池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

京都北山について記す。その②(全4回)

2008年02月17日 | 昔の事
先回の京都北山について記すその①に続き、本日はその②を記す。
私の好む、雲ヶ畑中津川出合いから松尾谷を経て、直谷(スギタニ)について、
関連する人物について記すことにする。

訪れるたびにその季節に応じて表情を変えるこの二つの谷は、
私にとって、オフロード走行の基本習得するためのコースでもある。

途中にある朽ちた山小屋や、
麗杉荘(レイザンソウと読むらしい)と表記のある山小屋があるこの谷は
歴史的に北山を愛でた先人の方々のベース地であったと推測される。
ただ平然と行き止まりまでを往復するのではなく
また、その山小屋前を通り過ぎるだけではなく、
その事につき、知りえたことを少し深めて記す事にしたい。



(上の写真は麗杉荘である。)

昭和10年に北山の父と呼ばれた森本次男が建てた山小屋である。
彼が著した、《京都北山と丹波高原(昭和13年)》が発刊されるまで、
詳しく京都北山について案内した書は無く、この書が北山歩きの基本書と
評価されることになる。
また、彼の純粋なる北山への愛で方は、多くの北山を愛する人々に感銘を
与えることとなった。
彼は、京都二商(西陣商業学校=廃校)で教鞭をとり、山岳部を作った。
その山岳部から、日本の登山家が多く輩出している。
また、好日山荘の創業者もその門下から巣立っている。

日本のアルピニズムの創世記はこの北山からと決めてよいであろう。

次に北山をこよなく愛した、文化勲章受賞の今西錦司先生について記す。
彼は、京都一中(現京都府立洛北高校)で山岳部(日本で最古に属す山岳部)に
属し、北山を発見した。発見=登山の対象としての北山の発見である。
京都三校へ進学し、西堀栄三郎らと山岳部を作り、わが国のアルピニズムの
先頭に立つようになるが、北山を愛しその山中を放浪を続ける。
その中で、北山で一番高いことを知り(981.5m)その登頂を行う。
付近住民の伝承を聞き調べその山に皆子山と名づけた。また付近の谷にも
聞き調べた地名を命名した。

このように、北山は京都の学び舎から開拓されたともいえると思う。
後に彼らは、多くの子弟を育てその精神を受け継いでいく。

更に詳しく人物を解説するにはかきURLをクリック!

今西錦司
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E9%8C%A6%E5%8F%B8
西堀栄三郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A0%80%E6%A0%84%E4%B8%89%E9%83%8E

ー感じることでありますがー
 私の周りの京都大学学生さん、職員、教授の方々すべて自由闊達な方々が
 多いように感じられる。
 ある学生さんに聞くと、《東京大学にはない学風》が良好のようで、
 「こんなんとちゃうやろか~」関西お笑いノリ・ツッコミ会話から
 アバウト発想が良い結果を生むときが多いそうである。
 だから私自身、彼らとも付き合いやすいし、ざっくばらんに質問もできるし、
 彼らは解り易く簡潔に答えてくれる。
 また、彼らの研究の内容が実社会の技術転用に大変近い分野であることも
 特筆すべきである。
 その中で、今M君の研究は、X線の応用技術で、
 先端医学で多用されるカテーテル手術の際に、患者に照射されるX線の量を
 極限まで減らす技術を研究している。すなわち、被爆量が減る研究である。
 また、農学部・山M教授は、糖鎖の研究において第一人者であり、
 その説明は解り易く、その分野内である微生物生命を食品製造に応用の分野に
 おいて私は解説を受けたときに大変分かりやすかった記憶がある。
 で、
 数学の大S氏は、私が怪我のときに心配してくれて、
 知り合ってから短い期間ではあるが私は親友であると思っている。
 何事にも几帳面なのか?大雑把なのか?よく分からん人なのだが・・・・・。
 存在が気になる方である。
 琉球大学出張から戻ってきたが少し疲れていたなぁ。