これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

政治家や官僚と賄賂 (その3)

2020-02-29 11:05:36 | 社会問題
 今回は、「どんなにして貴方に魔の手が伸びてくるのか?」と言う話しです。 にわかには信じられない話しも書きますが、断じてフィクションでは有りません。 (私は、土曜日に投稿しているのですが、27日(木曜日)に『新型コロナウイルスと政治(その2)』を急遽公開しました。是非読んで下さい。)

【関西電力の不正】
 2019年に関西電力の重役達が高浜町の元助役から多額の現金や物を受領していた不正が発覚しました。 問題の根本は未だに報じられていない様に私は思います。

 電気料金は、電気事業法で「掛かった費用✖〇〇係数」となっています。「〇〇係数」は国が決めるので、電力会社は「掛かった費用」を大きくすると、売り上げ額や『利益』が増えます。(通常の民間企業の常識とは真逆です。) 電力会社は国が認めてくれそうな価格まで、『買値を高く』する必要が有るのです。

 『買値を高くする』にはどうしたら良いか? 種々の理由を付けて『随意契約』で発注します。企業間の競争が無いから、幾らでも高く買えます。 一例を挙げると、塗装工事が必要になったとします。出入りの業者(A社)に発注します。 A社は塗料メーカーから塗料を買いますが、缶のシールを剥がして、A社が製造した『特別な塗料』で有るかの様なシールを貼ります。こうして置けば、万一国の検査が入っても、塗料を不当に高い価格で購入した事はバレません。

 関西電力の重役達は、「元助役が何をするか?分からない怖い人間だったから、受け取って/返せなかった」と言い訳していましたが、本当に隠したかったのは、『掛かった費用』を水増ししていた事だと私は思います。少し頭の切れる方が電力会社と取引したら、問題の本質が分かると思います。 元助役は、この不正な料金制度を利用して、関西電力に食い込んだのでは?

 私は、関西電力の重役達が悪いのではなく、寧ろ・こんな料金体制を続けてきた国と、それを問題にしなかった我々国民が悪かったのだと思います。貴方が、関西電力の重役だったとして、元助役から、「買値を高くする不正をバラス」と脅されて、毅然と対応出来ますか?

 政治家の一部は電力会社の支援を受けており、野党を支援している連合には、電力会社や、電力会社から仕事を貰う会社の御用組合が入っています。 従って、政治家が電気料金体制の不備を正すのは難しいと思います。 官僚の一部が、この問題を緩和する手段として考え出したのが『電気料金の自由化』だと私は受け取りました。

 多分、「電力だけ自由化するのは不公平だ!」と誰かが言い出して、「ガスも自由化」する事になったのでしょう。 一見・公平な様に思いますが、現在の電力会社とガス会社では体力に差が有り過ぎます。電力会社には原子力発電所の稼働率低下、LNGが長期契約で通常の国際価格より高い、古い発電設備を多数保有する等の重い足枷が付いていますが、数年先には足枷を外して、ガス会社を壊滅させるのでは?と私は心配しています。

 電力会社とガス会社が、通常の民間会社となる『料金体制』を考え出す必要が有ります。でないと、元助役の様な人間が暗躍する事になってしまいます。私は前から考えていますが、まだ妙案が浮かびません。皆さんも考えて下さい‼

(余談 :月夜の晩ばかりでは無いぞ!) 関西電力の重役達は、「高浜町の元助役が怖くて、金品を返せなかった」と言い訳していましたが、私も脅迫された事が有ります。製紙機械を製造する小さな企業(N社)に出向した時に、製紙ラインの多くに採用されているカナダ製の装置の特許を調べました。カナダの某社(K社)が2件特許を持っていましたが、とっくの昔に期限切れになっていました。

 カナダのK社は、予備品を異常に高い値で売り、納期が一年と言う『殿様商売』をしていました。改造には一切応じず、使い勝手の良い様に工夫する製品開発も一切しませんでした。私が出向する前から、N社は強く頼まれた製紙会社に限って、(特許権に触れると思いながら)数台・問題の製品を作って/納入していました。

