「私が社会人になって、どんなにして勉強したか?」について書きます。時代が大きく変化したので、私のやり方を真似る事は出来なくなっていますが、現在にマッチする様に工夫して勉強して下さい。 日本は年功序列の社会ですが、社員の能力をチェックして、有能な社員には”それなりの賃金”を支払う企業が増加しています。スキルアップして高給をもらいましょう!
【フォートラン】
K社に入社すると同期が450人ほどもいました。 私を含めて10人程の工学部卒が機械開発部に1年間仮配属になりました。 私ともう一人が、化学工学関係の先端技術を調査するグループに仮配属されました。 そこで、幸いな事に大形コンピューターを用いた技術計算の仕事をしました。
コンピュータを用いる計算では『フォートラン(FORTRAN)』と言う言語が使用されます。残念ながら大学では勉強しませんでした。新入社員研修の一環として、数時間・基礎を教えてもらいました。その知識を直ぐに活用出来たのです。
戦後、アメリカ政府はアメリカの企業に金を出して種々の研究を依頼しました。その結果は、国の報告書として出版されました。 その一つが、ゼネラル・エレクトリック(GE)が担当した、非常に特殊な熱交換器の性能計算プログラムでした。報告書には、使用している計算式、プログラム、テスト用のインプットデータ、計算結果が記載されていました。
この種の報告書には、巧妙に『故意のミス』が隠されているので、計算が出来なくなっていました。私達の仕事は、計算式の『故意のミス』を解明して、プログラムの『故意のミス』を見付けて、正しいプログラムを作成する事でした。 私達の作ったプログラムに、GE社のインプットデータを入れて計算すると、報告書と全く同じ計算結果が得られました。
NECが88や98シリーズのパソコンを発売した頃からは、ベーシック(BASIA)と言う言語で計算しました。 1985年にアップルPCでエクセル(Excel)が使用出来る様になりましたが、私は1990年頃から使用しました。現在のエクセルは使い勝手が悪くなっていますが、当時は『絵』も描き易く、フィルター機能も有るので重宝しました。 その後、ヴィジュアル ベーシック(Visual Basic :VB)にも取り組みましたが、中小企業に出向するとVBを操作出来る社員が殆どいなかったので、エクセルに戻りました。 エクセルで『絵』、計算式、説明付きの技術計算プログラムを沢山作成しました。
【半導体】
私が社会人になった1971年頃は、部長職や重役向けの、民間企業が主催する(高額な会費を取る)最先端技術や国が力を入れる工業分野に関する講習会/勉強会が東京で有りました。K社の重役達も申し込むのですが、予定が入って参加出来なくなると、機械開発部に「誰か参加させて、会で配布した資料に要約文書を付けてを提出しろ」と言ってきました。 部員50名程集めて、挙手で希望者を募りました。
私は勢いよく手を挙げたのですが、他には誰もいませんでした。重役に報告書を提出する事の大変さを、私は全く理解出来ていなかったのです。 第一回目の報告書はすんなりと受け取って貰えたので、次の時も私は挙手しました。何回目からか、秘書室から「もう少し大きな字で書け」、「もっとポイントを絞れ」・・・とか、電話でアドバイスしてくれる様になりました。1年程すると、秘書室が私を指名して来る様になりました。
そんな中に、半導体に関する勉強会が有りました。報告書を提出すると、「半導体の開発状況を調査して、時々報告書を提出するように」と指示が有りました。重役の”お墨付き”が頂けたので、私は半導体の情報を集める様になりました。当時は半導体の技術革新は凄まじく、価格は急激に低下しました。
(余談) 何の講習会だったか忘れてしまいましたが、GHQ本部の有った『第一生命ビル』で開催されたことが有ります。 「吉田茂とマッカーサーがここで交渉したのだ!」と思い、休憩時間に許される範囲で見て回りました。『第一生命ビル』にはその後も行きました。外観は昔のままですが、1989年から内部のリホームが始まり、マッカーサーの執務室以外は昔の面影は無いようです。
【ガスタービン】
私がガスタービンの仕事を始めた経緯は、先週のブログに書きました。課長のNM氏は素晴らしい技術者で、私を厳しく育ててくれました。
