【はじめに】
前回に引き続き、N社について書きます。 私は、N社で2回、合計9年弱働きました。私の腕が振るえる仕事が沢山有ったので、毎日サービス残業しました。充実した楽しい日々を送りました。
N社には重大な問題が二つ有りました。 ❶私が大嫌いな虐めが行われ、社長が黙認した事、❷社長のボンクラ息子を会社に入れた事です。ボンクラ息子については、後日、投稿します。
【N社の最大の問題点 :虐め!】
『虐め』は大人の世界にも存在しますが、虐めを罰する法律は有りません。然し、『言葉の暴力』の一部は犯罪になるそうです。 例えば『侮辱罪』ですが、1年以下の懲役・禁錮または30万円以下の罰金が科せられます。
N社の現場職で日常的に酷い虐めが行われていました。新しく社員を雇っても→→1年間耐えられる人はまれだったので→→製造部長がハローワークに年に何回も求人に行く必要があり→→社長(N2氏)に、虐めている社員を解雇する様にお願いするのですが→→N2氏は取り上げませんでした。
私は「虐めは犯罪だ!」と考えています。「犯罪を放置したり、毅然とした態度を取れない人間は社長になってはいけない!」と思っています。
★★★ 虐めのケース❶ ★★★
N社は、製紙機械を設計製造する会社です。 製紙工場では設備の改修工事などを、正月、ゴールデンウイーク、盆に行います。 N社では、これらの期間の前に、納入する機械を組み立て→→試運転するので→→超!多忙(繫忙期)になります。 然し、年間30%ほどは現場作業者、特に仕上組立工には仕事が有りません(閑散期)→→大人しく時間を潰してもらうのが仕事になります。
N社では、繫忙期(はんぼうき)には仕上組立工が五、六人必要でした。 1996年に、私がN社に出向した時は閑散期(かんさんき)で、仕上組立工は、班長のD1氏、背が高くて筋肉質のD2氏、身長が150cm以下で羸弱(るいじゃく)なD3氏の3人でした。
繫忙期の前に仕上組立工を二人(D4氏、D5氏)雇いました→→閑散期になると→→班長のD1氏がD4氏を虐め始め→→1ヶ月ほどしてD4氏が退職し→→D5氏を虐め始め→→D5氏も辞めてしまいました。こんな事を繰り返していたのです。
4年後の閑散期に、D1氏の矛先がD3氏に向く様になって→→D3氏は覚悟していたのか?→→サッサと辞めてしまいました。 (2006年に私がN社に入社した時、D1氏は癌で亡くなっており、D2氏も退職していました。)
★★★ 虐めのケース❷ ★★★
2006年に私がN社に入社した時、E1氏が班長で、その下にE2氏、・・・何人かいました。E1氏とE2氏が虐めるのです。 製造部長が私に、「社長(N2氏)にE1氏を解雇する様に談判するから、同席して欲しい」と言いました。N2氏が、「君達が不適切な人間を雇うから、E1氏が虐めるのだ! 今後はE1氏に面接をさせて、E1氏が気に入った人間を雇え!」と命令したので、私は唖然としました。
製造部長がハローワークに求人票を出したら、沢山の応募者が有り、E1氏とE2氏が十名ほど面接して二人(E11氏、E12氏)を選びました。二人に共通していたのは、大人しくて、如何にも虐められるタイプだった事です。 早速、E1氏とE2氏がE11氏を虐め始め→→2ヶ月もたないでE11氏は辞めてしまいました→→次はE12氏の番です→→E12氏は半年ほどして辞めました。
私がN社を退職した2009年、E1氏とE2氏は、相変わらず虐める事を生き甲斐の様にしていました。
(余談 :大企業K社での虐め)
私が大学を卒業して入社した大企業(K社)には、部下を虐める部長、次長、課長が何人もいました。彼らの為に若者達が沢山辞めて行きました。直属の課長の虐めが酷いので→→部長に相談したら→→「大きな声で虐めているから把握しているが、虐めは病気の様なものだから注意しても治らない。」、「人事部が精神的/人格的に欠陥の無い人間を採用した事になっている。 虐めている社員を何とかしてくれと、人事部に言ったら→→僕が、部下を管理出来ない無能者と言うレッテルを貼られる」と言う様な回答でした。
