これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

脳死や植物状態になった人の生死

2020-08-29 07:47:47 | 社会問題
 今回は、非常に”重い”人の生死の話しです。世の中には色んな考えの方がおられますから、私の考え方に非難が噴出すると思いますが、敢えて書きます。 我が国の政治家達は先送り主義で、人の生死に関わる法律の整備は殆どして来ませんでしたが、真面目に議論して→決定しないと健康保険制度が崩壊する恐れがあります。

【人の生死と神の領域】
 私は医学には疎いので『脳死』と『植物状態(延性意識障害)』の区別が良くは分かりません。 然し、昔は両ケースとも助からなかったので、「神が定めた天寿を全うして死んだ」と皆が納得したのです。 換言すると、心臓が停止したら昔は死んだと誰でもが思いました。

 20世紀になって、医薬、医療機械、医療技術が進歩して、脳死状態になっても機械の助けを借りると、呼吸して”生きていく”事が出来る様になりました。 現在は、「生きている」と「死んでいる」の定義/判定が非常に難しくなっているのです。

 身内の方が治る見込みの無い状態になった場合、元気な内に本人が「延命処置を希望しない」旨の書類を作って置かないと、貴方が「生死の決断」を要求される恐れが有ります。 私は、主治医に頼んで「延命処置を希望しない」と言うカードを作ってもらって、何時も財布に入れて持ち運んでいます。 (家内と子供達に、その事を話しています。)

 脳死状態になって、機械の助けを借りて生きている人も『生きた人間』で、日本国民です。 国民が法律で与えられている権利の全てが保証されます。 選挙権、被選挙権、年金の受給権、・・・

 延命処置で発生する医療費は高額ですが、日本では、自己負担限度額を超える分は国が出してくれます。 高額の年金受給者の場合は、延命処置を施して少しでも長く生きてくれると、家族が豊かな生活を送れるケースも有ります。(私は、そんな家を知っています。)

 医療費も年金も大半は、現役で働いている人達が負担しています。平均寿命が高い事は国の誇りでは有りません。その分、若い人達が苦しい生活を余儀なくされているのです。「少子化の原因の一つだ」と私は思います。スウェーデンの制度を調査/検討して見る必要が有ります。

【脳死】
 日本は何も決められ無い国ですから、未だに生死の区別/判断を法律では定義していません。 その典型が、脳死状態になって機械に接続されて呼吸している人間の扱いです。法的解釈では「生きた人間」と扱うのだと思われます。 従って、臓器を移植するケース以外で、機械を外したり、停止させると殺人罪に問われます。

 『臓器の移植に関する法律の第6条(臓器の摘出)』の規定は、『死体(脳死した者の身体を含む)』から臓器を取って良いとなっています。 従って、人口呼吸器を付けていた人から、臓器を摘出する為には、人口呼吸器を取り外し→死んで頂く必要が有ります。

【父が死んだ時の決断】
 87歳の父を救急車で病院に運んで貰った時、84歳の母はまだ元気でした。 入院して二、三時間後に、先生は母では無く、私だけを別室に呼んで、「もう意識は回復しません。機械に繋いだら生きる事は出来ます。一度機械に繋いだら、法律で外す事は出来ません。どうされますか?」と聞かれました。

 私は迷うことなく、延命処置はしない様にお願いしました。その後・数時間して父は亡くなりました。母にも、姉達にも相談しないで決断しましたが、誰も非難はしませんでした。

(父が好きでした!) 延命処置は望みませんでしたが、私は父を尊敬し/好きでした。 父は息子が欲しかったのですが、生まれた五人は女の子で、諦めていた時に待望の男の子が出来たのです。 溺愛では無かったですが、父は私を大切に育ててくれました。 色んな所に連れていってくれ、色んな仕事を一緒にやりました。 楽しい思い出が沢山有ります。

【母が亡くなった時】
 父が逝って20年後に、母も病院で103歳で亡くなりました。 その時、医者は延命処置については何も言いませんでした。

【脳血栓で動けなくなった方】
 我が家と親しくしている家の主人(S氏)が、13年ほど前(60歳の時)に脳血栓で動けなくなり、喋る事も出来なくなりました。 手と顔は少しだけ動かせました。 寝込んでからの彼の唯一の楽しみは、テレビで野球を観戦する事でした。 ドラマ、歌、ニュースなどは見ても理解出来無かった様です。 倒れた時に、幼い孫が二人いましたが、可愛がる余裕が無く、寧ろ、騒々しいと嫌がった様でした。

 女性看護師(?)を連れた医者が定期的に訪問し、身体を洗う介護士が週に一、二回来て、更にリハビリ担当の介護士まで来ていた様です。結局、S氏は寝込んで13年間・一言も話せず、起き上がる事も出来ませんでした。 何年か経った時に、「いくら何でもリハビリは不要だ!」と私は思いました。

 寝込んで10年ほどすると、奥さんが介護疲れで・気の毒な状態になりました。その頃、S氏が肺炎になり、医者が「普通の治療をすると、助からない! どうされますか?」と聞かれたそうです。その時、私は奥さんから相談を受けたので、「もう十分介護したのだから、普通の治療にされたら!」とアドバイスしました。 奥さんは暫く悩まれた後で、「主人の死を私が決めるのは怖い!特別な治療をしてもらいます!」と言われました。

 症状は段々と悪化して、3年ほど前には野球観戦も出来なくなってしまいました。そんな状態になっても、「駄目だ!」とか「嫌だ!」とかは、手で合図する事は出来ました。まるでワガママな幼児の様でした。

 今年になって病状が悪化して、血液中の酸素濃度が低くなり、医者は気管切開を薦めたそうです。 奥さんは大決断して、気管切開は拒否されました。 そして、救急車で運ばれて集中治療室(ICU)で二、三週間治療を受け→退院→救急車・・・を何回か繰り返しました。 そして、先日・亡くなられたのです。

 13年間の在宅介護は大変です。「映画やデパートに行ったりして、たまには気晴らしされたら!」とアドバイスしましたが、「留守の間に死んでいたら、一生後悔すると思う」と言われて、近くのスーパーに行くのと、美容院に時々行く以外は出掛けられませんでした。

 S氏は中規模の会社の重役でした。その会社には企業年金制度が有り、寝込んでからは身体障害者の扱いでしたから、お金は沢山入った様でした。 「生きていてくれたら、沢山お金が貯まるのよ!」と、奥さんは自嘲する様に言われていました。

(昔だったら!) 私が子供の頃にS氏の様になられたら、長生きは出来なかったでしょう。 「S氏にとって13年間は価値/意味が有ったのか?」疑問です。犠牲を強いられた家族にとっても、13年間は価値は有ったのか? 「医学の進歩は単純には喜べないのでは?」と私は考えています。

新形コロナの最近の状況

2020-08-22 10:16:58 | 新型コロナウイルス
【私の、この2か月】
 私は、今年の2月以来ブログに新型コロナの問題について書いてきました。前回は6月13日でしたので、2か月以上経ちました。 私には、今年・幼稚園と小学校に入った孫がいるのですが、7月から通園/登校が始まったと思ったら、直ぐに夏休みに入って、小学校は今日現在まだ休みです。

 大阪で私が管理している小さな賃貸マンションの住人は、事務職の方がいないためか?余りコロナの影響を受けなかった様で、毎日・普通に働いています。 住人の一人が「まだ十万円振り込まれない」と嘆いていましたが、7月の下旬に入ったそうです。 緊急事態宣言が出ていた頃は、大きなゴミ(水屋、マット、布団、家電製品・・・)を夜中に車で運んで来て、捨てて行くので対応に追われました。 現在は少なくなりました。

【公表数値の留意点】
 日本も”やっと”PCR検査の能力をアップさせてきましたが、諸外国に比べると桁違いの少なさです。 未だに、日本感染症研究所が邪魔をするので、PCR検査数を増やせない様です。7月末の能力は「32,000件/日」だそうです。 (自分で検査を受けようとすると、2~3万円掛かるようです。)

 『NHK 特設サイト 新型コロナウイルス』を推奨します。死者数、重症者数及びPCR検査数の日々の変化を公表しています。 特に、重症者数の増加に着目する必要が有ります。(各データの集計日が、何故かずれているので、留意が必要です。)

 PCR検査数が増えているので、当然、新規感染者数が増加します。 感染が確認されても軽症の人は、自宅療養かホテル等に隔離して治療を受けています。 これらの軽症者と重症者を合算して『現在感染者数』として、マスコミが公表している様です。 (私は、この数値は国民の不安を煽るだけで、意味の無い数字だと思います。)

