さきの市議選後、いくらか落ち着くかと思っていたら 全く逆です。
選挙後の事務など いわゆる〝戦後処理〟に加え 地方紙に偏向報道を流布されたことで、その対応と「無所属」になったことに伴い そっちの事務(手続き)等も重なりてんやわんやに。
で これはありがたいことでありますが、私の成り行きに関係なく さまざまな頼まれ事(ごと)が、何というか降る雪の如(ごと)くに舞い込んできており そちらの対応にも追われることとなっています。
私とすれば「頼(たよ)られているうちが華(はな)」と捉え、一つひとつの案件に真摯に向き合うを是(ぜ)として時間を過ごしています。
この日(13日)は、地区内(川中島町御厨区)に外科の専門医(医院)を誘致したいとの要望を予(かね)てより受けていたことについて、地元の区長さんと渉(わた)りをつけ 関係者と(区長さんへ)ご説明に伺いました。
この件の詳細については後日に譲ることといたしますが、かかる要望に際しても 私は単にアポを取るだけではなく、関係者が素案とした要望書の添削・校正を担うと同時に 市の担当課(建築指導課)との仲立ちなど、事前に修練しなければならない事項についても補助することとなり、この日に向けても事前に相当の手間と時間が要されることになっており いわば楽(らく)じゃない一翼を担っています。
今回のケースは、要望する専門医(医院)が開設せんとする場所が 長野市開発許可審査基準によると(許認可が)微妙な位置関係にあることから、単なる〝おねだり型要望〟ではなく、施設の公益性・社会貢献度を踏まえ それが許可に向かうよう理論武装することも要されており、いわば〝技術論〟での力量発揮が求められています。
私とすれば、要望する主体者の方々の願意・地域における社会的貢献度の大きさ・そこに加えて対応する行政職員の立場(認識)の全てを知る者として どのようにリードしてゆくのが最適であるかに思考を巡らせながら、仲立ち役を担っているところです。
楽じゃないけど やり甲斐はある。そんなスタンスで貢献してゆきたいと思っています。
と、そんなこんなで時間が経過していますが、併せてこの日(10月13日)は、あの「令和元年東日本台風」が発生した日であることを忘れてはなりません。
あれから はや4年。
これまでも(4年前から)レポートしてきているところですが、(前々回の市議選直後に発生した)未曾有の自然災害からの時間(歳月)の流れ(の早さ)に何ともいえない思いをいたしたところでありました。
各報道でも「あれから4年」を特集(報道)しておりましたが、いずれにしても復旧・復興は道半ばであること・時間経過に伴い 地元農業の再興など好事例の一方で、定住人口の減少や 未だ続く被災者の心の問題など〝目に見える課題・見えない課題〟が重く横たわっている実態も複雑に継続していることから、時間と共に それら諸課題が風化することの無いよう、私たちは永劫的に課題を認識して取り組み続けなければならないと 改めて思いをいたすところであります。
時刻は 午後4時を経過してしまいましたが、千曲川沿線の被災地を巡行しました。
長野市域内の第一(初点)の被災地であった 篠ノ井塩崎地点。
(現在)
(被災直後)
L字型にカーブする本流のドン突きにあるこの箇所は、最初の越水被害を受けた地点です。
被災後は強靱型の堤防が設(しつら)えられ、今は安全が保持されています。
なお この地点は、河川側のみならず 堤内側の堤(つつみ)も強靱化されているのが特徴です。
当時 多くの住宅と共に農地も冠水の憂き目に遭いましたが、今は堤内外共に強靱化された堤防に守られ、再び農地が展開されています。
発災当時、越水をまともに受け 決壊一歩手前にまで至った軻良根古(からねこ)神社の法面(のりめん)も強靱化のうえ復旧しています。
(被災直後)
(現在)
もしも この神社の堤防が完全に決壊していたとすれば、千曲川本流は一気に直進(北上)することとなり、そうであったとすれば あの災害の様相は全く違ったものになっていたことでしょう。
今でもこの現場を訪れる度に 複雑な境地に至るところであります。
塩崎地点から車首を下流に向けると、横田水門部分で「排水機場」の建設が行なわれています(県事業)
あの水害における いわば二次災害といえるのが「バックウオーター(逆流)被害」でありました。
千曲川本流の水位が臨界点を超えたことで、例えばこの地点においては「横田水門」が門扉を閉めるを余儀なくされました。
すると当然のことながら、平時は千曲川に流入する支川(岡田川)を流下する河川水は行き場を失ない それが支川流域に溢(あふ)れることとなり、支川流域の方々は 千曲川本流からの被害は受けなかったけれど、支川からの越水被害を受けることになってしまったのです。
さらに、場所によっては 排水機場自体が冠水被害を受け動力が起動しなくなり被害を拡大させた経過もあることから、それを受けて 各地点で排水機場の再整備も行なわれているところです。
普段は非常におとなしい岡田川。これが暴れることになるとは 想像だにしなかったところであり、そのことが認識の甘さとして 関係者に改めての取り組みを促しています。
その後 火急に乞われた用事を済ませて 長沼エリアへと。
時刻は17時半を過ぎ、あたりは薄暮となってしまいました(デジカメの露出を上げましたが、どうにもピントが合わず…見づらいのはご容赦ください)。
長沼堤防では「嵩(かさ)上げ」が村山橋手前まで進行していました。
長沼堤防については、約70mに亘って破堤する大きな被害を受け 集落の広域の建屋が全壊または浸水被害を受けました。
その後の復旧・復興事業については これまでもレポートしているとおりでありますが、いずれにしても 防災・減災については「これでヨシ」との結論は無い。
あらゆる事態を想定し「最悪のケースを考えて最善の手立てを尽くす」を旨とし、これからも取り組みを継続すべきことは論を待たないところです。
(向こうに見えるのが村山橋)
あれから4年。
時間は経過するも、私たちの取り組みは止まることはありません。