 ある日、体格の良い、強面(こわおもて)のK社の社員が訪ねて来て、「特許侵害だ、今後・作ったら提訴する!」と言うのです。 私が、「特許はとっくに期限切れです」と言うと、彼は「月夜の晩ばかりでは無いぞ!」と捨て台詞を吐いて帰りました。 N社の社長は、余程怖かったと見えて、問題の製品を積極的には売ろうとしませんでした。

【二重底のお土産】
 高浜町の元助役は、お菓子の入った箱に金の小判を入れて渡した事も有った様ですが、この手は昔からよく使われています。 普通は新札の一万円札を入れます。そして、その箱を”そっと”奥さんに渡した様でした。直ぐに開封して食べる物を入れないと、「到来物です」と言って、奥さんが親戚に回したら”えらい事に”なってしまいます。

 関係者が生きておられても90歳を超えているので、白状しますが、私は入社2年目頃から時々でしたが、超高価な神戸肉を買う担当をしました。店に入ると、「今日は50用でお願いします」と言うと、店員は何も言わずに仮包装した箱と、包装紙を渡してくれました。 「何をしていたか?」分かりますか?

 ”50”とは50万円のことで、二重底にして50万円がピッタリ収まるスペースを設けてもたらったのです。隙間が有ると、渡す時に音が出て困ります。 (当時の私の月給は6万円弱でした。)

 渡すのは、その晩・旦那さんが帰宅された時か、翌朝の出勤前です。渡したら、「何時もお世話になっています」とだけ言って、直ぐに帰った様です。その場で突き返したり、後日・返した方はいなかった様でした。 これを『夜討ち朝駆け』と言って、新聞記者達だけの用語では有りません。

【デパートの外商】
 私が東京勤務の頃、総務部から「出入りのデパートの外商担当者(D氏)に机を貸してやってくれ」と頼まれました。D氏は注文を受けた商品を超特急で包装する必要が有ったのです。 それから時々、私の居室で急ぎの包装をする様になりました。

 大抵は商品券でした。少額だと紙の箱に入れていましたが、百万円ほどになると立派な桐の箱でした。 時々、超高級でセンスの良いマフラーなども有りました。「これを見たら家内は満面の笑みを浮かべる」と思いました。「これは返す」とは言えませんから、贈り主に便宜を図らざるを得ないのです。

(余談) 私は紀州の出身ですが、親戚に一回りほど年上で、背が高く美男子の方がいました。彼は定年までデパートの外商でした。口が堅くて顧客の話しは殆どしませんでしたが、私の育った家よりも更に山奥の山林王の所に時々行っていました。当時は、どの家を訪問するか?は外商担当者が自分で決めていた様でした。「幾ら金が有る方でも、気持ちよく話が出来るのでなければ行かない」と彼は言っていました。 現在でも、単に金が有るだけではデパートの外商は来てくれない様です。

(余談 :紀州の山林王) 子供の頃に二軒残っていた山林王は、破産したのか?現在は存在しません。 一軒の建物はゲストハウス『吉祥』になっています。私の祖父は山林地主の子供でしたので、どんな所で育ったのか?と興味があったので、昨年・吉祥に行って見ましたが、昼間は門が閉まっていて、中に入れませんでした。 興味の有る方は『ゲストハウス吉祥』で検索して下さい。

【盆/暮れの受け取り検査】
 関西だけの習慣だったかも知れませんが、お盆と年末に業者に受け取り検査に行くと、検査成績書の入った封筒に万札が何枚か入っていました。それを楽しみにしている社員が、結構沢山いました。

 私は入社して直ぐに、尊敬していた先輩から「その場で封筒を開けて、必ず万札は返せ」と教えられました。アドバイスを守っていたのですが、一回だけ帰社後に封筒を開けたら、十万円入っていました。社長に返そうとしたのですが、頑として受け取って貰えなかったので、税務署が認めてくれそうな領収書を集めて渡しました。

