報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

戦争プロパガンダから学ぶ

2006年05月09日 23時16分24秒 | ■メディア・リテラシー
アンヌ・モレリ(ブッリュッセル自由大学教授)は、戦争があるたびに、まったく同じプロパガンダが繰り返され、世論が操作されてきたと述べている。戦争が終わると、世論は騙されていたことに気付く。しかし、次の戦争がはじまると、また同じプロパガンダに騙されてしまう。今度こそ、プロパガンダは本物だと信じてしまうからだ。

ひとたび戦争が始まると、メディアは、批判能力を失う。たとえ、「民主主義国家」でも、情報および映像の製作、放送に関しては画一化が著しく、政府の意図に反する映像、反対する意見はマスコミにもとりあげられない。
(中略)
現代の「洗脳」技術は、かつてゲッペルスが実現できなかった集団幻想よりもさらに遠くへわれわれを導こうとしている。あるユーモア作家がこう言っている。

「現代人は、かつてのように何でもかんでも信じてしまうわけではない。彼らは、テレビで見たことしか信じないのだ」


アンヌ・モレリ著『戦争プロパガンダ 10の法則』p182~183

アンヌ・モレリは、その著書で戦時におけるメディアがいかに狡猾に人々を戦争に導くかを述べている。戦争プロパガンダは10項目に集約できるという。この10項目は、1928年にアーサー・ポンソンビーによって書かれた『戦争の嘘』をもとにしているが、その分析が現代にもぴたりとあてはまっている。

戦争をはじめようとする国家元首は、まずこう呼びかける。「われわれは戦争を望んでいるわけではない」と。「しかし敵側が一方的に望んだ」のだと続ける。そして、「敵の指導者は悪魔のような人間だ」と決めつけ、戦争突入へのためらいを押し切り、「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」のだと、正義の動機づけを行う。

第一次世界大戦、湾岸戦争、コソヴォ紛争、アフガニスタン戦争など具体的事例をあげ、そこでまったく同じプロパガンダのパターンが繰り返されていることを証明している。世界は毎回、ワンパターンの詐術にまんまと嵌められているということだ。

8項目目は「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」となっている。

第一次世界大戦のプロパガンダに参加したフランスの大学教授たちについて、ロマン・ロランはこう書いている。

「すべての文学者が動員された。もう個は存在しない。大学は、まるで飼いならされた知性による省庁のようになってしまった」

近年の湾岸戦争やコソヴォ紛争でも、芸術家や知識人はプロパガンダに協力を求められた。感動とは常に世論を動かす力であり、彼らは感動を呼び起こす才能を持っている。
 同p144、p148

戦争や紛争時には、動員できるものはすべて動員し、メディアによってあの手この手のプロパガンダがおこなわれる。そこで展開されるのもののほとんどがウソや誇張、ゴマカシなのだ。

確かに、戦時においてメディアは露骨なプロパガンダを行う。しかし、現代の世論操作は”戦時”に限ったことではない、と付け加えておきたい。平時においても、われわれはたえまない情報操作を受け続けている。戦争プロパガンダは形を変えて、つねにわれわれを取り巻いていているはずだ。

メディアによる情報操作の最たるものは”メディアはいつも正しい”という自らへの権威付けかもしれない。なぜなら、正しいと信じているメディアが、”サダム・フセインは悪魔だ”と叫ぶからこそプロパガンダは効果的になる。最初からメディアを信じていなければ、プロパガンダも効果を持たない。

メディアのプロパガンダに対して、われわれはどう対処すべきか。
アンヌ・モレリはこう述べている。

超批判主義を通せば、良心を殺すこともない。行き過ぎた懐疑主義が危険であるとて、盲目的な信頼に比べれば、悲劇的な結果につながる可能性は低いと私は考える。メディアが日常的にわれわれを取り囲み、ひとたび国際紛争や、イデオロギーの対立、社会的な対立が起こると、戦いに賛同させようと家庭の中まで迫ってくる。こうした毒に対しては、とりあえず何もかも疑ってみるのが一番だろう。
疑うのがわれわれの役目だ。武力戦の時も、冷戦の時も、あいまいな対立が続くときも。
 同p189