(法律 :感染症法) 1998年に感染症法が制定されました。『感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律』で検索すると、無料で読めます。関連する、『感染症法施行令』と『感染症法施行規則』が有り、更に厚労省の『感染症発生動向調査事業実施要綱』が有ります。長文の上に、4点を突き合わせる必要が有るので、完全に理解/把握している人は、日本に何人もいないと私は思います。努力して!勉強して!この法律の専門家になっても、仕事にありつけるのか?疑問です。

 感染症法は、感染症患者が発生した場合に都道府県知事が行わなければならない事は規定していますが、感染者の義務については『第44条の3(感染を防止するための協力)』の規定だけの様で、罰則は有りません。今回の新型コロナより毒性が強い感染症が将来発生する恐れが有ります。 私は、「感染者の義務と違反者への罰則を規定する必要が有る」と思います。

【都道府県知事の責任】
 前述の様に、感染症法では感染症対策は都道府県知事が行う事になっています。好い加減な人間を知事に選んでは駄目なのです! 現在の大阪府の知事は立派ですが、1995年~99年は故・横山ノック氏でした。今・考えるとゾッとします。


 感染症が発生すると保健所が重要な働きをする事になっていますが、国と地方公共団体に金が無くなってきたので保健所の予算を削減し、保健所の数を半分程に減らしています。 今回の新型コロナ対策で保健所の職員は過重労働になってしまいました。

★★★ 分かった事 ★★★
【日本の死者数は少ない】
 日本は高齢者の割合が高いですが、新型コロナウイルスによる死者数は欧米諸国に比べて。非常に少ないと言えます。

私は、「安倍政権が頑張ったから死者数が少ないのだ!」とは決して言えないと思っています。医療関係者達が頑張ってくれた事が大きく寄与していると思いますが、それ以外にも何か要因が有りそうです。

【老人や持病の有る人の死亡率は高い】
 新型コロナウイルスによる死者の平均年齢は『79歳』だと言う記事が有りました。 2019年の我が国の平均寿命は女性≒87歳、男性≒81歳です。 新型コロナによる死者の平均年齢が平均寿命より低い『79歳』ですから、若くても持病の有る人が少し亡くなっている様に思われます。

【感染しても発病しない人も多いい様です!】
 PCR検査で陽性の結果になっても、自覚症状の無い人が多いい様です。
 厄介な事に、自覚症状が無くても、他人を感染させる恐れが有る様です。 その為に、3密の状態ではマスクの着用が必要で、体面での談笑は避けるべきなのです。

【人が密集しただけでは感染しない!】
 政府は『3密(密閉、密集、密接)』を避ける様に盛んに広報しましたが、謝りだった事が明確になって来ました。 人が集まって『口角泡を飛ばす』様な状態が最も感染し易いのです。

 私も予想外でしたが、満員電車やパチンコ店は比較的安全な場所だったのです。隣の人と話しながらパチンコする人は皆無に近いと思います。満員電車では大声で喋る人を殆ど見掛けませんが、日中・四人掛けの席で喋り続ける御婦人達は、今でもいます。

 電車では座席を回転させて体面して座ってはいけません! 話をする時は、体面しないで横を向いて話をしましょう! 相手の顔を見ないで、小さな声で話しましょう!・・・

 今のところ、空気感染の恐れは少ない様なので、『3密』防止に拘らないで、効果が有り、実効性の高い「留意点をまとめた広報」を出すべきです。

【ウイルスが変異している】
 新型コロナウイルスは変異しています。 報道機関によって、「S型、K型、G型の3系統」と「S型、V型、G型の3系統」が使用されています。K型とV型は同じタイプだと私は見ています。 最近日本で広がっているのは新タイプの様です。

 韓国はウイルスの遺伝子の塩基配列を調査して、「韓国内で何時・どのタイプが流行していたか。 現在は伝播力が強いGH型だ」と公表しています。 日本感染症研究所も同様の調査をしていると推察しますが、何故か?公表してい無い様です。

 S型 :中国で最初に広まったタイプ。弱毒性・・・日本に最初に入って来たタイプ。
 K型 :S型が変異→K型へ。 弱毒性 2020年1月頃から流行
 G型 :中国の武漢に蔓延したタイプ→アメリカやイタリアに広がった。 毒性が強い
 日本型 :8月8日付けの読売新聞によると、日本で変異したタイプが、6月以来日本国内で広まっている様です。 特徴は今のところ公表されていません。

【PCR検査体制が整わない理由】
 日本でPCR検査体制が整わない理由は、8月21日付けのハーバー・ビジネス・オンライン『PCR検査を阻む「感染症利権」と安倍総理の政策センスのなさ<『ドキュメント感染症利権』著者・山岡淳一郎氏』に要領良くまとめられています。 この記事は、『月刊日本2020年9月号』でも読める様です。

★★★ まだ不明な点 ★★★
【有効なワクチンが出来るのか?】
 ワクチンは、先ず動物を使って安全性を確認して→人に投与する「第1相」から「第3相」の三段階の試験を行って→全ての試験に合格して、初めて安全で有効であると証明された事になります。 現時点では、第3相試験が完了した新型コロナ用のワクチンは存在していません。

 ロシアのプーチン大統領は、「第1相と第2相の試験に合格してので、第3相試験を省略して接種を開始する」と発表しました。第1相と第2相試験の結果は国際的に公表してい無い様ですから、プーチンは博打の様な決断をした事になります。吉と出るか?凶と出るか? とても、日本は真似できない決断です。

 第1相から第3相試験を従来のルールで実施すると、時間が掛かり過ぎますから、(プーチンのやり方は論外ですが、)「有る程度・試験を簡略化して結論を出さざるを得ない」と私は見ています。 ワクチン・メーカーが独断で簡略化を決めて、死者が出るなどの問題が発生すると、現在のルールではワクチンメーカーが責任を負わなければなりません。従って、早期に国産ワクチンを完成させるためには、政治的な決断をして、「簡略化した試験のルールを定め、ワクチン・メーカーに免責特権を与える」等々・しないと、国際的開発競争には勝てません。

 私は、橋下徹氏の様な方が総理大臣にならない限り、ワクチンの開発に「思い切った政治的決断をする事は出来ない」と考えています。 最近・政府は、「欧米のワクチン開発を支援し、免責特権を付与して、完成したら日本に優先的に供給して貰う」交渉をしています。 現在の政治家の力量を考えると、(残念ですが)最良の手段だと私は思います。

第1相試験 :動物を使って安全性を確認した薬やワクチンを、健康な人に投与して安全性/薬やワクチンの量/効果を確認する試験。

第2相試験 :比較的少数の治験者から始めて、人数を増やして行きます。薬やワクチンの量や投与回数も増やしていきます。 第2相試験で、適切な投与量、投与回数、投与間隔などの知見を得ます。

第3相試験 :多くの人に、薬やワクチンを投与して安全性と効果を確認する(最終段階の)試験。

【何故・日本の死者数/重症者数は少ないのか?】
 「欧米諸国に比べると、日本の死者数と重症者数は顕著に少ない」と言えます。「将来の新・新型コロナウイルス対策の為に、原因/理由を科学的に把握しておく必要が有る」と私は考えます。 (日本感染症研究所に任せたら、科学的調査は難しい様に思います。)

 NHKのデータを見ると、8月になって死者数と重症者数は少し増加して来ている様に見えます。 当面は、注意深く見守る必要が有ります。 然し、「まだ、緊急事態宣言を再発令する段階ではない」と私は思っています。

★★★ 私の考え方 ★★★
【医療崩壊が起きない範囲で経済活動すべき!】
 「医療スタッフの労働状況と集中治療室(ICU)に余裕を残した範囲内で、経済活動を続けることが必要だ」と私は考えています。 同様の考え方をしたコメンテーター達が、最近はマスコミの主流になって来ています。 (春先頃に、「新型コロナはインフルエンザと同程度だから、恐れる事は無い」と言っていた、老医者はTVで見掛け無くなりました。お元気なんでしょうか?)