ノルウェーの兵器廠(KB社)が開発したガスタービンを、国産化するのが狙いでした。最初は完成品を輸入し、次の段階では部品の状態で輸入して組立、最終的には部品を国産化する事になっていました。 課長以下5人でスタートしたガスタービン課は1年後には10人になっていました。課員が増えても仕事は山の様に有り、毎日残業しました。
現在は『日本ガスタービン学会』が有りますが、当時はまだ勉強会の様な組織でした。私は、直ぐにガスタービンの勉強会に入り、東京で年に二、三回開かれた会に参加しました。
(余談) NM氏は私同様に貧しい家に育った様で、酸いも甘いも知っている方で、課員がミスしても決して怒鳴る事は有りませんでした。英会話も上手で海外出張の経験が豊富でした。奥さんも良く出来た方で、課員が初めて海外出張する事になると、会社に来られて用意すべき物を事細かく教えていました。 出張先で一緒に風呂に入った課員が、「課長は褌(ふんどし)をしていた!」と吹聴して回りました。 NM氏は何時も趣味の良いオーダーメードと思われるスーツを着ておられたので、想像外でしたが、私は「ほっと!して」親しみを覚えました。
【消音器】
ガスタービンの仕事を始めて二、三か月後に、大手ホテル企業が東南アジアに建設中の大きなホテルから、非常用ガスタービン発電装置の引き合いが入りました。地下室に発電装置を設置して、吸排気口を日本庭園の隅に設ける計画でした。運転時に許容される騒音レベルは、日本の住宅街並みの、厳しいものでした。 非常に大掛かりな消音器が必要なのです。
第1回目の打合せの3日前に、NM氏から消音器の設計を担当する様に言われました。私はまだ消音器については全く勉強していませんでした。(前稿に書きました)振動・騒音の研究チームのリーダーだったA氏に相談しました。A氏から2時間ほど消音器に関する講義を受け、『騒音・振動対策ハンドブック』を貸して頂きました。
私は2日間このハンドブックに齧り(かじり)付き、一人で顧客との打ち合わせに行きました。(NM氏は同行してくれなかったのです。) 大手ジェネコンのOB社がホテルの建設を受注済みで、研究所で騒音を研究されていた方が出席されました。彼が、「貴方の先生は何方ですか?」と聞くので、「A氏です。」と答えると、「それなら大丈夫だ!」と言ってくれました。 当時、日本で騒音を研究されている方は、(A氏とOB社の研究員を含め)10人程しかいなかったのです。時々集まって勉強会を開いていた様でした。
私が設計した最初の消音器でしたので、計画通りの性能が出るか心配でしたが、何のクレームも来なかったのでOKだったのだと思います。その後、私は消音器の設計ノウハウを整理して、課員の一人に教えました。
『騒音・振動対策ハンドブック』を読んでいて、「データーを波長で修正する必要が有る」と気が付きました。ハンドブックのデーターは周波数(Hz)で整理されていました。ガスタービンの排気温度は500℃~600℃にもなるので、音の速さ(音速)が早くなりますから、同じ周波数でも波長が長くなります。 この閃き(ひらめき)で、高性能のガスタービン排気消音器の設計が出来る様になったのです。
(余談 :HP社の関数電卓) 1972年にアメリカのフューレット・パッカード(HP)がスマホ程のサイズの関数電卓を発売しました。(関数電卓とは、三角関数、指数関数、√、logなどが計算出来る電卓です。) A氏の研究室では直ぐに一台購入しました。ガスタービンの排気消音器を設計するためには、前述の様に波長の補正計算が必要でしたが、手で計算すると長時間掛かりました。それで、A氏の研究室から時々、HPの電卓を借りて来ました。 (この電卓の価格は、私の月給の5ヶ月分以上しました。)
1973年の3月末に、私は夜中の12時過ぎに一人で残業していたのですが、経理の方が来られて、「80万円ほど金が余ってしまったので、至急使ってしまう必要がある。君の欲しい物を買ってあげるから、明朝一番までにリストを作ってください。但し、買った物は会社の資産に出来ないので、君が責任を持って保管して下さい」と言いました。私は徹夜して「欲しい物リスト」を作りました。 HPの電卓は他部署の社員まで勝手に使う様になって、時々行方不明になりました。次の年の3月末にも、夜中に経理の方がこられて、2台目のHP電卓を買ってもらいました。
