夕方からの「納涼会」を前に10時からの「入門講座」。
この内容がこれまた「ドンピシャのタイミング」の「ど真ん中の直球」で
ようやく元気モリモリしはじめたぼくのココロに栄養剤のように、う~ん違うな、もっとこう強壮剤のようにしみ込んだ。
この至極簡単そうで実のところとっても奥が深く、わかっているようでわかってなかったんじゃない?という神父様の話しをどうしてもココに刻みたい。
そのお話は「七月七日の七夕に短冊が1枚だけあったら何をお願いしますか?」と始まった。
「以外に勘違いというか、わかってない人多いんじゃないですか。
何をどう祈るのか、どう願うのか、という以前に
「こんなことお願いしちゃっていいのか」とか「これお願いしても無理」だとか
「自主規制」
したり
「あきらめ」
ちゃってる人。
お願いを聞き入れてもらえるのかもらえないのか
聞いてくれているのかいないのか
ってことじゃなくて
聞いてくださっている方(天の父)を
信じて、信じきっているかいないかってこと。
親と子供の関係ってそういうことでしょ。
「お菓子買って。」「アイスクリームが食べたい。」
「もっと愛して。」
「もっとそばにいて。」
だだをこねるじゃないですか。
それは、
相手を信頼してるから。
子供が親に甘えるみたいにわがまま言うところがなければ
先に進めないし
「霊的成長」が望めないんですよ。」
この話を聞いていて、涙が出そうになった。
あまりにも心地よくて。
何度も教えられてきたことなのに自ら閉ざしちゃってたじゃんって。
3時の「納涼会」準備開始までにまだ時間があるのでお昼を食べがてら
ぼくのお気に入りの高円寺駅周辺を散歩した。
庚申(こうしん)通りを突き抜け折り返し
純情商店街を抜けて
パル商店街からルック商店街へ
今日の夜の『ゆかた』用に履いてる草履で
「ペタペタ、ペタペタ」一時間くらい。
じと~っと暑かったんだけど、気持ちのイイ時間だった。
その後仲間みんなで買い出し行って、会場準備して
もちろん雨など降るはずもなく(パブリ~が「晴れオトコ」だから?)
『ゆかた』美人さん沢山
『ゆかた』男前さん大勢
小粋な「甚平」さん多数などで
「大盛況」
生ビールは49リットルとバーベキューのお肉12kgとおにぎりとカキ氷などが大盤振る舞いされて
「スーパーボールすくい」ですくえた数を競ったり
花火にみんな目を輝かせたり、煙にむせたり
初めて会う人達が「ワイワイ、ガヤガヤ」大いに盛り上がって
ホントに「大盛況」
「今日の主催は「神様」です。」
すばらしいイベントとなりました。
神に感謝。
Copyright© 2006 Luke8488
この内容がこれまた「ドンピシャのタイミング」の「ど真ん中の直球」で
ようやく元気モリモリしはじめたぼくのココロに栄養剤のように、う~ん違うな、もっとこう強壮剤のようにしみ込んだ。
この至極簡単そうで実のところとっても奥が深く、わかっているようでわかってなかったんじゃない?という神父様の話しをどうしてもココに刻みたい。
そのお話は「七月七日の七夕に短冊が1枚だけあったら何をお願いしますか?」と始まった。
「以外に勘違いというか、わかってない人多いんじゃないですか。
何をどう祈るのか、どう願うのか、という以前に
「こんなことお願いしちゃっていいのか」とか「これお願いしても無理」だとか
「自主規制」
したり
「あきらめ」
ちゃってる人。
お願いを聞き入れてもらえるのかもらえないのか
聞いてくれているのかいないのか
ってことじゃなくて
聞いてくださっている方(天の父)を
信じて、信じきっているかいないかってこと。
親と子供の関係ってそういうことでしょ。
「お菓子買って。」「アイスクリームが食べたい。」
「もっと愛して。」
「もっとそばにいて。」
だだをこねるじゃないですか。
それは、
相手を信頼してるから。
子供が親に甘えるみたいにわがまま言うところがなければ
先に進めないし
「霊的成長」が望めないんですよ。」
この話を聞いていて、涙が出そうになった。
あまりにも心地よくて。
何度も教えられてきたことなのに自ら閉ざしちゃってたじゃんって。
3時の「納涼会」準備開始までにまだ時間があるのでお昼を食べがてら
ぼくのお気に入りの高円寺駅周辺を散歩した。
庚申(こうしん)通りを突き抜け折り返し
純情商店街を抜けて
パル商店街からルック商店街へ
今日の夜の『ゆかた』用に履いてる草履で
「ペタペタ、ペタペタ」一時間くらい。
じと~っと暑かったんだけど、気持ちのイイ時間だった。
その後仲間みんなで買い出し行って、会場準備して
もちろん雨など降るはずもなく(パブリ~が「晴れオトコ」だから?)
