09/04 私の音楽仲間 (419) ~ 私の室内楽仲間たち (392)
自虐的なトリオ
これまでの 『私の室内楽仲間たち』
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自虐的なトリオ
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ホ短調のアガ―テ
ブラームスの弦楽六重奏曲第2番。 その第Ⅱ楽章
は “Scherzo” です。
[演奏例の音源]は、その中の、ト長調の部分で、
“Presto giocoso” と書かれています。
“giocoso” は、“おどけて、滑稽に、ひょうきんに”
の意味ですね。
[譜例]は、その最初の部分です。 音源は、相変わらず
無理なカットだらけなので、最後の3小節には入らず、別の
部分にジャンプします。
ところで、もし “メヌエット” ならば、“踊りの合間の休憩”
を思わせる、中間部が続くのが普通ですね。 “トリオ” と
呼ばれる部分で、その後は、また楽しい踊りが始まります。
一方 “スケルツォ” は、冗談、悪戯、戯れ。 楽語では
“諧謔 (かいぎゃく) 曲”。 “ユーモラスな音楽” の意味です。
しかしその歴史を見てみると、メヌエット楽章の位置に、
とって代わることが多くなりました。
そしてメヌエットが、やがて舞踊とは無関係な音楽になって
しまったのと同様、スケルツォも、その本来の意味は薄れて
行きます。 しかし、その諧謔的な性格自体は変わらないの
が普通です。
“スケルツォとトリオ” は、テンポと並んで “楽章” の冒頭
などに表記されるようになり、また “音楽の形式” 自体の
名称になって行きました。
スケルツォは、室内楽の分野では Haydn が多用しました。
交響曲では Beethoven が用い始めたと言われますが、後
になると、彼は “スケルツォ”、“トリオ” とは表記しなくなり、
やがて、用語自体はすっかり用いなくなります。
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さて、先ほどの音源をお聞きになりながら譜例を見ると、
なんだか奇妙だとお感じになりませんか?
“Presto giocoso” の前には “短調の部分” が、ほんの
数小節ながら聞えるからです。 曲をご存じのかたも多い
でしょうが、この “ト長調の部分” は “トリオ” に相当する
部分なのです。 (そう表記されてはいませんが。)
楽章は “ト短調” で寂しく始まり、この中間部が “ト長調” で、
しかも “おどけて、滑稽に、ひょうきんに” と書かれている…。
“冗談、悪戯、戯れ” の “スケルツォ” と、内容は同じです。
でも、この “ト長調” の楽しさは長続きせず、「結局 “ト短調”
で終るんだろうな」…ということは、楽章の最初から聞けば、誰
でも予想できますよね。
“Scherzo” と書かれているのは、当然のことながら、楽章の
冒頭の部分なのです。 用語の意味内容とは逆説的な、諦め
や、溜め息のような音楽…。
“皮肉屋さん” のブラームスは、なんだか自分に対して皮肉
を言っているような気がします。 この曲の成立の由来を考え
れば、それも無理からぬことなのですが…。
“諧謔的” ならぬ、“自虐的” ?
なお彼の別の室内楽曲には、“Quasi Minuetto, moderato” と
記された楽章があります。 こちらは “Scherzo” とは無縁です。
「一体、メヌエットなの、違うの? “moderato” か。 遅いな…。
少なくとも “allegro” (快活に) の気分じゃないぞ…。」
こんな指示を見ると、つい考え込んでしまいますよね。
回りっくどい、ブラームスさん? 演奏者を惑わせる
手腕においても、貴方はまことに見事です。
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[音源ページ]