(余談 :騒音・振動対策ハンドブック) 私は消音器の設計では社内で有名になり、時々他部署から相談を受ける様になりました。当時、日本には高温ガスを扱える消音器メーカーが無かったので、2社育てました。 騒音・振動対策ハンドブックを借りにくる人が多くなり、私は貸した相手の名前と日付をメモしていたのですが、「僕は借りていない」と言う輩がいて、二冊目を買いました。 その時、絶版になっていたので、入手に苦労しました。 何年かすると、また「借りていない」と言う輩がいて、結局・三冊買いました。 消音器の設計には、それほど貴重な本だったのです。
【機械の制御】
ガスタービン課に、大学で機械制御を勉強した、私と同期の社員(OI君)がいました。OI君が制御設計を、私が機械設計を担当して、ペアを組んで仕事をする事が多かったのですが、OI君は制御設計には全く向いていな性格でした。 OI君の設計にはバグ(プログラムの誤り)が多くて、試運転に入ってもバグの修正に時間が掛かって、なかなか機械を動かすことが出来ませんでした。
K社では受注案件の予算管理と工程管理を機械設計担当者が負う事になっていました。 要するに、OI君がミスすると私が怒られたのです。 それで、機械制御関係の本を買って来て、独学で勉強しました。OI君が作成した設計図をチェックして、朱記訂正して返しました。
OI君は何台設計してもバグは少なくならなかったので、結局・私は自分で制御設計が出来る様になりました。私はその後、機械の開発を担当する様になり、①サイリスターを用いた電流制御、②パソコンを用いた機械の制御、③インバーター制御、④シーケンサー制御に取り組みました。 50歳で出向してから、制御担当者が現地で修正した制御プログラムをメールに添付して送ってもらい、プログラムを読んで機械の動きを把握して、(私が残業して)「取り扱い説明書」を作成し、→メール→現地で印刷する様にしました。 引き渡し運転/説明の時に「取り扱い説明書」が渡せるので、顧客に好評でした。
(余談) OI君はその後も制御設計部署で仕事を続けましたが、ミスは無くならなかった様で、叱られ続けました。十年もすると、性格が悪くなって冗談も通じなくなり、嫌われ者なってしまいました。然し、私が制御設計が出来る様になったのは、OI君のお蔭ですから感謝しています。
【英語】
ノルウェーのKB社とは英語で”やり取り”しました。KB社の図面、技術資料は全て英語でした。 冬季オリンピックのスキーで活躍するので、日本人の多くは『ノルウェー』と言う言葉を知っていますが、どんな国か詳しく知っている方は少ないと思われます。人口は兵庫県と同じくらい(540万人)しか有りません。国内の需要が少ないので、ちょっとした企業は国外に売る事を前提にして、カタログなどは英語で作成していました。
ガスタービン課は流体研究課の課長兼務のNM課長の下に、入社数年の社員二人と、前述のOI君と私の4人でスタートしました。私は4人の中で英語力が最も弱い社員でした。たぶんNM氏は、「私に英語力を付けさせないと、何ともならない」と考えたのだと思います。KB社から送られてきた図面や資料の翻訳は、全て私に命じました。 課が発足して1年程経つと、課員は9人に増強されており、2人は英語が堪能でしたが、英語の仕事は私が続けました。
NM氏がKB社に出す質問書等は、和文の原稿を私に渡し、私が英文にして返すと、チェック/訂正してくれました。そして、私がテレックスで送信するのです。 KB社からの返信は、最初の頃は、「30分で翻訳せよ」でしたが、→「25分で」→最後には「15分」の要求になりました。 お陰様で、英文の読み書きが人並みに出来る様になりました。 別の仕事に移っても英語の読み書きは不可欠でしたので、NM氏には今でも感謝しています。
(余談 :テレックス) 昔の通信システムは、電話とテレックス(Telex)でした。国際電話料金が無茶苦茶高かったので、海外とのやり取りにはテレックスが使用されました。テレックス装置は小さな机ほどの大きさで、キーボードを叩いて紙テープに打刻(穴を開け)→送信器にテープを挿入→送信するのです。 テレックスには①受信機能、②送信機能と③テープを作る機能、三つの機能が有りましたが、一つの機能を選択する様になっていました。 つまり、受信中は送信とテープ作成が出来なかったのです。