K社で二人、出向した中小企業で一人、ひどい『躁病』の社員がいました。躁病の虐めで会社を辞める人は殆どいませんでした。 それは、特定の社員を怒鳴り散らすのでは無く、手当たり次第に怒鳴るからです。
K社の鬱病の一人(M氏)は常務取締役にまでなってしまいました。M氏は家でDVをやったので→→奥さんは耐えられなくなって→→上海の会社に勤務していた息子の家に逃げました。 M氏がリタイアした後で帰国して、二人で老後を送ってきました。 「躁病は収まってきた」と言っていましたが、「最近、ひどくなって来たので、別居を考えている」と話しています。
K社の検査データの改竄等が、時々報道されます。 不正を撲滅出来ない原因は、❶虐めの放置、❷躁病社員に対策しない、❸派閥人事の横行だと思います。❶~❸を放置して、『コンプライアンス遵守』を大声で叫んでも、効果は出ません。
【A氏の活躍】
製紙業界で「N社は技術志向の会社だ!」と認められる様になったのは、A氏の貢献が大きかったと私は思いました。A氏は、家内工業の様な小さな製紙会社の次男だったので、製紙についての基礎知識が有ったと思われます。 A氏は某私立大学で機械工学を勉強して、某大手の製紙会社に入社したのですが、社長一族の横暴な態度に耐えられず、1年程で退職して→→N社に入社して→→機械設計を担当しました。
多分、友人の支援を受けたと思われますが、A氏はシーケンサー制御技術を独学で勉強しました。1996年に私がN社に出向した時、40歳だったA氏は制御設計部長になっていて、会社にとって無くてはならない存在になっていました。
1993年~2004年を『就職氷河期』と呼びますが、この間に大学卒が3名(A1君、A2君、A3君)が→→小企業のN社に入社して→→全員、A氏が制御技術者に育てました。A氏は部下を褒めはしなかったですが、声を荒立てる事無く、上手に育てました。 3人とも、3年間程で現地に一人で出張出来る様になりました。
最初に入社したA1君が、一人で初めて客先の工場に出張して、据付/調整作業を行いました。 私は同じ工場に、別の機械の据付指導の為に出張しました。A氏から、「時々、A1君の様子を見て欲しい」と依頼されていました。
A1君は、焦る事無く仕事をして、顧客への対応も適切でした。私が褒めると、A1君がポケットからA4のコピー紙を半分に切った紙を取り出して、「このお陰です」と言いました。 A氏が手書きして渡した『出張の心得』で、素晴らしい内容でした。
(注記 :シーケンサー) 『シーケンサー』は三菱電機の商品名です。1973年に最初のシリーズが発売され、1985年に汎用シーケンサーの発売が開始されました。 日本では『シーケンサー』が普通名詞になっていますが、世界では『プログラマブルロジックコントローラ(PLC)』が一般的です。
【N社の原価計算】
私が1996年に出向したN社は、社員30名程の製紙機械を設計/製造する小企業でした。 まだ、中小企業ではパソコンが殆ど活用されていなかったので、出向条件として、私専用のパソコンを用意して貰いました。
N社は、売上高は減少していませんでしたが、数年間・赤字が続き債務超過に陥る寸前の状態でした。赤字の主な原因は、製造原価を把握しないで販売していたので、売れば売るほど貯蓄を食い潰していたためです。
出向後三カ月間ほど、何も仕事が与えられなかったので、製造原価がドウなっているのか?調べて見ました。幸いにも、経理担当者が①購入品の型番と購入金額、②加工外注した場合の図面番号と支払い金額をエクセルでデータ化していました。
そのエクセル・データを貰って、その時点で製作中の機械の製造コストをザクっと計算して見ました。
顧客から引き合いが入ると、N社の社長(N2氏)が勘を働かせて→→見積価格を決定し→→受注しても、個々の案件の製造原価を積算しなかったので→→個々の案件の採算は把握していませんでした。 期末になって、「その年が黒字だったのか?赤字だっのか?」が分かったのです。 N氏は、「今年も赤字だったので、給与は据え置きにしよう!」と毎年毎年決めていたのです!