【新型コロナとの長期戦】
 有効なワクチンが何時入手出来るのか?明確になっていません。従って、新型コロナとの長期戦を覚悟する必要が有ります。 「今まで、安倍政権は頓珍漢なコロナ対策をして来ましたが、官邸のスタッフを総入れ替えして、他国に誇れる対応をして欲しい」と切望しています。

① 各都道府県で重症者用のベッド数と集中治療室(ICU)数を正確に把握して、日々、それらの使用数/空き数を公表する。 警報を出す基準と緊急事態宣言を再発令する基準を設けておく。

② 軽症者を隔離する施設の容量と使用状況を、日々・公表する。

③ 医療スタッフの労働状態を調査して、過重労働になる恐れが出てきたら警報を出し、更に悪化したら緊急事態宣言を再発令する。

★★★ 心配な点 ★★★
【某居酒屋の状況】
 私は大阪で小さなマンションの管理をしています。そこの直ぐ近くに、(東京だったら100席は置けそうな広い)七、八十席ほどの居酒屋が有ります。最近までは、席の半数に客が座れない様に工夫して営業していましたが、8月の中旬頃から制限無しの営業に戻りました。

 覗いて見たら満席で、どの席も大いに盛り上がって大声で喋りながら飲んでいました。これでは集団感染は避けられそうに有りません。

 早急に法律を改定して、全ての店に『赤外線体温計』の所有を義務化して、「入店時に体温を計測させるぐらいの事はすべきだ!」と思います。 政府が、「○○歳の方、持病の有る方はご遠慮下さい!」と言う様なポスターを作って、飲み屋などの入り口に貼って貰うのはどうでしょうか?!

(赤外線体温計) 上記マンションの近辺に、少し広いプライベートブランドの靴屋が有るのですが、そこは入店時に赤外線体温計でチェックし、マスク着用を義務付けています。居酒屋は見習うべきだと思います。(amazonで赤外線体温計は数千円~1万円ほどで売っています。)

(マスクを着けて飲む) 数日前に、「飲み屋でマスクをして飲んだら、集団感染しない!」と言う記事が有りました。ブラックジョークか?と思ったら、大真面目の様でした。 皆さんは、どう思われますか?

【町工場】
 前述のマンションの近くに、町工場が沢山有ります。 コロナ対策が話題になっても、多くの工場は(マスクをして)操業していました。 7月頃からマスクを着けないで働いている所が増えて来ています。 工場の大半では冷房してい無いので、マスクをして働くのは辛いと思いますが!

 町工場では結構・老人も働いているので、集中治療室(ICU)に余裕が無くなってきたら、高齢の工員に(国が)給料補償をして休暇を取って貰う様にしたらどうでしょうか?!

【タクシー】
 夕方・商店街を歩いていると、マスクをしていない・既に赤い顔をした四人組の男性が歩道に立って、大声を出して楽しそうに話していました。 流しのタクシーを止めて、四人が乗り込んだので、啞然としました。

 一人がウイルスを撒き散らしたら、狭いタクシーの中では感染は必定です。高齢のタクシー運転手が感染し、亡くなる様な事になったら、彼等は犯罪者です。

 前に乗った客がタクシイーの中に残したウイルスで、後に乗車した客が感染する恐れは無いのでしょうか? 国立感染症研究所は、こんなケースも研究しているのでしょうか?

【Go To キャンペーン】
 東京に住んでいる長男夫婦は孫を連れて、毎年・3回・帰省してくれます。 今年のゴールデンウィークは帰省出来なかったし、『Go To トラベル』が7月22日から始まったので、長男夫婦はお盆に帰省する考えだった様です。 七歳の孫が、「ジージとバーバに移したらいけないから、帰らない!」と言ったそうです。安倍政権のスタックより、孫の方が賢いと思いました。

 1兆6794億円も掛けてGo To キャンペーンをする様ですが、役人はキメ細かい対策/配慮をして、「この程度の感染者数は許容するが、それ以上感染者が出たら、僕は腹を切る」くらいの覚悟をもって、決断して欲しいです。

 『アベノマスク』は笑い話の提供と、税金の無駄遣いで済みましたが、Go To キャンペーンは余程工夫しないと、人命に関わる可能性が有り、医療スタッフを酷使する事になるかも知れません。 万一、医療崩壊が起こる様な事態になったら、世論は沸騰し、官僚の責任は免れ無いのでは?!

社会人になってからの勉強 (その5)

2020-08-15 10:18:35 | 勉強
 今年の6月27日以来、「私がどんなにして勉強して来たか?」、長々と書きました。今回が最終稿です。

【有機農業用の機械を開発した経緯】
 私が有機農業に取り組んだ経緯は、2019年8月17日のブログ『紙の話し (その2-1)』に書きました。少し補足説明をしておきます。

 水を使わないで古紙を解(ほぐ)して綿状にする『エコパルパー』と言う機械を開発していた時、大きくて丈夫な布製の袋が必要になり、業者を探していました。 「袋を作らせて欲しい」と言って、少し胡散臭い老人(HK氏)と、私と同年の女性(KY女史)が来社されました。 二、三日して、私が勤務していたK社の秘書室から「KY女史に是非とも仕事を出して、面倒を見て欲しい!」と電話が有りました。

 調べて見ると、「KY女史は、昔・神戸の花隈に有った高級料亭の娘さんでした。その料亭は、K社の最大派閥の重役達が密談する場所だった」のです。 (料亭での密談の内容は、『島田文六著・”失権”・幻冬舎』に生々しく書かれています。) 私はHK氏の工場(?)に行ってみました。KY女史が一人で袋を縫ったりして、働いていました。HK氏は、KY女史が親から貰った遺産を少しずつ出させて、何とかやっている様な状態でした。HK氏は”嘘”と”真実”の模様を巧妙に散りばめた”大風呂敷を広げる”タイプの人間で、私の一番嫌いな人種でした。 私から見ると、「女性から金を貢がせる紐(ひも)」の様に見えました。

 ある日、HK氏とKY女史が来社されて、「大手製鉄会社(K社)が開発している機械を見て、アドバイスして欲しい」と私に懇願しました。 これが、雑草を堆肥化する『植繊機』の開発を始めた切っ掛けです。植繊機に付いては、2019年8月24日のブログ『紙の話し (その2-2)』を参照願います。

 HK氏は誤解していましたが、上司の部長と私にとっては「HK氏は”どうでも良い存在”で、KY女史を助けたかった」のです。 HK氏は、殆ど利益の出そうにない仕事を細々とやっていたので、商売が成り立つ様にして、KY女史の持ち出しをなくして遣りたかったのです。 部長の許可を得て、私は植繊機の開発を始めました。

 植繊機の開発は4カ月程で完了しました。KY女史にBK社を設立してもらい、私が3台程のロッドで植繊機を製作し、BK社で販売した事にして、マージンが取れる様にしました。

【有機農業の勉強】
 植繊機を、(株)クボタが全国で開催する農機具の展示即売会に出展させてもらいました。HK氏は植繊機を売るよりも、『HK有機農法』を売り込むのに熱心でした。 私は半農の様な家で育ったので、HK有機農法に”嘘”が散りばめられている事が分かりました。

 私は、「K社と一緒に事業をやっているのだから、非科学的な農法を話さないように!」と、HK氏にお願いしました。 『HK有機農法』の”嘘”を見抜くために、私は200冊ほど農業関係の本を買って、勉強しました。島根大学の教授が趣味で有機農業に取り組まれていたので、二回教えてもらいに行きました。

 HK氏が、「有機農業を始めたのは、A.G.ハワードの『農業聖典』に感銘を受けたからだ!」と言われるので、苦労して養賢堂が戦後直ぐに出版した『農業聖典』を入手しました。 (養賢堂版の入手は難しいですが、日本経済評論社や日本有機農業研究会が出版した翻訳本は、現在でも入手出来ます。)

 HK氏経由で田圃の一部を借り、HK氏の指導で(減農薬)有機農業をやってみました。田圃の所有者が畝違い(隣の畝)で同じ作物を化学肥料を使って育てたので、比較実験が出来ました。 HK氏が、「肥料過多が一番悪い!」、「土が濁らない様に水を撒け!・・・と細かく指導してくれました。 隣の畝に病気が発生しても、私達の作物は大丈夫でした。 数種類の作物を育てて見ましたが、スイカは甘く、大根とホウレン草は姿形(すがたかたち)が違いました。大根は水分が少なく、私の子供の頃の大根の様でした。

(余談) 植繊機を持って長野県、熊本県など数県の農家にPRに行った時、農家の奥さん達に「有機農業をやっているか?」と聞いてみました。 皆さん異口同音に「孫達に送る野菜は有機農業で、販売するのは化学肥料で育てている」と言いました。

【武者修行に出る事にしました!】
 1995年に阪神・淡路大震災が発生し、K社は大きな被害を受けて、研究・開発費を大幅に削減する事になりました。 私達の開発も中止する事になり、私は「子会社に出向する様に」と言われました。 子会社の数社が、「私を遣せ」と取り合いをしてくれたのです。 人事部が困って、「私に出向先を決めろ!」と言ってきました。私は、「全ての子会社の社長を、よく存じ上げているので、決める分けにはいかない。当社と無関係な会社に出向したい!」と答えました。