社員が200名ほど入ったビルに、テレックスは一台しか有りませんでした。テレックスは受信優先にセットされていたので、テープ作成中に受信すると、作業は中断しました。K社には欧米に何か所も事務所が有ったので、夜間は沢山受信しました。 夜の9時過ぎからテープ作成を始めましたが、終わるのが12時を過ぎる事が多々有りました。
【加工技術】
課長のNM氏から頂いたアドバイスは、「加工を外注する時は、担当者を会社に呼ぶのではなく、最初はその会社に君が行って打合せなさい」、「部品や機器を発注する時も、営業担当者を呼ぶのでは無く、初回は君が出向いて打合せしなさい」でした。 新幹線を利用する必要の有る遠方の会社にも出向くのです。
二十歳代だった若造の私が打合せに行っても、その会社で一番の技術者が丁寧に説明してくれ、必ず工場見学をさせてくれました。 私が依頼しようとしていた加工や機器以外の、その会社の自慢出来る技術や機器を説明し/見せてくれました。
北海道と沖縄以外の、多くの加工業者を訪問しました。加工技術の知見を深めたので、社内で特殊な加工が必要になった部署から、私は相談を受ける様になりました。 それで、更に業者を探し続けることになりました。メッキ、熱処理、鍛造、放電加工などの業者は沢山有りますが、(多分・世界に誇れる)高度な技術を持った中小企業も数社有りました。残念ながら、若手の育成に力を入れていなかったので、現在では出来なくなっているかも知れません
(余談) NM氏のアドバイスを、K社から出向した後も、私はずっと守りました。そして、若い社員達に同じアドバイスをしましたが、誰一人従ってくれませんでした。
(余談) 特注したら肉厚が非常に薄いステンレスのパイプは作ってくれますが、曲げるのは極めて難しいのです。国内で加工業者を探したのですが、見付かりませんでした。ヨーロッパの競合企業に、駄目元で業者を聞いたら笑われてしまいました。彼等は、九州の中小企業で加工してもらっていたのです。日本には、他にも素晴らしい技術が沢山有ります。
【各種弁の構造】
ガスタービンは非常用発電装置の原動機として、主として使用されました。 非常用が起動する時は、電力会社からの電気が止まった時です。 蓄電器(バッテリー)から直流電気を供給して、起動する方式でした。 バッテリーの容量を小さくするためには、電力消費量の少ないパイロット式直流電磁弁が必要でした。
NM氏は私に、ノルウェーのKB社が採用していた弁類を分解して、スケッチして、メカニズムを解明する様に指示しました。 電磁弁だけでなく、燃料制御弁、減圧弁、温度調節弁等も分解しました。ヨーロッパにフィッシャー(Fischer)と言う、有名な制御弁メーカーが有りますが、その製品を何点か分解しました。非常に良く出来ていたので感心しました。
A重油を使用される顧客が有ったのですが、タール状の物質が燃料系統の弁の内部に蓄積するので、年に一回分解して洗浄する必要が有りました。工場から作業員を出してもらうと金が掛かるので、何時も私が出張して作業しました。
(余談 :SMC社) 1979年頃、日本ではパイロット式直流電磁弁は輸入品を使用していました。国産のパイロット式直流電磁弁を調査する様に命じられていたのですが、国内にはメーカーが有りませんでした。 「焼結金属と言う会社が開発した」と聞いたので、私と同年配の担当者(S君)を呼んで打合せを始めました。
前述の様に、私は欧米の電磁弁を勉強していましたので、焼結金属工業の製品について細かい質問をしましたが、S君の回答は全て適切なものでした。焼結金属工業は自社製品と欧米メーカー品の詳細で/正直な(社内用の極秘)比較資料を作成していたのです。 納入実績を聞くと、殆ど売れていない事が分かりました。
東京ガスから、大手重電のH社経由で発電装置の引き合いが来て、私が担当する事になりました。当時、東京ガスは「電磁弁は信頼性の高い欧米の電磁弁しか使用しない」と言う社内規定が有りました。
S君に、「貴社の納入実績表に、大手企業の名前が書けたら、きっと売りやすくなる」、「この案件に貴社の電磁弁が採用して貰える様に努力するから、全面的に協力して欲しい」と言うと、S君は「極秘の社内資料を私に渡して良い」と言う許可を得てくれました。幸いな事に、東京ガスの担当者もH社の担当者も勉強家で優れた方でした。 東京ガスから特別の許可が出ました。 その後、ガスタービンには焼結金属工業製電磁弁を採用しましたが、(私の知る限りでは)電磁弁は一回もトラブルを起こしませんでした。