『ゆかた』美人さん沢山
『ゆかた』男前さん大勢
小粋な「甚平」さん多数などで
「大盛況」
生ビールは49リットルとバーベキューのお肉12kgとおにぎりとカキ氷などが大盤振る舞いされて
「スーパーボールすくい」ですくえた数を競ったり
花火にみんな目を輝かせたり、煙にむせたり
初めて会う人達が「ワイワイ、ガヤガヤ」大いに盛り上がって
ホントに「大盛況」
「今日の主催は「神様」です。」
すばらしいイベントとなりました。
神に感謝。
Copyright© 2006 Luke8488
8488さん、
晴佐久神父様やあなたの表現する
神様と自分の関係を言い表すための
親と子供の例えはわかるけど、私は苦しい。
「親」を頼り、甘え、
信じ切ってきた人だけにしかわからない
「親心」の例えだから、
神様を「親」に例えると苦しい。
「親心」
「親に甘えるように甘える」
「親を信頼するように信頼する」
どれ一つとっても自分のものでない
他人事になので、
神様を「親」に例えたら
私には短冊に書く願いが何もない
「親」には何も期待できないし
利用価値でしか評価されない
油断すると足元をすくわれ裏切られる
都合よく身勝手な要求だけをする
私の考えが間違っており歪んでいる事を
自覚しながら修正できない
「親」を信頼するにはどうすれば
いいかわからない。
「親」に例えると神様がわからなくなる。
あなたにとって
甘えられる、信頼できるのでしょうか。
教えてください。
もしかしたら
そこに
答えみたいなものがあるんじゃないでしょうか
どういう心理かがわからない
「甘える」は「頼む」「依頼する」に近いですね。
「頼む」「依頼する」は私の場合は
「相手が多分こちらを無視する可能性と
拒絶する可能性を踏まえた上でお願いしてみる」という意味に近いと思うんですが、
「甘える」だと全くわからない。
「信頼する」は「信用する」「期待する」に近い。
「信用する」「期待する」は私の場合、
「相手が多分こちらを裏切る可能性と絶望させる可能性を踏まえた上で待ってみる」という意味に近い。
「信頼する」が文字通り「信じて頼る」だと
ますますわからない。
どんな親だったら・・・
「親」に理想を求めたり、何か期待した事ないので
わかりません。
晴佐久神父様の2003年12月7日のお説教の中に、
ある青年からの「・・・信仰って何なんですか。」
という質問に対して、
晴佐久神父様が逆に彼に質問しておられますね、
「貴方がもし今、何年も付き合った恋人にふられて真っ暗な気持ちになってる時に全財産入った財布も落として、インフルエンザで39.5度の熱が出て三日三晩何も食べられず、冷蔵庫にも何もなかった、そこでお母さんに電話して、お粥一杯作りに来てと頼んだら、来てくれるか?絶対来るって信じますか?」
青年は神父様に答えましたね。
「はい、来ると思います。必ず来ます。絶対来ます」
私の親はそんな事で来たりはしないし、
子供の頃から熱が出たら冷凍庫の製氷皿から
氷を出して氷枕を作って解熱剤を飲んで寝てたし、
私が鬱状態で急性胆嚢炎や急性膵炎が発症して
自室で一人で動けなくなった時には
自分で這って119番通報したし、
まる1日経って意識が回復してから
入院手続きと手術と輸血の承諾手続きをしたし、
もし両親のどちらかをあてにしたら
後で後悔するほどの代償を払うことになる。
もしあの青年が神父様の質問に対して
「いいえ、私の親は来ません。期待しても無駄です」
と答えたら、神父様は何て答え
信仰とはどういうことだと答えたでしょうか。
私だったらあの青年のように
「私の親は必ず来ます」とは答えられません。
「私の親は来ません」と答える時、
晴れ佐久神父様のおっしゃる信仰とは
どういうものなのか。
きっと多くの人々には身近で解り易い、
神を理解し易い例えなのだと思いますが、
私にとっては
洗礼を受けて14年にもなるキリスト教徒でありながら
自分で自分の信仰が一体何なのか
わからなくなりました。
現実として。
そうでしたら、だだこねたり、甘えたりしたい対象になるものは何かありますか?