 私は機械技術者として自信が有りましたが、「自惚れかも知れない?」とも思いました。 それで、宮本武蔵の様に武者修行に出る事にしたのです。

 子会社3社は、破格の条件を提示してくれていました。その会社に出向して、期待に沿える仕事が出来たら給料も地位も少し上がる可能性が有ったのですが、「経験の無い分野で、技術を磨く」ことの方が私にとって魅力的でした。 K社と無関係の会社に出向すると、定年まで給料をK社が出してくれますが、昇給も昇格も無いのです。

(余談) 結局、K社の身勝手な都合で、私は数社に出向しました。社長が認めてくれて重役待遇にしてくれた会社も有りました。グリーン車を使って良い。「月30万円の限度内で個人的な買い物をして良い」と言ってクレジットカードを渡されたりしました。 結局、クレジットカードは使いませんでしたが、席を取るのが難しい時は、グリーン車に乗りました。「自惚れでは無い!」事が証明出来て、素晴らしい人生が送れました。

【製紙機械】
 1996年に最初に出向した会社(N社)は製紙機械の設計/製造をする小さな会社でした。自転車で10分程の所に大きな製紙工場(SA工場)が有ったので、毎週の様に工場を見学させて貰いました。SA工場には規模が異なる3ラインがあり、分工場に原始的な小規模のラインが有ったので、製紙博物館で勉強するに等しかったのです。 前述の様にFFT(高速フーリエ変換器)を買って貰って、この工場で振動が問題になっている装置の設備診断をし、幾つか提案して好評を得ました。その後、沢山の工場で設備診断をして、本業の仕事を頂きました。

 当時・各製紙工場が、生産量アップ、省力化、品質向上などに積極的に取り組んでいました。製紙工場ではシーケンサー制御やタッチパネルが殆ど採用されていませんでした。 N社は社運を賭けて、技術革新に取り組もうとしている所でした。私は先ず、SA工場の一番大きなラインのワインダーと言う機械の大改造案を作成して、担当者達を説得する役をしました。

 製紙は24時間操業で、問題のワインダーは4人×4直=16人で運転していました。私達の提案は「自動化して2人×4直=8人にし、運転速度を50%程アップ→生産量をアップ、更に品質を向上させる」と言う素晴らしいものでした。SA工場では作業員を一名減らすと年間経費が1,000万円の削減になりました。私が製造コストを積算すると6,000万円程になりました。顧客には「2年間の経費削減分で買って欲しい!」と交渉していました。「本当に君の言う性能が出るのなら、16,000万円で良い」と言って頂いていたのですが、N社の社長が8,000万円で良いと強く言うので、その金額になりました。

 私達の提案は”良いとこ尽くめ”ですから、”眉唾物”と思われがちです。性能が出ても”いちゃもんが付く”と予想したので、ビデオカメラを買って貰って、改造前の運転状況を撮影して置くことにしました。(大阪の)日本橋の電気店に行くと、SONYが新発売のビデオカメラのキャンペーンをしていました。薄暗い所でも鮮明な画像が得られる優れ物でした。かなり高価でしたが買って帰ると、社長以下・全社員に怒られました。二、三日するとSONYの社員が来社して、「不具合が有るから、ビデオカメラを返して欲しい、代品は一週間以内に持ってくる」と言うのです。次の日に社長が「ビデオカメラを貸してくれ」と言い出しました。「赤外線の機能が優れているので、薄着の女性を撮影すると素晴らしい映像が撮れたのに!」と残念がっていました。 (日頃・超真面目な社長が、結構・助兵衛だと分かって”ほっと”しました!)

 改造工事が完了して運転すると、私達の提案以上の性能が出ましたが、予想通りに「速度アップにはなっていない」と言い出したので、改造前後の映像を見せて納得してもらいました。

 私は2回、N社に勤務して足掛け8年ほど製紙機械に携わりました。製紙工場は3Kの職場と言って良い様な環境で、改造/据付工事が皆さんがお休みの正月、ゴールデンウイーク、お盆休みに行われる等々、厳しい面も有りましたが、やりがいの有る仕事が沢山出来ました。

【電磁誘導加熱】
 電磁調理器(IH調理器)を使用している家庭が増えて来ています。金属には永久磁石が”くっつく”物(磁性金属)が有ります。磁性金属の内部には、小さな!小さな!永久磁石が点在しています。 一方、磁性金属の周りにコイルを巻いて、電流を流すと『電磁石』が出来ます。

 電力会社から供給される交流電力は、東日本は50Hzで、西日本は60Hzです。電磁石に流すと、磁石の極が1秒間に50回又は60回変化します。この電磁石の近くに磁性金属製の物を置いておくと、内部の小さな磁石が”あっち向いたり”、”こっち向いたり”しようとして、金属の内部で発熱します。これが、IH調理器の原理です。

 私は、大手重電(ME社)の協力会社(TS社)に出向して、電磁誘導加熱とヒートパイプの技術を用いた『ヒートパイプ式均熱ロール』に携わりました。TS社には設計担当者は一人もいなくて、ME社から入手した図面で、細々とヒートパイプ式均熱ロールを作っていました。ヒートパイプに関する参考書は明倫館書店から沢山購入出来ました。 電磁誘導加熱に関する資料は殆ど入手出来無かったので、シミュレーションプログラムを作成して、実機の運転データーを入れて見て、試行錯誤で修正→完成させました。

 大手フィルム・メーカー(FF社)から、TD社が製作した均熱ロールを修理する仕事を沢山頂きました。 FF社は同一の仕様でTD社に作らせた200本以上のロールを所有していました。一つの製造ラインに、そのロールを20本(?)ほど使用していた様です。FF社は全てのロールの温度分布を測定した記録を所有していました。 右端の温度が高いのをAタイプ、中央部が高いのをBタイプ、左端はCタイプとしていました。FF社では試行錯誤して、3種類のロールを有る配置にすると素晴らしいフィルムが出来る事を発見していたのです。

 FF社から、「BタイプのロールをAタイプに改造出来ないか研究して欲しい!」と依頼があり、典型的な3種類のロールを送って来ました。分解して、コイルも全て解いて調べました。コイルを不均一に巻いた状態の発熱分布を予想するプログラムを作りました。 (『均熱』が売りですから、邪道ですが)顧客が希望する『不均一温度分布のロール』が製作出来る様になりました。

 ヒートパイプ式均熱ロールの断面模式図は『 http://www.hidec-kyoto.jp/heat_roll/shr.html 』で検索すると見れます。(ハイデック株式会社のホームページ)

【その他、色々】
 K社には子会社以外の会社に出向した社員の面倒を見る係が有り、私の最初の担当者は入社以来の知人でした。 3年ほど経って、悪評の高い担当者に代わりました。 彼は、私が最初に出向した会社(N社)から、悪辣な手段で私を別の会社に出向させました。私は、その後・経験した事が無い分野の仕事を次々とする事になりました。

 彼は、吉岡一門や佐々木小次郎・・・剣客を次々と見付けてきてくれたのです。 図面や書類を全て英語で作成する輸出プラントの仕事では、「私がギブアップして早期退職する」と彼は期待したと思われます。『その手は桑名の焼き蛤』で、武者修行中の私にとっては『願っても無いこと』でした。

 話が長くなりすぎるので詳細は省略しますが、出向してから、食品、清涼飲料水、製薬、フィルム等の業界向けの仕事をして、熱交換器の設計もやりました。15年間ほどの武者修行でしたが、新しい知識が必要になったので、専門書や論文を沢山読みました。

 K社では開発に1年間ほどの時間を与えてくれましたが、中小企業での開発は『受注開発』が殆どで、6ヶ月とか3ヶ月以内の開発が要求されました。 特許が取れる内容の案件が多々有りましたが、明細書を書く時間が有りませんでした。

 リタイアを決断した時、「もう十分やった!」、「武者修行に出て良かった!」と”つくづく”思いました。 「技術屋として悔いの無い人生を送れた!」と今でも思っています。

《アドバイス :ストレス発散》 私は、K社で仕事をしていた時も、出向してからも職場を転々としました。 普通は職場を変わるとストレスが溜まるそうですから、私の様な生き方は推奨しません。 何回も移動を命じられる様な事になったら、仕事よりも趣味を楽しんだりして、ストレス発散を最優先にすべきだと思います。

 「今・大学生の諸君は、多分75歳くらいまで働かなければならない」と思いますが、逆に、「75歳まで働ける!」と考えて、就職した後も努力を続けてスキルアップを図って下さい。 入社した時の仕事が無くなるかも知れません。 その仕事の価値が下がってしまう可能性も有ります。 1970年にキャドオペレータだった方と2000年に同じ職場で働いた事が有ります。 彼は当時もキャドオペレータでした。 「若い時は、旅客機のパイロット並みの給料だったのに!」とぼやいていました。

