makoの喜怒哀楽

俳句は自分史・転記は禁じます

母の日

2015-05-15 | 日記

母の日の皆さんはどのようにすごされたでしょうか?

 

私の一番嬉しかった母の日は子供たちからのプレゼント。

貰ったのは、10¥ガムとチロルチョコ^^♪

内緒で相談しあっていたであろう姉弟の姿が目に浮かび

微笑ましく嬉しさ100倍であった。

私はそれをポンと口に放り込んでお風呂に入ったのだった。

湯舟ですぐ顔を洗ったことも思い出す。

 

今年の母の日は何も届かなかった^^。

昨年は娘が食事に誘ってくれたんですがね。

それでホッとしたのだった、これは負け惜しみでもなく、

これからちょっとしたイベントがあるからです。

それはいずれ書きたいと思っていますが^^。

 

遡ること時代はもっと古く、私の子供時代のことをちょっと。

それは、ある方のブログを拝読していてン十年前の記憶が蘇ったからだ。

 

小学校の授業で、母の日のプレゼントということで持って

画用紙にお母さんの顔を書きなさい、という内容の授業だったと思う。

皆は日頃観ているお母さんの似顔絵を描いていたように思う。

私は記憶を辿ることになった。

私が最後に母を観たのは青白くなった顔と、か細い腕。

病室で観た母はまるで別人だったことを思い出す。

当時は布団持参で入院だったのか、緑色の布団が一層母の顔を白くしていたように思う。

で、私は絵が下手だったから緑色のクレヨンで四角を描き

その上に母の顔らしきをちょこっと載せた。

 

音楽の授業のときにこういうこともあった。

皆さんは「うさ~ぎうさぎ♪、何観て跳ねる♪、十五夜おっ月さん観て跳~ねる♪」

この歌、ご存知でしょうか?

先生のピアノに合わせて皆で唄います。

ピアノが終わってからこう言われました。

「makoちゃんのお母さんは、月になってmakoちゃんのこと観てるんやからね」

私は突然のことでどうやって返事をしたらいいのか判らなくただうつむいていたのでした。

やがて泪が溢れ終いには声を出して泣き出していました。

少し離れた所に座っていた男子が「泣いとるんか?」

 

母の葬儀にも来てくださったていたその女先生は

優しい気遣いの言葉をくださってのことは今になって判ること。

でも、当時は先生も級友も意地悪に思えて仕方なかったことを思い出す。

 

あれから随分の月日を経て私を母にしてくれた子供たち。

チロルチョコも貰えた^^♪

母が生きていたら私は母に何をプレゼントしていたのだろうか。

きっと、蟹を一杯食べせてあげたいと思うに違いない。

 

父の知人の行商の魚屋さんがある日沢山の蟹をトロ箱に入れて届けてくれたことがあった。

余命のない母と知っていた父の精一杯の晩餐だったに違いない。

そんなことがあって暫くしてから母は病院で緑色の布団の中で寝ていたのだった。

 

その後、私は3人の母を持つことになったのだったが

取り敢えず、今度、弟の家に行く時は蟹でも持って仏前に座ろうと思っている。

・・・あ・・・蟹って、今の時期あるのかしらん^^?