タグと呼ばれる、スプレーによる落書き。日本でも沢山ありますが、フランスでも沢山。もう、うんざりするほどに。
エクスの街を歩いていて、信じられないくらい沢山のタグを見ました。(↓のオリーブの木と泉の写真にも写ってますね。)
わたしは、今時こんなもんか・・・と思い、できるだけ写真に残らないように構図を選ぶことに必死でしたが、横で夫は四六時中「ホントにすごい。すごすぎ。」とばかり言ってました。田舎の古いきれいな街並みなのに、人通りの少ない箇所へ行けばいくほどタグだらけ。古いものの良さを尊重しないことへの腹立たしさでもあり、そして呆れた驚きでもあり。
このタグの存在をどう見るのか。
わたしにはどうにも「犬がオシッコかけてる」ようにしか見えない。犬が自分の縄張りを主張するために電柱にオシッコかけるけど、あれとおんなじ。ウチの近くでも仏語でアレコレ書いてあるらしく、夫が言うには「オレのシマだから来んな!」とかスラングで書いてあるって。でも文法的に間違って書かれてるって。こんなとこ来て落書きするヒマあるなら学校行けよ!と思うわたしたち。(苦笑)
夫の友達が以前、「タグ見てたら、街が生きてる!ってカンジがするのよ」って言ってた。その意見にはかなり反発したくはなったけれど、「タグ」と「路上芸術」の違いってなんだろうかと思うとだんだんわからなくなってきたので、自己処理できないことは言わないことにした。きれいな落書きで、人の目を潤すものであるのなら許されるのでしょうか?どうなんでしょうか。パリの街を歩いていると、犬の糞尿だらけ。犬の散歩をしてる人が犬にオシッコさせてるのは普通の風景。それとタグの差って、雨で簡単に洗い流されるかどうかってことだけかな。
パリ市内では、路上のタグは市役所の人の手によって、市民の税金によって消されていきます。(街並みを保護する決まりがあるから。)だからそれほど目立たないけれど、放置しておけばものすごいことになってるハズ。エクスの街でそれを目の当たりにし、ビックリしました。
でも、古い木の扉の上に、これでもか!ってくらいにびっしりとタグが書かれているのを見たとき、これって・・・ある意味「新旧合作か?」とも思ってみたり。
あぁ・・・イカンイカン。
エクスの街を歩いていて、信じられないくらい沢山のタグを見ました。(↓のオリーブの木と泉の写真にも写ってますね。)
わたしは、今時こんなもんか・・・と思い、できるだけ写真に残らないように構図を選ぶことに必死でしたが、横で夫は四六時中「ホントにすごい。すごすぎ。」とばかり言ってました。田舎の古いきれいな街並みなのに、人通りの少ない箇所へ行けばいくほどタグだらけ。古いものの良さを尊重しないことへの腹立たしさでもあり、そして呆れた驚きでもあり。
このタグの存在をどう見るのか。
わたしにはどうにも「犬がオシッコかけてる」ようにしか見えない。犬が自分の縄張りを主張するために電柱にオシッコかけるけど、あれとおんなじ。ウチの近くでも仏語でアレコレ書いてあるらしく、夫が言うには「オレのシマだから来んな!」とかスラングで書いてあるって。でも文法的に間違って書かれてるって。こんなとこ来て落書きするヒマあるなら学校行けよ!と思うわたしたち。(苦笑)
夫の友達が以前、「タグ見てたら、街が生きてる!ってカンジがするのよ」って言ってた。その意見にはかなり反発したくはなったけれど、「タグ」と「路上芸術」の違いってなんだろうかと思うとだんだんわからなくなってきたので、自己処理できないことは言わないことにした。きれいな落書きで、人の目を潤すものであるのなら許されるのでしょうか?どうなんでしょうか。パリの街を歩いていると、犬の糞尿だらけ。犬の散歩をしてる人が犬にオシッコさせてるのは普通の風景。それとタグの差って、雨で簡単に洗い流されるかどうかってことだけかな。
パリ市内では、路上のタグは市役所の人の手によって、市民の税金によって消されていきます。(街並みを保護する決まりがあるから。)だからそれほど目立たないけれど、放置しておけばものすごいことになってるハズ。エクスの街でそれを目の当たりにし、ビックリしました。
でも、古い木の扉の上に、これでもか!ってくらいにびっしりとタグが書かれているのを見たとき、これって・・・ある意味「新旧合作か?」とも思ってみたり。
あぁ・・・イカンイカン。