《アドバイス :趣味と雑談》 『芸は身を助く』と言いますが、趣味が有ったら、他人が趣味に夢中になっているのが理解出来ます。そして、趣味の雑談が出来ます。 「私が、仕事一筋の人間だ」と誤解した人が多かったですが、私の趣味は絵画・陶磁器・クラシック音楽や渓流での毛ばり釣り、野球やラグビーの観戦、若い頃はスキーなど、結構多彩です。

 前稿で少し触れました大手重電のHT社のFS氏と、満開の桜の話しをした事が有ったのですが、「朝一からの打合せに来て欲しい!前夜の宿泊はHT社の寮を取っておく」と電話が有りました。夕方、寮に着くとFS氏が来られて、「打ち合わせは嘘で、明日はHT社が所有する神社などの桜を楽しんで下さい」と言って帰られました。 夕食は超豪華で、どこの桜も満開でした。

 本格的な趣味を持っている方達とも親しくなれました。盆栽が趣味の明光商会の故・高木禮二氏、ヨーロッパのアルプス登山を趣味にしている方、海外でスキューバダイビングを楽しむ方・・・皆さんの話しを聞いていると、私も楽しくなりました。 趣味を持つ事と、気楽に雑談出来る様になる事は、人生にとって勉強と同じくらい大切です。

【学問のすゝめ】
 私は高校生や大学生諸君に福沢諭吉の『学問のすゝめ』を推奨します。原文は文語体ですが、口語体の本も入手出来ます。冒頭の一節が余りにも有名な為に、「人間は平等だ」と言う内容だと誤解している方が多いいですが、タイトルの通りに「諸君、勉強しましょう!」と教えている本です。

 私は、次の一節が重要だと考えます。
『人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。
ただ学問を勤めて、物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。』

 1872年(明治5年)にこの本は出版されました。当時は社会が大きく変化して、有能な人材を要求する、ある意味では幸せな時代だったと思います。 福沢諭吉は「年功序列の時代が来る」とは予想していなかったでしょうね! その後、「勉強して役人になったり、大企業に入れたら、もう勉強なんか必要無い」と言う年功序列制度が、長く日本を駄目にして来ました。 学生時代に優秀だった多くの人達が勉強しなくても良い制度(年功序列制度)を続けていると、国家はジリ貧になってしまいます。

 現在は国際競争が激しくなって、自分を磨かない人間に高給を与える事が難しくなって来ています。今後は、会社や役所で活躍するためには、努力してスキルアップする必要が有ります。

【エピローグ】
 6月27日以来、8回に分けて私がどんなにして勉強して来たか書きました。『学問のすゝめ』を読み返してみて、平凡な私の様な人間でも、「若い時からコツコツとやったら、勉強を続けられる」と言う事を示したかったのです。

 私は結構勉強して、40機種ほどの機械の開発に携わり、全て成功しましたが、出世とは全く縁が無く、高給を頂く事も有りませんでした。 然し・これからは、福沢諭吉が考えていた「努力して自分を磨いた人が報われる社会になる」と私は信じています。

社会人になってからの勉強 (その4)

2020-08-08 09:34:08 | 勉強
 今回も、「私が社会人になって、どんな勉強をしたか? その結果、どんな事が出来たか?」と言う事を書きます。次回にも続きますが、我慢して読んで下さい。

【計測器とセンサー】
 私は、現役時代・40年の内、30年以上を機械の研究/開発に携わりました。種々の分野の機械でした。機械を開発する上では、計測器とセンサーの性能の向上と価格変化などの情報、原理などの知識が非常に重要でした。 私は若い時から、計測器とセンサーのカタログを集め、専用のノートにメモを取っていました。パソコンを使う様になってからは、データーベースが作成出来るソフトを買って、メモを整理しました。

 極低温(-270℃程)の機械から600℃以上の高温になる機械を扱ったので、温度センサーも種々の物が必要になりました。 圧力センサーでは、圧力が『0.2秒間』に300kg/cm2(≒29MPa)まで上昇する状況のデーターを採取して、解析する必要も有りました。

 小さな機械を開発する時、回転軸の振動を測定する必要が有りました。 ケンブリッジ大学の教授が発明した超小形の変移センサーを改良して、専用の変移センサーを作った事も有ります。

【振動と騒音の計測器】
 前々回(7月25日)のブログに、「1972年頃に振動と騒音について勉強した」と書きました。その時、FFT(高速フーリエ変換器)という測定器を借りて、使用しました。大きさは独身者向けの冷蔵庫ほど有りましたが、キャスターが付いていたので”ポータブル”と言う事になっていました。価格は、私の100カ月分の給料より高かったです。

 1985年に取り組んだ開発では、FFTがどうしても必要でした。それまで計測器には殆ど取り組んでいなかった、パナソニックが100万円台でFFTの販売を開始しました。開発費を工面して、直ぐに1台購入しました。納入に来たパナソニックの営業マンと小一時間雑談しました。

 FFTを開発した技術者達は、「先行他社製品よりコンパクトで高性能だから400万円ほどで売りたい」、営業部隊は「計測器分野では実績が無いから、250万円で売る」と言って、収拾が付かなかったそうです。 まだ御存命だった松下幸之助に相談したそうです。「そんな優れた製品の販売予定台数を○✕台にしては駄目だ、△△にしたら幾らで売れるか?」と言われたそうです。 それで、思い切って100万円台で販売を開始したのです。

 1996年に中小企業に出向した時、パナソニックのFFTを買って、製紙工場の設備診断を始めました。FFTを納入に来た営業マンに幸之助の決断の話しをして見ましたが、「聞いた事が無かった」と言いました。

 私は1972年から騒音計を持って、各地に出張しました。 当時の騒音計は凄く高価で、質量が2~3kgも有ったので、旅行も測定も結構大変でした。 

 今年の5月に、近所の広い庭の改修工事を始めたのですが、けたたましい騒音と物凄い粉塵が発生しました。奥さん達は洗濯物を取り込んで、工務店の責任者に抗議したのですが、平謝りするだけで、彼は「あと5日間だけ我慢して下さい!」と言い続けました。私が、「規制値を大幅にオーバーしている、騒音計を持って来て測定しなさい」と言うと、彼は「騒音計は持っていません」→→私が「amazonで数千円で売っている、今注文したら明日か明後日には入手出来る」・・・結局手作業で工事を続けました。 「騒音計さえ持っていない工務店に仕事をさせてはいけない!」と思いました。市は、こんな工務店を野放しにしてはいけません!

(笑い話し) 周囲が田圃の下水処理場から、引き合いを頂いて、昼間と深夜の暗騒音を測定した事が有ります。昼間の騒音は規制値以下でしたが、深夜に行って見ると、笑うしか有りませんでした! 溝や田圃の中で食用蛙達が大合唱していたのです。騒音規制法を考えた政治家も官僚も食用蛙まで、考えが至らなかったのです。

【営業活動と顧客対応】
 私は、営業担当者が経験した事の無い機械に、設計者として携わりました。どういう顧客に、どういう風に売り込むか?営業担当者と一緒に考える必要が有りました。 入社したK社だけで無く、出向してからも同じでした。

 K社に入社して2年目に故・海部八郎氏が育てた優秀な『海部軍団』のメンバーに営業活動のやり方を教えて頂きました。その直ぐ後に、大手重電のHT社の優秀な営業マン(FS氏)に事細かく指導して頂きました。国内だけで無く、外国の裏情報も勉強出来ました。 (FS氏は、私を実の弟の様に指導してくれました。)

【法律】
 法律に規制されない機械も有りますが、私が開発した機械では、皆さんが予想される以上に沢山の法律を勉強する必要が有りました。 例えば、電気事業法、原子炉基本法、高圧ガス保安法、建築基準法、騒音規制法、振動規制法、特許法、製造物責任法(PL法)などなど・・・ (『ウイキペディア 産業法』で検索して見て下さい。ビックリするほど沢山の法律が存在します!)

