玉川な日々

一日の疲れは玉川に流して・・・

武力を超える力

2012-11-20 21:34:30 | 左様出尾蛇瑠
ロシアが片付いたので次はシナの予定ですが、その前に日本武士道の源流にかかわる話をいくつか・・

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建久三年(1192年)、武蔵国の御家人、甘粕太郎忠綱が武器を取って戦場に馳せ向かわんとして、「弓箭の家業」と「徃生の素意」に何やら矛盾を感じ、帰依する法然上人を訪ねて問うた。

「武士のならい、進退心にまかせざれば、山門の堂衆を追罰のために、勅命によりただいま八王子の城に向かい侍り。忠綱武勇の家に生まれて弓箭の道にたずさわる。すすみては父祖の遺塵をうしなわず、しりぞきては子孫の後栄をのこさんがために、敵をふせぎ、身をすてば悪心熾盛にして念願発起しがたし。徃生のはげむべきことわりをわすれずば、かえりて敵のためにとりこにせられなん。長く臆病の名をとどめて、たちまち譜代の跡をうしないつべし。いずれを取るべしということ、愚意わきまえがたし。弓箭の家業もすてず、徃生の素意をもとぐる道侍らば、願わくはご一言を承らん」

と申しければ、上人曰く

「弥陀の本願は機の善悪をいわず、行の多少を論せず、身の浄不浄をえらばず、時処諸緑を嫌わざれば、死の縁によるべからず。罪人は罪人ながら名号を称えて徃生す。これ不思議也。弓箭の家に生まれたる人、たとい軍陣にたたかい命を失うとも、念佛せば本願に乗じ来迎に預らんこと、ゆめゆめ疑うべからず」

「さては忠綱が徃生は、今日一定なるべし」と云い、上人の御袈裟給わりて、鎧のしたにかけ、八王子の城に向かった。

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これは、「無学」の武人と法然 *1)の一節である。

武人家業ならば、下命があれば多勢に無勢でも逃げるわけにはいかない。

究極の選択がつねに隣り合わせの時代、そのとき何が必要なのか?


引用
*1)「日本的霊性」 鈴木大拙著、中央公論

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