何でも良いと思うのですが。
あるいは「こうであってくれたら」あなたの信頼にかなう相手となりえるでも良いです。
神父様の言う「親」はある意味お説教というシチュエーションの中で比較的多くの人にわかりやすく伝わるであろうキーワードとして
、そしてシンボリックに使われているので、それがイコールすべての人の実の親御さんであるかどうかを説いているのではないでしょう。
「天の父」
「父と子と聖霊」
ここは誰がなんと言ってもカトリックとしてははずせないところだと思うし、ぼくらは信じてます。
あなたの「親」に対する気持ちや印象や判断はよくよくわかりました。
「親」にかわる「希望のキーワード」を考えて教えていただければ幸いなのですが。
私達メノナイトとしても絶対にはずせません。
だだをこねたり、甘えたりする対象・・・
なんだろう・・・
思いつきません。
希望のキーワードですか・・
希望って何なんでしょう
私は何が欲しくて何がしたいんだろう。
手に入らなければだだをこるねほどの
望みって私にはあるのかな
だだをこねて甘えて手に入るものってあるのかな
他人がそういうことをしていたら
微笑ましいと感じたりすることはありますが。
何かどこか重要な感性が欠落してますよね。私。
今年のイースターにうちの教会で洗礼を受けた人が
ひどい幼児虐待の体験をしていて
うちの教派は受洗者の信仰の証しを
月報に載せるんですが、
私はその月報を作成する係で、
今回の入院で作成の時間は充分あったし
友人が感動して泣いたというその人の受洗の証しの
テープを未だに聴く事ができません。
(月報は牧師と友人が代わりに発行してくれた)
自己分析のために
自分のブログを読み返したりしてるんですが
何か変。私は何かいびつです。
ぼくはあなたが「何か変。」とも「何かいびつ」とも思いません。
というか逆に言えばみんな「変」で「いびつ」なんじゃないでしょうか。
育った環境も境遇もベースもルーツもそれぞれ違うし完全なニンゲンなどというモノは存在しないのと同じで
ひどい目にあったり、失敗したり、大切なものを亡くしたり、もうどうしようもなくて本当に目の前が真っ暗になったり、それにすら気がつかなくて底なし沼に向かってじたばたしたりしてます。
ぼくもそうです。
そこで何かに出会う。
はじめはなんだかわけのわからない、不確かなものに。
完全に納得したり、「頭」で理解したいのだけれど
「そんなに難しく考えるなよ」
「いいからその方の腕、胸の中に飛び込んでみろよ。ゆだねてみろよ。」って神父様や牧師先生に肩を押されたんですよね。
ブログの中にも書いたけど「自主規制」や「あきらめ」なっちゃてるともっとも簡単でもっとも深くてもっとも真理に近いほんとに大切なものが見えなくなっちゃうんじゃないかなと思います。
うまく言えなくて申し訳ないけど。
「そんなこと言ったって」の
「そんなこと」をはっきりさせて、なおかつ「そんなこと」自体を祈るというか。
バランス悪くて苦しくなってきたという事です。
生きてることがね。
多分、ずっと我慢してたのでしょう。
本当はこうして欲しかった。
こう言って欲しかった。
でも、実現されなかったので、封印してしまったのでしょう。
考えたら悲しくなったり、憤りを感じたりするだけ。
望んだら、現実とのギャップがありすぎますよね。
「本当はこうして欲しかった」それをほじくり返すのは、多分井上さんにはきつい作業だと思います。
でも、そこを見つめることは重要だと思うけど、どうでしょう?
もらえる筈の物をもらえなかった。
あきらめないで、じっくりと嘆いたり悲しんだりしてほしいような気がします。
今苦しいのは、見ないように、感じないようにしてきたことが限界に達してるからではないでしょうか?
的外れだったらすみません。
わがまま言うところがなければ
先に進めないし
「霊的成長が望めないんですよ。」
→これ確かにその通り。
私は5歳位からずっと成長してない。