N社では、顧客に要求する設計と現場社員の時間チャージを決めていました。社員全員の給与明細をエクセル・データとして整理していたので、時間チャージの妥当性についてもチェックして見ました。時間チャージを決めた計算式などは残っていませんでしたが、社内の実情に反せず、世の中の常識でも受け入れられる時間チャージになっていました。
N社は小企業でしたが、社員の給与は結構高かったです。制御設計の部長は1,000万円以上貰っており、ベテランで優秀な機械設計社員は500万円程度でした。70歳ほどで辞めた旋盤工は700万円以上貰っていました。
N社では、設計と現場社員が「どの案件で何時間働いたか」を記入する「作業日報」を毎日提出して→→エクセルで整理していました。設計は、残業分は記入していませんでしたが、定時内の作業時間は正確な数値を記入していました。 現場社員を観察すると、いい加減で、信頼出来る数値では無い事が分かりました。
設計は残業代が支払われないのに、大方の社員は設計部長が帰るまで残業していました。従って、「作業日報」の数値から実際に要した設計時間を把握する事は不可能でした。 大抵の日は3時間残業して20時頃に帰りましたが、毎月一度は24時頃にまで仕事をする事も有りました。そんな時は、19時頃に皆で(会社のおごりで)ラーメン等々を食べに行っていました。
(余談 :私の努力) N社には、回転資金が十分有ったのでキャッシュフローは問題では有りませんでした。 私は受注した案件の受注金額と製造原価をエクセルでデーター化して→→蓄積し→→見積積算が出来る様にしました。
顧客から引き合いが有ると→→設計が作成した計画図をベースに→→見積積算して→→社長(N2氏)と話し合って→→見積金額を決定して→→私が見積書を作成しました。 赤字で受注する事が殆ど無くなり→→黒字体質になったのです。
「見積積算業務は非常に重要だ!」と私は考えていましたが→→N2氏は、私に部下を付けなかったので→→教える事が出来ませんでした。 私が退職したら、社長の勘で見積金額を弾けば良いと考えていた様です。
【N社の機械工学計算】
N社の社長(N2氏)は、関西では有名な中高一貫校から→→某旧帝大の工学部機械工学科を卒業し→→某大手鉄鋼会社に就職して→→30歳頃に退職して→→母親が経営していた会社を引き継ぎました。 引き継いだ時は、汚くて古い工場だったそうです。
私が、N社に出向した時、某旧帝大の教授が学生達に作らせた、ベイシックと言うプログラムで作成した計算ソフトが数点有りました。内容を見てみるとエラーとバグ(欠陥)が幾つも見つかりました。 修正して社長に説明したのですが、社長はベイシック言語が理解出来ないので、私の話を聞いているだけでした。
社長と一部の社員がエクセルは使えたので、絵入りで/説明文付きのエクセル・プログラムに直しました。 私は新たに強度計算プログラムやシミュレーションプログラムを沢山作成しました。
少しずつ、私が作ったプログラムを使用してくれる社員が増えて来ました。簡単なプログラムを作る社員もいました。
(余談 :エクセルで絵が描けます!) エクセルで、(慣れると)結構複雑な絵を掛けます。皆さん!是非一度挑戦して見て下さい! 【挿入】→→【図形】
前回に引き続き、N社について書きます。 私は、N社で2回、合計9年弱働きました。私の腕が振るえる仕事が沢山有ったので、毎日サービス残業しました。充実した楽しい日々を送りました。
N社には重大な問題が二つ有りました。 ❶私が大嫌いな虐めが行われ、社長が黙認した事、❷社長のボンクラ息子を会社に入れた事です。ボンクラ息子については、後日、投稿します。
【N社の最大の問題点 :虐め!】
