MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

月明かりの歌声

2010-10-07 00:00:00 | 私の室内楽仲間たち

10/07 私の音楽仲間 (217) ~ 私の室内楽仲間たち (191)

             月明かりの歌声



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                 ホ短調のアガ―テ




 「次はゲッティンゲン、まもなくゲッティンゲンに到着です。」



 「もうあれから5年以上になるのか…。」

 車窓から眺める景色に懐かしさを覚えながら、ブラームス
は、今や縁遠くなった町を訪れました。




 「あの頃は、もっとずっと近かったのに。」

 頻繁にこの町にやってきた頃は、汽車で数時間あれば、
デトモルトからやって来ることが出来ました。 デトモルトは
彼にとって最初の勤務地で、宮廷の女声合唱団の指揮者
として指導に当っていたのでした。



 「ゲッティンゲンではアガ―テも合唱で歌っていた。」




 勤務地デトモルトでの契約が切れると、彼は喜び勇んで
アガ―テの元に戻り、幸せなクリスマスを共に過ごしました。
年が開けると、二人でそっと婚約指輪まで交わしたのです。

 そして直後の3月からは、故郷のハンブルクでやはり女声
合唱団の指導に携わりました



 しかし彼は今やどちらの合唱団も指導しておらず、1862年
9月以来、ヴィーンに居を構えていたのです。 地理的にも
遠くなってしまったゲッティンゲン。 今は1864年です。

 それに、疎遠になったのは、もっと切実な事情が原因です。
アガ―テと別れたからでした。 あの忌まわしいことがあった
のは、1859年2月のことです。



 「なんだって、自分はあんな手紙を書いたんだろう…。」




 婚約を交わした1859年1月は、自作のピアノ協奏曲 (第1番)
初演のため、デトモルトにすぐ戻り、まずハノーファー、次いで
ライプツィヒに向かわねばなりませんでした。

 もちろんアガ―テをゲッティンゲンに残したまま。

 協奏曲は酷評を浴びるし、落ち込んでいるところへ、その上
グリムからは、「婚約を直ちに公表しないなら、アガ―テには
もう逢うな」という手紙が来ました。 そんな精神状態のまま、
優柔不断と言われてもしょうがないような手紙をアガーテに
書き送ってしまったのです。 結果は "婚約破棄"…。



 「自分はデトモルトに帰ってからも、アガーテのことをずっと
考え続けていたのに。 今考えても、あれほど熱烈に女性を
思ったことはない。 僕も真剣だった。」

 しかしそれは当時25歳の男性としての考えです。 "結婚" の
語が持つ意味は、23歳の女性とは異なるのかもしれません。

 また、たとえ行き違いだったにせよ、もう取り返しのつかない
状態になっていました。




 このたびのゲッティンゲン訪問は、もちろんアガ―テに逢う
ためではありません。 それに、彼女は前年にドイツを去り、
スコットランドへ旅立ったのだそうです。

 アガ―テの居ないゲッティンゲン…。 それでも、足は自然に、
今やお目当ての居なくなってしまったジ―ボルト家に向かって
いました。




 ヨハネスは、庭の入口近くの片隅に佇んだまま、アガ―テ
に何度も逢いに来た頃のことを思い出していました。

 「テラスの椅子、まだ置いてある。 あそこに一緒に並んで
座り、語り合ったんだ。」



 家を後にすると、今度は散歩コースを辿ります。 想い出深い
あの道この道。 そして二人が何より愛した、緑豊かな憩いの
場所の数々。 どれも当時とほとんど変わっていません。

 違うのは、今はアガ―テが傍に居ないことです。




 ふと彼は立ち止りました。 そこは忘れることの出来ない
場所だったのです。

 「あの時は満月だった…。」



 彼は、かつて月明かりの下でアガ―テと手を取り合って一緒
に歩いた、懐かしい小径 (こみち) で立ち止まりました。 しかし
今は陽の高い午後。 それだけに、まるで夢の中の出来事
だったような気がします。 でもそれはここに違いありません。

 「もう会えない。」



 彼は傍らの木に手を持たせかけました。 目を閉じると、
アガ―テのにこやかな表情が浮かんできます。 アガ―テ
のビロードのような歌声も。

 それは今でも彼の脳裏から消えないほど比類のない、
美しい響きなのです。

 「アガ―テ…。」




 ふと、中断したままの六重奏曲のことが頭をよぎりました。



 その曲のスケッチを始めたのは、もう10年近く前のことに
なります。 第1番 (変ロ長調) の方は、アガ―テと別れた翌年
(1860年) のうちに完成していましたが、こちらは長年放置した
まま進んでいませんでした。




 ヴィーンに戻ると、彼はすぐさま作曲に取りかかりました。
内容は、従来のスケッチとはかなり異なります。 基本的な
楽想も幾つか入れ替えました。

 彼は全体の構想を頭の中で練り上げると、まずソナタ形式
の第Ⅰ楽章に着手しました。

 続く第Ⅱ楽章のスケルツォも、あるプランを推し進めながら、
ほぼ作り上げてしまいました。 彼にしてはかなりの速さです。




 でも第Ⅲ楽章の "Poco Adagio" に差し掛かると、彼の手は
何度も止りました。

 得意な "変奏曲" だけあって、自分の本領の見せどころでも
あります。 ホ短調に始まり、同じ調の変奏が何度も続いた後、
最後はホ長調に落ち着く計画でした。

 しかし曲のテンポがゆっくりな箇所では、感情がどうしても
先走ってしまいます。 でも、これは歌曲ではありません。

 月明かりの下のアガ―テの表情まで、幾度となく浮かんで
きます。 もう6年も前のことだというのに。

 気持ちを込めて書けば書くほど、こみ上げてくるものが抑え
切れず、不覚にも楽譜にシミまで作ってしまいそうです。




 31歳のブラームスは、溢れる思いを絶妙な音楽語法で整え、
見事なバランス感覚を発揮しつつ第Ⅲ楽章を書き上げました。



 なお、評論家ハンスリックは、これを "主題の無い変奏" と
呼んでいます。




 この弦楽六重奏曲第2番ト長調 作品36は、この年の
うちに最初の3楽章がほぼ出来あがりました。 全体は翌
1865年の夏までに完成し、1866年に出版されています。

 初演も同じ1866年の10月11日ですが、場所はボストン
でした。 ドイツ国内、そしてヴィーンでの初演は、さらに
その翌年以後になります。




     今回の記事は、年代や事実関係はほぼ正確
     ですが、情景描写はすべてフィクションです。





  (続く)




音源ページ



[うち第楽章]

 [Members of the Stamic and Zemlinsky Quartets

 [Members of the Stamic and Zemlinsky Quartets

 [Pina Carmirelli, Jon Toth, Philipp Naegele, Caroline Levine
 Fortunato Arico, Dorothy Reichenberger


 [2009 Florida Arts Festival




 [譜例 ] いわゆる "アガ―テ音型" で、これまでと
       同じものです。

      




 [譜例 ] 第楽章の冒頭で、今回も塗り絵の
       オンパレードです。






 [譜例 ] 第楽章の最後のホ長調の開始部分です。






 [譜例 ] 第楽章の最後のホ長調の終わりの部分
 で、ViolinⅠのパートです。 最終の和音は異常な配置で、
 第3音が超低音に置かれ、中音域の音が薄くなっており、
 全体で一つの響きを作るというより、高音部と低音部が
 分離したまま終わっています。 これにはどういう意味が
 あるのでしょうか。





     第Ⅲ楽章最後のホ長調部分の演奏例]


         (パソコン ソフトによる "演奏" です。)

 

 


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