(余談) 現在は、全ての法律がインターネット上に公開されて、無料で読む事が出来ます。法律以外にも、種々の『技術基準』があり、高圧ガス関係では『質疑応答集』が有ります。 刑事事件や民事事件では、弁護士と相談しますが、設計や製造関係の法律は設計者が法律や技術基準を精読して、法律が要求している事項を加味した図面と各種要領書を作成します。

(余談) 私は各種・産業法を読んだので、民法、刑法、地方自治法・・・を時々、暇つぶしに読みました。 『軽犯罪法』は短いので、法律の入門書としては打って付けです。但し、「こんな法律は世界に例が無いのでは? それほど日本人は行儀が悪いのか?」考えさせられます。

【規格】
 戦後・長い間、JISの正式名称は日本工業規格でしたが、2019年からは日本産業規格になりました。JISは国際規格(ISO)に近づいて、現在は殆どISOを翻訳した様な内容になっています。

(余談) 私は入社2年目(1972年)から、ISOで設計していました。当時は『イソ』と呼んでいたので、つい『イソ』と言ってしまい、皆さんに笑われました。 現在・JISは日本規格協会が有料で出版していますが、法律と同様に「インターネット上に公開して、無料で読める様にすべきだ!」と考えます。

 「アメリカは唯我独尊の国だ!」と私は思います。アメリカの規格は独特です。アメリカ政府では無くて米国国家規格協会(ANSI :American National Standards Institute)が、下部組織(280以上の団体)が作成した規格を認定して、ANSI規格として発行しています。 他に、材料の規格=ASTM(アメリカ材料試験協会規格)、石油プラントの規格=API規格(アメリカ石油協会の規格)などが有ります。アメリカ以外の国に建設されるプラントでも、ANSI、ASTM、API規格が要求される事が多々有ります。

 船舶が典型ですが、保険に入るためには船級協会の基準で設計/製造する必要が有ります。日本では日本海事協会(NK)、イギリスはロイド船級協会、アメリカ船級協会等々・・・。 製造物責任法(PL法)が厳しい国に輸出する場合は、製造物責任保険(PL保険)に加入しますが、この場合は保険会社の基準で設計/製造する必要が有ります。

(余談) 私が、輸出が多いい工場の設計に所属していた時、関連する外国の規格が改定されると、入社三、四年までの若手社員を動員して、改定点を急いで翻訳し/纏めていました。私は年齢制限を超えていましたが、何故か?メンバーに選ばれました。(オリンピックのサッカーだったら、名誉なことですが!)

【気体軸受】
 MRI(核磁気共鳴画像法)やリニア新幹線には、超電導マグネットが使用されます。マグネットを極低温(-270℃ほど)に冷やす必要が有りますが、液体ヘリウムで冷却する以外に方法が有りません。

 極低温近くまで冷却したヘリウム・ガスを膨張させると液体になります。 少量を液化する装置では、レシプロ膨張機が使用されますが、1時間に数十リットル以上の液体ヘリウムを得る装置では、膨張タービンが必要になります。私は、膨張タービンの開発に携わりました。

 大雑把な話をしますが、ラジアルタービンでは、流入するガスの音速で羽根を回転させると高効率になります。 ガスの温度が低下すると、音速も下がります。 然し、気体のヘリウムは極低温になっても音速は高いので、タービンの羽根を高速で回転させる必要が有るのです。 市販の軸受が使用出来無いので、気体軸受の自作が不可欠になります。

 私は最初に、液化能力・50、100、150リットル/時間・3機種のヘリウム液化機用の膨張タービンを開発しました。軸受は静圧気体軸受でした。 次はティルティングパッド形動圧気体軸受を用いた、500リットル/時間用膨張タービンの開発に参加しました。 最初の静圧気体軸受の開発には手こずりましが、ほぼ1年間で完成しました。

 ティルティングパッド形動圧気体軸受は6か月程で完成したので、周りの社員達は「私は天才だ!」と思ったでしょう。 種明かしすると、以前に担当したガスタービンの軸受がティルティングパッド形油圧軸受だったので、原理/形状/加工方法に付いて勉強していたのです。

 ヘリウム膨張タービンの開発には、それまでに蓄積していた知識と経験をフル動員しました。大きなキングファイル2冊分程の英文の論文を短時間に読破する必要が有り、FFTを用いた振動解析、銀ロウ付け技術などなど。不足していたのは精密機械加工技術でした。

(余談 :精密機械加工) ヘリウム膨張タービンの開発には精密機械加工が不可欠でした。私が勤務していたK社の協力会社には対応出来る会社が無かったので、探したのですが、”なんと!”私の家から歩ける距離(2km程)の所に、(日本を代表する様な)素晴らしい会社(前田精密製作所)が有ったのです。 当時の社長は、故・前田豊三郎氏で、東京工業大学で機械を勉強された様でした。 精密機械加工に一生を捧げた様な方でした。 (私とは、親子程の年齢差が有りましたが、対等に付き合って頂きました。)

 社長は商売抜きで、私に精密機械加工について初歩から教えてくれました。「新しい機械が入ったから見においで!」とか電話してくれ、機械の特徴を説明してくれた後で、美味しいコーヒーを飲みながら工学の話しをしました。故・前田豊三郎氏は、私の大切な恩人の一人です!

(余談 :ミスが金の卵を産む事も有ります!) 最初に開発した静圧気体軸受・膨張タービンは軸径がφ9.5mm、φ12mm、φ15mmの3機種でした。3機種の常温実験が出来る実験装置を製作しました。ある日、φ12mmの実験をしたのですが、実験担当者がφ9.5mmだと勘違いして加速しました。 (当時・公表されていた論文では、)Φ12mmでは出せない回転数で問題無く運転していたのです。

 ギネスブック級の素晴らしい結果が得られたので、「若い社員に国際学会で発表させたい」と上申したのですが、頭の固い上層部が許可してくれませんでした。せっかく、「気体軸受は従来の常識以上の高速でも使用出来る」事を証明出来たのに、”金の卵”をカチンカチンの岩の上に生んだので、割れてしまいました!

【パソコン】
 ガスタービンの技術提携先のノールウェーの兵器廠(KB社)は、1972年に既に大形コンピューターを用いた社内メールシステムを構築していました。 私の会社(K社)でもIBMの大形コンピューターを導入していましたが、社内メールシステムの導入はずっと後になってからでした。 当時は、各工場と各営業所に端末機を電話回線で接続して、予備品の受注データの遣り取り、案件の予算管理等に活用していました。

 1982年にNECが9800シリーズのPCを発売しました。直ぐにK社は導入しました。私はベーシック(BASIC)と言う言語を勉強して、簡単なプログラムを作成して、技術計算をしました。 98PCは高価だったので、1985年頃に自分でNECの88PCを買って家で使いました。その後直ぐに、富士通のワープロ(オアシス)も買って、家で報告書等を作成しました。

 K社の一部の部署で、1991年にアップルのパソコン(PC)を用いた、社内メールシステムがやっと導入されました。私にも専用のPCが支給されたのです。私の所属していた部署では、部長が部員全員を集めて、「1年以内にPCの操作をマスター出来無かったら、辞めてもらう」、「PCに慣れるまでは、勤務時間中にゲームをやって良い」と言われました。その日から、部長も含めた古手の社員達は、日中にゲームを楽しんでいました。

 お陰様で、私は、会社からアップルのPCが支給された日から操作出来ました。そして、私にとってPCは不可欠な存在になりました。 それから5年程して中小企業に出向したのですが、「専用のPCを用意してくれる事」と言う条件を出しました。当時・まだ中小企業では、PCを導入している所は少なかったのです。

(余談) 現在は購入したPCが壊れていたと言う様な事は考えられませんが、当時は時々有りました。前述の部は50台ほど一度に購入したのですが、マッキントッシュの若い担当者が、その一台を使って簡単な操作説明を始めようとしました。よりにもよって、その1台は壊れていたのです。マッキントッシュ君は必死の形相で、「何とかしよう!」としましたが、埒が明きません。誰かが、「別のパソコンを使ったら!」とアドバイスしたら、マッキントッシュ君は「そういう手も有ったんだ!」と言う様な顔をしました。

(余談) 2001年に出向した会社が準備してくれていたPCは中古品で、直ぐにハードディスクが壊れてしまいました。 加古川市に大西ジムと言う会社が有りますが、当時は全国的にPCを売っていました。会社が近くだったので、大西ジムに買いに行ったのですが、年齢を聞かれました。「55歳」と答えると、「50歳以上の方には売れません」と言うのです。老人に売ったら、交換出来無くて、「引き取れ」と要求するので年齢制限を設けていたのです。「交換出来無くても返品しない」と言う念書を書いて、売ってもらいました。

 ハードディスクの交換は簡単でしたが、OSのウインドウズを再インストールするのに手間取りました。(当時のPCにはバックアップCDが付いていました。) 画面に表示される通りに操作しても、微妙なタイミングが要求され→途中で進まなくなり→最初からやり直し! この繰り返しで、結局・3日ほど掛かってヤット出来ました。(現在のウインドウズは、簡単に再インストール出来るそうです。)

社会人になってからの勉強 (その3)

