これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

たわけ者(田分け者)

2018-08-04 11:10:44 | 子供の教育
 私の曽祖父は江戸時代生まれの山村の地主でした。山深い山村でも勉強出来た様で、漢文が得意な学者気取りの人だった様です。
 曽祖父には息子が四人いました。今回は、この息子達と”父の教え”の話しです。

【曽祖父は”田分け者”でした】
 明治の初め頃、山奥でも文明開化の波が伝わって来ていたと思われます。曽祖父は、「財産は均等に分けるべきである!」と考えた様です。
 本家を継ぐ息子以外の三人に、(曽祖父がまだ元気な内に)家、田畑、山林を与え独立させました。それぞれが一家を養うに十分な田畑と山林をもらった様です!

【山村の地主の生活】
 1947年から”農地改革”が実施されましたが、それ以前は、私の故郷では田畑と山林の大半は地主達が所有していました。農地改革では山林は除外されましたので、大地主の損害は少なかったようです。(田畑の面積は少なかったので。)

 小規模の地主は自分でも働いていたようですが、大地主は番頭さんに田畑と山林の管理を任せ、番頭さんの報告を聞くのが大地主の仕事です。私の曽祖父も番頭さん任せの方だった様です。

 私の故郷には急峻な山が多く、慣れた番頭さんなら容易に登り下り出来ても、大地主が山を見回るのは難しい。それに、大地主は半端でない数の(面積の)山を所有していました。毎日、見回りしても1年間では全ての山を回れない程です。

 一年間に大地主が必要な金を得るために”A”と言う山を伐採し、次の年に”B”、その次の年に”C” →→→100年以上経過→→→曾孫か玄孫の代には山”A”が十分成長して、山”A”が伐採される。

 私が子供の頃、村には大地主が二軒残っていました。一軒は白浜温泉の別宅で、優雅な生活をされていた様です。もう一軒は村に住んでおられました。村のために募金を募る時、旦那衆達が話し合って”奉加帳”を作り、父は、毎回二軒の大地主にお願いに行く役をやっていました。 先ず村に住んでらおれた大地主の所にお願いに行きました。毎回、気持ち良く、多額の寄付をされた様です。白浜温泉の大地主の方も、それなりの金額を出してくれた様です。

余談 : 紀州の山林王を誘拐する”大誘拐”と言う映画をご存知ですか?もちろん、フィクションですが、村に住んでおられた大地主がモデルだと私は勝手に思っています。
 ”大誘拐”の身代金は途方もない金額”100億円”です。戦後は木材が高かったので(その後は暴落していますが)、100億円準備出来る山林王は全国に何人もおられたと思われます。私の知るところでも、鹿児島(?)の山林王はサンフラワーの1号船~3号船を建造され、新宮市(?)の山林王は勝浦と東京・晴美ふ頭にホテル浦島を建てました。

 脇道にそれてしまいましたが、私は『中規模の地主や大地主は”汗水たらして働く”必要が無かった』と言いたかったのです。  曽祖父は四人の息子に”汗水たらして働く”事を教えるなど出来なかったと思います。

【私には祖父が二人いました】 
 曽祖父の四人の息子の一人が、私の祖父です。山奥の実家と町の中間の地点に、旅人相手の小さな茶店を開いて生活費を得ていた様です。 この祖父を”A祖父”と呼ぶ事にします。

 A祖父にも息子が四人いました。次男が私の父です。四男は若くして亡くなり、次男と三男は養子に出されました。親から相続した財産はかなり無くなっていた様ですが、それでも一家が食べていける財産をA祖父は長男に残して亡くなりました。

 A祖父も長男に”汗水たらして働く”事は教えなかった様で、長男は結婚してそれ程たたない内に、町に二号さんを囲って家には寄り付かなくなりました。

 私の父が養子に行ったのは、曽祖父の四人の息子の一人です。 つまり、父は伯父さんの家に養子に入ったのです。この”伯父さん”が私の第二の祖父に当たります。(”B祖父”と呼ぶ事にします。)