焼結金属工業はドンドン成長されて、社名を『SMC株式会社』に変えられました。今では従業員が2万人ほどの大企業になっています。
【フォートラン】
K社に入社すると同期が450人ほどもいました。 私を含めて10人程の工学部卒が機械開発部に1年間仮配属になりました。 私ともう一人が、化学工学関係の先端技術を調査するグループに仮配属されました。 そこで、幸いな事に大形コンピューターを用いた技術計算の仕事をしました。
コンピュータを用いる計算では『フォートラン(FORTRAN)』と言う言語が使用されます。残念ながら大学では勉強しませんでした。新入社員研修の一環として、数時間・基礎を教えてもらいました。その知識を直ぐに活用出来たのです。
戦後、アメリカ政府はアメリカの企業に金を出して種々の研究を依頼しました。その結果は、国の報告書として出版されました。 その一つが、ゼネラル・エレクトリック(GE)が担当した、非常に特殊な熱交換器の性能計算プログラムでした。報告書には、使用している計算式、プログラム、テスト用のインプットデータ、計算結果が記載されていました。
この種の報告書には、巧妙に『故意のミス』が隠されているので、計算が出来なくなっていました。私達の仕事は、計算式の『故意のミス』を解明して、プログラムの『故意のミス』を見付けて、正しいプログラムを作成する事でした。 私達の作ったプログラムに、GE社のインプットデータを入れて計算すると、報告書と全く同じ計算結果が得られました。
NECが88や98シリーズのパソコンを発売した頃からは、ベーシック(BASIA)と言う言語で計算しました。 1985年にアップルPCでエクセル(Excel)が使用出来る様になりましたが、私は1990年頃から使用しました。現在のエクセルは使い勝手が悪くなっていますが、当時は『絵』も描き易く、フィルター機能も有るので重宝しました。 その後、ヴィジュアル ベーシック(Visual Basic :VB)にも取り組みましたが、中小企業に出向するとVBを操作出来る社員が殆どいなかったので、エクセルに戻りました。 エクセルで『絵』、計算式、説明付きの技術計算プログラムを沢山作成しました。
【半導体】
私が社会人になった1971年頃は、部長職や重役向けの、民間企業が主催する(高額な会費を取る)最先端技術や国が力を入れる工業分野に関する講習会/勉強会が東京で有りました。K社の重役達も申し込むのですが、予定が入って参加出来なくなると、機械開発部に「誰か参加させて、会で配布した資料に要約文書を付けてを提出しろ」と言ってきました。 部員50名程集めて、挙手で希望者を募りました。
私は勢いよく手を挙げたのですが、他には誰もいませんでした。重役に報告書を提出する事の大変さを、私は全く理解出来ていなかったのです。 第一回目の報告書はすんなりと受け取って貰えたので、次の時も私は挙手しました。何回目からか、秘書室から「もう少し大きな字で書け」、「もっとポイントを絞れ」・・・とか、電話でアドバイスしてくれる様になりました。1年程すると、秘書室が私を指名して来る様になりました。
そんな中に、半導体に関する勉強会が有りました。報告書を提出すると、「半導体の開発状況を調査して、時々報告書を提出するように」と指示が有りました。重役の”お墨付き”が頂けたので、私は半導体の情報を集める様になりました。当時は半導体の技術革新は凄まじく、価格は急激に低下しました。
(余談) 何の講習会だったか忘れてしまいましたが、GHQ本部の有った『第一生命ビル』で開催されたことが有ります。 「吉田茂とマッカーサーがここで交渉したのだ!」と思い、休憩時間に許される範囲で見て回りました。『第一生命ビル』にはその後も行きました。外観は昔のままですが、1989年から内部のリホームが始まり、マッカーサーの執務室以外は昔の面影は無いようです。
【ガスタービン】
私がガスタービンの仕事を始めた経緯は、先週のブログに書きました。課長のNM氏は素晴らしい技術者で、私を厳しく育ててくれました。
ノルウェーの兵器廠(KB社)が開発したガスタービンを、国産化するのが狙いでした。最初は完成品を輸入し、次の段階では部品の状態で輸入して組立、最終的には部品を国産化する事になっていました。 課長以下5人でスタートしたガスタービン課は1年後には10人になっていました。課員が増えても仕事は山の様に有り、毎日残業しました。