2020-08-01 11:23:52 | 勉強
 今回は、設計/製図と、キャド(CAD)の操作について書きます。

【設計と製図は同じでは有りません!】
 多くの方が『設計』と『製図』を混同されます。製図とは図面を作成する事で、設計は仕様/性能、構造/形状、材質などを決定し、性能や強度の計算をする事です。設計者が作成した資料をベースに製図工が図面を作成するのです。中小企業の多くでは、設計者が図面も作成しますが、大企業の多くでは、製図を担当する子会社を持っています。

 ○○機械設計(株)と言う看板を掲げた会社が沢山有りますが、大半はキャドオペレータを派遣したり、社内でキャド(CAD)を使って製図するのが仕事です。 非常に稀ですが、大手機械メーカーで設計をされていた方が、早期退職して起業した会社も有ります。そんな会社では性能計算や強度計算も請け負っています。

(余談) 東京大学には航空宇宙工学科が有りますが、そこの卒業生は(私の知る限り)優秀でした。 その一人が社長の会社は、英語の設計/計算書/報告書/契約書を作成したり、難しい仕事しか受けませんでした。社員は20名程でしたが、大手企業の超ベテラン社員だった方達を高給で集めていた様でした。

(余談) 私は現役の最後・数カ月を某中小企業で勤務しました。そこでは、設計は私一人しかいませんでした。 ブラック企業の典型と言って良い最悪の会社だったので、私は直ぐに嫌になってきました。それを察して社長が設計を募集しました。30歳程のキャドオペレータが応募してきて、私に相談無く採用しました。彼は材料や強度計算などの知識と経験が全く無く、教える必要が有りましたが、傲慢な人柄だったので私は教育を諦めました。 「優秀な代わりが入社されたので、私は辞めさせて頂きます」と言って、サッサと退職しました。

【設計/製図の授業】
 私は大学で機械工学を学びました。機械の設計には勿論・設計/製図は必要ですが、開発や研究にも必要不可欠です。実験装置を作る時も、設計/製図は必要になります。

 私は大学で設計/製図をマスターしました。2年生?か3年生?になると、広い製図室に各自に製図テーブルと脇机が与えられました。 最初・2時間ほどJISの機械製図(JIS B 0001)の講義が有り、その後は、各自に違う仕様が与えられて、ウインチとか遠心ポンプ等を設計するのです。A1サイズの図面用紙を大学が用意してくれていました。計算書を別に作成して期日までに提出しないと、単位が取れませんでした。

 特に設計の時間と言うのは無くて、自分の好きな時間にやるのです。提出期日が近づくと、徹夜する事も有りました。 当時は、どの大学の機械工学科でも同じようだったらしく、ウインチや遠心ポンプを設計する参考書を売っていました。

 4年生になると卒業設計と言うのが有って、自分で機種、仕様を決めて設計しました。私は、新聞か雑誌に写真が掲載された新しいタイプのガソリンエンジンを設計しました。外形写真をベースに、想像を逞しくして設計したのです。部品点数が多くなり、膨大な計算が必要で、予想以上に時間が掛かってしまったので、途中で嫌になった記憶が有ります。

 大学の機械工学科を卒業したら、入社して設計/製図を教えてもらう必要は全く有りませんでした。 (現在は、どうなっているのでしょうか?)

【入社後の設計/製図】
 私は1971年にK社の機械開発部で仕事を始めました。設計が必要な社員には事務机の他に製図テーブルが与えられていましたが、72年に正社員の製図テーブルは撤去される事になりました。 多分、社員が増えて来たのに、事務所のスペースはそのままだった為だと思います。(狭いスペースに、増えた社員を押し込むと言う本末転倒の発想でした。)

 私達の課は、フロアーの片隅に有りました。ベテラン社員達がスチール製の本棚を並べて隠し部屋を作り、そこに私専用の製図テーブルを置いてくれました。私達の課が、別のビルに有ったた設計部に移るまで、2年間・私はその隠し部屋で計画図を作成して、課に派遣されていた超ベテランの製図工に製図して貰いました。

【その後の設計/製図】
 私達の課は最初、本社ビルに有った設計部に、その後・K工場の設計部に移りました。管理職以外には事務机と製図テーブルが与えられました。製図テーブルはA0サイズの図面が描ける広い机でした。 工場の設計部に勤務する様になって暫くすると、正社員の製図テーブルは撤去されてしまいました。 (理由は前述と同じで、スペースが不足したためでした。)

 私は仕方が無いので、A3の方眼紙に計画図を描きました。一枚仕上げるのに最初は倍ほどの時間が掛かる様になってしまいました。 

 東京本社に、各工場の設計担当者が駐在するスペースが設けられていました。私は1980年から4年間ほど、そこで仕事をしました。情報収集、見積積算、見積書/配置図などの作成と顧客回りが仕事でした。設計事務所から(私専用の)製図工を一人派遣してもらって、私が方眼紙に描いた計画図を図面化してもらいました。

 引き合い件数がドンドン増えて、1年後には二人、2年後には三人製図工を抱える事になりました。週に二、三日、遠方に出張していましたので、配置の計画図は出張先のホテル等で作成しました。 大きなアタッシュケースを買って、A3の方眼紙と製図道具一式を入れていたのです。 (今でも、このアタッシュケースを持っていますが、「よくも、こんな重い物を運んだ!」と我ながら感心します。)

(余談 :東京駅前の道路の舗装工事) 東京に長く住んでいる方でも、東京駅前の道路の補修工事を見た事が無いようです。八重洲側の道路の交通量は凄まじいですから、舗装工事は不可欠です。東京駐在の頃は、残業で週に一、二日は最終電車に乗れませんでした。 夜の12時頃になると、大勢の作業者と作業車両が集まって来て、道路のアスファルトを剥がし始めました。朝の6時頃には、白線を引いて、車も人も引き上げ何も無かった様になりました。次の晩は、別の場所を舗装するのです。毎年一回は舗装工事をしていました。

 旧鉄鋼ビルの様に、外壁にタイルを貼ったビルでは、夜中にタイル一枚ずつ木槌(?)で叩いて、浮いていないか?剥がれる恐れはないか?気の遠くなる様なチェックしていました。残業していると、結構気になる音でした!

【キャド(CAD)の歴史】
 キャド(CAD)とは、コンピュータを用いて図面を作成するシステムの事です。キャム(CAM))とは、CADで作成した図面のデータで自動工作機械を動かすシステムの事です。1971年に私が入社したK社の某工場では、大形コンピューターを用いたCAD及びCAMを導入していました。

 1972年にアメリカのIBM社から、専用のパソコン・システムにCADソフト(キャダム :CADAM)を入れた物が発売されました。 1975年頃に私の所属していた課が、某工場の設計部に移ったのですが、その設計部はキャダムを3セット程導入していました。 当時のキャダムは非常に高価で、パソコン、モニター、キーボード、ファンクションキーボードなど一式で700万円ほどもした様です。(キャダムのソフトはロッキード社製でした。)

 普通のパソコン(PC)で使えるCADソフトが各社で種々開発され、少しずつ性能が改善され、ソフトもPCも安価にななってきました。キャダムは非常に優れたソフトでシェアを50%以上持っていたと思いますが、(専用のパソコン・システムが必要で、)普通のパソコンで使用できる様にソフトを修正するのが難しかったのか?キャダムは発売中止なりました。

 私が出向した1996年頃に、やっと一部の中小企業でもCADが採用される様になりました。

(余談 :CAD教室) CAD教室の社長(TN氏)から、「キャドオペレータを育てるのではなくて、設計者を育てる教室にしたい」と相談を受けました。キャドの導入が始まった頃は、キャドの操作が難しいと多くの企業は考えていました。 TN氏は、高校を卒業した男女に1年間掛けて(ノンビリと)キャド操作と製図を教えていたのです。TN氏は大企業で設計をした経験から、「図面を作成する職場に若い子が入ったら、直ぐにキャドを操作して図面が描ける様になる」と思っていたのです。 要するに、自分が経営するCAD教室は必要ないと考える様になっていたのです。

 TN氏は、「設計者を養成する教室では、どんな事を教えたら良いか?」私に相談して来たのです。私は、カリキュラムと、その概要を検討しました。二、三回会って話したら、TN氏と私は、「キャドオペレータを目指す子に、工学を教えても身に付くはずがない」と考えたので、この計画は中止しました。

【三次元キャド(3D-CAD)】
 私が入社した年(1971年)に、K社はボーイング社と技術提携しました。ボーイング社から送って来る図面は全て三次元キャド(3D-CAD)で作成していました。ボーイング社では社員の大半が二次元で描いた図面を理解出来無かった為の様でした。(配管図さえ、三次元で描いていました。)

 K社でも1995年頃には、パソコンに3D-CADを入れて、建設機械の計画図等を描く様になっていました。部品の製作図は今でも二次元ですが、2010年頃になっても、3D-CADデータから二次元の部品製作図を作成するのは難しかった様でした。 それで、3D-CADの計画図で機械の動きをチェックして、OKだったら、2D-CADで計画図を一から描いて、そのCADデータから部品製作図を作っていました。

(余談) 東大の機械工学科を(銀時計をもらって)首席で卒業した社員と数年間同じ課に勤務した事が有ります。彼は二次元で描いた図面が理解出来ず、描く事も出来ませんでした。人事部のミス(?)で、設計に勤務していましたが、設計の仕事が出来る分けがありません!(彼の頭の中を覗いて見たかったです!)

