まきた@VetEpi

酪農学園大学をベースに、発展途上国と日本の獣医疫学に取り組む獣医師のブログです。

ルウェロ・トライアングル

2007-11-26 21:28:13 | 学業
11月18日(日)。

エディンバラへ帰ってきたら、ウガンダとは全く違った生活と友人達との再会が待っていたので、そちらの楽しいことも書きたいのだけれど、ウガンダでのこともお伝えしたい。今日は、ウガンダへの気持ちが勝ちました。

今回は初めてフィールドの奥深くで作業したので、たくさんのことを感じました。ウガンダはやっぱりアフリカだなあ、と一番感じたのも今回でした。

ウガンダでは楽しいこともたくさんあったけど、悲しい歴史、現実も見聞してきました。今日は、皆さんもほとんど知る機会のない、ルウェロ・トライアングルについて書きたいと思います。

ルウェロ・トライアングル(Luwero Triangle)とは、ウガンダの首都カンパラの北部で、北西に延びるHoima Roadと北東に延びるBombo Roadという二つの幹線道路に挟まれた三角形の地帯を指します。

ここは、映画「キング・オブ・スコットランド」で最近若い人達にも知られることになったウガンダのイディ・アミン大統領が1979年にタンザニア軍の協力を得て国外追放された後、選挙で選ばれたミルトン・オボテ(1962年独立時の首相が再選)の正規軍と、当初閣僚にいたが選挙の不正を訴えて政府から離れた現首相のヨウェリ・ムセヴェニのゲリラ軍とのゲリラ戦が、1981年から1986年に渡って行われた、主な舞台となったところでした。

写真はルウェロ・トライアングルに位置するキトーケという村の、ある家の綺麗な前庭です。ここでの牛の採血は、11月7日に終わりました。マケレレ大学の検査室で、ブルセラ病の検査中に、キトーケ出身のカニケさんに、「そういえばキトーケに行って来たよ。綺麗な村だった。」と話をすると、僕が牛を採血した原っぱで、昔何があったかを、彼は延々と話し出しました。

中心となったのはルウェロ郡で、正規軍は戦時中に、村落部の住人75万人を、ゲリラ軍に加担させないため、またゲリラと見分けが付かないと攻撃しにくいため、強制退去させました(Wikipedia)。

ここまでは文書に残っている話。実際にキトーケ村で起こっていた日常は、全く悲惨なものでした。

正規軍は、急に村に現れ、目に入った村人を全員集め、ゲリラ軍に加担しているという疑いをかけ、僕が牛を採血した原っぱで人々を皆殺しにしました。ある軍人は銃で、ある軍人はナイフで、また大きな鉈で、無実の人々を殺していきました。

数日後に今度はゲリラが現れると、ゲリラ軍は、ゲリラ軍に参加しないと、村人を皆殺しにする、という言葉を残しました。村長が即答出来ずにいると、その夜、いくつかの家がゲリラにより襲撃され、村人が殺害されました。予告どおりに皆殺しにされたくなかったら、ゲリラに参加せよ、とまた次の日にゲリラ軍が召集に来ました。

ここで立ち上がったのは、村の若者達でした。若者達はゲリラ軍に参加し、数年後の1986年に勝利を勝ち取ることになるのです。

Uganda Bush Warと呼ばれるこの戦争で、正規軍は、無実の自国の国民をゲリラ軍と区別することなく大量殺害し、またゲリラ軍であるNational Resistance Army(NRA)も、同様に多くの無実の人々を殺害し、地雷も用いました。また、NRAは少年兵も使いました。

戦争を勝利に導いたNRAの指導者、現大統領ヨウェリ・ムセヴェニは、著書「Mastard seed」で、自分の目から見た正義の戦争についてこそ執筆していますが、実際NRAが無実の一般人に手を掛けたことについては全く触れていません。

当時15歳で難民キャンプに疎開していたカニケさんは、検査で手が離せない僕に、淡々と、延々と戦争の話をし続けました。カンパラは、高度経済成長で、町は急速に発展し、北部を除いては安全で、北部のゲリラ軍とも和平の交渉が進んで来ています。食べ物も豊富で笑い溢れるカンパラにいると、戦争や、ネガティヴなことはついつい忘れてしまいがちですが、ウガンダのために仕事しようとする人は特に、こうした歴史を知っておくべきだと思います。また今日は、この歴史に全く触れる機会もない方々にも、ウガンダには、イディ・アミンだけでなく大変な時代があった(今でも)ことをお知らせするために書きました。