現在は『日本ガスタービン学会』が有りますが、当時はまだ勉強会の様な組織でした。私は、直ぐにガスタービンの勉強会に入り、東京で年に二、三回開かれた会に参加しました。
(余談) NM氏は私同様に貧しい家に育った様で、酸いも甘いも知っている方で、課員がミスしても決して怒鳴る事は有りませんでした。英会話も上手で海外出張の経験が豊富でした。奥さんも良く出来た方で、課員が初めて海外出張する事になると、会社に来られて用意すべき物を事細かく教えていました。 出張先で一緒に風呂に入った課員が、「課長は褌(ふんどし)をしていた!」と吹聴して回りました。 NM氏は何時も趣味の良いオーダーメードと思われるスーツを着ておられたので、想像外でしたが、私は「ほっと!して」親しみを覚えました。
【消音器】
ガスタービンの仕事を始めて二、三か月後に、大手ホテル企業が東南アジアに建設中の大きなホテルから、非常用ガスタービン発電装置の引き合いが入りました。地下室に発電装置を設置して、吸排気口を日本庭園の隅に設ける計画でした。運転時に許容される騒音レベルは、日本の住宅街並みの、厳しいものでした。 非常に大掛かりな消音器が必要なのです。
第1回目の打合せの3日前に、NM氏から消音器の設計を担当する様に言われました。私はまだ消音器については全く勉強していませんでした。(前稿に書きました)振動・騒音の研究チームのリーダーだったA氏に相談しました。A氏から2時間ほど消音器に関する講義を受け、『騒音・振動対策ハンドブック』を貸して頂きました。
私は2日間このハンドブックに齧り(かじり)付き、一人で顧客との打ち合わせに行きました。(NM氏は同行してくれなかったのです。) 大手ジェネコンのOB社がホテルの建設を受注済みで、研究所で騒音を研究されていた方が出席されました。彼が、「貴方の先生は何方ですか?」と聞くので、「A氏です。」と答えると、「それなら大丈夫だ!」と言ってくれました。 当時、日本で騒音を研究されている方は、(A氏とOB社の研究員を含め)10人程しかいなかったのです。時々集まって勉強会を開いていた様でした。
私が設計した最初の消音器でしたので、計画通りの性能が出るか心配でしたが、何のクレームも来なかったのでOKだったのだと思います。その後、私は消音器の設計ノウハウを整理して、課員の一人に教えました。
『騒音・振動対策ハンドブック』を読んでいて、「データーを波長で修正する必要が有る」と気が付きました。ハンドブックのデーターは周波数(Hz)で整理されていました。ガスタービンの排気温度は500℃~600℃にもなるので、音の速さ(音速)が早くなりますから、同じ周波数でも波長が長くなります。 この閃き(ひらめき)で、高性能のガスタービン排気消音器の設計が出来る様になったのです。
(余談 :HP社の関数電卓) 1972年にアメリカのフューレット・パッカード(HP)がスマホ程のサイズの関数電卓を発売しました。(関数電卓とは、三角関数、指数関数、√、logなどが計算出来る電卓です。) A氏の研究室では直ぐに一台購入しました。ガスタービンの排気消音器を設計するためには、前述の様に波長の補正計算が必要でしたが、手で計算すると長時間掛かりました。それで、A氏の研究室から時々、HPの電卓を借りて来ました。 (この電卓の価格は、私の月給の5ヶ月分以上しました。)
1973年の3月末に、私は夜中の12時過ぎに一人で残業していたのですが、経理の方が来られて、「80万円ほど金が余ってしまったので、至急使ってしまう必要がある。君の欲しい物を買ってあげるから、明朝一番までにリストを作ってください。但し、買った物は会社の資産に出来ないので、君が責任を持って保管して下さい」と言いました。私は徹夜して「欲しい物リスト」を作りました。 HPの電卓は他部署の社員まで勝手に使う様になって、時々行方不明になりました。次の年の3月末にも、夜中に経理の方がこられて、2台目のHP電卓を買ってもらいました。