僕は、最後の言葉に、”平時も”と付け加えたい。



戦争プロパガンダ10の法則
「われわれは戦争をしたくはない」
「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」
「敵の指導者は悪魔のような人間だ」
「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」「われわれも誤って犠牲をだすことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」
「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」
「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」
「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」
「われわれの大儀は神聖なものである」
「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794211295/249-0187609-4547569


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8 コメント

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Unknown (nazuna)
2006-05-10 00:46:30
> メディアによる情報操作の最たるものは”メディアはいつも正しい”

> という自らへの権威付けかもしれない。



私もそう思います。少し前ですが、ある友人に「最近の新聞やTVは

あまり信用できない。ネットではこんな意見も・・・」というような

話をちょっとメールに書いてみたところ、「そんな危ないサイトばっ

かり見ていて」というような、思いがけない返事を受け取ってしまい

ました。



その人もそれなりにネットは使ってはいるのですが、TVや新聞が言

わないようなことを言っているサイトは、ほとんどが偏った、信ずる

に足りないものものだと決め付けているようでした。



確かに、ネットでの発信は(今のところは)ほとんど自由ですから、

かなり偏った意見や、でたらめな情報を載せているサイトも一部には

あるかと思います。でも、いろいろなサイトを読み比べたり、本を読

んだりしてみれば、それなりにわかってくることもあると思うのです

が・・・



誰もが見ているTVや新聞だけが真実を伝えていると思う人も

まだまだ多いのでしょうか。
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nazunaさんへ (中司)
2006-05-10 20:58:56
興味深いエピソードです。

新聞やテレビと違うことを言っているサイトは”アブナイ”と感じる人もいるのですねぇ。



新聞やテレビの言うことだけを信じていれば、無難に社会生活をすごせると思います。人からアブナイと思われることもなく、変人と思われることもない。とりあえず常識人と受け取られるわけです。



逆に、新聞やテレビと違いことを言うと、ヘンな目で見られるかもしれないという恐怖感があるのでしょう。新聞やテレビの言うことだけを信じるのも、ひとつの処世術と言えると思います。



ですから、信じていようといまいと、とにかく新聞に書いてあることを人前で言っていれば無難で安心と感じるのでしょう。



まだまだ、マス・メディアの権威というのは、根強いと思います。報道の中身を吟味することなく、とにかくみんなが信じるからボクも信じる式ではないでしょうか。



頑なに信じるよりも、ずっとやっかいと感じます。
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自己検閲? (nazuna)
2006-05-11 01:56:04
中司様



> 信じていようといまいと、とにかく新聞に書いてあることを人前

> で言っていれば無難で安心と感じるのでしょう。



あー・・・そうですね。そういえば、その人の普段の性格からしても

周りから浮かないことや「常識的」だと思われることに、人並み以上

に注意しているようなところもありますから。



> 新聞やテレビと違いことを言うと、ヘンな目で見られるかもしれな

> いという恐怖感があるのでしょう。新聞やテレビの言うことだけを

> 信じるのも、ひとつの処世術と言えると思います。



「自己検閲」って言葉、最近、本などで読みました。メディアにつ

いてのことだったんですけど、一人一人の個人の内部にも「自己検閲」

が結構あるのかもしれません。
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出る杭 (中司)
2006-05-11 22:29:59
そうですね、個人の意識の中でも「自己検閲」は働くでしょう。

「出る杭は打たれる」などというのは、そのことだと思います。

打たれないように、無意識に自己検閲してしまうのかもしれません。



いろんな人、いろんな意見があってこその社会だと思います。

打ち切れないほどの、出る杭が出てほしいものです。
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国民・国家 (キリク)
2006-05-12 01:58:01
毎回勉強させていただいています。

少し話がズレるかも知れませんが、すみません。。



大学に入ってからこの4年間、

国民とは、国家とは。

について考える機会が多くなりました。

未だに答えは出ません。

一生出ないかも知れません。



中司さんは、国民・国家とは何だと考えますか?