『虐め』は大人の世界にも存在しますが、虐めを罰する法律は有りません。然し、『言葉の暴力』の一部は犯罪になるそうです。 例えば『侮辱罪』ですが、1年以下の懲役・禁錮または30万円以下の罰金が科せられます。
N社の現場職で日常的に酷い虐めが行われていました。新しく社員を雇っても→→1年間耐えられる人はまれだったので→→製造部長がハローワークに年に何回も求人に行く必要があり→→社長(N2氏)に、虐めている社員を解雇する様にお願いするのですが→→N2氏は取り上げませんでした。
私は「虐めは犯罪だ!」と考えています。「犯罪を放置したり、毅然とした態度を取れない人間は社長になってはいけない!」と思っています。
★★★ 虐めのケース❶ ★★★
N社は、製紙機械を設計製造する会社です。 製紙工場では設備の改修工事などを、正月、ゴールデンウイーク、盆に行います。 N社では、これらの期間の前に、納入する機械を組み立て→→試運転するので→→超!多忙(繫忙期)になります。 然し、年間30%ほどは現場作業者、特に仕上組立工には仕事が有りません(閑散期)→→大人しく時間を潰してもらうのが仕事になります。
N社では、繫忙期(はんぼうき)には仕上組立工が五、六人必要でした。 1996年に、私がN社に出向した時は閑散期(かんさんき)で、仕上組立工は、班長のD1氏、背が高くて筋肉質のD2氏、身長が150cm以下で羸弱(るいじゃく)なD3氏の3人でした。
繫忙期の前に仕上組立工を二人(D4氏、D5氏)雇いました→→閑散期になると→→班長のD1氏がD4氏を虐め始め→→1ヶ月ほどしてD4氏が退職し→→D5氏を虐め始め→→D5氏も辞めてしまいました。こんな事を繰り返していたのです。
4年後の閑散期に、D1氏の矛先がD3氏に向く様になって→→D3氏は覚悟していたのか?→→サッサと辞めてしまいました。 (2006年に私がN社に入社した時、D1氏は癌で亡くなっており、D2氏も退職していました。)
★★★ 虐めのケース❷ ★★★
2006年に私がN社に入社した時、E1氏が班長で、その下にE2氏、・・・何人かいました。E1氏とE2氏が虐めるのです。 製造部長が私に、「社長(N2氏)にE1氏を解雇する様に談判するから、同席して欲しい」と言いました。N2氏が、「君達が不適切な人間を雇うから、E1氏が虐めるのだ! 今後はE1氏に面接をさせて、E1氏が気に入った人間を雇え!」と命令したので、私は唖然としました。
製造部長がハローワークに求人票を出したら、沢山の応募者が有り、E1氏とE2氏が十名ほど面接して二人(E11氏、E12氏)を選びました。二人に共通していたのは、大人しくて、如何にも虐められるタイプだった事です。 早速、E1氏とE2氏がE11氏を虐め始め→→2ヶ月もたないでE11氏は辞めてしまいました→→次はE12氏の番です→→E12氏は半年ほどして辞めました。
私がN社を退職した2009年、E1氏とE2氏は、相変わらず虐める事を生き甲斐の様にしていました。
(余談 :大企業K社での虐め)
私が大学を卒業して入社した大企業(K社)には、部下を虐める部長、次長、課長が何人もいました。彼らの為に若者達が沢山辞めて行きました。直属の課長の虐めが酷いので→→部長に相談したら→→「大きな声で虐めているから把握しているが、虐めは病気の様なものだから注意しても治らない。」、「人事部が精神的/人格的に欠陥の無い人間を採用した事になっている。 虐めている社員を何とかしてくれと、人事部に言ったら→→僕が、部下を管理出来ない無能者と言うレッテルを貼られる」と言う様な回答でした。
K社で二人、出向した中小企業で一人、ひどい『躁病』の社員がいました。躁病の虐めで会社を辞める人は殆どいませんでした。 それは、特定の社員を怒鳴り散らすのでは無く、手当たり次第に怒鳴るからです。