(余談 :騒音・振動対策ハンドブック) 私は消音器の設計では社内で有名になり、時々他部署から相談を受ける様になりました。当時、日本には高温ガスを扱える消音器メーカーが無かったので、2社育てました。 騒音・振動対策ハンドブックを借りにくる人が多くなり、私は貸した相手の名前と日付をメモしていたのですが、「僕は借りていない」と言う輩がいて、二冊目を買いました。 その時、絶版になっていたので、入手に苦労しました。 何年かすると、また「借りていない」と言う輩がいて、結局・三冊買いました。 消音器の設計には、それほど貴重な本だったのです。
【機械の制御】
ガスタービン課に、大学で機械制御を勉強した、私と同期の社員(OI君)がいました。OI君が制御設計を、私が機械設計を担当して、ペアを組んで仕事をする事が多かったのですが、OI君は制御設計には全く向いていな性格でした。 OI君の設計にはバグ(プログラムの誤り)が多くて、試運転に入ってもバグの修正に時間が掛かって、なかなか機械を動かすことが出来ませんでした。
K社では受注案件の予算管理と工程管理を機械設計担当者が負う事になっていました。 要するに、OI君がミスすると私が怒られたのです。 それで、機械制御関係の本を買って来て、独学で勉強しました。OI君が作成した設計図をチェックして、朱記訂正して返しました。
OI君は何台設計してもバグは少なくならなかったので、結局・私は自分で制御設計が出来る様になりました。私はその後、機械の開発を担当する様になり、①サイリスターを用いた電流制御、②パソコンを用いた機械の制御、③インバーター制御、④シーケンサー制御に取り組みました。 50歳で出向してから、制御担当者が現地で修正した制御プログラムをメールに添付して送ってもらい、プログラムを読んで機械の動きを把握して、(私が残業して)「取り扱い説明書」を作成し、→メール→現地で印刷する様にしました。 引き渡し運転/説明の時に「取り扱い説明書」が渡せるので、顧客に好評でした。
(余談) OI君はその後も制御設計部署で仕事を続けましたが、ミスは無くならなかった様で、叱られ続けました。十年もすると、性格が悪くなって冗談も通じなくなり、嫌われ者なってしまいました。然し、私が制御設計が出来る様になったのは、OI君のお蔭ですから感謝しています。
【英語】
ノルウェーのKB社とは英語で”やり取り”しました。KB社の図面、技術資料は全て英語でした。 冬季オリンピックのスキーで活躍するので、日本人の多くは『ノルウェー』と言う言葉を知っていますが、どんな国か詳しく知っている方は少ないと思われます。人口は兵庫県と同じくらい(540万人)しか有りません。国内の需要が少ないので、ちょっとした企業は国外に売る事を前提にして、カタログなどは英語で作成していました。
ガスタービン課は流体研究課の課長兼務のNM課長の下に、入社数年の社員二人と、前述のOI君と私の4人でスタートしました。私は4人の中で英語力が最も弱い社員でした。たぶんNM氏は、「私に英語力を付けさせないと、何ともならない」と考えたのだと思います。KB社から送られてきた図面や資料の翻訳は、全て私に命じました。 課が発足して1年程経つと、課員は9人に増強されており、2人は英語が堪能でしたが、英語の仕事は私が続けました。
NM氏がKB社に出す質問書等は、和文の原稿を私に渡し、私が英文にして返すと、チェック/訂正してくれました。そして、私がテレックスで送信するのです。 KB社からの返信は、最初の頃は、「30分で翻訳せよ」でしたが、→「25分で」→最後には「15分」の要求になりました。 お陰様で、英文の読み書きが人並みに出来る様になりました。 別の仕事に移っても英語の読み書きは不可欠でしたので、NM氏には今でも感謝しています。
(余談 :テレックス) 昔の通信システムは、電話とテレックス(Telex)でした。国際電話料金が無茶苦茶高かったので、海外とのやり取りにはテレックスが使用されました。テレックス装置は小さな机ほどの大きさで、キーボードを叩いて紙テープに打刻(穴を開け)→送信器にテープを挿入→送信するのです。 テレックスには①受信機能、②送信機能と③テープを作る機能、三つの機能が有りましたが、一つの機能を選択する様になっていました。 つまり、受信中は送信とテープ作成が出来なかったのです。
社員が200名ほど入ったビルに、テレックスは一台しか有りませんでした。テレックスは受信優先にセットされていたので、テープ作成中に受信すると、作業は中断しました。K社には欧米に何か所も事務所が有ったので、夜間は沢山受信しました。 夜の9時過ぎからテープ作成を始めましたが、終わるのが12時を過ぎる事が多々有りました。