【私とキャド(CAD)】
 私が最初にCADに取り組んだのは2000年で、社員150名程の中小企業の開発部に出向した時です。出向する1年前に、設計課が外国製の非常に珍しい二次元キャド(2D-CAD)を導入し、少し前に開発部も2セット導入していました。開発担当者は私を含めて5名でした。3名は製図テーブルで手描きでしたが、一人(HK氏)はパソコンとCADで設計/製図している事になっていました。

 私はHK氏からCADの操作を教えてもらう事になっていました。この会社は、不思議な事にCADの操作説明書を入手していませんでした。HK氏は、誰かに操作を少し教えてもらった様でしたが、まだ十分使いこなせていませんでした。HK氏は、製図テーブルを撤去されており、CADも旨く使えない状態で、私に教えられる状態では無かったのです。

 私は設計課に教えて貰いに行ったのですが、開発部と設計課は”犬猿の仲”の様な状態で、追い返されました。 私が1996年に出向する時、友人がオートキャド(AutoCAD)とその操作説明書をプレゼントしてくれていました。 その操作説明書を参考に、想像を逞しくして、メモを取りながらCADを操作しました。2週間ほどすると、何とか製図出来る様になりました。

 設計課の若手社員達が、定時後に私の様子を見に来て、「お疲れ様!」とか言って帰る様になりました。 当時、私は54歳の”老人”だったので、若手社員達は多分、「こんな年寄りがCADを使える様になる」とは思っていなかったと思います。 半月程してCADを使って計画図が描ける様になると、設計課の一人が彼らの作った機械要素(ボルト、ナット、配管部品など)のCADデータをCDに入れて持って来てくれました。 結局、私がHK氏にCADを教える事になったのです。

 事情があって、1年もしない内に別の会社に出向しました。そこで使用していたCADは、大手電機メーカーが開発した非常に特殊なCADでした。(手書きの時の様に)最初に図面のサイズを決め、縮尺を決めて作図する方式でした。CADの長所が生かされない、とんでもないCADでした。 調べると、このCADは殆ど売れておらず、開発を中断し、近々(ちかぢか)販売も止める事になっていました。 簡単な操作説明書が有ったので、このCADも使える様になりました。

 完成品の組立図をCADデータで要求する顧客が有ったので、社長を説得してAutoCADを買って貰いました。3年ほどして、別の会社に出向させられたのですが、そこでは、古手の社員は手描きで、若い社員はAutoCADで製図していました。勿論、私はAutoCADを使いました。

 私は50歳の時にK社から出向して、中小企業で10年間働きました。給料はK社から頂いていたのです。K社の定年は60歳で、定年になる1ケ月前に、最初に出向した会社(N社)の社長から、「高給を出すから来て欲しい」と言う電話を頂きました。

 N社に最初に出向した時は、全員手描きで設計していましたが、2D-CADを採用していました。国内の企業が開発したキャドで、手描きに慣れた人が比較的簡単に操作出来る様に工夫したキャドでした。操作説明書が有り、全員使いこなしていたので、私も直ぐに操作出来る様になりました。

 顧客の多くから、コピーした図と一緒にAutoCADデーターを提出する様に要求される様になっていました。AutoCADに変換すると文字等が『化け』てしまい、修正に時間が掛かりました。 それで、結局・私はAutoCADを使用しました。

 私は10年間で4種類の二次元キャド(2D-CAD)が使える様になりましたが、設計事務所から派遣されてきたキャドオペレータは、もっと沢山の種類のキャドが操作出来ました。私の独断と偏見ですが、「キャド教室は不要で、慣れたら誰でもキャドは使える」と思います。特に、二十歳代の若者は、男性も女性も習得するのが早いです。

(余談 :データーの保管) N社では月に一度、CADデーターをCDに記録して、設計室に保管していました。「万一火災が発生したら、貴重なデーターを失ってしまうから、別棟の倉庫に保管しましょう!」と提案したのですが、社長以下誰も賛同してくれませんでした。数か月後に社長の友人の会社で火災が発生して、全てのパソコンとCADデーターを消失してしまいました。 次の日から、CDの記録を2部作って、倉庫と社長の自宅に保管する事になりました。

【世の中の変化】
 現在は手描きで図面を作成している会社は殆ど有りません。通信システムは5Gの時代に入ろうとしていますが、4Gでも多量のデーターを遣り取り出来ます。設計/製図の職場は、ドンドン変わって来ています。その例を以下に書きます。

① 昔は図面のコピーを持参したり、郵送していました。2000年頃から、中小の加工業者でもA1用の大形プリンターを導入する様になってきて、大きな部品の加工の見積を取る時、CADデータを送れば良い様になってきていました。

② 大手企業の山陰地方にある工場から、ダクトを改修したいと電話が有りました。私が勤務していた会社でしか製造出来ない部品(N部品)が必要でした。交通の便が悪く、出張すると一泊二日の旅になるのです。予算を聞くと、とても対応出来ない額でした。然し、その大手企業からは沢山注文して頂いていたので、無下には断れませんでした。

 「N部品だけ作って送ります。ダクトは設計だけしますから、近くの町工場で作って下さい」と回答しました。担当者は不安になって、「打ち合わせに来てください」とか「何とか、ダクトも作って下さい」と懇願しましたが、赤字の仕事は受けられません。 担当者を𠮟咤激励して、私の提案で進めました。電話で遣り取りして、CADデータを送っただけでしたが、旨く行きました。

 この手の注文は毎年・何件も有りましたが、出張して打合せ、ダクトも作り、据付作業員も派遣していましたが、そんな必要は無かったのです。

③ 私が勤務したK社では、1975年頃・数本の電話回線を使ったテレビ電話室が神戸と東京に有りました。私は数回利用しましたが、映像は”ぎこちなかった”です。現在は、スマホで無料のテレビ電話が利用出来ます。人口の密集した地域では、もう直ぐ『5G』の時代になります。 4Kか8Kの大きなモニターを設置したテレビ電話室が各社に普及したら、新幹線に乗って本社の会議に参加する必要は無くなり、遠方の顧客に出向く必要も無くなります。

④ 前にも書きましたが、英語で図面や仕様書などを作成する企業が増えて来ています。 今から20年以上前の2000年頃に、英語の読み書きが出来る国民が多いいフィリピンに、設計事務所を設けた会社が有りました。来日してキャドオペレータになったフィリピン人を支援して、フィリピンの田舎に設計事務所を設立させた企業も有りました。 頭脳明晰な人が、キャドオペレータを続けていると、設計の領域の知識を持つ様になります。私が会ったフィリピン人の社長は、正にそんな方でした。

(余談 :田舎に設けるのがポイント) 日本にも「生まれ故郷を離れたくない」と言う人が多いい地域が有ります。例えば、祭りが有名な岸和田(だんじり祭り)や姫路市白浜町(灘のけんか祭り)。 フィリピンにも田舎に行くと、そんな地域が有るそうです。ケソン市やマニラ市だと、腕が上がると給料の高い会社に移ってしまうようですが、田舎だとそんな心配はしなくて良い様です。

(余談 :スペルミス) 1980年頃、私は輸出案件を年に10件ほど担当しました。大手エンジニアリング会社に英語の図書を提出しました。輸出用の仕様書は事細かく書く必要が有るので、100ページ以上になりました。当時・最も大きかったエンジニアリング会社(CC社)は、提出した図書を入念にチェックして、スペルミスが6カ所も有ると再提出を要求してきました。「今回は3カ所あった」などと電話してきました。 私は英語が苦手でしたが、直ぐに殆どスペルミスが無い仕様書を作れる様になりました。 (種明かし:IBM製の記憶装置付きタイプライターを使っていたからです。前に作った仕様書のコピーを取って、必要な個所のみ修正すれば新案件の仕様書の完成です!)