K社の鬱病の一人(M氏)は常務取締役にまでなってしまいました。M氏は家でDVをやったので→→奥さんは耐えられなくなって→→上海の会社に勤務していた息子の家に逃げました。 M氏がリタイアした後で帰国して、二人で老後を送ってきました。 「躁病は収まってきた」と言っていましたが、「最近、ひどくなって来たので、別居を考えている」と話しています。
K社の検査データの改竄等が、時々報道されます。 不正を撲滅出来ない原因は、❶虐めの放置、❷躁病社員に対策しない、❸派閥人事の横行だと思います。❶~❸を放置して、『コンプライアンス遵守』を大声で叫んでも、効果は出ません。
【A氏の活躍】
製紙業界で「N社は技術志向の会社だ!」と認められる様になったのは、A氏の貢献が大きかったと私は思いました。A氏は、家内工業の様な小さな製紙会社の次男だったので、製紙についての基礎知識が有ったと思われます。 A氏は某私立大学で機械工学を勉強して、某大手の製紙会社に入社したのですが、社長一族の横暴な態度に耐えられず、1年程で退職して→→N社に入社して→→機械設計を担当しました。
多分、友人の支援を受けたと思われますが、A氏はシーケンサー制御技術を独学で勉強しました。1996年に私がN社に出向した時、40歳だったA氏は制御設計部長になっていて、会社にとって無くてはならない存在になっていました。
1993年~2004年を『就職氷河期』と呼びますが、この間に大学卒が3名(A1君、A2君、A3君)が→→小企業のN社に入社して→→全員、A氏が制御技術者に育てました。A氏は部下を褒めはしなかったですが、声を荒立てる事無く、上手に育てました。 3人とも、3年間程で現地に一人で出張出来る様になりました。
最初に入社したA1君が、一人で初めて客先の工場に出張して、据付/調整作業を行いました。 私は同じ工場に、別の機械の据付指導の為に出張しました。A氏から、「時々、A1君の様子を見て欲しい」と依頼されていました。
A1君は、焦る事無く仕事をして、顧客への対応も適切でした。私が褒めると、A1君がポケットからA4のコピー紙を半分に切った紙を取り出して、「このお陰です」と言いました。 A氏が手書きして渡した『出張の心得』で、素晴らしい内容でした。
(注記 :シーケンサー) 『シーケンサー』は三菱電機の商品名です。1973年に最初のシリーズが発売され、1985年に汎用シーケンサーの発売が開始されました。 日本では『シーケンサー』が普通名詞になっていますが、世界では『プログラマブルロジックコントローラ(PLC)』が一般的です。
【N社の原価計算】
私が1996年に出向したN社は、社員30名程の製紙機械を設計/製造する小企業でした。 まだ、中小企業ではパソコンが殆ど活用されていなかったので、出向条件として、私専用のパソコンを用意して貰いました。
N社は、売上高は減少していませんでしたが、数年間・赤字が続き債務超過に陥る寸前の状態でした。赤字の主な原因は、製造原価を把握しないで販売していたので、売れば売るほど貯蓄を食い潰していたためです。
出向後三カ月間ほど、何も仕事が与えられなかったので、製造原価がドウなっているのか?調べて見ました。幸いにも、経理担当者が①購入品の型番と購入金額、②加工外注した場合の図面番号と支払い金額をエクセルでデータ化していました。
そのエクセル・データを貰って、その時点で製作中の機械の製造コストをザクっと計算して見ました。
顧客から引き合いが入ると、N社の社長(N2氏)が勘を働かせて→→見積価格を決定し→→受注しても、個々の案件の製造原価を積算しなかったので→→個々の案件の採算は把握していませんでした。 期末になって、「その年が黒字だったのか?赤字だっのか?」が分かったのです。 N氏は、「今年も赤字だったので、給与は据え置きにしよう!」と毎年毎年決めていたのです!
