29日の報道で 長野市の荻原市長が、市の半ば一方的な都合で廃止した「青木島遊園地」について、その(廃止の)経緯について 庁内に委員会を設置したうえで検証することを表明したことが報じられました。
報道の内容は下記のとおりです。
近隣住民からの騒音への苦情などをきっかけに長野市が公園を廃止した経緯について、荻原健司市長は、近く庁内に委員会を設置し、検証する考えを示しました。
長野市が先月末で廃止した「青木島遊園地」をめぐっては、廃止に至る地元との合意形成が十分にできていなかったほか、関連する公文書が残されていなかったり、事実と異なる記載がなされたりするなど、市側の一連の対応に対して、地元住民や市議会から批判が相次いでいます。
29日の会見で、長野市の荻原市長は一連の経緯を検証するために近く、副市長をトップとする委員会を設置する考えを明らかにしました。
荻原市長は「検証によってどこが間違っていたかはっきりすると思う。場合によっては新たなマニュアルなども必要になると思う」と話していました。
また、廃止した公園に代わる新たな遊び場の計画案について、荻原市長は、今月行った保護者説明会や、近く行う地区住民への回覧での意見も踏まえて、7月末にも最終決定する意向を示しました。
この検証委員会が意味するものは何でしょうか。
市行政が、既に終わった行政事業について 改めてその経緯を検証することは、極めて稀(まれ)なことと申せます。
このことについて ある人は「青木島遊園地を廃止に追い込んでしまったことを反省するうえで、その経緯を検証することは評価できる」とおっしゃいます。
一方で ある人は「子どもの気持ちを無視して無理矢理(遊園地を)廃止しておいて、今さら何が検証だ。後になって検証する暇(いとま)があるなら、何で議論となっている時点で立ち止まって考え直さなかったんだ。これは市(市長)のパフォーマンスに過ぎない。」と言って(憤(いきどお)って)おられました。
いずれにしても、既に青木島遊園地は ただの更地(さらち)となってしまっています。
子どもの居場所は 大人の都合で奪われることになってしまいました。
何で こんなことになってしまったのか。
私は 今回の検証委員会は、それなりの意味を有していると思います。
長野市の〝歴史的な汚点〟となってしまった 遊園地の廃止を巡る経緯を振り返ることは、同じ過ちを繰り返さないようにするためにも必要な作業であろうと思います。
但し、です。
その検証が、どこをどう検証するのか で、それが真に市民の期待に応えるもの(検証結果)になるかどうかが分かれてくるのではないかとも思うところです。
概して 市(行政)の検証作業というものは〝手続き論〟に終始しがちな帰来があります。
行なった事業が、然るべきルールに則(のっと)り手続きされたものかどうかの検証。
ルールに基づいていれば ○、それを逸脱したり 即していなければ X。以上をもって検証とする。
ただ果たして 今回のように市民感情の機微(きび)に触れた課題について、そのような事務的な検証でイイのでしょうか。
私は違うと思います。
真に検証すべきは、一連の市(職員)の対応は、真に市民の「声」に応えたものであったのか。市民の心に響く対応だったのか。
そここそを「検証」すべきではないか。
が、会見で市長は やや気になる発言をされています。
「今後 検証の際に、どこの手順が間違っていたのか(を検証したい)」旨の発言が。
これは もしかしたら、私が懸念した(前者の)〝お役所的検証〟を示唆するものではないでしょうか。
「手順が間違っていたから 遊園地ひとつを廃止するだけのことが こんなに大きく問題視されることになっちゃった。だから今後は、行政事業を行なう際は「手順」を間違えないようにして、あらぬ揚げ足取りをされないようにしよう。」
そんな「検証」であるとするならば、それは 市行政のための検証であり、市民のための検証にはならないのではないでしょうか。
今回 いわば突然の形で表明された「検証委員会」この取り組みは、いわば市の姿勢 というより「本質」を表(あらわ)すこととなるでしょう。
どのような推移を辿るのか。
何のための検証か 誰のための検証か…大いに注視してゆきたいと思います。