 B祖父は私が高校生になる頃までは健在でした。B祖父は私が遊びに行くと喜んだので、時々会いましたが、父はB祖父が大嫌いだったので、会っていることは父には一切話しませんでした。

 B祖父は趣味人で、”汗水たらして働く”事などは論外の人でした。趣味の釣り竿はよく作っていましたが、草引きや、畑仕事をしているのを見たことが有りませんでした。

【父は尋常小学校中退です!】
 B祖父は働き手が欲しかったので、父を養子にしたのです。父は尋常小学校を中退して10才頃に丁稚奉公に出た様です。

 丁稚奉公を続けていたら将来が無いと考えて、13才の頃に陸軍幼年学校に挑戦して合格しました。(小学校中退で幼年学校に入った例は少ないそうです) その後、陸軍士官学校を出て軍人になりました。

 B祖父の方は娘が出来て、娘に養子をとって、孫が3人生まれ、合計5人の家族になっていました。家と屋敷を除いて、曽祖父から頂いた田畑と山林は全て売ってしまっていたそうです。

 父は終戦まで仕送りを続け、5人の家族を支えました。

【戦後】
 終戦の翌年(1946年)の春に、私の家族(7人)はB祖父の家に帰りました。狭い家に12人が住む事になったわけで、大変だったと思われます。そのご直ぐ、私が生まれたので、13人になりました。

 父は木材と山林の売買を始め、かなりの収入を得る様になり、B祖父が手放した田畑の一部を買い戻し、その半分と、蔵・納屋付きの家を建ててB祖父一家に譲渡して離縁しました。(1950年頃)

 私の祖父はA祖父に戻ったわけです。父がA祖父と生活したのは短かったと思われますが、毎年一回は私だけ連れてA祖父の墓参りをしました。 (2016年に最後の墓参りをしようと思って、行きましたが、立派な墓石に変わっていてビックリしました。)

【父の兄】
 町で二号さんを囲っていた父の兄は(戦後)結核になり、二号さんに介病されていました。父は町に出た時は必ず兄を見舞っていた様です。生活費を渡していたのだと思いました。一年に1,2回、私を連れて行きました。床に伏した伯父への挨拶が終わると、私は部屋を出されたので玄関先でする事もなく父の出てくるのを待っていました。

 1955年頃、2,3日留守にしていた父から、「兄が亡くなったので、○○時頃前を通るからお別れをしなさい」と電話がありました。トラックの荷台に乗せられた棺に別れをした事を今でも思い出します。

 後で聞いた話では、父は二号さんに当面生活に困らない金を渡したそうです。明治生まれの男の”心意気”だったのでしょうか?
 この伯父はA祖父と同じ墓に眠っています。

【父と一緒に働きました】
 私がまだ小さいころから何か始める前に、父は「ここに一枚田んぼを造ろう」、「牛小屋を建てよう」、「明日から薪を取りに行こう」と半分相談の様に話してくれました。

 学校が終わったら、父と一緒に働きました。山での仕事の時は、いつも弁当を残してくれていて、美味しく頂いたあと手伝いました。(山に行く時、父は御飯が一升入った飯盒を持って行きました。)

 父と一緒に働く事は楽しく、嫌だと思った事は有りませんでした。

 余談ですが、当時私はカトリック協会の日曜学校に通っていましたので、父と働いたのはウイークデーです。 (日曜学校については後日書きます。)

【父の教え】
 長男が出来て、暫くした時、『汗水たらして働いている時でも、仕事が楽しい』と思うように父は、私を育てたのだと気付きました。

 息子二人と会社から預かった若い社員には、この父の教えを思い出しながら指導してきたつもりです。

【姉達は?】
 私には5人の姉がいますが、父は、姉達の教育は母に任せていたのです。三度の食事、洗濯や掃除は、ほとんど姉達が分担してやっていました。それで十分だと思たのでしょう。
 私に娘がいたら、息子と同じように育てたと思うのですが!