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節分の思い出

2024-01-27 09:52:52 | 風俗習慣
 今年の節分は2月3日です。
 皆さんのお宅の節分は、ドンナですか? 今回は、私の子供の頃からの『節分の思い出』を書きます。

 私の故郷は和歌山県田辺市龍神村です。 龍神村は今では典型的な過疎地になっていますが、私の子供の頃は活気が有って、人口は8,000人程だったと記憶しています。

 私の妻は、田辺市に有った城『錦水城(きんすいじょう)』の近くの、商売繁盛の商家で育ちました。 私の家は、おおよそ自給自足でしたが、妻の実家は燃料、食糧などを全て買っていた様です。

 龍神村では節分になると、どの家でも『干物のイワシ』を1本・屋根の上に放り投げて、柊(ひいらぎ)の枝を玄関に飾りました。 小さい頃から、柊を山に取りに行くのは、私の役目でした。

 自家製の大豆を炒って、節分の夜に室内で播きました。我が家では、戦前から大豆と一緒に紙で包んだ御菓子を播いて、家族八人で拾って食べました。御菓子を買って来る役目も私でした。現金収入が少なかったので、多分・他の家では大豆だけ播いていたと思います。

 妻の実家では、イワシを柊の枝に刺して玄関に飾った様です。御菓子を播く習慣は無かった様でした。 その代わり、『恵方巻』を無言で食べたそうです。家業が忙しかったので、恵方巻は寿司屋から買って来たと言っています。

 我が家では、秋の祭り、運動会、遠足や正月に『巻き寿司 』を作ってくれましたが、長さが20cm程も有って、太かったので、切らないで一本丸ごと食べるのは困難でした。それで、節分の『恵方巻』の習慣は無かったのでは?と思います。 (龍神村には寿司屋は無く、店で『恵方巻』は売っていませでした。)

 我が家の『巻き寿司 』には海苔を使用しましたが、龍神村の殆どの家では、高菜(たかな)の浅漬けを使用していました。

 龍神村では、大昔から巨大な御握りを浅漬けの高菜の葉で巻いた『目張寿司(めはり寿司)』を作る習慣が有りました。一食分の麦飯の御握りです。 子供の頃、山林労務者が直径15cm程の『めはり寿司』、タクワン、イワシやアジの干しを焼いた物を、美味しそうに食べていました。

 10年程前に龍神村帰った時、知り合いの奥さんが、『めはり寿司』を作って待ってくれていました。 『白飯(しろめし)』で、普通のサイズの御握りでしたから、『めはり寿司』とは言えません! 色んな山菜の塩漬けを、塩抜きして炒め物を作ってくれたので、美味しかったです。 『心のこもったおもてなしだ!』と思いました。

 結婚してから、我が家では妻の実家のやり方で節分を迎えています。柊の枝を玄関に飾りますが、イワシは省略して、恵方巻は頂きます。妻が、「大豆を年の数・食べろ!」と言うので閉口しました。28歳で結婚したので、何とか食べられました。30歳を過ぎてからは、34歳だと「3粒+4粒」として貰いました。今年は「7粒+7粒」で『14粒』も食べなければなりません。

 家を建てた時、庭に柊を植えました。私の両親と同居する様になりましたが、父は総入れ歯になっていました。総入れ歯で恵方巻に噛り付く(かぶりつく)のは難しいです。入れ歯が浮いてしまうのです!

 息子達の家では節分の行事はやっていない様です。

(余談 :選抜高校野球) 妻と私は田辺高校の出身です。今年の選抜高校野球に、21世紀枠で田辺高校が出場する事になりました!

 妻と二人で応援に行くつもりです。1995年の夏の大会に田辺高校が出場した時、二人でバックネット裏で応援しました。 妻は今でも「アルプススタンドの方が良かった、知り合いに会えたのに!」と言っています。 当時・妻は47歳で、現在は75歳です。妻は、「今回はバックネット裏の席を予約して欲しい! 同級生に会っても、多分・顔が分からないから」と言っています。 確かに「そうです!」ね。


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