昨日のブログのちょっとした続きのようなことを。
モジリアーニにとってジャンヌ・エビュテルヌはモデルであったとともに
画家のインスピレーションを喚起するミューズとしての役目もあった。
画家とモデル兼ミューズの組合せは多い。
レンブラントにはサスキアがいたし、ダリにはガラがいた。クリムトには
エミリー・フローゲ、エゴン・シーレにはヴァリーがいた。
他にもココシュカとアルマ・マーラー、クノップフには妹のマルグリット、
バルテュスと節子、野村克也と野村沙知代、落合博満と落合信子、おっと!
後の2組は野球関係だった。
いずれもその作品とモデルとなった女性の個性が際立つものが多い。
描いたのは一人だが相方との共作だと言えないこともない。
共作どころか、ダリなどは年上妻の積極的な宣伝活動によって広く世に認
められるようになったほどだ。
モデルとして以上に有能なマネージャーだった。
もしかしたらそれよりも神聖かつ絶対的な存在だった。
ガラをモデルとしてマリア像を描いていることからもそれが言える。
カイゼルひげのダリの写真は独善的で気が強そうだが、ガラからしたら
やんちゃな子供のようであったろう。
実際、壁に当たって気弱になるダリを励まし続けてきたのだ。
いじけてべそをかくダリをなだめすかすガラ。
ちょっと想像しにくいが。
(ちなみに落合夫婦もそんなところがあるらしい)
ダリはガラが亡くなってから絵を描くのをやめた。
やめたと言うより描けなくなったのだろう。
ガラの存在の大きさがわかる。
ある種の絶望感かな。
こんなところはモジリアーニの後追い自殺をしたジャンヌ・エビュ
テルヌに似ている。役割は逆だったが。
ただダリの方は死を選ばないで抜け殻のように生きた。
男と女の違いか。
画家とモデルの馴れ初めやその来し方を知ると絵の鑑賞も面白くなる。
「事件の背後に女あり」「画家の目前に女あり」だなあ。
さて自分の描きたい絵、なかなか描けませんなあ。
モジリアーニにとってジャンヌ・エビュテルヌはモデルであったとともに
画家のインスピレーションを喚起するミューズとしての役目もあった。
画家とモデル兼ミューズの組合せは多い。
レンブラントにはサスキアがいたし、ダリにはガラがいた。クリムトには
エミリー・フローゲ、エゴン・シーレにはヴァリーがいた。
他にもココシュカとアルマ・マーラー、クノップフには妹のマルグリット、
バルテュスと節子、野村克也と野村沙知代、落合博満と落合信子、おっと!
後の2組は野球関係だった。
いずれもその作品とモデルとなった女性の個性が際立つものが多い。
描いたのは一人だが相方との共作だと言えないこともない。
共作どころか、ダリなどは年上妻の積極的な宣伝活動によって広く世に認
められるようになったほどだ。
モデルとして以上に有能なマネージャーだった。
もしかしたらそれよりも神聖かつ絶対的な存在だった。
ガラをモデルとしてマリア像を描いていることからもそれが言える。
カイゼルひげのダリの写真は独善的で気が強そうだが、ガラからしたら
やんちゃな子供のようであったろう。
実際、壁に当たって気弱になるダリを励まし続けてきたのだ。
いじけてべそをかくダリをなだめすかすガラ。
ちょっと想像しにくいが。
(ちなみに落合夫婦もそんなところがあるらしい)
ダリはガラが亡くなってから絵を描くのをやめた。
やめたと言うより描けなくなったのだろう。
ガラの存在の大きさがわかる。
ある種の絶望感かな。
こんなところはモジリアーニの後追い自殺をしたジャンヌ・エビュ
テルヌに似ている。役割は逆だったが。
ただダリの方は死を選ばないで抜け殻のように生きた。
男と女の違いか。
画家とモデルの馴れ初めやその来し方を知ると絵の鑑賞も面白くなる。
「事件の背後に女あり」「画家の目前に女あり」だなあ。
さて自分の描きたい絵、なかなか描けませんなあ。