来ていました。彼らは、先に大きな穴を掘ってくれていて、交代で棺を担ぎ上げてくれました。 私は何も持たないで、墓まで登りましたが、ハンカチが全く役に立たない程、汗が吹き出しました。
【困った風習】
某大企業の実力者だった重役の父親が亡くなり、葬儀は四国の山奥の実家で行われました。交通が非常に不便で、日帰りでは行けない所でした。私が勤務していた会社では営業課長などが複数参列しました。
普通は、参列すると会葬返礼品と『お礼状』が渡されます。社命で参列したサラリーマンにとって『お礼状』は重要です。香典、旅費、宿泊費の清算時に必要になるのです。 『お礼状』を保存しておかなかったら、税務署が『カラ出張』として→→使途不明金扱い→→追徴課税します。
この時は、葬儀の後で『餅まき』が有り、課長達は『お礼状』の代わりに餅を持って帰りました。税務署が『餅』を『お礼状』の代わりとして認めてくれる分けが有りません。
【紅白の饅頭】
播州の田園地帯に住んでいた会社の同僚の父親が亡くなったので、葬儀に参列した事が有ります。 その地域では、高齢で亡くなると、会葬返礼品として『紅白の饅頭』を配る習慣が有りました。
大きくて美味しい『上用饅頭』でした。彼は、私が饅頭が好物だと知っていたので、二箱渡してくれました。『上用饅頭』は祝い事で使用されますが、仏事でも昔は配ったそうです。 私は十分生きましたから、葬儀で『上用饅頭』を配る様に遺言しようと考えています。
【立派な葬儀❶】
某中小企業に出向した時に高齢の重役(S氏)が亡くなられ、社葬を行う事になりました。 S氏はアイディアマンで、種々の発明をして、複数の大手企業に納入していました。S氏の発明した機械は現在でも沢山稼働していると思います。
200人以上は入れる大きな葬儀場を借りました。ウイークデーの葬儀でしたが、複数の大手企業の重役達を始めとして、ビックリする程沢山の参列者が有りました。S氏の発明が素晴らしかっただけで無く、S氏の人柄が良くて沢山の方がお見送りに来られたのだと思いました。
【立派な葬儀❷】
叔父の一人に高校の教師がいました。校長になって退職しましたが、その後は県の教育委員会の嘱託(?)になって、非行少年/少女を出来るだけ少年院に入れないで済む様にする活動をしていました。 「非行に走る子供の多くは、辛い/悲しい環境で育っのだ!」、「溺愛は駄目だが、愛情を持って子供は育てないといけない!」・・・と叔父は言っていました。
叔父が亡くなった時、リタイヤして20年以上経っていました。 200席以上も有る広い葬儀場を借りたので、そんなに参列者が来て頂けるとは思えなかったのですが、葬儀が始まるズット前に満席になりました。扉の前に広いスペースが有りましたが、そこにも沢山おられ、建物の外にも傘を差した方が沢山おられました。
私は愛煙家です。タバコをふかしていたら、叔父のリタイヤ後の活躍が話題になっていました。私が全く知らなかった話しばかりでした。叔父の大学時代の同級生は、殆ど戦死していたので、『友』の分も頑張って生きたのだと思いました。