【加工技術】
課長のNM氏から頂いたアドバイスは、「加工を外注する時は、担当者を会社に呼ぶのではなく、最初はその会社に君が行って打合せなさい」、「部品や機器を発注する時も、営業担当者を呼ぶのでは無く、初回は君が出向いて打合せしなさい」でした。 新幹線を利用する必要の有る遠方の会社にも出向くのです。
二十歳代だった若造の私が打合せに行っても、その会社で一番の技術者が丁寧に説明してくれ、必ず工場見学をさせてくれました。 私が依頼しようとしていた加工や機器以外の、その会社の自慢出来る技術や機器を説明し/見せてくれました。
北海道と沖縄以外の、多くの加工業者を訪問しました。加工技術の知見を深めたので、社内で特殊な加工が必要になった部署から、私は相談を受ける様になりました。 それで、更に業者を探し続けることになりました。メッキ、熱処理、鍛造、放電加工などの業者は沢山有りますが、(多分・世界に誇れる)高度な技術を持った中小企業も数社有りました。残念ながら、若手の育成に力を入れていなかったので、現在では出来なくなっているかも知れません
(余談) NM氏のアドバイスを、K社から出向した後も、私はずっと守りました。そして、若い社員達に同じアドバイスをしましたが、誰一人従ってくれませんでした。
(余談) 特注したら肉厚が非常に薄いステンレスのパイプは作ってくれますが、曲げるのは極めて難しいのです。国内で加工業者を探したのですが、見付かりませんでした。ヨーロッパの競合企業に、駄目元で業者を聞いたら笑われてしまいました。彼等は、九州の中小企業で加工してもらっていたのです。日本には、他にも素晴らしい技術が沢山有ります。
【各種弁の構造】
ガスタービンは非常用発電装置の原動機として、主として使用されました。 非常用が起動する時は、電力会社からの電気が止まった時です。 蓄電器(バッテリー)から直流電気を供給して、起動する方式でした。 バッテリーの容量を小さくするためには、電力消費量の少ないパイロット式直流電磁弁が必要でした。
NM氏は私に、ノルウェーのKB社が採用していた弁類を分解して、スケッチして、メカニズムを解明する様に指示しました。 電磁弁だけでなく、燃料制御弁、減圧弁、温度調節弁等も分解しました。ヨーロッパにフィッシャー(Fischer)と言う、有名な制御弁メーカーが有りますが、その製品を何点か分解しました。非常に良く出来ていたので感心しました。
A重油を使用される顧客が有ったのですが、タール状の物質が燃料系統の弁の内部に蓄積するので、年に一回分解して洗浄する必要が有りました。工場から作業員を出してもらうと金が掛かるので、何時も私が出張して作業しました。
(余談 :SMC社) 1979年頃、日本ではパイロット式直流電磁弁は輸入品を使用していました。国産のパイロット式直流電磁弁を調査する様に命じられていたのですが、国内にはメーカーが有りませんでした。 「焼結金属と言う会社が開発した」と聞いたので、私と同年配の担当者(S君)を呼んで打合せを始めました。
前述の様に、私は欧米の電磁弁を勉強していましたので、焼結金属工業の製品について細かい質問をしましたが、S君の回答は全て適切なものでした。焼結金属工業は自社製品と欧米メーカー品の詳細で/正直な(社内用の極秘)比較資料を作成していたのです。 納入実績を聞くと、殆ど売れていない事が分かりました。
東京ガスから、大手重電のH社経由で発電装置の引き合いが来て、私が担当する事になりました。当時、東京ガスは「電磁弁は信頼性の高い欧米の電磁弁しか使用しない」と言う社内規定が有りました。
S君に、「貴社の納入実績表に、大手企業の名前が書けたら、きっと売りやすくなる」、「この案件に貴社の電磁弁が採用して貰える様に努力するから、全面的に協力して欲しい」と言うと、S君は「極秘の社内資料を私に渡して良い」と言う許可を得てくれました。幸いな事に、東京ガスの担当者もH社の担当者も勉強家で優れた方でした。 東京ガスから特別の許可が出ました。 その後、ガスタービンには焼結金属工業製電磁弁を採用しましたが、(私の知る限りでは)電磁弁は一回もトラブルを起こしませんでした。
焼結金属工業はドンドン成長されて、社名を『SMC株式会社』に変えられました。今では従業員が2万人ほどの大企業になっています。