memory of caprice

浮世離れしたTOKYO女子の浮世の覚書。
気まぐれ更新。

山田宏一、ローレン・バコールを悼む

2014-09-20 06:47:24 | 映画
2014年8月12日、ハリウッドの大女優ローレン・バコールが亡くなった。
ハンフリー・ボガードの作品上でも、その後は私生活でもお似合いの大人のカップルとして印象に残るクール・ビューティ―。
小学生の頃、少年雑誌の折り込み付録についていた淀川長治氏監修のハリウッド名女優選(今から思えば贅沢な企画だった)の並いる美人女優の中でも、そのまなざしの強さとひんやりとした個性的な美貌に見いったもので、後年、半自伝「私一人」を読んで、ボギーとの道ならぬ恋を成就させるまでの大変な葛藤と泣きぬれる日々を送ったことに驚いた。

8月19日の朝日文化欄に彼女の追悼記事が載っていた。
筆者は山田宏一氏。
わたくしの中では、大学生から社会人になる頃、80年代から90年代にかけてのミニシアター全盛期に浴びるほど観たジャームッシュなどのニュージェネレーション映画とともに過去の名作をむさぼるように観た時期の指針となった「映画千夜一夜」という対談集があったのだが、その3人の一人として蘇り。
博識にしてとりわけハリウッド映画の全盛期についてリアルに語れる稀有な記憶を持つ座長の淀川長治氏、独特の視点でインテリ好みの映画論を展開する蓮実重彦氏(この当時、marieclaireという女性誌の仮面をかぶった月刊の文芸誌が中央公論社から出ていたのだが、そこに彼はよく寄稿していた)、そして大先輩2人の丁々発止を穏やかに眺めておぼっちゃま扱い(それは淀川氏が^^)されていた、フランスのヌーヴェルバーグもの専科のようなポジションで情緒的なものの見方をする山田宏一氏、という流れでの記憶があり、なんともいえない感慨深い思いがしたものです。

彼がローレン・バコールを悼む。全文、引用させていただきます。

タイトルは

ヒーローのこびない「相棒」-ローレン・バコールさんを悼む―

 ローレン・バコールさんが12日、89歳で亡くなった。彼女が自伝の日本語版『私一人』の出版を機に来日したのは1984年10月。もう30年も前になるのだが、つい最近のことだったような気がする。
 映画デビューは20歳のとき、「いきなりタバコをすうシーンだった」と彼女は言った。「タバコは、映画では、なんといっても絵になるし、男と女のエロチックな関係を暗示するものだったからでしょうね」。宿泊先のホテルでささやかなインタビューをした。「今はもう禁煙しているんですよ。でも、東京に来てから、ちょっとくたびれたせいか、がまんできなくなって、昨夜久しぶりに一服やってしまったけど」
 ハワード・ホークス監督の44年作品「脱出」で、バコールは25歳も年上のタフガイ、ハンフリー・ボガード(愛称ボギー)を相手に、生意気に、というか、不敵に、というか、物怖じもせず、タバコをすい、ハスキーボイスで「用があったら口笛を吹いて」という忘れ難いせりふをはくのだ。上目づかいにじっと見つめる印象的なまなざしから「ザ・ルック」という呼称も生まれた。
 映画そのままに恋をし、年齢差を超えてボギーと結婚。つづけて「三つ数えろ」「潜行者」「キ―・ラ―ゴ」という3作に共演して永遠のカップルとして記憶されることになるのである。
 40年代から50年代にかけてハリウッドで流行したハードボイルド・タッチのスリラー映画、フィルム・ノワールのヒロインといえば、ファム・ファタール(運命の女)とよばれる男を誘惑して破滅にみちびく魅惑の悪女と相場が決まっていたが、バコールだけは悪女になったことはない。その敏捷な動きと鋭い知性とユーモア、個性的な美貌によって、男に媚びることなく、おそらく初めて、死と背中合わせに生きるヒーローの最もよき協力者、相棒になるというユニークな存在だった。
 57年にボガードが食道がんで亡くなった後のキャリア、実生活における歌手のフランク・シナトラとの恋、舞台で知り合ったジェイスン・ロバ―ズとの再婚、ブロードウェーのスターとしての成功も、みじかくも美しく燃えたB&B(ボギーとバコール)の愛の神話のかなたにかすんでみえるくらいである。


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