日本では、黙々と読んで書いての日々だった。
それはそれで、文句はないのだけれど、
健康的かというと、おそろしく不健康な生活だった。
まず、歩かない。
それから、しゃべらない。
幸い、いまバンコクでは普通に歩く。
食事はほとんど屋台でとるので、歩かなければメシにありつけない。
また、普通にしゃべる。
友人と合流しているので当然である。
「読む、書く」から「歩く(=食べる)、しゃべる」に生活の比重が移行した。
昨日は友人とバンコクの街を散策にでかけた。
したがって一日中、歩く、食べる、しゃべる、を繰り返した。
歩きながらしゃべっているうちに、メシ屋にたどり着き、
食べながら、しゃべるに移る。
そしてまた、歩きながら、しゃべるとなり、
オープンしたばかりの高級デパート「サイアム・パラゴン」内
をなどを散策すると、
次においしいそうなチーズケーキを発見することになる。
歩くことは、とても頭の働きにいいように思う。
人と歩いている時、僕は果てしなくしゃべる。
固まっていないアイデアを口に出してみることによって、
のちのち、糸口が見えてきたりする。
しゃべっている最中に、見えてくることもある。
ただ、しゃべっているうちに、
どこを歩いているかも分からなくなり、
歩いていることすら忘れてしまう。
ものを考えるときは、歩くのが一番だと思っている。
二番目は、おフロに浸かっている時。
あくまで、僕の場合だが。
しかし、日本ではほとんど散歩をしなくなり、
その分、フロに浸かっている時間が長くなった。
バンコクではシャワーしかないが、
歩く時間が長くなったので帳尻があっている。
椅子に座って、うんうん唸りながらものを考えるという習慣が僕にはない。
歩いているか、浸かっているかが一番向いているようだ。
歩いているときや、おフロの中で原稿のほとんどができあることもある。
ムツゴウロウこと畑正憲氏は、頭の中の原稿用紙に、手書きの文字となって、
すべての原稿ができあがってしまうということを読んだことがある。
沢木耕太郎氏のルポだったと思う。
畑氏は、頭の中の原稿用紙に現れた「手書きの字体」を、
実際の原稿用紙に、そっくりそのまま写さないと先に進めないらしく、
たとえば原稿用紙に「あ」の文字を書いても、
頭の中の原稿用紙の「あ」の字体と少しでも違ったら、
何度でも消して書きなおすそうである。
す、すごい・・・
ブルーベリー・チーズケーキに満足したあと、
ルンピニ公園を散歩しながら、
また延々としゃべっていると、
「もう、三周も同じところを歩いてるんだけど・・・」
と友人に言われた。
「そんなに歩いたっけ?」
「歩きましたっ!」
もうしばらく、食い散らかし、しゃべり散らかしの日々がつづきそうである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/8f/1455cda13f6d995fc205c8dd84af7f9d.jpg)
それはそれで、文句はないのだけれど、
健康的かというと、おそろしく不健康な生活だった。
まず、歩かない。
それから、しゃべらない。
幸い、いまバンコクでは普通に歩く。
食事はほとんど屋台でとるので、歩かなければメシにありつけない。
また、普通にしゃべる。
友人と合流しているので当然である。
「読む、書く」から「歩く(=食べる)、しゃべる」に生活の比重が移行した。
昨日は友人とバンコクの街を散策にでかけた。
したがって一日中、歩く、食べる、しゃべる、を繰り返した。
歩きながらしゃべっているうちに、メシ屋にたどり着き、
食べながら、しゃべるに移る。
そしてまた、歩きながら、しゃべるとなり、
オープンしたばかりの高級デパート「サイアム・パラゴン」内
をなどを散策すると、
次においしいそうなチーズケーキを発見することになる。
歩くことは、とても頭の働きにいいように思う。
人と歩いている時、僕は果てしなくしゃべる。
固まっていないアイデアを口に出してみることによって、
のちのち、糸口が見えてきたりする。
しゃべっている最中に、見えてくることもある。
ただ、しゃべっているうちに、
どこを歩いているかも分からなくなり、
歩いていることすら忘れてしまう。
ものを考えるときは、歩くのが一番だと思っている。
二番目は、おフロに浸かっている時。
あくまで、僕の場合だが。
しかし、日本ではほとんど散歩をしなくなり、
その分、フロに浸かっている時間が長くなった。
バンコクではシャワーしかないが、
歩く時間が長くなったので帳尻があっている。
椅子に座って、うんうん唸りながらものを考えるという習慣が僕にはない。
歩いているか、浸かっているかが一番向いているようだ。
歩いているときや、おフロの中で原稿のほとんどができあることもある。
ムツゴウロウこと畑正憲氏は、頭の中の原稿用紙に、手書きの文字となって、
すべての原稿ができあがってしまうということを読んだことがある。
沢木耕太郎氏のルポだったと思う。
畑氏は、頭の中の原稿用紙に現れた「手書きの字体」を、
実際の原稿用紙に、そっくりそのまま写さないと先に進めないらしく、
たとえば原稿用紙に「あ」の文字を書いても、
頭の中の原稿用紙の「あ」の字体と少しでも違ったら、
何度でも消して書きなおすそうである。
す、すごい・・・
ブルーベリー・チーズケーキに満足したあと、
ルンピニ公園を散歩しながら、
また延々としゃべっていると、
「もう、三周も同じところを歩いてるんだけど・・・」
と友人に言われた。
「そんなに歩いたっけ?」
「歩きましたっ!」
もうしばらく、食い散らかし、しゃべり散らかしの日々がつづきそうである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/8f/1455cda13f6d995fc205c8dd84af7f9d.jpg)
しかし、屋台のご飯、実に美味しそうです。
私ですと、「オヤジ!シンハーお代わり!」ってとこでしょうか。
シンガから屋台が一掃されたのが非常に残念です。
1人っきりの1人旅かと思っていました。失礼しましたm(__;)m
メシに食らいついている人を見たら、
「Meeさん!」と声をかけてみます。
というより、しゃべりすぎるおともだちと言った方が正確です。
油断すると、僕のしゃべる時間を奪われてしまうのです。
今度こそ行ってみようかな。
bozuさんも”散歩&フロ派”ですか。いっしょですね。
今回、タイのイサンへ行ったついでにラオスまでちょっと足を伸ばしました。田舎街の郊外の美しい景観を眺めながら、レンタルバイクで走っているときに、いろいろ頭に浮かんできました。でも友人を後ろに乗せていたので、ほどほどにしておきました。
今回、友人知人数人とタイで合流しておりますが、屋台でメシを食べながら、周りで家族友人などとテーブルを囲んでいるタイの人々を食べっぷりを眺めながら、「ほんま、ええ景色ですなぁ」とみなで見とれてしまいます。
一見、猥雑で混沌とした雰囲気に包まれているのですが、妙な郷愁を感じてしまいます。タイはそんなところです。
タイは皆様を、お待ち申し上げております。