【二号さんを手配する慣例】
 日本を代表する会社の話しです。 取締役に昇格すると、出入りの某商社が幹事になって、二号さん付きの家を手配する事になっていました。この慣例は1970年頃には廃止されていましたが、二号さんとの間で出来た子供は一人前になるまで出入り業者の団体(?)で”面倒を見る”と言う慣例は残っていました。勿論、その金は税務署に認めて貰えません。(私が顧客回りを始めた1975年頃には、まだ小さい子の面倒を見ていたようです。)

 1980年代の話しですが、某大手のエンジニアリング会社の本社資材課長になると、出入り業者の団体(?)が都心の一等地の高級マンションの一室を借りて、二号さんを手配していました。本社資材課は毎年、2,000億円ほど発注していたので、月に二百万円ほどの金は大した金額では無かったのでしょう。

 この慣例は本社の資材課長にだけ適応されていました、部長に昇進したり、他部署に移るとマンションを明け渡す事になっていました。二号さんに毎月のお手当を運ぶ幹事会社の担当者と私は懇意になって、課長さんを紹介して貰った事が有りました。 その課長さんが部長に昇格する内示が出たのですが、「二号さんと別れたくない」と言い出したので、担当者は”ほとほと困って”いました。

(余談 :正妻さんの気持ちは?) 男達は楽しかったでしょうが、「奥さん達はどんな気でいたのか?」と私は思いました。私に二号さんを手配すると言われても、家内が怖いので辞退したと思います?!

(余談 :外国でも) これは、1970年代の話しです。東南アジアの石油産出国の大手企業が、ヨーロッパからやり手の経営者をヘッドハンティングしました。多分彼は独身だっと思います。 プール付きの豪邸を与え、更に若い綺麗な女性まで準備したのです。 彼は関西が好きで、その女性を連れて年に一、二度来日していました。某大手商社が観光の案内をしていましたが、時々私の会社に接待の依頼があり、私も会った事があります。(彼は、日産のゴーン氏とはまるで違って、気持ちの良い人でした。) 彼と彼女は、年は相当違いましたが、仲が良さそうで夫婦の様に見えました。彼は、自慢の豪邸の写真を見せてくれました。 「英雄色を好む」と言いますから、説得するには美人を使うのが最良の方策だったのです!

【産業スパイの魔の手】
 私は長く研究開発に携わったのですが、産業スパイと思われる人間が接触してきて、「何を開発しているのか? 進捗状況は?」、「貴社では〇〇を開発しているらしいが、何処で?誰が?開発しているのか?」と聞くのです。 その内の何人かは、不思議なことに帝国データバンクの社員だと名乗りました。御承知の様に帝国データバンクは企業調査の会社ですが、企業の極秘情報を盗む会社では無いと思います。

 私は面白そうだったので、騙された振りをして、二、三回そんな人間と雑談しました。 私の部下だった、入社3年目の社員(T氏)に帝国データバンクの社員と名乗る男から「会って、少し話を聞きたい」と電話が有りました。経験を積んでもらう良い機会だと思って、彼ともう一人の若手社員(S氏)に産業スパイとの接し方を教えました。 勿論、「絶対にお金を受け取ってはいけない」と教えました。

 会社に300人は座れる広い社員食堂が有り、食事時間以外は喫茶店兼打合せ室として使っていました。 帝国データバンクの偽社員とT氏が座ったテーブルの、直ぐ近くにS氏と私は座って打合せをしている振りをしました。T氏はポーカーフェイスで、実に上手に応対したので、私は感心し/彼を見直しました。

 産業スパイはあの手・この手を使います。開発部隊のトップをA取締役とします、その上の、更に上がC専務だとします。若手社員はC専務の名前は聞いた事が有っても、声を聞いた事など有りません。 「本社のCだが、〇〇の開発はどうなっている?」と電話を掛けてきます。 そんな時は、私が代わる事にしていました。私が代わって出たら、電話はプツンと切れました。