N社では、顧客に要求する設計と現場社員の時間チャージを決めていました。社員全員の給与明細をエクセル・データとして整理していたので、時間チャージの妥当性についてもチェックして見ました。時間チャージを決めた計算式などは残っていませんでしたが、社内の実情に反せず、世の中の常識でも受け入れられる時間チャージになっていました。
N社は小企業でしたが、社員の給与は結構高かったです。制御設計の部長は1,000万円以上貰っており、ベテランで優秀な機械設計社員は500万円程度でした。70歳ほどで辞めた旋盤工は700万円以上貰っていました。
N社では、設計と現場社員が「どの案件で何時間働いたか」を記入する「作業日報」を毎日提出して→→エクセルで整理していました。設計は、残業分は記入していませんでしたが、定時内の作業時間は正確な数値を記入していました。 現場社員を観察すると、いい加減で、信頼出来る数値では無い事が分かりました。
設計は残業代が支払われないのに、大方の社員は設計部長が帰るまで残業していました。従って、「作業日報」の数値から実際に要した設計時間を把握する事は不可能でした。 大抵の日は3時間残業して20時頃に帰りましたが、毎月一度は24時頃にまで仕事をする事も有りました。そんな時は、19時頃に皆で(会社のおごりで)ラーメン等々を食べに行っていました。
(余談 :私の努力) N社には、回転資金が十分有ったのでキャッシュフローは問題では有りませんでした。 私は受注した案件の受注金額と製造原価をエクセルでデーター化して→→蓄積し→→見積積算が出来る様にしました。
顧客から引き合いが有ると→→設計が作成した計画図をベースに→→見積積算して→→社長(N2氏)と話し合って→→見積金額を決定して→→私が見積書を作成しました。 赤字で受注する事が殆ど無くなり→→黒字体質になったのです。
「見積積算業務は非常に重要だ!」と私は考えていましたが→→N2氏は、私に部下を付けなかったので→→教える事が出来ませんでした。 私が退職したら、社長の勘で見積金額を弾けば良いと考えていた様です。
【N社の機械工学計算】
N社の社長(N2氏)は、関西では有名な中高一貫校から→→某旧帝大の工学部機械工学科を卒業し→→某大手鉄鋼会社に就職して→→30歳頃に退職して→→母親が経営していた会社を引き継ぎました。 引き継いだ時は、汚くて古い工場だったそうです。
私が、N社に出向した時、某旧帝大の教授が学生達に作らせた、ベイシックと言うプログラムで作成した計算ソフトが数点有りました。内容を見てみるとエラーとバグ(欠陥)が幾つも見つかりました。 修正して社長に説明したのですが、社長はベイシック言語が理解出来ないので、私の話を聞いているだけでした。
社長と一部の社員がエクセルは使えたので、絵入りで/説明文付きのエクセル・プログラムに直しました。 私は新たに強度計算プログラムやシミュレーションプログラムを沢山作成しました。
少しずつ、私が作ったプログラムを使用してくれる社員が増えて来ました。簡単なプログラムを作る社員もいました。
(余談 :エクセルで絵が描けます!) エクセルで、(慣れると)結構複雑な絵を掛けます。皆さん!是非一度挑戦して見て下さい! 【挿入】→→【図形】