うーん、質問が少し抽象的すぎますでしょうか・・

国民・国家は絶対的なものだと考えますか?





一国家を流れる情報の背後には、大きな権力が潜んでいるのだと分かりました。メディアはそれぞれの時代に、それぞれの国の事情に合わせて変化していく・・・



以前、中司がおっしゃった「全てはフィクション」という言葉が、非常に頭に残っています。私たちはそのフィクションに踊らされ、どこかで思想をコントロールされているのでしょうね。





メディアに取り上げられることのない、身の毛もよだつような現実が、世界のあちこちで日々繰り返されていて、私たち先進国に住んでいる人間は、そんなこと知る由もなく、間接的な加害者となって、縮まることのない貧富の差がどこまでも存在する・・



悲しくて、虚しくて、人間の価値とは、尊厳とは、どこから見出せばいいのか分からなくなります。





ここ最近、日本では共謀罪だとか愛国心だとか、ナショナリズムに敏感になってきました。格差が広がっている社会に対する不満をごまかすためだと、どこかで聞きました。



日本の社会は、そして世界はこれからどうなっていくのでしょう・・・。えぇと、またまたまとまらない文章ですみません;;



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キリクさんへ (中司)
2006-05-12 22:19:40
国家とは何か、国民とはなにか、という広いテーマはあまり考えないですね。

答えは無限にあると言えますから。

こうしたテーマを考えることはたいせつだと思います。



僕は、国民は常に国家に懐疑の眼を向けるべきだと思っています。

国家が、「国民のため」「国民の利益」「国民の安全」などという言葉を使うときは要注意だと思っています。たいていの場合、それは逆の意味だと考えていいと思います。



懐疑の眼を向けるというのは、簡単なようで難しいかもしれません。何をどう疑っていいのか、とらえどころがないですから。

僕はといえば、何もかも信じない人間になっています。

当たり前だと思っていたもの、信じて疑わなかったものが、ガラガラと崩れていきましたから。

ウソや欺瞞をすべて見破るのは難しいと思いますが、それでも、懐疑の眼を向けている限り、簡単に踊らされることはないと思います。



僕も迷い悩みながら生きています。

明確な指針はどこにもないです。

少なくとも踊らされないようにと思っています。

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懐疑の眼 (キリク)
2006-05-13 00:39:05
お答えありがとうございます!

領土とか、民族とかで紛争を続けている人たちを見る度に、国家や国民に果たしてどれだけの意味、価値があるのだろうと悶々としてしまいます・・・中司さんのおっしゃる通り、その答えが無限にあるからこそ、争いが耐えないのかも知れないですね。



「国民のため」「国民の利益」「国民の安全」

本当によく聞くことばです。確かにそうして国同士は戦争をしていますね。世の中、信じるべき真実などどこにもないのでしょうか。何もかも、信じるべきではないのでしょうか。難しい問題ですね。私もこれから、懐疑の眼を忘れないようにしていこうと思います。



そして、現実から目を背けることだけはよそうと努めたいと思います。真実は見えないにしても、せめて現実だけでも見えるようにしなければと思っています。
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まず疑うことから (中司)
2006-05-15 11:23:55
真実を見極めるのはとても難しいです。

あまりにも多くの情報が氾濫していますから、逐一精査することはほとんど不可能です。

メディアには信じるに足る情報はまず流れないと考えて間違いないです。

つまり、すべてを疑った方が無難です。



自分が独裁国家の支配者だったら、メディアに自由な報道を許すかどうかを考えれば簡単に理解できると思います。

独裁国家では、自由な報道などありえないです。



「共謀罪」などという法律を作ろうとする国家に、自由な報道があるとも思えないです。

このような国家では、ひとまずすべてを疑うことが、流されず踊らされない、一番の方法だと思います。



報道の中では、世界の紛争や戦争は、民族や宗教、歴史的対立というように区分されているものが多いです。つまり、その地域の内的問題である、と。でも、紛争や戦争が終わってみると、なぜか先進国の企業が資源や産業を格安で手に入れていることが多々あります。



まず、疑うことからはじまるのだと思います。
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