【KGBの集金と魔の手】
 日本には未だにスパイを罰する法律が無い、非常に珍しい国です。「スパイ天国」と呼ばれているそうです。 ソビエト時代(1991年まで)、ソビエトのスパイ組織(KGB)は日本国内で大活躍していました。私の若い知人(N氏)がモスクワに出張しました。帰国後、皆で飲んでいた時、N氏が得意満面の顔で、「街で・綺麗な若い女性と知り合い楽しく酒を飲んだ」、「その夜、彼女がホテルの部屋に来て一夜を共にした。僕はソビエトではモテるんだ!」と言いました。

 同席していたベテラン営業マンが、「ソビエトで英会話の出来る女性は全てKGBで、きっと後日、ホテルでの”あられもない”写真を持った男が近づいてきて強請(ゆす)られる」と言いました。十日ほどして皆で飲んでいると、例のN氏が、「道を歩いていたら男がホテルでの写真を持って近づいてきた、僕は独身だから写真をバラまかれても困らないと言ってやった」と話しました。 KGBは当てが外れて引き下がった様でした。

 KGBが日本で活躍する為には『円』が必要です。 その集金組織は東京の某大手高級ホテルの一室に有りました。表向きには、ソビエトの某衛星国の商社(K社)の事務所となっていましたが、実際はKGBの集金組織だったのです。ソビエトへの輸出商談が進んで、金額等が合意されたとすると、K社から、「○○万円持って来い」と電話が入って、K社が受け取らない限り、正式契約書にサインして貰えなかったのです。 (日本は馬鹿な国ですね!民間の会社がKGBに金を渡して、自分の国の情報を盗むお手伝いをしていたのです。 勿論ですが、この金は税務署は認めてくれません。)

 今回のIR汚職の金は中国から不法に持ち込んだ様ですが、ソビエトは日本国内で巧妙に『円』を調達していました。ソビエトと取引していた企業の営業担当者で、K社を知らない人はいなかったと思われます。K社の記事は売れると思いましたが、何故か?三流雑誌は取り上げませんでした。記者達も命は欲しかったのでしょう?!

【立派な人の話しです!】
 浅ましい人の話しばかり書いて来ましたので、(口直しに)私にとって兄の様な存在で、大切な人(M氏)の話を書きます。M氏の父親は、M氏が小学生の頃に亡くなり、祖母、母、弟の四人家族の貧しい家でした。M氏は村の高校を卒業すると、信用金庫に勤め、彼の給与を殆ど出して、弟を家からは通えない町の高校に入れました。

 M氏の母親の兄の一人は、人格者で面倒見の良い方でした。彼は、事業に大成功して裕福になっていたので、援助をお願いしたら放ってはおかなかったと思います。 然し、M氏の母親は貧しくても『清廉潔白』を終生信条にして、誰にも頼らずに頑張って『名もなく貧しく美しく』生きられました。 M氏は今でも母親の教を大切にしている様に見えます。

 二十歳前後の男性が小遣い無しではやって行けません。M氏は、給与一、二か月分ほどの横領をして、露見してしまいました。大した額では無かったので、多分大目に見てくれたと思われますが、M氏は責任を取って辞めてしまいました。

 故郷の川は一級河川で、水力発電所が有るので砂利や砂が多量に堆積して水害が発生する様になっていました。一方、川砂や川砂利は全国的に不足して、高価になっていました。川の砂利や砂を採取する事業が始まり、採取権利の奪い合いの様な状態になりました。

 村長さんが(独断で)M氏の名前で採取の申請書を出して許可を取ってくれました。採取し易い場所だったので、権利を売れば一年は優に食べていけるお金が得られたと思いましたが、M氏は辞退しました。村の人達は、「M氏は馬鹿正直過ぎる!」と言いましたが、私は・ますますM氏を尊敬する様になりました。 私の田舎に帰る楽しみは、M氏と一献傾けることです。 (息子さんは立派に育って、医者になっています。)、


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